カテゴリー「友人関係」の投稿

2016/12/09

O先生と冬カフェ

Img_1742 O先生から「冬カフェ」のお誘いのメールが来た。ちょうど良いタイミングで、一番の、そして最も忙しい最中の冬カフェである。O先生とは、「社交とは何か」を極めたいと常日頃から言っているところなので、最も忙しい時こそ、冬カフェを行いたいのだ。忙中閑ありなのだ。原稿締め切りが迫っており、Img_1741 さらに先週から今週は、卒論・修論・博論の締め切り、審査、報告会が目白押しであり、そして、ちょうどテレビ授業番組収録が今週あって、すぐ来週早々にもまた収録が2本ある。この時こそ、カフェのタイミングなのだとほんとうに思うのだ。

 

Img_1746_2 最初、日曜日はどうかとメールを返したのだが、彼が言うには、日曜日は休息日で予定は入れないのだという、「なるほど、その通り」なのだ。それじゃ、さらにわたしのK大での講義の後はどうか、と尋ねると、彼はいつも金曜日W大のゼミ日なのだが、先週合宿を行ったので、今週はたまたまお休みだ、というので、今日に決まったのだ。Img_1748_2 わたしはK大講義が終了するのもそこそこに、東急線の武蔵小杉から、南武線の鹿島田駅へ出て、予定通りの時間にパン日和「あをや」へ着く。じつに、数ヶ月ぶりの「あをや」訪問である。

 

Img_1751 ちょうど到着したら、O先生が店の写真を撮っていたので、一緒に入って予約席へ着く。なぜか、今回も幼稚園くらいの子連れが、先客でいた。子どもはパン好きなのだ。12月のドリンクである、あったかくたっぷりのレモネードと、クロワッサンをまずいただく。Img_1750 すっきりしたところで、夕飯には、トマトスープと、サーモン&アボガドのクリームチーズサンド。O先生は、カレーのスーププレートを注文し、ソーセージをつまみに頼んだ。食後の飲み物は、O先生はコーヒーで、わたしはミルクティ。このころには、お勤めに出ていた「あをや」のご主人も店に顔を出された。わたしは初対面だったので、ご挨拶を済ませた。

 

Img_1752 O先生との会話は、彼の専門が日常生活であるので、身の回りの話が自然と多くなる。気の置けない雑談で楽しいのだ。たわいもないといえばその通りなのだが、日常のことにこそ、社交的な要素があると言えればと思うのだった。Img_1754 もっとも、ここに書くのは、差し障りのないことだけが選ばれるのであるが、実際はもっと切実なことも話題にはなっている。今日話題となったのは、まずは「カレーライス」だ。もう一つは「オレンジジュース」だ。やっぱり、たわいがないのかもしれないな。

 

Img_1757 先日行われたO先生の合宿では、昼食にカレーライスが出たのだそうだ。そのとき、なぜか、学生たちがどよめいた気がしたとのことだった。なぜどよめいたのかといえば、カレーライスというのが、小学校の頃から「わあーい」と叫ぶような特別のメニューであり、必ず「お代わり」をするのが当然なのだ、とO先生は主張するのだ。Img_1758 前者については、そうかもしれないが、後者の方は一般的ではないのではないか、と「あをや」のご夫婦もわたしも抗議を試みたのだけれど、O先生はまったく引くことなく、なおさらに強く主張するのだった。皿ものだから1杯じゃないの、と言ってもダメで、2杯以上食べると大人は太るのでは、と反証を出しても、まったく聞く耳を持たない状態なのだ。Img_1760 このように細かいところに論理の筋を探るのが、日常生活学者の道だとO先生の立場に立って考えても見るところではあるのだが。ここは倫理的に絶対に引くことのできないところだと、O先生は思ったらしいというところが、なんとなくおかしかったのだ。

 

Img_1761 「オレンジジュース」の話題は、懐古趣味の思い出からやってきた。始まりは、コーラの話だった。「あをや」のご夫婦がコーラ工場の階段が溶けたというエピソードを聞いたことがあるというのだ。ご夫婦とわたしとは、20年以上の年齢の開きがあるので、寡聞にしてそのエピソードは知らなかった。わたしは高校生の時に、じつはコーラ工場でアルバイトをしていた経験があって、その工場では古いコーラを流していたのだが、階段が溶けるということはなかった。Img_1762 それで、「ファンタ」ジュースの話に飛んで、「オレンジジュース」の話題へ移ったのだった。日常生活学者であるO先生の本領発揮であった。「チェリオ」「バヤリース」「プラッシー」「バレンシア」矢継ぎ早に、固有名詞が並んで行ったのだ。Img_1759 「ポンジュース」などと脇へそらせようとする意見には、目もくれず、ひたすら廃止された商標を追い求め続けたのだった。だからといって、何か有益なことがあったのかなどと、誰もそんな野暮なことは言わないのだ。

 

Img_1753 ついには、「あをや」の閉店時間になってしまった。奥様が来月のサンドウィッチのアイディアの一端を話してくださって、何やらまだよくわからないが、きっと美味しいサンドがメニューに現れてくることだろうと期待させられた。Img_1756_2 O先生は奥様と一緒に、「あをや」のクリスマスディナーへ参加するそうである。また、春カフェで会いましょうと言って、JR川崎駅で別れた。Img_1740_2

2016/08/11

松本で、O先生と夏カフェ

Img_4457 朝、信濃大町のいつものバス停のそばを通ると、外国人の男女がコミュニティバスを待っている。視線に入ってこなければ気にはならなかったのだが、今日は「山の日」の祭日なので、このバスはお休みのはずなのだ。Img_4459 旅支度の様子からして、時間はそれほど気に留めないタイプの方々だなとは思ったのだが、ここで待っていて、気がつく頃には半日は経ってしまう。Img_4460 ちょっと差し出がましいとは思ったが、ひと声かけて、異なる路線のバス停を教えた。結果としては、良かったらしく、そのまま松本駅まで、わたしと同じバスと電車だった。早めに旅を進めることができて、感謝されたのだ。

Img_4462 大糸線では、信濃大町駅を出発して、一駅ごとに気温が上昇していくようだった。松本駅へつく頃には30度を超えていて、夏の日差しが厳しい。O先生との約束は午後の1時だったので、それまでカフェ書店の「栞日」でカフェオレを取ることにする。Img_4463 ここはちょうど1ヶ月前に、以前店のあったところから、5軒先の広い建物「高橋ラジオ店」跡へ移転したばかりだ。ここ数ヶ月で、新しい喫茶店開店と、書店とギャラリーの移転と活版印刷スタジオ新設、新装ホテル開業にレンタル・自転車と、さらに今月初頭の木崎湖で行われたImg_4466 「アルプス・ブック・キャンプALPS BOOK CAMP 2016」(野外ブックフェア)主催と、栞日のご主人は八面六臂の大活躍だ。

