カテゴリー「経済・政治・国際」の投稿

2014/11/22

ガバナンス研究会のコメンターを務める

Unnamed ガバナンス研究会が開かれて、コメンターとして招かれる。放送大学を定年退職なさったA先生が主宰し、N大学のT先生が会長を務めていて、毎月1回例会を神奈川学習センターで開かれている放送大学の名物ゼミである。これまでも、事あるごとに聴衆の一人として招かれたことはあったが、コメンターとしては初めてだ。会場には、25名の方々が集まり、センター所長のI先生も加わって、さらにウォーキング主催しているFさん、社会と産業のAさんも聴きに来てくださった。議論するのに、最適の研究会となった。

今回はT大学名誉教授のA先生が基調講演を行うことになっていて、テーマは、「ポストベッドタウン体制について」という、現代的な問題だ。どのような風の吹き回しかは分からないのだが、たいへん名誉でかつ興味深いことには、わたしにコメンターのお鉢が回ってきたのだ。じつは、政治学や政治史の分野では、両A先生を含んだ泰斗たちが「戦後とは何か」を巡って、長い間座談会を繰り広げてきた経緯があって、到底わたしの教養の程度では追いつかないことは知っていた。そこで、「脱戦後体制」については、「横浜市」ということに限って報告するという、少し工夫を行うことにした。これならば、20年にわたって、神奈川学習センター赴任時代から考えてきたことがあって、十分にしゃべらせてもえらえる良い機会だと思えたのだった。

A先生の基調講演は、重厚な内容にもかかわらず、わかりやすく、かつテンポ良くとんとんと進められた。戦時体制・戦後体制・脱戦後体制という時間軸の元で、空間的な配置が国際、政治、経済、社会と並べられ、社会のシステムがいかに変容をしていったのか、という歴史的な推移が十分に理解されたのだった。

じつを言えば、横浜こそ、この戦後と脱戦後の複雑性が重なって現れている、典型的な都市だといえる。わたしは学生のとき、1970年代に横浜へ移ってきたのだが、そのときから、横浜の都市化と、さらに横浜のコーヒーと喫茶店をずっと追い続けてきたように思う。わたしにとっては、この喫茶店のような場所は、家庭と職場のあいだにある「サードプレイス」だということになるが、これを見る中で、横浜都市に現れる「構造」というものが分かってきたところがある。

コメントのなかで、二つの点を強調した。ひとつ目は、横浜市という都市の構造に4つのタイプが重層的に存在しており、これらの相互作用によって、横浜市全体が成り立っているという観点である。横浜市という一枚岩的な文化構造が存在するわけではない。A先生は、適切にも「連合」としての横浜市という表現であらわしてくださった。

二つ目の観点は、発表者のA先生が脱戦後体制の特徴として、市場システム、政府システムに並行して、「再生産」あるいは「再結合」のシステムが存在するという問題提起をなさっていて、それに対応して、横浜市のジャズプロムナードの「再生産」方式をわたしが紹介し、大いに議論が盛り上がったのだった。こう書いてしまうと、感激が薄れてしまうのだが、そのあとの酒の席でも、当人たちは随分と議論が積み上がったと思えるときを過ごすことができた。

2008/03/15

資料館の春先展示

昨日も遅かったので、すこし余裕をみて、ホテル近くの、スマートな女の子を意味する言葉の「N」というカフェ・レストランで、早めのランチを食べる。テラスが温室のようになっていて、居心地が良さそうな、郊外型の商業施設である。タコとアスバラガスのパスタを食べ、腹ごしらえを終えて、府立総合資料館へ入る。

大正文化の特色は、「近代」をめぐる象徴的な動きであるが、交通はそのひとつとして見逃す事ができない。折よくちょうど、企画展「地域をむすぶ京都府の交通史」をやっていて、本来の文献収集をそっちのけで、見学してしまった。古代から中世(たとえば、角倉氏などが管理した河川の歴史)にかけて展示されていたが、鉄道に中心が移ってくると、明治期の建設からはじまって、大正期の拡張期に面白い動きがあることが確かめられた。

たとえば、重要文化財に指定されている「京都行政文書」には、交通事情が記載されていて、大正期に人力車や馬車に代わって、乗合自動車が登場し、都市交通が激変したことが記載されていた。このことによって、人力車の車夫は失業をこうむる事になったらしい。当時の幌なしの乗合バスの写真や、転換前の馬車の写真など、普段あまり気をつけてみないようなものが目白押しで面白かった。

