カテゴリー「家族関係」の投稿

2016/09/11

遠くから来た人

遠くから来た人

昭和二十年代後半

池袋の木造分譲アパートには、

デニム青地に赤い刺繍のカバーがかかった

木枠のソファが置かれていて、

父と母とわたしを

結んでいた。

人食いのシベリアから帰って来た、その人は、

当然であるかのように、

ソファに座っていた。

背もたれの上の壁には

クレパスで描かれた僕の絵が掛かっていて、

父の象徴画を真似ただけの幼い絵だったけれど

話のタネが尽きた時に、

特別な意味がその絵にあると

褒めてくれたのだった。

遠くから来た人であったが、

僕の心の中にとりあえず

近しい人として入ってきたのだった。

次に会ったのは、昭和三十年代前半、

松本の家で

やはり同じソファに腰掛けていた。

遠くから来た人は

リュックを肩から外して、

僕を膝に乗せて重さを測っていた。

近所で父と飲んだらしく、

地元の飲兵衛先生と意気投合して、

家へ連れてきてしまったのだ。

勝手に僕の将来のことを話し合っていて

運命というものが存在することを悟った。

昭和三十年代後半

東京に移って、

世の中は機械文明に

どっぷりと浸かっていた。

路面電車の軋りが耳障りだった。

遠くから来た人は、

機械を運んできた。

東京オリンピックがあるので、

わたしはニコンの一眼レフを借りたが、

会場で壊してしまった。

何も言われなかった。

諦めと寛容ということを知った。

昭和五十年代になっていた。

遠くから来た人は、

同化のうまい人だった。

大阪の博物館に勤めていたときに、

訪ねて行った。

掃除のおばさんや守衛のおじさんたちと

通るたびに談笑したのを見た。

世辞に長けた大学院生が訪れてきて、

就職を売り込んで、

三時間ほど粘っていたのだが、

ニコニコと応対していた。

このような事態になるとは知らなかった。

僕以外の人の心に入り込んでいたことも

理解していなかった。

昭和六十年代になってから、

仕事先でばったり会った。

やはりリュックを背負っていて、

代わりに持ったが、

後ろへひっくり返りそうになった。

ユーラシアへの旅を綴った本が

たくさん入っていた。

四十五歳までに本は書くもんだよ

遠くから帰ってくるものといつも思っていたが、

遠くのウズベキスタンで亡くなった。

なぜ遠くから来たのか、と問うて

いまでもソファに座っているのだ。

K氏が定年退職なさったとき(一九八六)に、ご自身の半生を綴ったのが出てきたので、一緒に掲載しておきたい。

わたしの一週間(加藤九

日曜日

天地玄黄 宇宙洪荒

日月盈昃 辰宿列張

寒來暑往 秋収冬藏

これは父から教えられた

千字文の一節である。

月曜日

ちょんまげに大小姿の

坂本龍馬の肖像画を壁に貼り

松陰の留魂録を筆写した。

火曜日

五族協和の共栄圏を夢見て、

軍靴を履いた。

そして・・・・・・・・

ダワイ、ラボータイ、クーシャイ、ダモイ

アムールの寒風にきしみ、

アンガラの川すじをわたる鶴に涙した。

水・水曜日

東京で丹波立坑出身の

下中藩に仕えた。

先代の藩主弥三郎は、

わたしのことを天竺浪人とよんだ。

人間は壁にぬりこまれた田螺じゃ

という面白い言葉も

彼から聞いた。

木曜日

寺社領民博寺の梅棹座主に拾われて、

旅し、集め、そして描いた。

金曜日。

かわいい天使たちの園が

行く手に待っている。

日、月、火、水・水、木、金、土。

土曜日はだいじにとっておこう。

2016/01/06

恒例のガレット大会

Img_2488 千葉の母の家が処分されることになったので、妹夫婦が横浜の家に来てくれることになり、毎年恒例のガレットのフェーヴ獲得大会が継続されることになった。Img_2484 何回か家に来てくれた方々でも、この家への道を口で説明しても、なかなかわかってくださらない。その理由は簡単で、途中目印になるような建物がほとんどなく、曲がりくねった公園の山坂の道を選択して歩かなければならないからである。