Img_4464 店の周りを見ると、じつは小学校時代の友人宅がすぐ近くにあり、そしてわたしの幼稚園時代には、ここから数分のところに両親が家を借りていて、この店の前にある銭湯「菊の湯」へ毎日通っていたのだ。懐かしいな。Img_4467 この辺は、清水の源泉が常に出るので、銭湯の帰りにはその清水で冷えた壜牛乳を飲むのが習慣となっていた。「栞日」の二階から眺めると、当然銭湯も様変わりして、建物も近代的な様相に変わってしまっていた。半世紀以上前のことだものな。

Img_4465_2 栞日の1階には、新しい店へ移る動機となったという「活版印刷機」が置かれ、さらにブックフェアのスペースを挟んで、ベンチタイプの客席がゆったりと作られている。そして、奥にカウンターがあって、カフェオレをここで注文した。

Img_4469 活版印刷機は半世紀ぐらい使われ続けたものだそうで、思ったよりも大きい。機械の隣には、この印刷機のためのインク缶、さらに活字が書体・ポイントごとに置かれていた。将来ここで、小冊子を作りたいという希望をわたしは抱いていたのだが、残念ながら、当面チラシや名刺を作るだけで、冊子印刷は考えないそうだ。Img_4470 基本的な技術さえ習得すれば、あとは誰でも動かすことができるとは、ご主人はおっしゃっていたけれども、実際に活字を組む時には、時間がかかるのだろうなと想像するのだった。印刷機と活版印刷のスタジオという、いわば店の「シンボル」を持ったことで、実際の印刷もさることながら、栞日は新たなカフェ書店の理念を獲得したと思われる。

Img_4472 中央のブックフェアのスペースでは、東京蔵前の出版社「アノニマ・スタジオ」の「旅する灯台」展(日本の各地を照らすという比喩だろうか)を開催していて、同社が展開する料理本や野菜本、詩集、絵本が平積みされていた。Img_4532 英国のP.L.トラヴァースの「メアリー・ポピンズ」のシリーズで、『台所のメアリー・ポピンズ』を購入。家に帰って、娘にメールすると、幾つかのレシピを送ってくれれば、そのうちこのトラッドな料理を作ってくれるとのことで、さっそく「アイリッシュ・シチュー」などを送る。この本には、お話と一緒に、料理ノートがついているのだ。

Img_4461 2階へ上がると、壁一面に古いたんすや書棚がランダムに取り付けられていて、そこに書店の書籍が並んでいる。東京でも簡単に手にはいらいないような地方誌や、生活誌、デザイン誌だ。見逃していた建築雑誌「住む。」や日本民藝館が発行している「民藝」などを手にとって読む。Img_4471 ここにも、幾つかのアンティクの椅子が置かれていて、やはり「教会の椅子」も置かれていた。長野で座ったタイプと似ている。聖書や聖歌集をちょっと入れておくような、木のポケットが素敵だ。

今日、この2階では二つの活動が見られた。このような使われ方が、今後のこの店の活動を支えていくのだろう。Img_4475_2 一つは、近くにある市民のための音楽や演劇などを興行する会館の関係者だろうか、スタッフと思われる方々が事務所代わりに、ミーティングを開いていたのだ。Img_4477 何やら難しそうな話をして、顔突き合わせてアイディアを出しあっていた。この方々もたぶん、わたしと同様に、世の中がお休みの時に忙しい人たちなのだ。

もう一つ、2階には、喫茶店の客席部屋以外に、もう一部屋がギャラリーになっていて、その展示準備が行われていた。これから展覧会「Travelling with Spices」が始まるとのことだった。女性の写真家と画家のコラボ展覧会で、テーマは「spices」、インドの旅のことらしい。Img_4480_2 展示されていた一枚の絵の中に四角い窓が真っ白に描かれていて、真ん中なのに余白といった雰囲気をもたらしている。さて、ここに何を描きたいと思うか、と話しかけているようである。もう一枚の絵には、昔懐かしい路地が建物で囲われているという、インドの原風景が描かれていた。この画家の方は、注文でも絵を描くことがあって、肖像画の依頼もあるそうだ。Img_4473 1号が数千円からとおっしゃっていた。これらの展示から察するに、基本的には暇を楽しみつつも、なおかつそれを仕事にしている方々だと思った。

Img_4474 後ろから声がして、待ち合わせ前なのに、なんとO先生が現れた。午前中の卒業生との約束がキャンセルになったそうだ。これで松本滞在中、彼は栞日に毎日来たことになる。さらになんと、この栞日が主催する「アルプス・ブック・キャンプ」のオリジナルTシャツを早速着て登場したのだった。「旅する灯台」どころか、「歩く広告塔」ではないか。すでに日程が終了したキャンプとはいえ、来年の宣伝には十分に貢献することになるかもしれない。

Img_4490 この9月に取材でお邪魔する、工芸店「グレインノート」の奥様へ挨拶に訪れる。その9月には、恒例の「グレインノート椅子展」が開催されているはずで、すでにダイレクトメール用のハガキが完成していた。この椅子展では、この2月に亡くなった、S氏と親しかった木工作家の日高英夫氏の追悼コーナーも設けられるそうである。Img_4487 S氏が日高氏のお嬢さんのために作った子ども椅子が、「AI」と名前が刻まれて店先に展示されていた。この椅子が十何年間にわたって、何人かの人びとを結んでいたのか、と考えると感慨深いものがある。Img_4536 Img_4535

Img_4494 昼食は、O先生が予約を取ってくださったフランス料理「コトリ」で。O先生は牛肉のソティ、わたしは阿波尾鶏ローストだ。味付けはフランス料理なのだが、和風料理の健康に良さそうなところを取り入れている。大根や人参などの付け合わせがさっぱりした味だ。今日は新しい祝日「山の日」で、上高地などでレセプションや祭典や行事が行われる。Img_4497_2 それには、皇太子一家が出席することになっている。この第1回「山の日」式典に客が取られたせいか、このランチ時間に限ってはいつもより店はすいていた。それで、O先生とは十分に親密な話ができたのだった。

Img_4500 気になっているのは、O先生のブログを見ればわかるように、卒業生たちが彼とのランチや喫茶を目指して殺到していることである。これだけの若い女性たちと会うからには、何らかの目的があるに違いないだろうとふつうは思うのだ。もちろん、年齢からして、恋愛関係は除外できるとしても、それじゃ何なのだろうか。彼女たちの親たちもきっと気にしているだろう、ということはW大卒では考えられないだろうが。Img_4499 話の中で、ある卒業生のお母様から、写真を綺麗に撮ってくださってありがとう、とお礼を言われたそうである。Img_4501 さて、会う理由は、彼の専門はライフコース論だから、その標本集めではないかということは誰にでもわかるのだが、さてその標本をどのように整理されるのか、たいへん見ものである、というようなお話をしたのだった。

