カテゴリー「スポーツ」の投稿

2012/05/16

久しぶりに、サッカーを観た

Photo_41マンチェスター・シティが、マンチェスター・ユナイテットとの一位争いに勝って、イングランド・プレミアムリーグで44年ぶりに優勝した。マンチェスターは、英国取材でいった時に、産業博物館や綿の取引所などで印象深いところだったので、つい注目してしまうのだ。

じつはそれだけでなく、サッカーということについては、中学・高校でサッカー部に属していたことを思い出した。部員の人数が少なかったし、試合数があまり多くなく、廃部寸前の状態であった。この廃部寸前の状態というのは、辛いものがあった。たとえば、この頃から、財政問題に悩んでいたような気がする。

Photo_42この点からすると、マンチェスター・シティよりも、対戦相手のクインズ・パーク・レンジャーズがリーグ残留が掛かっていて、こちらの状況を考えることもたいへん面白い試合だったと思う。もう一つの残留をかけていたボルトンの試合結果がこれに関係していて、たいへん複雑な状況があった。一時、ボルトンが2-1で勝っていて、クインズ・パークが負けていて、残留がひっくり返りそうになって、双方が必死になる場面があって、このような時にどこまで頑張れるかが、試されることを知った。

Photo_43つまり、マンチェスター・シティは、「粘り」ということで、観るべきものを持っていた。今期ずっと一位を続けてきていたのだが、4月にマンチェスター・ユナイテットが一位になって、この時点で勝ち点もかなりの引き離されていた。それにもかかわらず、それを跳ね返して、マンチェスター・シティが一位に返り咲いての最終戦だった。マンチェスター・シティは勝てば優勝ということだったのだが、さてどうなるのかというギリギリの試合だった。

Photo_44それで、優勝や残留の競争ということで、粘りが問題になると、通俗的に思っていたら、どうやら問題の中心は、別のところにあるらしいことがわかって、なるほどという気分になった。

何が公平なのか、ということが、じつは今回の隠れた中心点だったのだ。これを問題にした新聞記事や、ネットの報道が散見された。タフさが、貨幣と関係しているのだ。

アラブ資本によるチームの増強、選手の移籍、試合の駆け引き、それらがすべて凝縮された最後の試合であった。

Photo_45さて、後半45分が終わったところで、マンチェスター・シティは、クインズパークにリードをゆるしていた。ロスタイムがわずかに5分というところから、頑張った。ここからの2点というのは、思い出しても、感情が高ぶるのだ。取材をして、エールを飲みながら、パブでテレビを観た時のあったことも思い出した。

2008/07/27

「ムキになったら、いけない」

この2,3日、K大の採点を行っている。今年はいつもの年より、すこし丁寧に採点しているため、時間がかかっている。どのへんが丁寧かといえば、わたしが読書論の制作を計画しているので、参考にするために、学生がどのような本の読み方をしているのか、というところを時間をかけて観ている。

今のところ、どうも学生たちは、本を読んでの直截な感想を書く程度に終わっている。答案を書く前提条件として、2冊読むことを課しているのだが、「比較」と言う作業を行っている学生は少ないし、さらに進んで、本を超えるような想像力を発揮している学生はさらに少ない。

講義のときに、「幅の広い読書」と、「狭く深い読書」の両方を行って欲しい、ということを言ったのだが、いまのところは無残な結果に終わっている。まだ、1年生の学生が多いこともあろうが、試験が終わってからが、彼らのほんとうの勉強が始まるのだと思われる。それに期待したい。

ずっと一日中、答案を観て、照明を暗くした研究室に閉じ篭っていると、精神衛生上悪いので、家に帰ってから、妻のビデオ鑑賞に付き合うことにする。

妻は息子が高校に入った頃から、急に何を思ったのか、高校野球の熱心な観覧者兼私設応援団(外は苦手らしく、もっぱらビデオでだが)と化した。息子が野球部というわけでもない。我が家には他に野球ファンがいるわけでもない。キノコが道端の木に生えるがごとくに、突然変異的になったのだ。

けれども、ビデオを見ていて、「ボークってなに」などと聞かれた。4年間も野球鑑賞してきて、未だ「ボーク」も知らなかったとは・・・。

今日は、北神奈川大会の決勝戦に当たっていた。「慶応高校」対「東海大相模」の1戦だ。わたしにとっては、今年になってはじめて見る高校野球なのだ。骨休みを兼ねて、観始めたのだが、ミスの少ない見ごたえのある試合に、つい引き込まれてしまった。