Img_2486 よく言えば、自然が残っていて、気持ちの良い道だね、ということになるが、時間に余裕のない方々は、必ず迷うので、帰り道を確保する自信が持てないとおっしゃる人が多い。田舎ならば、山を目印に方向を定めるという手があるのだが、横浜の場合、丘を目指さなければならないだろう。谷と階段を選んで、一度は他人の家の庭に入ってしまったそうだが、一度間違えただけで到達したのは、たいへん優秀だといえよう。

Img_2489 お正月に娘がいた数日前には、カードゲームを行う雰囲気がなく、息子とわたしが準備をしていたにもかかわらず、ゲーム大会は開催されなかった。しかし、ここで妹夫婦が加わることで、ようやくにして、ガレット大会が開かれることになったのだ。Img_2485 ガレット・デ・ロワというのは、キリスト教の三博士を祀るものだそうなので、三博士に十分なお礼を言わねばならない。お正月のおせち料理も、母の味付けと少し違う味付けを妻がすることで、今年の料理は新たな段階に入ったようである。

Img_2487 ところが、カードゲームが終わって、勝者から敗者へ向かって、ガレットを選んで行ったのだが、どこにもフェーヴが入っていないのだ。じつは今日、仕事のために欠席の娘の分を、一切れ余分に切っていたのだ。それで、改めてその残り物を切り開いてみると、見事にフェーヴが出てきたのだった。娘へメールでおめでとうと知らせてあげたのだった。また、来年も継続したい風習なのだ。

2015/08/04

母の法要

Img_0737 母の七七忌法要のため、O市へ来ている。海抜の高いここでも、日中は30度を超える。それでも、空気はからりとしている。すでに7月に千葉で母の葬儀は行っていたのだが、今回、遠方に住んでいるために納骨をここで行わなければならい。T寺のご住職には、いろいろとご配慮いただいた結果、この季節からすると、どうやら受戒・七七忌・新盆の三つを同時に行うことになるらしい。これも、この地方が旧盆で行うことになっているからだろう。

Img_0882 葬儀の家族葬に準じて、今回の法要についても、ほんとうに近親の方々だけに集まっていただき、お寺で営んだ次第だ。S町のN伯母さん、O市のT叔父さん、S市の従兄弟I兄さん、それに妹夫婦に、わたしの家族だけだ。しばらく待ったのち、古くから磨きこまれている廊下を経て、本堂へ移動した。宗派は曹洞宗なので、「修証儀」に従って、懺悔、受戒、引導などと続いた。すべてわかったわけではないが、理解しやすいところも多く、「習わぬ経を読む」の境地で興味深く、お経をなぞった。そして、主たる部分には、プリントが回ってきて、集まった人びとの唱和となった。

Img_0880 これらの中で、T寺のご住職の講話には、説得的で意味深いお話が多かったと思う。中でも、「ブナの木」の話はたいへん興味深いものだった。ブナの芽吹きは、下草の芽吹きに遅れて生ずるそうである。このため、ブナの木の下には、下草が育ち、葉が邪魔することなく、ブナの木は下草との間で十分に共生できるようになるのだという話だった。ここには自然の調和が働いているのだという仏教の教えが反映しているのだと思われる。先日のブログでも書いたように、生物学の先生に教わったことだが、鳥たちの多様性を保つためには、このような「林」にとって下草というものが大切であり、幾重にも渡る自然の調整がここに生ずるのだ。これによって、初めて多様な共生が起こり、全体の調和が保たれることになるのだ。