問題は、大正期に拡張・変化した近代が、なぜ長続きしなかったのかということだと思われる。このことは、簡単に答えの出るものではないが、いくつかの証拠は集まってきている。この資料館の閉じるのはたいへん早く、4時半には閉館の時間となった。通りの向かいにあるパン・レストラン「進々堂」で、チーズケーキ・セットを頼む。コーヒーのお代わりは自由だということだった。3杯飲んだこれが、今日の最後のコーヒーとなった。

2006/12/06

トンガとフィジー

フィジーでも、トンガに続いて、混乱が伝えられている。こちらは、軍のクーデターである。

けれども、この扱いの違いはなんだ、とトンガ贔屓としては、じつはたいへん怒っている。マスコミの扱いがまったく異なるのだ。トンガでは、死者が7人も出たが、フィジーの場合には、今のところ死者もけが人も伝えられていない。

それにもかかわらず、トンガの事件は社会面にちょっと載っただけだったのだが、フィジーの事件では、朝日新聞でも4段で写真入の記事を掲載している。アナン国連事務総長の談話や、麻生外相の談話などが直ちに伝えられ、国際社会での扱いがトンガとまったく異なっている。この差はなんだ、と言いたい。

トンガは現政権が一応続いていて、体制に変化はなかったが、フィジーでは現政権が倒され、軍が政権を掌握した、という。なるほど権力の問題としては、フィジーのほうが大事だと思えるかもしれない。けれども、やはりわたしは国の大きさが、この報道の差に現れていると思う。

じつは、外国人にとっては、フィジーには以前から二つの顔がある。ナンディという国際空港のある都市から入っていく楽園観光の国という面と、首都スバから入ってこの国の人種対立などの歴史をたっぷりと知らされる面とである。今回の事件は、観光の方面ではおそらくまったく影響のなかったことではないかと思われる。これは首都スバの出来事なのだ。

南太平洋では、たくさんの島が点々としていて、わたしたちには、みんな同じに見えてしまうが、じつはそのなかでも、小さな国(島)と大きな国(島)の違いがある。どこで見分けるかといえば、川が存在するか、だと聞いたことがある。

つまり、川のできるほどの島であれば、まず水の補給ができるので、自給自足が可能になる。農園も大規模なものを形成できる。ということは、治水事業が成り立ち、生産物ができることになるから、そこに権力が生まれることになるのだ。

きわめて、即物的な言い方だが、フィジーを見ていると、真実であると思われる。フィジーには、じっさい高い山があり、ナンディからスバへの飛行機に乗って上から眺めればわかるように、川があるのだ。

そして、なによりも、首都のスバには日本の大使館をはじめとして、各国の大使館が開かれていて、スバの情勢はそれぞれの本国へ直結している。それに対して、トンガには大使館はなく、スバの大使館が兼務している状態なのだ。

国の面積が違うといえば、そのとおりなのだが、国の差は面積ではないだろうと思う。けれども、この差は大きい。つまり、川のある島と川のない島の違いが、マスコミの扱いにも現れているのだ。(ちょっと、極論かな。現在では、総合大学が存在するか否かも大きいと思う。)

20年以上前にスバを訪れたときに、文豪の泊まったという、国会議事堂近くのホテルへ滞在した。フィジーは英連邦の一員であるので、英国系人とインド人の支配するお役所や企業が多く、取材していて、トンガの話をすると、鼻で笑ってその小ささを強調するので、あまり良い印象を持たなかった。

スバの博物館へいったとき、フィジーとトンガの複雑な関係をすこし理解した。フィジーがメラネシア系で、トンガがポリネシア系で、有史以来かなりの距離の海を越えて、何度も戦争を繰り返した歴史が展示されていた。互いに、ずっと戦争状態が続いてきていたのだ。

現在では、フィジーには、クーデターを起こすほどの軍隊が存在し、トンガには治安維持程度の軍隊しか存在しない。少なくともその違いは、博物館の戦争展示ではそれほどの差としてはあらわされていなかったように思う。対等に侵略しあっていたように記憶している。

なのに、この報道の違いはほんとうに許せない!