Img_4502 明日からはわたしは山奥にこもって生活をするので、そのためのジャムを調達しようと、女鳥羽川沿いのいつものコンフィチュールの店「シェモモ」へ寄る。写真でわかるように、ここも改装していて、今度の店はグリーン主体の落ちついた店構えになっており、さらに店の中も、販売部門と製造部門とがガラスで隔てられている。Img_4504 フランスにある専門店をイメージしたのだとか。もちろん、ガラス戸だから双方見ることができるので、ご主人が手を休めて、調理場から出てきてくれた。Img_4528 香辛料の効いた新しい味も出ていたが、やはり定番の「バナナとイチゴ」と「ブルーベリーとレモン」をそれぞれ購入する。明日から「甘い生活」が始まる。

Img_4508_2 O先生との夏カフェは、この日差しと気温との相談の結果、喫茶店「チーアン」を最後の訪問地ということにした。この後、喫茶店MとかLとか、名前は挙がったが、ここでの二人の話が弾んだ一方、身体の方が1学期間の重労働に耐えかねていたこともあって、ここを動きたくなくなったのだ。Img_4509 もちろん、身体の事情は、わたしだけの事情で、O先生は老いて!ますます盛んで、数日前に一つの原稿の校正を終え、さらに今月中に50枚書くのだそうだ。わたしも、予定だけは今夏全部で300枚を目標に掲げているのだが、やはり身体との相談だな、と弱気なのだ。

Img_4507 なんの話が弾んだのかというと、このところここでも書いてきた「生活科学」とはどのような学問か、ということだ。じつはO先生は放送大学の同僚だったことがあり、その時の彼の担当が「生活学」だったのだ。その後、ライフコース論へ彼の関心は移っていったのだが、もしそのままずっと放送大学に彼が勤めていたならば、当然「生活科学とは何か」という、現在の論争の中心を占めなければならなかったのだ。Img_4510 それで今回、実際にこのテーマをめぐって、面白い対話ができたのはほんとうに得難いことだった。このテーマは現在の彼の関心とも決してかけ離れたものでないことも確認できて、わたしとしては夏カフェの成果を十分に感じたのだった。

Img_4514 O先生とは、中町通りで別れて、最後に寄ったのは、これも行きつけになりつつある、コーヒーの焙煎屋「ローラ」と駅前の「中島酒店」だ。すでにローラは、今日からお盆休みに入っていて、ローラのコーヒー豆はまた今度ということにして、Img_4531 中島酒店ではご推薦の新しいもので、ちょっと若い感じのワインであったのだが、長野県中野市のぶどう酒ファームのシャルドネを買う。ジャムとワインが揃ったので、当分の禁欲生活も十分に耐え忍ぶことができるのではないかと思う。

2016/07/28

馬車道のビール屋で飲む

Img_4320 大学時代の友人F氏と待ち合わせて、昔懐かしい関内の馬車道でビールを飲むことにする。東京神田に勤め先があるF氏は、仕事を終えてから、電車を乗り継いで、関内駅に着いた。

関内という駅は、分散型の駅を構成している。東口と西口とが完全に分断されているというイメージが強い。そういえば、横浜市には南北の区によって格差が広がっているという南北問題があるのと、もう一つ、中心地が横浜西口とこの関内に分かれているという、分散問題があるのだ。Img_4321 なぜ関内が横浜の中心地を占めることができないのか、という重要な問題は、横浜が東京のベッドタウンであることから生じたことなのだが、その対策が未だに打たれてきていないという事情が、関内の中心地としての地位を危うくしているのだ。関内は、東京から自由なところにあるのだから、その利点を生かすべきだと思われるのだ。

Img_4323 中でも、馬車道の特徴がここ近年削がれてきているのは、惜しい。映画館がなくなり、老舗の小売店が閉まってきている。そこで今回、たまには馬車道で飲もうということになった。まず向かったのは、関内から馬車道に入って、一つ目を左に入ったところにある、「勝烈庵」だ。とりあえず、腹拵えしてから飲もうということだ。勝烈庵のトレードマークは、棟方志功の女神像で、これを拝めば、みんな幸せな気分になる。トンカツと同じように、豊かさの象徴として役割を演じている。混んでいる1階は避けて、2階へ向かう。ちょうど夕飯にはまだ早い時間だったので、ゆったりとヒレカツを頬張ることができた。当然のように、キャベツをお代わりして、シジミの味噌汁で、どんぶり飯をたっぷりと食べた。

Img_4330 もしランチに来たのであるならば、この裏通りにある馬車道十番館でコーヒーを飲んで、午後に備えるのだが、今日はビールが御目当てなので、直接ビール屋へ向かった。ビールは、いつもの「タップルーム」でベアド・ビールの「アングリーボーイ」だ。ビールのつまみはお腹がいっぱいであることもあって、雑談で済ませた。

Img_4334_2 雑談にはテーマがないのが特徴であるのだが、取り立ててあげるならば、一つは「定年」ということが話題になった。60歳代半ばを迎えた二人にとって、仕事の転換期を迎えている。Img_4335 本務を辞めた後のことを考える必要がある時期を迎えているのだ。一つは、今の仕事の延長線上で、何かできることがあるか、ということを話した。幾つか、思い浮かんだ。もう一つは、今の仕事から離れて、何かできることがあるのか、ということも話した。

Img_4338 彼の実家は、かつて銀座に近い築地で、印刷屋さんを営んでいた。そこには立派な活版印刷機が備わっていた。それで、今回も仕事に関係ないことでは、私家版を作りたい、美しい小さな本を作りたい、ということが話題になった。互いの本の内容は、幾つか候補が上がっていたが、率直に美しい本が出来上がることを夢見たいと思ったのだった。

Img_4343 ハッと気がついて時計を見ると、12時近くなっていた。彼の家は小田急線なので、関内からは横浜線で向かい、町田へ出て乗り換えなければならない。翌日のメールで、無事最終電車に間に合ったことが書かれていた。

Img_4326 今日の椅子は、勝烈庵の待合椅子だ。トンカツが目の前を運ばれていく。それを見ながら待つために、満席の部屋の隅っこに据えられている木製のベンチだ。座板が一枚板でできている。ふつう、これだけの板であれば、これだけで三人分の体重を支えるには十分なのであるから、脚を板に直接取り付けそうである。ところが、この椅子はその辺がすごく丁寧なのだ。脚は完全に板全体を受け止める形に作っていて、真ん中にも受ける脚が通っている。この丁寧さのために、かえって職人の方のこの一枚板への思い入れを感じてしまうのだ。また、この座板がくりぬかれていて、この点でも丁寧な仕事を感じさせる。Img_4345 多分、この穴にはクッションが入ることが想定されていたに違いないのだが、それを取り除いて、この穴を強調する形で、店に置かれている。クッションが置かれなくても十分にこの椅子が好ましいと感じさせる形を保っている。