Img_0886 今回の法要では、ひとつ問題があった。それは、納骨のときに墓石をずらせて、室にある棚にお骨を収めるのだが、じつは「どのようにしてこの分厚い墓石をずらせるのか」、わたしの中には、まったくこの記憶がないのだ。数十年前に見た、薄暗い墓の地下室のほうは夢に出るほど鮮烈な記憶が今でもあるのだが、この「ずらす」ことの記憶がないのだ。それで、92歳になるT叔父さんにお聞きすると、基本的には、近親者で行うのが当たり前だそうだ。この辺が予想もできないローカル・ルール中のローカル・ルールなのだと思われた。ところが、昔作られたほんとうに分厚い花崗岩の石蓋なので、とてもわたしたちの手に負えるものではない。無理を言って、前もって石材屋さんに、棒を石の下に挟んでもらっておき、あとは自分たちで石を持ち上げることになったのだが、われながら不甲斐ないことに、実際に力を出したのは、その92歳のT叔父さんだったのだ。

姿を現したのは、写真でわかるような、穴倉状の、墓の地下の室であり、この中には、三層の棚があるのだ。ご覧に入れるわけにはいかないが、ご先祖様のお骨が現在でも並んでいる。骨壺に入ったもの、入らないもの、様々な形態で収められており、この中に入ると、冷んやりとして、あの世へ一歩足を踏み入れた感じだった。身体全部を穴倉に沈めたときには、わたしも死んだら、意識はもうないかもしれないが、この冷気のなかで暮らすことになるのだと思って觀念したのだった。

2015/07/02

映画「海街diary」と母の葬儀について

Photo 映画「海街diary」を観る。鎌倉に住む三姉妹に、15年前に家族を捨てて出て行った「父の葬儀」の知らせがもたらされる。そこで腹違いの妹「すず」と三人は出会う。そして、長女が鎌倉で暮らさないかと、すずを誘うのだ。ふつうの家族では、夫婦がいて、そこから娘たちが他の家族の元へ嫁いで出て行くのに、今回の物語では、それが逆になっていることが見所だ。娘4人の家族という虚構が成立するか否か、という映画である。

わたしの母が6月下旬に亡くなって、今日葬儀を営んだ。家族がひとり抜けることの重大さに、改めて思っていた。それに比べれば、この映画が描くように、もうひとりの家族が加わるということがうまくいくならば、そこにたとえ父や母がいなくても、比類ない楽しさがつけ加わるであろう。

Img_0209 「家族葬」という形式があって、わたしの母の葬儀もそれで行わせてもらった。花だけは式場に溢れるほど贈られてあったが、ほかは極めてシンプルで、葬儀場では、この日一つしか葬儀がなかったこともあって、静かでしめやかな、喪主のわたし自身が言うのも変だが、たいへん良い会だったと思う。いとこのM兄さんとMさん、そして妹夫婦と、わたしの家族だけだった。葬儀社や納棺師(おくりびと)、霊柩車や斎場の人びとをすべて足すと、そちらの人数のほうが圧倒した。

母の子供時代から、青春時代、そして結婚して、子育てを行い、さらに仕事に連なる時代があって、みんなで回想した。このように少人数で偲べば偲ぶほど、故人の社交性の様子が思い出されてくるのだった。

この映画に返って考えると、一番印象に残っているのは、「母と長女」との関係なのだ。「大竹しのぶ」が演じる母と、「綾瀬はるか」が演じる長女という点でも興味津々なのだが、何やらそれだけで終わらない、普遍性の匂いがするのだ。

ふつう、母が家を守り、家から娘が出ることで、家族が保たれる。つまり、一つの家族が二つの家族を生み出す。けれども、この映画ではちょうど逆に、娘が家を守り、母が家を出て、四姉妹の家と母の家が保たれるのだ。これは、特殊な例かもしれないが、必ずしも特殊だと断定できない点があるのだ。それは、「母と娘」と特定して考えなければ良いのだ。家族というものは、普遍的に、「誰かを家族から外へ出すことで、家族を保っている」という構造主義的な法則性がここでも貫徹している、と考えれば良いのではないか。