2006/11/18

トンガ王国の反乱

16日から今日にかけて、トンガ王国の反乱がマスコミで報ぜられていた。電力会社への焼き討ちでは、死者が数人出た様子である。

国会議員の定数が30で、そのうち普通選挙で選ばれる国民議員は、9人しかいない。ポリネシア特有のチーフ(首長)制が最後まで残ったのが、トンガ王国だと解釈できるだろう。

今から20数年前に、じつはトンガ王国へJICA(国際協力事業団)から派遣され、滞在したことがある。1ヶ月ほど、首都ヌクアロファの中心地、王宮の隣にあった財務省内に、事務所を設けて国内を調査して歩いた。今回焼き討ちにあった電力会社へも取材に行った記憶がある。

Dateline Hotelという、つまり、日付け変更線がその上を通っているホテルで、やしの実のジュースを飲みながら、報告書を書いた思い出がある。もう時効だと思うので言ってしまうが、同僚のなかには、トンガの女性とほんとうの(というのも変な言い方だが)恋愛関係に陥ってしまい、日本へ帰ってきてからも交際していた人も出るほど、ドラマチックな日々が続いたのだ。

もしそのころのトンガを描くとしたら、おそらくトンガ貴族・エリートたちの抗争というドラマが展開できたであろう。当時は、王侯のラジオ放送が聞こえてきただけで、仕事を投げ出し、聴き入る国民が多かったから、民主デモなど考えることすらできなかった。

けれども、いくつか今日の暴動を予想させる要因が無かったわけではない。トンガは独立当初、完全平等主義をとって、土地を全国民に分けた。ところが、土地には限りがあるから、次から次に生まれてくる国民全員に与えられない時代が到来していた。

それから、外国人の影響がそろそろ深刻になっていた。今回、華僑に対する焼き討ちが伝えられていたが、当時からインド人と中国人の進出は、影響力を増していた。

経済を勉強するものにとってたいへん面白かったのは、財務省の隣の部屋で、貨幣発行が行われていたことである。どのようなときに、通貨供給を増大するのか、というのをつぶさに見ることができた。

たとえば、輸入の増加はふつう通貨を減らす要因になるのだが、特別な事情があって、トンガでは輸入増加に対して、通貨を増大させる政策を採っていた。お雇い外人エコノミストのニュージーランド人が自慢気に語ってくれたことである。

このような国家機密の漏洩に対しては、当然トンガ内部で問題になり、ある部局のボスから質問を受けた覚えがある。でも、いまから思えば、まだ観光客も少なく、工場もすくない、南太平洋の青く広がる、さんご礁の海を前にした夢のような王国での出来事だったのだ。

2006/08/19

松阪と本居宣長

三重県に来たのは、三回目だ。これまでは通りすぎるだけであった。じっくりと一日歩いてみようと思った。

わたしの放送講義で、何回も使わせてもらった松阪商人、とくに三井高利ゆかりの地を見ずして帰ることはできないではないか。また、「本居宣長」がなぜこの地で成立したのかについて、ほんのすこしは理解できるかもしれないという目論見である。Photo_8

本居宣長記念館に移築されていた「鈴屋」と母屋は洗練された建築物だった。宣長という人は、幼いときから自分の業績を、自分でも見て確認することができ、さらに他人にも視覚的に見せることを意識して、形成してきたのではないだろうか。などと思わせるほど、洗練されたものしか残していない。

そのことは、記念館の業績群、とくにノートなどにも現れていたが、それ以上に生活の場である家を見ればそのことはわかる。商家の伝統を受け継いだと思われるような、他者を意識した工夫が見られた。表の接待用の座敷と、ほんとうの奥座敷とが用意されていて、さらに鈴屋という仕事部屋が二階に別世界として配置されている。家がひとつの小宇宙を保っている。(各部屋に鈴が配置され、音の小宇宙も家のなかに造られていて興味深い)

Photo_9 記念館の収納物では、10歳代に書いた「架空の藩」の地図が面白かった。一種のユートピアを空想していたのだ。それと、おびただしい書簡集は、人間関係の緊密性と日本全国とのネットワークの広さとを現わしている。なかに、質問票形式の書簡があり、質問を書き込んで、回答部分を空けてある書簡は、どこかの大学の通信問題に似ているなあ。

そのあと、記念館の建てられている「松阪城跡地」、そして当時から現代まで栄えてきている豪商「長谷川家」、「小津家」や、三井家の門などを見て回った。これらの商人発行の「御為替組の藩札」「三井の藩札」なども展示されていた。そう言えば、伊勢は日本紙幣の発祥地でもあったことを思い出した。

松阪という場所の凄いところは、松阪商人の「商業の世界」、蒲生氏の「政治の世界」、本居宣長の「学問の世界」、そして近辺には、伊勢という「宗教の世界」がすべて揃っているという点である。それぞれが決してバランスよく発達しているわけではないが、江戸時代にあって、世界的にみても決して遜色ない世界を作り上げていたところが素晴らしい。

