Bench 42−1人掛ベンチなのか、隙間ベンチなのか、曖昧さが面白い神楽坂ベンチ
O氏がまたベンチ写真を送ってくださった(原典はこちらの一番最後の写真)。神楽坂の商店街にあるベンチだそうだ。「一見、3人用のベンチの真ん中を切断したような形をしている。 分断されつつも、引き合っているようにも見える」そうだ。問いかけがあって、わたしがどのように考えるか、というのだ。
まず、O氏がなぜこのベンチ写真をわたしに送ってきたのかを考えてみた。彼が二つの椅子の空間的な位置付けに、何らかの興味を持ったに違いないことを想像させられるのだ。O氏が単なる1人掛ベンチ以上のものをこれらに感じたという現実があったらしい。なぜO氏にそのように思わせたのかと推察するに、「分断されつつも、引き合っている」と考えさせるものが、ここに見られたからだろう。
それは、おそらくベンチから出ている脚の位置の問題だと思われる。今、この二つの椅子の脚の位置は、左右両側についているのがわかるが、もし脚の位置がこの写真に向かって後ろ側に付いていたらどうだろうか。それならば、前を向いた1人掛の椅子が単に二つ並んでいると感じることだろう。やはり、両者が向かい合って座ることのできることを期待されているところが、「分断されつつも、引き合っている」と思わせる状況を作り出している。もちろん、見知らぬ者同士が腰掛けても、隣との良い距離を保ち、十分に1人掛で通用するとは思われるのだが、製作者の意向としては他者志向という観点をそれとなく盛り込んでいる「心にくい」ベンチとなっている。
けれども、このベンチにはもうひとつの想像力を掻き立てる仕組みが存在する。それは、両方の椅子の間に空いた隙間空間をどのように考えるかという点である。O氏は「3人用のベンチの真ん中を切断したような形」と表現している。ベンチの中に「もの置きベンチ」というジャンルがあり、座るスペースの間にものをおくスペースをとったベンチが、パーク・ベンチやステーション・ベンチに見られる。これと同型とみなし、この隙間にバックパックやトランクや大きな荷物が置かれるために、隙間が取られたと解釈するのはいかがだろうか。あるいは、もっと人間に近づけたいならば、ベビーカーや子どもの遊具の置き場と考えても良いだろう。隙間には、多くの想像を詰め込むことができる。
ベンチを考える楽しみのひとつに、2者関係を3者関係に移行させる楽しみが存在する。この隙間に、第3者を立たせてみたらどうだろうか。ここに立つ必然性があって、事情で座れない人が、2者間のスペースにいるような状況があるだろうか、と考えてみた。
妻が口を挟んできた。たとえば、男性が真ん中に立っていて、両側に女性が座っている構図はどうかというのだ。3者は恋愛の三角関係にあって、挟まれた男性はこう着状態で立たねばならないのだった。まさに男性を媒介として、「分断されつつも、引き合っている」状態が生じている。いろいろ考えてみたのだが、結論から言えば、神楽坂というサードプレイス的な場所のイメージに、分断的であれ、融合的であれ、その曖昧さゆえに柔軟に使われるだろうから、この分断的融合ベンチはまさに似合っているのではなかろうかということだろう。
追記:実際に測ってみないとわからないのだが、じつは脚の高さが違うのではなかろうか。当然、ここは坂道なのだ。だから、同じ高さの脚をもつ長いベンチを置くと、座るところが斜めに傾いてしまう。それを避けるために、あたかもベンチを想像させるような風を残し、けれども傾くことを予防して、1人掛にしたのではないだろうか。街ベンチの「構造」的解釈である。
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