Img_0662 ということは、やはり家には、送り出す人が必須であり、最後は家に一人は残らなければならないということだろう。映画では、看護師を勤める長女は長い付き合いの医師と別れて、家に残る決心をするのだ。翻って、わたしの母は、父が逝き、わたしが去り、妹が嫁いで、その後はずっと一人暮らしだった。最後の頃に、ひとりで寂しかったと、ちらっと病床で言ったのを、妹は聞き逃さなかった。けれども、それは普遍性のあることで、母はそれを十分にわかっていたと思う。最後まで送り出す役をずっと演じてきて、今回だけ送り出される側に回ったのだ。

千葉での葬儀が終わって、横浜へ帰った妻から、体調悪く葬儀に参列できなかった「諏訪の伯母様」から手紙が届いていたことを知らされた。その中に、母への詩が詠まれていた。

浄土では 時々 母のふところに

  抱かれて寝るよ 子守歌 聴き

2015/05/19

介護で気をつけること

どこまで踏み込んで介護を行うのか、ということをつねに痛切に考えることが、この4ヶ月間に起こっていたことだ。母の入院と介護のことだが。

たとえば、今日起こったことは、その典型例だ。母の入院が4ヶ月になっている。それで本人は、病院での生活が本当に嫌になる。それは、大げさに言えば、あたかも収容所に押し込められた難民以上の、不自由さが付きまとうからである。それで、毎日の日常が疎ましくなる。

今日の母親で、それが見られたのは、薬の投与である。現在、心不全は一応直ったという段階なのだが、整腸剤の漢方薬が食前薬で、それ以外に、リュウマチ関連の3種類の錠剤を飲み続けている。通常は、食事は食べなくても、何とか薬だけはすべて飲ませることができるのだが、今日はいつもと違っていた。食前薬は飲んだが、食事を終わらせて、食後の錠剤をどうしても飲みたくないとのことだった。

それで、数十分なだめすかして見たが、いつも以上に頑なな顔つきをして、唇を前へ突き出して、意地悪そうな顔を示すようになった。そうなると、テコでも動かないので、数10分待つことにして、違う話をして、気を紛らせた。時には、それでうまくいくこともあったが、今日は本当にダメだった。

それで、なぜ最後の薬がダメなのか、嘔吐しそうになるのはなぜか、と聞くと、錠剤を固形のままで飲み込む時にダメなのだそうだ。砕いてくれれば、飲むよという。なら、簡単だといって、鉄のスプーンを親指で押し付けて、砕こうとしたが、カリウムの錠剤はなんとも大きくて固いのだ。潰すどころではないのだ。仕方ないので、スプーンを縦にして、ナイフのように切って砕こうとした。がたーんと大きな音がして、一応二つに割ることができたが、実はそれからが大変だった。小さくなったからといって、硬さが変わるわけではない。むしろ、小さくなった分だけ、余計硬く感じた。

手を真っ赤にして、唸る姿をみて、母はふんふんと無視した顔をしていた。けれども、砕き終わると、素直に白く変色したゼリーと一緒に飲み込んだ。そこで、言ったセリフは忘れられない。「結局、無理矢理飲ませたね」と笑いながら言ったのだった。

他者のふところに入って、無理矢理でも、何かをさせるのは、やはり同等にこちらも無理矢理何かをやらなければ、受け入れてもらえないということだ。それは、たとえ親子関係でも、同じことだと知ったのだった。その後、妹が「技術革新」的なアイディアを出してきたので、錠剤問題はなんとか、済ますことができるようになったのは、仕合わせなことだった。