前半戦には、東海大相模の主砲大田のホームランで、1点先制。そのあと、すぐ慶応が追いつき、さらに逆転する。ほぼ互角の投手戦の様相だった。

また、今回の解説者は、妻の贔屓としている横浜高校の野球監督渡辺氏であった。それで、的確な予想と、現実的な観察をして、向こうを唸らせていた。

ほぼ互角の均衡状態で中盤戦に突入したときに、渡辺氏がいうには、「ムキになったら、いけない」、「センターへ向かって、たたきつけるようなバッティングが必要です。」というと、観ている端から、センターへ向かってヒットが出る、といった具合だ。他人のチームでも、何が起こっているのか、そして何を行えばよいのかが、的確にわかるらしい。ほんとうに、素晴らしい予想力と指導性だ。

中盤後に試合が動いた。慶応が3点とって、4対2となる。しかし、その後東海大相模が再逆転して、4対6とする。さらにまた、9回に押し詰まって、慶応が2,3塁として、同点のチャンスを迎える。このとき、監督の指示が大事だ、として、渡辺監督ならばどのように言うのかと聴いていたが、「2点までは仕方がない。同点までは良い」とのことだった。

つまり、試合というのは、最後の最後までわからない、ということだと思う。負けなければ良いのだ。この辺のふん切りが、監督としての資質となるらしい。試合は、渡辺氏の言うとおり、6対6の同点になった。

ところが、なんということであろうか、ここで家のビデオが切れてしまったのだ。9回裏の同点場面で、きょうの鑑賞会は終了。野球の醍醐味だけは十分すぎるほど楽しめたので、結果なんぞは知っても仕方ないだろう。スポーツは、勝っても負けても、諦めが肝心だ。

それにしても、応援合戦は迫力があった。当然、応援している人びとは試合を見ているわけにはいかないのだ。とくに、味方の選手が活躍していればいるほど、観戦できないことになっている。応援は、本体を観ないという空虚さを、本質としている。

これはすごい状態なのではないかと思われる。わが師N先生の教えを援用するならば、応援というのは、スポーツの表す「メトニミー(換喩)」の一種であって、野球全体のなかに、もう一つの小さな別の世界が喩えとして作られることなのだ。それに参加する人は、野球はできなくても、横に広がって、人と人とを結び付けていくのだ。

これに対して、観戦解説というのは、同じく野球そのものではないにもかかわらず、言葉をもって、深く「比喩」を構築していくのだ。

今回の試合では、「野球本体」と、「応援合戦」と、そして「野球解説」と三位一体の緊張感あふれる観戦ができて、たいへん楽しかった。夜のニュースで知ったのだが、この勝者の甲子園第1戦で当たる相手は、わが故郷信州の松商であることがわかった。(以前にも書いたが、この松商が甲子園で優勝したときに、隣に住んでいたことがあるのだ。けれども、このところは最多出場の誉れは高いが、いつも初戦敗退が続いているのだ。)

2008/01/06

「追い抜かれることの長い時間」について語るときに     僕の語ること

スポーツについては、きわめて不調法なので、これまであまりこの欄でも取り上げてこなかった。けれども、1日、2日に行われた箱根駅伝については、話題に事欠かない。

何回か劇的な追い抜きの場面が見られたが、そのなかで娘が応援していた大学の学生がいて、どうやら決定的なところで追い抜かれたらしい。妻も娘もかなり悔しがっていた。

そのときの選手の顔の表情が印象的だった。それまで、ずっと自分のペースを守ってきていて、それだけならば、そのまま自分の走りをして、確実に距離を消化でき、無事たすきをわたす事ができるはずだった。何事も起こらなかったはずであった。表情は、そう語っていた。だから、追い抜かれるという状況が信じられないし、自分のなかの想像の世界では、ありえない事態なのだ。

だから、ここで頭の中を変換して、状況に機敏に対応できていれば、たぶん表情は変わっていたのだと思う。なぜ表情にこだわるのかと言えば、じつはわたしのなかにも、この表情の経験があるのだ。

それは中学校最後の運動会で、リレーに出て、見事に追い抜かれてしまったときだ。リレーに出るくらいだから、今から考えれば、おそらくクラスのなかでも足の速いほうだったに違いないのだ。だから、まさか追い抜かれるとは思わなかったのだろう。

追い抜かれる瞬間の感覚は、交通事故で車に追突されて、時間が止まる感覚に似ている。つまり、その現場だけ、時間が極端になが~く感じるのだ。スローモーションの写真を見ているように自分だけが遅く、周りが速く動く。自分の追い抜かれるという感覚が1秒のなかに1時間分凝縮されて入ってしまい、他のことが考えられなくなってしまうのだ。目のなかには、追い抜かれる場面だけしか入ってこない。