むしろ松阪はなぜ「名古屋」にならなかったのか、さらに世界の「江戸」にはならなかったのか、という疑問を持っても、不思議ではないほど、すべてにおいて異様な繁栄を見せていたと思われる。Photo_10

お城の隣にある城番屋敷の近くで、一軒家レストランを見つけたので、ランチを食べた。ほとんど観光客で、元気の良いのは女性客だ。男性客はわたしただ一人だけだったのは淋しかった。

2006/07/20

竈の煙

仁徳天皇が、町の高台から庶民の家に煙の立たないのを見て、3年間税を免除し、3年後にカマドの煙がたくさん立つようになったという話は有名である。

カマドの煙でなくとも、これに類した話は現在でもよく聞くし、自分でも試してみる。たとえば、地方へ出張に行ったときには、タクシーの運転手と雑談をするが、景気の話題は定番のひとつだ。関西では、もうかりまっか、というところだろうか。

最近、気に入っているのは、カマドはカマドでも、もっと大きな、製鉄所の高炉である。

横浜から高速道路の湾岸線をいくと、ベイブリッジを越え、大黒埠頭も過ぎて、扇島に入り、右手に、JFEスティールの東日本製鉄所(旧日本鋼管)がある。コークスの山積みを見る限りでも、大きな工場である。

工場群の遙か彼方に、高炉が二基(だと思うが)立っていて、最近はだいたい一基がフル稼働している。夜も火を落としていないし、その下に広がる圧延工場(だと思われるが)にも、煌々と灯が点っている。060720_192402

この製鉄所の「カマド」によれば、庶民の暮らしはかなり良さそうだといえる。もっとも、鉄の場合には、近年の中国需要の増大に寄るところが大きいのだが。

(右の写真では、明かりが強調されてしまって、そびえ立つ高炉は背景に退いてしまっているのが残念である。)

2006/05/22

「出生率を上げる」と周りはどうなるか

今朝の朝日新聞に、「出生率の上がった村」ということで、長野県のS村が紹介されていた。

出生率を上げる特効薬はない、と言われ続けて久しいが、ついに画期的な方法が生み出されたのか、と一瞬思ってしまった。

記事によると、方法は二つである。ひとつは、「家賃の安い若者向けの村営住宅の建設」であり、もうひとつは、「中学3年生までの医療費の無料化」である。

これによって、隣の飯田市から移り住んだ家族が、子供を二人も産んだ事例を紹介していた。家賃は、飯田市より2万円も安いし、子育てに良い環境が用意されている、ということであった。

この結果、1995年に4千人に満たなかった村の人口が、2005年には4215人にまで増大したとのことである。

ここで注目したいのは、移住してきた新住民が多いという点である。つまり、1260世帯のうち、1割以上が村の外からきたひとであり、その結果人口増大が生じているのだ。

現状からみると、「出生率が上がった」原因は、従来から住んでいる人びとの出生率が上がったのでなく、外から移入した来た人たちの産んだ子供が出生率を押し上げたのだ。

このことは、出生率の上昇とよんで良いのだろうか、と考えてしまう。もし、住民を取られたほかの市町村が自覚して、競争してこのような家族政策を行うようになれば、全体として出生率は上昇することになるであろう。

けれども、一村が単独で住宅政策や、子育て政策を行ったとしても、ほかの市町村に住んでいる人が、単に移り住むだけで、それによるその村だけの人口増大が起こるだけである。

もっとも、これまでいくつかのシンクタンクが指摘してきたように、このS村の取り柄は、じつは歳出施策のほうではなく、むしろ「財源捻出」方法にある。たとえば、「住民自身による公共事業の実践」や「役場の職員削減」などで、S村は黒字経営となっているからである。

このような工夫全体が、新たな政策を行う動因となっているらしい。したがって、これらのリストラクチャリングを効率よく行った村として、評価されているのであればその通りだと思われる。

2006/05/07

長期の問題と景気循環論

連休の最後に、人間が未来永劫どのような社会に行き着くのかを考えるのは相応しい気がする。心の余裕が出来、気分が大きく膨らんだところで、ずっとずっと未来に何が起こるのかと考えるのはよいことであり、たまには必要である。

100年周期でなにが起こるのか、もっと飛んで、千年周期で何が起こるのかを考えることはたいへん興味深い。

放送大学大学院の修了生で、現在東京経済大学で博士論文に挑んでいるF氏から、東京経大学会誌に載った「景気循環論の未決問題-加藤雅教授の遺したものは何か-」という読解論文が送られてきた。