2014/05/30

映画「ぼくたちの家族」をみる

Photo 「ぼくたち」という題名が付いていることからわかるように、家族構造のなかでも、母を巡る兄弟関係を描いた作品だ。家族の基本構造が、夫婦関係(横の関係)と親子関係(縦の関係)によって、「主として」成り立っている、という常識的な近代家族のなかで、家族のなかではいわば斜めの関係、「友愛」関係である兄弟関係に焦点を結んでいる点で、そしてまた、弱くなりつつある父と子の関係という点で、きわめて現代的な視点をもった作品だと思う。近代的な核家族のなかでは、失われていた視点でもある。

俳優の妻夫木演じる「兄」浩介のひきこもり経験ということが、この家族のトラウマになっているという前提が効いている。それは映画の至る所に兆候が配置されていて、それが通奏低音のように、映画の進行の奥に流れている。

映画の冒頭で、俳優の原田美枝子演じる「母」玲子の顔演技がこの映画のすべてである。顔の表情が微妙に変化して、サボテンの名前をつぶやくのだ。そのサボテンの名前は複雑過ぎて、覚えられなかったほどだ。それで、この主人公の一人である、母に「記憶が途絶える」という症状がでるところから、この映画が始まるのだ。

家族の人びとの日常とは何か、ということを考えさせる映画だ。たぶん、この映画の様には、わたしたちの日常は動いていない。それは確かなのだが、映画的に日常を描こうとすると、この映画の方の日常の方が秀でていることがわかる。たとえば、家族映画だな、と思わせるシーンに、父親と子どもの会話シーンで、父親役の長塚京三が歯磨きをしながら、しゃべるところがある。たぶん、ふつうの家族では、このような場面で会話は行わないだろうが、映画では日常を表すためには、このようなシーンが有効だ。たぶん、その分だけ、映画は過剰に作られているのだ。

息子夫婦の懐妊お祝いの席上で、突如として、母の症状が出て、狂うシーンがある。このときの原田美枝子の演技も素晴らしい。セリフが固まっているだけでなく、セリフに合わせて、顔の表情も固まって引き攣っているのだ。このときの父と息子の反応も、ふつうならば、大騒ぎになるところだが、静かさのなかに、この家族の過剰さが現れているのだ。この対比で、原田美枝子の演技が引き立っている。

ずっと重苦しいシーンの連続で、ああー、このように家族は壊れていくのだ、ということを思い知らされる。それで、映画を観ていて、物語の転機となるのはどこなのか、を注目していた。そろそろ転機があるだろうと。けれども、それはほとんどあらわれない。が、兄弟を描いたという意味は、ここだけに集中してあらわれる。兄弟ふたりの「引きこもり」をめぐる年月のなかで、全体をふたりで理解する場面が出てくることになる。ふつうの映画ならば、この転機をもっと大げさに描いてしまうところだが、かなり抑制して描いていて好ましい。兄がひとりで悩むところから成長して、兄弟ふたりの悩みに発展したときに、転機が訪れることになる。この静かな坂道をずっと登っていくような、丁寧な描き方は素晴らしいと思った。

この映画は、腫瘍やリンパ腫に揺れる母を巡って、兄弟と父との関係のなかで家族とは何かを問うている映画だということになると思う。「がん」という、今日の家族であれば、誰でもが家族のなかで抱える問題について、家族の「協力」がどのようにあり得るのか、ひとつの典型的なモデル足り得ていると思う。特別な事件が起きたり、典型的な悪人や善人が現れたりするわけではないが、家族の今日的な構造と、そしてその日常を静かに描いていると思われる、好ましい映画だと思う。

久しぶりに上大岡のシネマへ出た。本来は、家から一番近い映画館なので、もっと頻繁に来ても良さそうなところなのだが、やはり東京とは逆向きに行かなければならないということで、仕事の後のシネマということにはならないのだ。定年退職が無事迎えられた場合には、まだ相当時間があって、期待ばかりが募るのだが、ホームシネマ館となるだろう。それまで、続いていて欲しい映画館のひとつである。