だいたい、時間が長く感じるときは、何か悪いことが起こっている場合が多い。つまり、周りはずっと速く動いているのだ。このとき、周りと同調できれば、おそらく追い抜かれることは回避されるのだが、なかなか口で言うほど、現実は甘くない。

人生のなかで、この感覚については数えるほどしか覚えていないのはなぜだろうか。おそらく、追い抜かれても、それはすぐ終わってしまうか、追いついてカバーするかしてしまうからなのだろう。また、追い抜いたこともたくさんあったのだが、こちらのほうは終わると同時に忘れてしまうのだ。

このつぎからは、すこし追い抜かれることを楽しんでみることも必要ではないかと考えている。折角、他の人よりも、長い時間が与えられるのだから、そこで他の人には考える事のできない時間をたっぷりともらったということではないだろうか。

競走や競争をしていて、その場面で観照に入ってしまうのはまずいが、それが終わって落ち着いたら、楽しんでもよいだろう。O先生ご推奨の村上春樹も言っている。「本当に価値のあるものごとは往々にして、効率の悪い営為を通してしてしか獲得できないものなのだ。」

2007/09/15

胸を刺すようなタックル

ラグビーを観ていると、闘争心が湧いてくる。

ほめ言葉だと思うが、ある解説者が「胸を刺すようなタックル」ですね、という言い方をしていた。致命傷的で決定的な感じが出ている。

夜になると、ラグビーのワールドカップ戦に目がいってしまう。先日のフィジー対日本の試合は、わたしのような素人が観ても、良い試合だった。安定したフィジーを相手にまわして、十二分に戦っていた。

とくに、フィジーの重厚な攻撃をがちっと止めていたと思う。ときどき穴ができて、突破されてはいたが、それ以外では、身体負けすることなく、正面から受け止めていた。タックルの受け方が、確実だった。

そのときの表現が「胸をさすような」という言い方だった。良いタックルというのは、身体の中心である腰に入るものだとばかり思っていた。また、軽くタックルするのなら、足を払うようなタックルも有効だな、と思っていた。もちろん、上半身の上のほうにタックルを行うことは禁止されているので、胸というのは、やはりぎりぎりのところなのではないだろうか。

高校時代に、授業科目としてラグビーを行ったことがある。偶然にも、通っていた高校の運動場が東京オリンピックの選手たちの練習場であったために、芝生のサッカー・ラグビー場を持っていた。その芝生の上を存分に駆けた記憶がある。

試合になると、フォワードだったのでスクラムを組んだりして、かなりの運動量であった。サッカー部に属していたので、キッカーも務めていた。いまの軟弱で運動不足の身体からは想像もできないことを高校時代にはやっていたのだ、と自分でも不思議な気分だ。

無理が祟ったのか、鼻の骨を折ってしまった。「胸を刺すような」というのとは程遠いものだったが、勇ましくタックルに及んだ時に、もう1人タックルしてきて、その頭にぶつかってしまったのだ。

人生のなかで、気を失ったのは、はじめての経験だった。気がついたら、芝生の上に転がっていて、鼻血が出ていた。救急車で運ばれたのだが、次に、気がついたら、病院のベッドの上だった。すぐに手術して、鉄仮面の如くのギブスを顔に嵌め、2週間ほど安静状態が続いた。

そのときの身体と身体とがぶつかり合う音と、身体の感触は生涯忘れることはないだろう。痛いという感覚が残っているのではなく、もちろん心地よいというわけではないが、ぎりぎりの限界の感覚であることは間違いない。滅多に受けるのできない貴重な体験だった。

今日の試合は、オーストラリア対ウェールズであった。ウェールズも善戦していた。落ち着いたパス回しで、どのプレイも確実さと柔軟さが観られ、参加していなくても昂揚した気分を運んでくれた。

当たり前のようにボールがくるくると手渡されていく有様は、芸術的なネットワークを感じさせるのだ。パス回しというネットワークは、定型はあるのだが、定型にこだわらない実践的なネットワークになっているところに意義がある。敵がいることで、対応するための柔軟性が要求されるのだ。

そして、試合が終わった途端に、闘争心によって対立していた敵対関係の状況が、握手をして互いに讃えあう親和の状況に変わる。いつ見ても感動的であるばかりでなく、社会生活の基本が現れているな、と感心してしまうのだ。

社会経営研究配布中

  • 2015study

社会経営ジャーナル配布中

  • 2015journal

開いている講義    「社会的協力論」

  • cooperation

「音を追究する」第13回・第14回

  • art

「多様なキャリアを考える」第2回・第3回・第4回

  • cooperation

「グローバル化と私たちの社会」第11回

  • cooperation
2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            
無料ブログはココログ

Recommend

プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。