やはり、景気循環論でも面白いのは、断然「長期」の問題である。ケインズは、長期は不確実だとして語らなかった、と言われているが、わからないからこそ面白いとも言える。

この論文でも、長期波動論に力を入れていた加藤氏の業績に注目している。なかでも、とくに「コンドラチェフ波動」には興味がある。ある時、科学や経済や政治や文化などの歴史が文字どおり「同期」してしまうことがあるのだ。

第1波が産業革命の軽工業期、第2波が重工業期、第3波が電気産業、第4波が石油と自動車、大量生産の時代であり、第5波がIT革命である、という説も紹介されている。

問題は、なぜ周期を描いて、ある時諸々の要因がすべて同期を起こすのか、という点である。黒点説のように、まったく外部要因で説明する方法もあるが、やはり追求してもらいたいのは、内部的説明である。

制度という習慣の積み重ねに転換が起こるには、長期の時間が必要であり、そのことで多くの人間が正当・不当にも動かされる羽目に陥ることがある。

今の社会で起こっている家族・企業・政府・コミュニティの変動は、まさに長期の問題を受け持っている。景気循環論が手薄なのは、やはり企業・産業サイドの議論が大きな位置を占めすぎている点である。それは内側・内部の説明の半分でしかない。

周期を描くのは、やはりあまり高い値を示す場合には、もっと低くという判断が社会の内部に存在するからだと思う。周期性の説明には、もっと社会の隠された重要なものを動員しなければ問題は解けないのではないかと思う。

技術革新説は有力な説だが、長期には、それが人びとによって受容されることがなければ、高みに到達することもなかったことを忘れてはいけないと思う。個別に見ていくとバラバラに動いているように見えて、じつは全体としては、ある時にすすっと周期的にみて、同期を行う時期になっている。

この辺の社会意識の変化がうまく解ければ面白いのだが・・・。現実はつねにもっと先をいっている。

2006/05/02

巨大な支配力

F君は、通信社に勤めて、世界の動きを察知し縦横に報告している友人である。いつも書物の世界に閉じこもっているわたしに比べ、数倍の情報量を持っている。

かれの最新作は、米国小売業「ウォルマート」に関する解説論文で、先日郵送されてきた。

それによると、「ウォルマート」が同業の「ターゲット」の追い上げにあって、苦戦しているということである。

何が危機なのかといえば、収益の上がらないところにまで規模を拡大してきたところにある。これまでは、その支配力にものを言わせて、収益の上がらないところでも相手の譲歩を引き出し、利益を向上させてきた。

けれども、やはり価格のみの効率性追求戦略には限界があるということらしい。個性的な販売戦略をとれないところで、収益を下げているというのが結論である。つまり、低価格商品と高級商品への消費の二極化が進み、この状況への対応が出来なかったということである。

最近、日本でもイトーヨーカ堂が価格の高い商品に挑んで、積極的に消費の二極化対策を講じている。

このような動きは、一部で見られるのではなく、今や米国を超えて、世界的な反応となってわれわれに影響を与えているのだ。物を媒介とする世界でも、目に見えずとも、急激な変化が起こっているのだ。

2006/04/11

同じ目的を持った人びと

電車のホームに並んでいる人びと(ここには自分も含まれるのだが)をみていると、ときどき不思議な気分になってくる。

みんな同じ方向を向いて、あたかもみんな何かを合意したかのように並んでいるのである。

ふつう同じ方向を向いていて、同じ目的を持っている場合には、それで立派な組織が形成されていることを意味する場合が多い。

組織のことを論じている書物では、同じ目的を持っていることが「組織」の条件となっている。

ところが、ホームで同じ方向を向いて並んでいる人びとも、電車に乗るという同じ目的を持っているのだが、これらの人びとは決して組織とはいわない。電車に勇んで乗ってくる単なる群衆に過ぎない。

にもかかわらず、なぜかこのホームで電車を待つ人びとは現代の何かに似ているのである。

これらの人びとを組織とは呼ばないにもかかわらず、じつは現代の組織にそっくりなのである。同じ目的を持っているにもかかわらず、電車に乗ってしまえば、みんなバラバラのことを考えている。まさに、現代の組織に似ているのではなかろうか。

すこしニヒルな観察だったかな。

『貨幣・勤労・代理人』(経済文明論)

  • “「貨幣・勤労・代理人」"

社会経営研究配布中

  • 2015study

社会経営ジャーナル配布中

  • 2015journal

開いている講義    「社会的協力論」

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「音を追究する」第13回・第14回

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「多様なキャリアを考える」第2回・第3回・第4回

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「グローバル化と私たちの社会」第11回

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プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。