2012/04/23

90歳を超えれば、大往生だ

今年にはいってから、大正9年生まれの身近な親戚と遠い知り合いが、3人も亡くなった。義母と、父の友人だった勅撰歌人のM氏、そして、M氏とも諏訪清陵で同期であった、今回亡くなった、わたしの伯父Tである。すでに90歳を超えたところなので、わたしの近辺でも最長老であった方々である。90歳を超えれば、大往生といっても良いと思われる。

雨が降る中、妻と娘を伴って、告別式に出てきた。親戚の挨拶の中で、伯父の紹介があった。江戸時代から続く信州諏訪の「亀長」の屋号を持つ、刀や鍬などの金物関係の商家の当主で、15代目に当たる。この家は、相当な金持ちだったらしく、「諏訪は亀長で持つ」と称されたらしい。その後、むしろ分家筋に当たる「亀源」や「亀泉」などが、味噌や酒の醸造などで勢いを持つようになってきたらしい。祖母の葬儀が諏訪の正願寺で営まれたときに、大勢の親戚がいるので、驚いた記憶があるくらいだ。

中世から現代に伝わる「諏訪上社」の古文書や、江戸幕末上州「茂来山鉄山」のたたら製鉄経営で、名前が散見される。明治になってから、安曇野に今でも残る水力発電機を利用した松本島内工場で、日本初の「電気製鋼」を行った家としても記録されてきている。鉄鉱石と電力が豊富に手に入ったから、当時は十分採算が取れる事業だったと思われる。現代の特殊鋼へ技術が引き継がれて来ていると聞いている。

伯父は根っからの技術屋さんという性格を持っていたが、当主としての伝統を受け継いでいたので、カメラのレンズを専門とするメーカーの役員を長く務めていた。生活はきわめて質実かつ合理的で、信州人特有のきまじめさを持っていて、しかもさっぱりとした性格だった。

毎年夏になると、わたしが諏訪にある放送大学の学習センターで講義を行うので、そのあと、諏訪湖畔からすこし入ったところにある「鰻屋」さんで、会食するのが習わしとなっていた。戦前の横浜工高出身だったので、横浜の弘明寺のことは詳しくて、よく学生時代の横浜のことを話したことを覚えている。当時は、三殿台の丘に登れば、切り通しで一回降りる程度で、尾根伝いに横浜山手まで行くことができた。学生達の散歩コースだったらしい。戦後は、駐留軍の住宅が建ってしまったので、このコースはわたしたちのころには、流行らなかった。このように、物事を正確に話すことに長けていたから、最盛期の亀長時代などの話を、脚色なく話していただいたのを懐かしく思い出した。

2011/07/12

ネットワークの美

映画「Biutiful」を観る。映画のローマ字表記がそのまま映画の題名になっているのは、綴りを間違えているからであり、それが映画全体を表しているからである。家族という美しいモノを夢見た「娘」の描いたとおりには行かず、表記を間違えたように、現実も名称とずれて進んでしまうのだ。

主演の父親役バルディムは、このような現実と夢の境目を演じさせたら、右に出る者がいない役者だ。これまでも印象に残る演技をたびたび見せている。映画の中では、死んだ人の霊と交換できるという能力を持っている。天井に死者が浮かび上がり、夜になると黒い蛾となって、現れる。

彼は、そこで死んだ人、あるいは死を迎えるであろう人とのネットワーク作りに秀でている。けれども、彼が媒介することで重要なことが明らかになってくる。あくまでネットワーク作りであるのだが、ほんとうのところは、逆にネットワーク崩壊の物語であるのだ。近代という物語が組織形成の物語であったのだが、それは同時に家族崩壊物語であることは多くの論者たちが言っていることだが、さらにネットワーク崩壊の物語が語られるのが、ポスト近代という物語だ。