2015/06/02

O先生のお母様が亡くなる

ブログ仲間のO先生のお母様が亡くなった。お悔やみ申し上げます。

そのことは、O先生がずっとブログで書いていたので、様子はかなり克明に毎日読者には伝わっていた。食欲が無くなったあたりから、急速に体調が悪くなった様子が書かれていた。いつものブログ日記のように、淡々と記されていたので、差し迫った感じが全くなかった。それで、自分ことに引きつけて考えてしまい、もう少しどうにかならなかったのかと、他人事と思えなくなってしまうのだ。

O先生のお母様は、じつは偶然にも、わたしの母と同い年の昭和2年生まれで、また生まれた月も同じで、3月生まれなのだ。そして、これも偶然なのだが、ここ数ヶ月、生死の間を彷徨った、あるいは彷徨っていることでも共通している。(さらにいえば、わたしたちの父親の名前も漢字は異なるが、音は同じなのだ。)

母親たちの共通点は他にもいくつかあって、昭和一桁世代に共通していることが現れる。まずは、田舎から東京へ出てくるという転機が含まれていることだ。O先生のお母様の場合には、群馬県から東京に出てきた。他方、うちの母は、信州から出てきた。うちの場合には、結婚したのち、一度東京の池袋へ出てくるが、その後また、祖父の仕事を手伝うために戻り、そののち再び東京へ出てきている。わたしの母の場合には、二度の上京に表れているように、生活の安定はままならなかった時代が続いたらしい。

このことは生活の基盤に影響を与えているように思える。O先生のお母様は、蒲田に居を構えて、ずっとそこに落ち着いていたため、コミュニティのことにずいぶんと専心なさっていたようである。これに対して、わたしの母は東京に出てから、現在の千葉の住居に定まるまでに、6回も引越しを繰り返しており、結婚以来12回の引越しを行っている。東京圏でなかなか落ち着けなかったことを表している。田舎にいるときには、合唱活動やPTA活動など、地域の活動をずいぶん引き受けていて、小学校では朝登校すると、母の方が早く来ていたほど、PTAに熱心だったが、東京へ来てからは、そのような活動には一切行かなかったと思う。

このことは、おそらく父親の職業が作用していたのではないかと思われる。O先生のお父様は公務員であったため、収入が一定し、安定した生活が計画できたということだと思われる。うちの父の場合、祖父が経営していた林業の会社が倒産して失職し、その結果、東京へ出てきたので、その後も給料の安い民間の会社に勤めなければならなかったから、生活に余裕がなかったといえよう。このことは、住む場所に大きな影響を与えていたと思われる。

母と話をするとよく出てくるのは、青春の話だが、他の世代と異なっていて、第二次世界大戦のことが重なっている。祖父の家には、風呂の釜焚き場から地下室へ降りていく階段があって、そこが防空壕になっていた。何度となく、そこへ避難したことを聞かされた覚えがある。また、会社の東京支店があって、そこへ泊まって、ずいぶん百貨店めぐりや名所を回った話も、戦争と重なってくるのだ。もちろん、戦後になって、田舎から食べ物を供給しようと、リュックサックいっぱいの荷物も途中の検閲で、没収された経験も何度かあったようだ。田舎は豊かで、ほとんど食べ物で不自由したことがなかったらしい。

そして、母親たちには最近の共通点もある。それは、通院と入院だ。O先生の付き添いと入退院の記録記事は、ブログに連日載っている。他方、うちの母は、昨年の暮れに心不全で入院して、それ以来さまざまな病気が複合して押し寄せたために、未だ病院から戻れないでいる。

88歳という節目の年に亡くなったということは、生前はきわめてバランスの良い、計画性のある人生を全うしてきたのだと思われる。ご冥福をお祈りします。

2015/03/26

蒲田で春カフェ

Img_9386_2 早咲きの桜はもう散ってしまい、本格的な桜にはまだ間がある。コーヒーを楽しむにはちょうど良い時期だ。O先生から「春カフェしませんか?」という魅力的なお誘いがあり、すぐに乗ってしまった。

Img_9389 このところの彼のカフェ巡りのパートナーたちを眺めるに、20代から30代までの美女たちで、ネットワークを築いてきている。突如として、そのネットワークに老人男性の二人組のイメージが割り込むのは気が引けたが、ネットワークというものは多様性を混在させることで、ずっと発達することもあるので、生来の楽観主義を発揮することにして、いそいそと蒲田の街へ向かったのだ。

Img_9390 考えてみれば、蒲田へ下車するのは、生まれて初めてである。京浜東北線沿線の東京駅以南でこれまで降りたことがないのは、ここ蒲田だけで、首都圏の私鉄沿線ほぼすべてに住んだことがある、わたしにとっては珍しい場所なのだ。Img_9391 さっそく、O先生に駅周辺を案内していただく。NHKの朝ドラ「梅ちゃん先生」を見ていた人には、わかりやすい場所なのだろう。駅前が焼け跡の闇市になっていたところで、すこし離れて、戦前からの松竹撮影所のあったところです、との説明があった。Img_9398 そして、その闇市跡が、駅前のロータリーになったとO先生は教えてくださった。駅の両側の西口と東口にも、バスも発着できる立派なロータリーと広場がある。いつも電車の窓から、西口にある趣味雑貨の店「Y」だけは目立つので眺めていた。

Img_9394 広場からアーケードが伸びていて、カーテン屋さんなど、古くからの商店が軒を連ねる。人口の横溢さが目立つのは、アーケード街に沿って、二重、三重の商店街が発達していて、人通りが絶えないところだ。周辺部にこそ発展の中心があるという都市の核心を、未だなお、蒲田は維持していて、地方のシャッター街のあることなど、ここでは感じさせない。Img_9395 もちろん、新陳代謝はあるだろうが、まだまだ勢いがある。その勢いのひとつは、常連客の定着がある点に現れている。その典型的な店が1軒目の「春カフェ」だった。

Img_9397 商店街が輻輳している、ちょうど辻から二本目を入った通りの真ん中に、「カフェD」があった。古典的な喫茶店の構えをしており、茶色の建物の輪郭に、白い壁、そして大きなガラス窓が目立つ、中にはいると、地元の常連客がランチを食べに来ていた。印象として、オールランドな常連カフェだ。コーヒーにも力を相当注いでいるし、定食にもバラエティがあり、かつ美味しい。わたしが選んだのは、写真のハンバーグ定食で、見た目も味も洒落ていると思う。O先生はエスニック風の炒めご飯を注文した。このようにいつも常連を引きつけるものを持っており、幅広い集客能力を備えている。Img_9396 喫茶店が都市で生き残る条件は、チェーン店と伍して競争できることにあるのだが、そのためには、コーヒー店の専門性と、あとプラスαが必要なのだということだ。この店の場合、食事がそのプラスαということになるのだろう。年季の入った茶色のテーブルには、常連客たちの会話が染み込んでいた。もちろん、今日のO先生との歓談も見事に刻み込まれたことだろう。

Img_9399 2軒目の春カフェは、O先生の卒業生たちを惹きつけてやまない、スイーツ専門店の「M」だ。西口側から、環状7号線の跨線橋を通って、東口の商店街に入って行った。そして、警備員が常駐している、普通なら入るのをやめてしまうような、マンションの2階に「M」があった。Img_9402 O先生のブログで一応の想像はしていたものの、さらに上回る「隠れ家」ぶりで、一度来ただけでは到底場所がわからない。クリエイティビティ(あるいはスイーツの創造性)というものが、どのようなところで育まれるのかといえば、それは表の陽の当たる場所ではなく、陰の隠れ家で発生するのだ、という典型的な例である。隠れたところで考えられ、口コミで広がったらしい。「M」の印象は、隠れ家的だということも含めて、クリエイティブ系喫茶店であるというところだ。Img_9404 すっかり話に夢中になって、うっかりして肝心なことを聞き漏らしたが、O先生はどのように考えているのだろうか。カフェ文化論を地元紙に連載されているので、「M」について書くときに注目しよう。

Img_9403 メニューが季節ごとに変わるらしい。もちろん、定番はあるのだが、出て来る紅茶がそうであるように、初摘み、二番摘みとその時期の味を大切にしていることがわかる。イチゴやイチジクなどの果物とスイーツの仕合せな組み合わせは、この店の創造性がなせる技だ。O先生は、蒲田モダンロールを取って、わたしは、イチジクのケーキをいただく。それぞれ似合った紅茶を選ぶ。2時間ぐらい居たと思うが、次第に玄関で待つ客が増えてきたので、女性店長に挨拶してお暇することにする。Img_9408 ここの経営は、週の半分がこの喫茶店なのだが、この人気に頼るだけでなく、もう半分はスイーツの料理教室で成り立っているとのことだ。二つのマーケットの相乗効果を狙っているところも、極めてクリエイティブなところだ。いわば、大学経営で、講義だけでは成り立たなくて、必ずチュートリアルあるいはゼミナール的な授業が組み合わされているのと同じだ。

Img_9412 時間が経つのは早い。もう1軒行こうということになって、大井町へ足を延ばす。3軒目の春カフェは、線路沿いにすこし歩いて、土手からの桜並木が綺麗に続くのだが、その先にある喫茶店「P」だ。ここもO先生の馴染みの店で、温かく迎え入れられる。お気に入りの、半分の形をしたテーブル席で、外がぐるっと見渡せる、眺めのよい場所を占める。Img_9411_2 コーヒー茶碗に凝っていて、このときはウェッジウッドで出てきた。そして、途中から、ここの女性主人の方も会話に入ってきて、喫茶店談義をする。たぶん、この喫茶店の客は、スタンドの奥にずらっと並んでいる、素敵なコーヒー茶碗で静かにコーヒーを堪能することもさることながら、この女性主人の方との会話を楽しみに来る人びとが多いに違いないと思ったのだった。

Img_9409 春カフェがあるなら、夏カフェ、秋カフェ、冬カフェもきっとあるだろう。O先生と会うのは、詰まるところ、「社交」を実践するところにあるのだ。だから、何か必要に迫られて会うのだが、実際に会ってみると、実は必要はそっちのけで、会うこと自体を楽しんでしまう。次の夏カフェも会う機会を探っていて、今からどうしようかと思案しているのだ。

2014/03/18

神楽坂で会食

0318 半年振りの早稲田である。昨年の前期まで講義を受け持っていたのが、もう何年も前のことのように思えるのだが、それは原稿書きで、家に閉じこもっている期間が長すぎたからだということだろう。

文学部のプレハブだったところが、工事に入るらしく、通常口の門が閉鎖され、記念会堂の前から構内へ入った。O先生の研究室で待ち合わせて、会食しようという計画だ。彼のブログに寄ると、早稲田系の店への招待と、蒲田系の店への招待と、二つのバリエーションを持っていて、彼の卒業生たちが訪れると、どちらかへ誘っている。

0318_2 わたしの場合は、早稲田系を選んだ。店は彼におまかせということにした。じつは、会食と、もう一つ目的があって、彼がライフコース論の専門家であることを活用させていただこうという虫のいい話で、迷惑だったかもしれないが、来年度のわたしの放送大学のテキスト「多様なキャリアを考える」掲載の内容を聞いていただいた。わたしなりの内容チェックを行おうという意図もあったのだ。こちらのほうは、彼の指摘が的確であったので、諾々と進んで、各種の改良がなされた。お腹が空いているところ、嫌な顔一つせずに付き合ってくださったので、たいへん感謝している。

彼の行きつけの神楽坂の店、「スキッパ」へ行く。「スキッパ」の前までは、何回か来ているのだが、これまで早稲田大の講義日が木曜日であり、この曜日はスキッパが定休日なのだ。それで、これまで一度も入ったことがなかった。めでたく、「スキッパ」デビューということになった。今日の定食は、メインがチキンカレーで、人参などの野菜の煮物などが添えられていて、たいへんヘルシーなメニューだった。最近は歳をとったせいか、量があまりに多いと敬遠してしまうのだが、この量は最適だった。

0318_3 食事の後、おしゃべりをしていたら、女子会食やら、カップルたちやらで店がいっぱいになって来たので、続きをお隣の喫茶店「トンボロ」へ移して行うことにした。今日のおしゃべりは、「社交性」について、えんえんと話が弾んだ。彼のブログで何回も取り上げられてはいるものの、やはり生の声で会話すると、刺激の度合いが違う気がするのだ。経験というもののなかでも、実感という部分がこの社交には作用しているものと思われるが、それがこれだ、と取り出すことができないのだ。ちょっと厄介なものかもしれないが、おしゃべりというものの魅力的な部分だ。

0318_4 たとえば、O先生が実践している社交性の発揮の事例として、差し障りのないところでいえば、彼が卒業生たちと会うというのがある。なぜか、いつも卒業生たちが早稲田を目指して上京したり、仕事を抜け出したり、家庭から出て来たりするのだ。そしていつもブログに登場するのは、女性の「美人」卒業生なのだ。男性はほぼ訪れない。「美人」だから訪れてブログに登場するのか、それともたまたまブログに登場する卒業生が「美人」なのかはわからない。ここが、社交の難しいところではないかと思われる。恋愛感情を持ってしまっては、社交にならないし、かといって、まったく持たなければ、これも社交にならない。彼の卒業生との社交性とは、どのような性質のものなのか、このままではよくわからないので、どのような性質を持っていないのか、という否定的な側面から質問してみることにした。