主人公が取り持つ、アフリカ系不法移民のネットワークは路上販売のやり過ぎで、崩壊して行く。それを支えていた警察ネットワークも脆かった。さらに、最も主人公が思い入れをしていた、中国人ネットワークは最悪の結末を迎える。それらに隠に陽に、媒介者として、主人公は関わって行くことになる。けれども、最も重要なネットワークは、本人が当事者である、彼の家族ネットワークであり、子供二人と妻との関係には涙が出てきてしまうほどの関係を示すことになる。

出だしと最後の同じシーンが効果的であったかどうかは分からない。すでに霊媒者としての能力を超えた領域に入った時には、主人公の霊媒能力も限界に達するものという解釈だろうか。ネットワーク破壊者であっても、極限の古典的ネットワークである家族ネットワークは破壊できないという隠喩なのだろうか。ネットワークというものの利点は、集団効果にあるが、同時にネットワークの欠点も集団効果にあるのだ。個人を飲み込む存在であることは確かだ。

2011/05/02

親密圏の問題

ストレスの溜まった一日をふり切るには、良い映画を見るのが、いまのところ一番の方法だ。映画「八日目の蝉」を観る。Photo_2家族あるいはその周りを含んだ、いわゆる「親密圏」を問題にしている映画だ。

家族とは何だろうと考える。たとえば、生後すぐから、4歳までの間に起こった家族間の出来事が、すっぽりと記憶から脱落したとしたら、どうなるのだろうか。映画の効用はいろいろある中で、自分に帰ってくる問題があると、その映画が二重の役割をもって、こちらに迫ってくる。

もしわたしの娘と息子との間で、それぞれのあの4年間が無かったとしたら、家族と呼べる関係を築くことができたであろうか。夜泣きが激しくて、小学校の夜の校庭を散歩して、きれいなひまわりをみせて歩いたこと。突発性の熱で医者に駆け込んだこと。絵本をいっしょに読んで寝かせたこと。ピクニックで寝転びながらお弁当を食べたこと。コーヒー屋へ連れて行って、アイスクリームをひっくり返したこと。幼稚園へ送る自転車でわーとスピードを上げたこと。手で空気をつつんで、子どもに渡し、これは大切なものなんだよと遊んだことなど。映画に触発されて、過去の情景が蘇ってくる。

これらの記憶が無くても、友人関係と同じで、会っているときが良ければ、家族関係が存在するようにも思えるときもある。養子関係という関係もあり得るし、実際にも成立しているのだから、それ相当の覚悟があれば、家族関係を築くことは不可能ではない。それは確かだ。さてそれで、本当のところ、血縁の家族ではない関係でも、養子関係以外に家族関係を結ぶことは可能だろうか。その場合に何が不可欠になってくるのだろうか。

映画では、いくつかの疑似家族について描いてくれる。あるときは異常な状態で、あるときは実験的に、あるときには宗教的に、あるときには宿命的に。

この映画が良いと言えるのは、きわめて映画的な部分だ。なにが映画的なのかは、ひとによって解釈は異なるとは思われるが、わたしの場合は映像が活きている場合である。ドキュメンタリーのように新鮮な映像というのではなく、むしろ映像独自の描法が活かされているという意味だ。

この映画のいくつかのシーンで、それが見られた。そのひとつは、記憶装置として、この映画が採用した「場末の写真館」だ。ここでは地元の人たちが、人生の節目節目に家族写真をとる習慣があるらしい。不思議な雰囲気を保っている写真屋さんだ。21年前に撮った写真が保存されていて、ということは、島の家族たちの数世代に渡る写真が保持されているということでもあるが、この写真屋さんは21年後の顔を観ただけで、この21年前の写真を記憶のデータベースから蘇らせてしまうのだ。暗室に連れられて、白い印画紙にふわっと21年前が映し出される瞬間がある。こんな写真屋さんが近所にいたら、「親密圏」の有力な装置となる。