まず、大学教授と女子学生というシチュエーションで有名なのは、映画「月の輝く夜に」のなかでのニューヨークの大学教授の例がある。毎年、教え子に手を出して、その関係が絶えず破綻するのだ。レストランで女子学生がコップの水を教授の顔にバシャとやるシーンがある。人生の中で、一度はバシャとやってみたい。なぜ男が女に興味をもつのか、という答えが、死の恐怖から逃れたいからだという形而上学的な理由を挙げている。O先生の場合、このような強い恋愛感情は、これまで卒業生には持ったことがないとのことだ。卒業生が結婚の相談に来て、もし相談相手と恋愛してしまったら、それは問題だが、それはないらしい。

0318_5 それでは、文藝春秋3月号の村上春樹の短編「独立器官」に出てくる「度会」氏のような、感情処理はどうだろうか。度会は美容整形の医師で、多くの女性と関係を持つが、恋愛感情を深くもつことはなかった。ところが、最後に思いも寄らず、深い恋に落ちてしまった。そのときに、「誰かを好きになりすぎないように努力する」という方法を思いつく。彼女のネガティブなこと、欠点を考えるようにする、という努力を重ねるのだ。さて、これについてもO先生の場合には当てはまらないらしい。このような努力をするような、ストレスを負ったことはこれまで一切なかったとのことだった。

それじゃ、なぜ女性の卒業生たちと会うのか、結局は堂々巡りなのだが、「社交性」のためだ、というところに落ち着くのだ。ほかにも、いろいろな社交性の事例が出て来たが、まだまだしゃべり足りなかった。

0318_6 トンボロでは、いつも酸味系のブレンドを注文する。相変わらず、このコーヒーの酸味は抑制が効いていて、素晴らしいと思う。チーズケーキもさりげない味で、コーヒーの味を引き立てている。ふたりとも名機のカメラを取り出し、コーヒーを撮るついでに互いを撮り合った。こちらのブログには、O先生が掲載され、O先生のブログには、でかでかとわたしが載ってしまった。ここでは、写真の社交性を暗黙のうちに追究した結果になったのだが、それ以上になんとなく、いわく言いがたい変な社交関係が、今後繰り広げられる可能性があるのでは、ときわめて危惧し、また楽しみにもしているのである。

2013/12/05

K氏を悼む

人がいなくなるということK氏を悼む)

じわじわと効いてきて、

さまざまな感情の重なりと広がりとが

全身から出てくる。

それでも空の状態を埋められなくて、

じつに困ってしまった。

おもわず出てきてしまう感情には

いろいろなものがあることは

年輪を重ねてきてわかっていたつもりだったが、

どうもそううまくいかない場合もあって、

とことん知らされることが起こってしまった。

このような経験は初めてだ。

そもそもこのじわじわした感じは

いったい何なのだろうか。


頭でわかっていて、

心で感じることができないことが

たくさんあることは、

人生の永きにわたって

思い知ってきたはずなのだが、

どうもそういう訳でもないらしい。

これまでも想像力を総動員して補えば

どうにかなるようにも感じていたのだが、

そういうことでもないらしいし、

そううまくもいかないらしい。

そうじゃなくて、手の先から足の先まで

震えるような感覚があるのだ。

何とも言えないような感覚が伝わってくるのだ。


何度も何度も繰り返し襲ってきて、

そのことしか考えられなくなる。

そんな空の時間に出会ってしまって、

どのようにやり過ごそうか

ほんとうのところ、困ってしまっている。

彼が言うには、場面を転換するには、笑いが必要だと。

ふわふわした手を差し伸べて、

別れ際に何かを伝えようとしたのだ。

何のつもりかと問う暇なく、こちらも手を握りしめた。

彼はすでにいない。とすると、

その笑いは空に消えてしまうほかない。

オキノームで混濁して、このまま眠ってしまう瞬間だ。

それでも、笑いが必要なのだろうか。

試しに、わっはは。わっはは。

空を舞う飛行機の中には、雑音が漂っているだけだ。

ザーザー、ザーザー、ザーザー。

大津上空をいま通過した。

この雑音のなかにも笑いは見つかるのだ

と、空にいる彼は言うのだろうか。

笑いの端から、漏れていく物が見えるのだ。

はみ出して、笑いとともに、こぼれ落ち、

ぶらぶらと漂うものは、いったい何だ。

雑音は過剰に響いて、こぼれ落ちた物たちを

さらに笑いへ誘う。

だから、このこぼれ落ちた物たちが、

一生懸命に場面を転換させるのだ。

コミュニケーションが通じているときよりも、

うまくいかないときの方が、コミュニケーションは

強く現れるのだ。

昨日まではそこにいて、かっちりとした枠に

入っていた物たちよ。すでに、忘れられた笑いが

君たちを解放してくれるのは何時のことだ。

この時間に世界が笑いとともに拡大され、

ほんとうならば、もう消えてしまうかもしれないものも、

生き返らせて、目の前に現われてきた。しばらくは、

彼の幻影である、枠の広げられた世界を

まだまだわたしたちは生きることになるのだ。

 

12/5/2013


K氏担当の編集者ブログへのリンク

白澤 未来社


2013/11/24

夜のクラス会へ出るために、三軒茶屋を散歩する

渋谷を歩いていると、ときどき人の多さに驚き、なぜ同じ方向へ向かって、これほどたくさんの人波が動いて行かなければならないのかと思って、嫌になってしまう。「人口減少社会」ではなかったのだろうか、と叫びたくなるが、そんなことを叫んでしまうと、人口減少がどこで起こり、人びとはますます集まるところに集まるのだ、という真理を理解していないと言われてしまうので、決して口には出さないのだが、それにしても、渋谷の人口は多すぎる。


Img_0025田園都市線へ乗り換えて、数分で三軒茶屋へ着く。こちらの方面に友人たちが下宿していたときには、玉電のおなじみだった卵形のユーモラスな車体を揺らした電車に乗って、三軒茶屋へ出たのだが、やはり学生時代以来、遠のいてしまった街であった。しかし、有名な喫茶店がいくつかあって、気になる街だった。


Img_0026今年から、高校時代のクラス会が年1回開かれることになって、その第1回目なのだ。三軒茶屋という場所を選んだのも、効果的だったと思う。現在の電車は、地下鉄に変えられ、三軒茶屋始発の路面電車も、ご覧のとおりのモダンな車体を見せていて、当時の面影すらない。ヨーロッパ風のトラムカーに変身してしまっている。けれども、相変わらず三軒茶屋の街は路地が発達していて、廃止になってしまった映画館や、昔のアパート群がまだその姿を晒していて、面白さを残している。


Img_0027その路地のひとつに入って、店がランダムに並んでいる一角に、ほとんど目立たない看板が階段にちょっと寄りかかっている喫茶店が、今日のお目当ての喫茶店だ。このさりげなさ、目立たないことが、良い喫茶店の条件なのだ。初めての人が、この階段を登って見ようと思うだろうか。そして、あのすすけたドアの内側にどんな世界が広がっているなどと、誰が想像するだろうか。それは、常連だけが知っている。


Img_0031じつは、京都にEという、これもまた四条河原町近くに在りながら、一度では絶対に見つからないような、階段を登っていく喫茶店があって、その店の姉妹店がこのMという、喫茶店なのだ。早速座って、マイルドそうなコーヒーを頼んで、目のまえで、ぽたぽたと淹れてもらい、今日のコーヒーにありつく事ができた。京都での味が蘇って来た。


Img_0034一人で来ても落ち着くところが、都会では意外に少ない。ましてや、一人で来て、だれかとおしゃべり出来るようなところは、ほぼまったくないだろう。この喫茶店だったら、すこし常連になれば、そんなことも可能になりそうな雰囲気を十分に持っている店だ。近くにあれば、このことを試してみたいと思わせる雰囲気を十分に持っている。あのドアを開けてみる勇気があれば、この室内の満員の雰囲気もきっと慣れてくるだろう。


Img_0036クラス会はスペイン料理の店で行われた。お腹がいっぱいになるほど料理が次から次へ出された。このところ、ワインを飲み過ぎて、体調をおかしくすることが続いていたので、今日はすこし控えめにしていた。それで、おしゃべりに精を出すことができた。担任の先生だった、K先生はわたしたちより20歳は年上だろうと思うのだが、いつもながらわたしたちより丈夫で、元気いっぱいだ。K先生には、じつはわたしの妹も、こちらは大学時代だが、教わっていて兄妹でお世話になったことを先生は覚えていらっしゃった。それから、いつも長くおしゃべりするKさんとは、席の抽選で、偶然隣り同士となって、音楽の話を聴く事ができた。まだ当時はそれほど有名ではなかった世界的な指揮者の演奏会へ、中学校時代の友人同士3人でいって、あまりに感動的だったので、楽屋へ押し掛けた。ところが、会ってみると、かなり威圧的な応対でがっかりしたのを思い出したのだった。

Img_0037このクラスには、同級生夫婦が二組いて、その二組が卒業時からクラス会の基底を作っていてくれる。そのために安定した会が開かれているのだと、わたしは思っている。今回はMさんとTさんが幹事で卒ない運営だったが、T夫婦がそれを支えていてくれていた。それから、もう一組の夫婦Sさんの家へは、その昔クラス会の後、皆でお邪魔して、朝までしゃべり込んだこともあった。


みんな席を変えて、あちこち移動しながら、おしゃべりを楽しんだのだが、ある瞬間に、高校時代の「京都・奈良修学旅行」で行動を共にした、グループ班(ここにはS君、H君、M君さらにSさんの奥さんも一緒だった)が偶然そろったときがあって、当時の小さなグループ行動に話題が集中した。たくさん訪れたはずなのに、なぜか「浄瑠璃寺から室生寺」コースがみんなの印象に残っていたのも、不思議な現象だった。ほかに、嵯峨野の龍安寺から落柿舎、祇王寺など有名どころを回ったり、高雄の高山寺・神護寺へ行ったり、さらには、滋賀の石山寺にまでも行ったと思うのだが、なぜ浄瑠璃寺なのか、と思うのだった。たぶん、寺の説明や、説法を聴くのはみんな拒否して、自分たちの会話を楽しんだ修学旅行だったのではないだろうか。だから、岩船寺・浄瑠璃寺コースでは、歩く距離が長く、その過程でみんなおしゃべりを楽しんだから、記憶に残っているのだと思う。

このころまでには、自制していたワインも、堰を切ったように喉へ流れ込んで来て、この店のスペイン産の白が美味しいことも判明したこともあって、相当たくさん飲む波目になってしまった。最後には、ちゃんと皆と別れて、電車に乗ったつもりなのだが、渋谷の混雑を抜けたところで、あとから出たはずのKさん、Iさん、Nさんに呼び止められて、渋谷の人の多さの中でも、呼び止められるほどに、見方によっては人口もたいしたことがないのだと、酔っぱらいの変な認識に落ち着いて、納得してしまい、東横線に飛び乗ったのだった。


2013/07/26

渋谷でのトークイベント

なぜもっとたくさん話し合っておかなかったのだろう。ということが、人生にはままあって、その数が多いだけ、その人の人生の密度は濃くなる可能性があるのだと思われる。そして、それを問題にした分、そのまま通り過ぎるよりは、より深いところに辿り着くような気がする。

今日は、興奮して眠れない。O先生の著書『日常生活の探究』を巡ってのトークイベントが、渋谷の東急百貨店内にあるジュンク堂で開かれた。O先生を囲んで、H先生の司会で、わたしが脇を務めた。関係者を含めて30名ほどの方々が駆けつけてくださった。O先生やH先生のゼミ生もいたが、放送大学の学生の方も少ないながらもいらっしゃった。また、放送大学叢書の責任者M先生もあいさつをしてくださって、さらに担当の放送大学I教務課長も手伝ってくださった。叢書を出版しているS社の方々も、総出でお世話いただいた。感謝申し上げる次第である。

O先生の著書であるから、他人のことだと言うわけにいかない状況になった。最初に、O先生がご著書の内容を詳細に語ってくださったので、どのような内容の本なのかを聴衆の方々は、かなり理解していて、そのあとどのような切り口でもトークイベントは始まりそうな雰囲気が満ち満ちて来ていた。

H先生がブログについて、話題を振ってくることは予想できたので、その話題に入ってしまうと制限時間がすぐ経ってしまう。それで、多少ゲリラ的ではあったかもしれないが、その本題の前に、ちょっとわたしの関心から始めさせていただいた。

それは突き詰めれば、「感性」の問題をどのように描くことができるか、ということではなかったかと思う。この本『日常生活の探究』には、もちろん感性以外のことも書かれているのだが、やはり中心は、感性とどう向き合うのかではないかと、思ったのだ。

たとえば、O先生は日常生活では、「プレゼンテーション(自己呈示)」が必要で、3つの自己呈示(まともな人間、有能な人間、愛される人間)が可能であると著書で書いている。3つの自己呈示が複合されて、社会的人間としての承認が得られるのだ、とおっしゃっている。すぱっと、ここに到達しているわけではないにしても、これは社会科学にとって、「愛される」などの感性を中心に据えるのはすごいことだと思ったのだ。