現実の日本をみると、こんな素晴らしい写真屋さんが20年後も同じ所で同じ商売を続けていられるような、産業事情にはないことは明らかだ。けれども、映画として描いてしまうと、昔のわが街の写真館があり得るように思えてくるから不思議だ。あるいは、家族の心の中に、このような写真館を持ちなさいという、この映画のメッセージなのかもしれないのだが。このような可能性をきちんと描くことが映画では重要なのだ。それからさらに、小豆島のお祭りを映画の重要な要素として取り込んでいる手法も、きわめて映画的だと思われる。

それにしても、蝉が鳴いている(と思われる)場面には参った。歳のせいで、耳が聞こえなくなってきており、とりわけ虫の音に弱い。これが聞こえないということはかなり致命傷的ではないのだろうか。そろそろ耳鼻咽喉科を探さねばならない時期を迎えているのかもしれない。


2008/08/22

夏の終わりに

今日は日中から涼しくて、いよいよ夏の終わりが近づいたのではないかと思われるくらいだ。機が熟したように、我が家では、恒例のトランプ大会が開かれた。いつ行われるのかは決まっていないのだが、おおよそ夏が終わりになる頃、誰ともなく言い出して、開かれるのが定例となっている。

子どものころの田舎生活では、トランプを行うのは、暮れと正月の時期と決まっていたが、結婚してからは田舎の風習は踏襲さえず、むしろ夏にトランプ大会が開かれるようになった。たぶん子どもたちの受験との関連もあったためだと思われるが、そのような時期も過ぎ去って、自由に開催できるようになっているのだが、やはり習慣というのは不思議なもので、毎年の収穫祭みたいに、この時期に開かれているのだ。

トランプを家族で行う習慣がわたしの身についたのは、考えてみれば、1歳以前からだった。信州の大町に祖父が住んでいて、夏季と冬季にはかならず、彼の娘たちに連れられて、わたしたち孫たちが勢ぞろいした。

大人たちが料理を作ったり、仕事で忙しがったりすると、子どもたちの相手を祖父がしてくれて、仕事では結構厳しかったのではないかと思うが、このときばかりは顔が緩んで、笑みで満面になるのが楽しかった。このような大家族制のシンボル的な団欒がトランプ大会の思い出だった。

家族員が少なくなっても、結婚して核家族になってからも、トランプを行えば、家族が一堂に会して、会話を楽しみながら、ゲームを行うことができた。ときどきは勝敗に一喜一憂することもあったが、多くは団欒を楽しむための時間であった。

米国の政治学者パットナムによれば、米国では、友人たちとカードゲームを行って、インフォーマルなコミュニケーションを保持しようとしたらしい。トランプゲームには、会話をするにもあまり緊張感はなく、手軽に楽しむことができた。

けれども、1960年代までは、友人とトランプをすることに重要な意義があったが、70年代以降、にわかにこのような傾向が低下してきたことが、指摘されている。ちょうど、欧米では転換点にあり、リストラ旋風が吹き荒れて、フレキシブルな労働形態が広がり、非正規労働が増大していたころだろう。仕事も忙しくなり、近代社会の浸透は米国に、友人関係の深刻な衰退をもたらし始めていた。

やはり、トランプゲームの良いところは、友人や家族が「一堂に会する」(一堂といえるほどの部屋が我が家にはないのが残念だが)ところにあるだろう。会話を楽しみながら、みんなの様子をそれとなく窺い知ることができるところだ。それでどうにかなるわけではないのだが、元気さとか、調子の良さとか悪さとか、何か遭ったのか無かったのかとか、という無言の「こわばり」を感ずることができる点だと思う。

「こわばり」をほぐすところは、すこし「バカ」のできるようなところしかないのではないかと思う。チェスタートンが「この世でもっとも狂えるところ」と敬意を表してよんだようなところが、夏の終わりになるころには、無性に必要となってくるような気がする。

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プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。