わたしとしては、経済学と社会学の違いが、ここに現れているのではないかと思った。経済学の場合には、近代社会の影響が激しいので、ダイレクトに「愛」などの感性を取り上げるのは憚ることになっていて、効用や満足などの媒介を経て、間接的に扱うことになっている。感情を扱うようになった行動経済学や経済心理学の立場からも、心理的バイアスとして扱うことはあっても、それは「バイアス」という言葉を使うことからわかるように、偏向したものとして取り扱い、合理的な関係をまだ重視している。

これに対して、社会学では、すぱっと直接斜めから論じてしまっていて、これは何なんだよ、とわたしからすれば、そういうことなのだ。ところが、これは社会学では当たり前の方法で、多少ズラして使われるにしても、それほど不思議な方法ではないことなのだ、というお二人の受け応えなのだった。

もう一歩攻めてみた。じつは、今回のO先生の本と、H先生の書いた山田太一論である『敗者の想像力』の両方に共通に取り上げられているテレビドラマがある。1970年代後半に書かれたNHKドラマ「男たちの旅路」のなかの「シルバーシート」である。

老人ホームに住んでいて、誰にも相手にされなくなった「老人たち」が、路面電車を乗っ取る。そこで鶴田浩二演じるガードマン「吉岡司令補」と、水谷豊、桃井かおり演じる部下のガードマンたちとのやり取りがドラマの後半に起きることになる。なぜ老人たちは路面電車を乗っ取るという、あまり意味のない、とんでもないことをしでかすことになったのか、が問われることになる。

この老人たちのキャストがすごいのだ。笠智衆(門前)、加藤嘉(辻本)、殿山泰司(曽根)、藤原釜足(須田)、それにドラマの中では、この事件のすこし前に亡くなってしまう本木を演じる志村喬という面々である。この事件は、まさにこれからの日本を象徴することであるし、このようなドラマが、すでに1970年代に名優たちによって演じられていたということ自体が驚きである。この電車ジャック事件とは、いったい何なのか。

O先生の説明は、次の老人たちの言葉を選んでいることから、明瞭である。

門前「自分を必要としてくれる人がいません」

辻本「ただ世間の重荷になっちまう」

門前「私は、人に愛情を感じる。しかし、私が愛されることはない」

辻本「仕事をしたくても場がないし、力もない。大体、仕事に喜びを感じなくなってくる。名誉なんてものの空しさもわかってくる」

門前「もうろくがはじまったかな、と思う」

辻本「しかし、自分のもうろくは自分ではわかならい」

門前「使い捨てられた人間です」

つまり、高齢者は、社会の中で、O先生が主張する、「まともな人間、有能な人間、愛される人間」という積極的な自己呈示が難しいのだとされる。このために、彼らには理由なき不安定が起こり、いわば「存在論的不安」が生ずるのだと説明されている。

これに対して、H先生のこのドラマの解釈には、すこしズレが入っている。H先生が切り取っているセリフは次のところだ。吉岡「こんなことをした以上、通じても通じなくても、みなさんの思いを表に出て言いなさい。(中略)でなければ、すねた子ども子どもが押し入れにとじこもったのと変わらんじゃありませんか」門前「すねて押し入れにとじこもった子どもです」と認めてしまう。それで、このドラマで何が言いたかったのか、とH先生は問うている。

もし彼らが堂々とこれこれが要求だ、と言えるのであれば、公的市民としての権利と資格を獲得してしたことになってしまうのだが、そうではなく、権利と資格の失われた者をそのままで認めることが可能か、と脚本家は問いかけているのだと主張している。それは日常生活の示す不条理だとまで言っている。老人が吉岡に言う「お前も年をとる」というセリフに現れているように、ただその事実のみが残るだけだ。いわば、負けることをあるがままに認めることで、何らかの救いとでもいうようなものが生まれる可能性のあることを、脚本家山田太一は発見したのだ、とH先生は解釈している。

でも、ここで「あるがままに認める」の「認める」は、誰が何を認めることなのか、という問題があると、わたしには思える。負ける人自体が認めるのであれば、それは自己満足あるいは、もっと良く解釈するならば、「悟り」とでも言えるような境地に到達できたということだろう。このような、「あるがままに認める」方式が、感性への普遍的な対処と考えているのではないかと、疑問を持ったのである。

「あるがままに認める」のは誰か、ということには、もうひとつの可能性がある。それは、負ける人ではなく、社会それ自体である。社会が、その人びとが負けてはいるけれども、かれらの存在自体を否定されたわけではないことを「あるがままに認める」ことができる可能性がある。社会が人の負けた状態を、あるがままに承認することができる。すこし乱暴な解釈かもしれないが、事件を起こした老人たちを警察が逮捕することも、いわば社会的承認のひとつともいえなくはないのだ。もっとも、そこまで行かなくても、吉岡たちの説得に老人たちが応じていれば、ここでは立派な社会的承認が行われたことになるだろう。あるいは、小説家や脚本家がこの話題を取り上げること自体、消極的ではあっても、ひとつの「承認」といえる。どこまで、降りるのか、が問題なのだ。

それで、この電車ジャック事件について、どのような感性としての位置づけを与えるのか、がここでの社会学的問題だと思われたのだ。O先生はこの「存在論的不安」に日常の感情という位置づけを与え、H先生は「あるがままを認める」可能性を指摘し、日常の不条理という位置づけを与えている。ここで共通に指摘されていることは、社会の「ひとつ下のレベルへ降りてみる」式な方法である。不安や不条理という感性は、日常の中では、ふつう潜在化していて、観ることができない。けれども、ひとつ降りてみることで、認識の可能性が出てくるのだ。

もちろん、降りてみたところで、状況が急に変わるわけではない。また、解決方法がすぐに見つかるわけでもない。それでも、ひとつの社会科学的認識を開いていると、わたしは思う。O先生とH先生にとっては、すでに会話済みのことで、改めてイベントの場で話したいとは思わなかったのかもしれない。それでトークイベント会場では、わたしの立場上、挑戦的な言葉を選んで述べさせてもらったが、それは決して批難しているのではなく、大いに賞賛していることを逆説的に言いたかったからだということは、十分にわかってもらえただろうと思うのだ。

トークイベントの話題では、他に「ブログとツイッター」「孤独」、そしてO先生ゼミ生によるフラッシュ・モブ的な「電車内しりとり」「電車内輪唱」などが面白かった。また、O先生のブログでたびたび話題になっている「定食屋」についての議論も盛り上がった。

トークイベントの様子については、O先生のブログでも言及されている。

http://blog.goo.ne.jp/ohkubo-takaji/e/7d793e96dff2724656d8de2cbee47b0c

2013/06/25

友人が集まる

Photo_32福井から京都へ戻る。ずっとその間も、仕事は付いてまわってくる。この時期は、学期ごとに通信制の大学特有の通信問題への添削があって、今日もねじり鉢巻で、ボールペンのインクが無くなるほど、書きに書くまくっている。だんだん疲れがたまってきて、観るほどに悪字がさらに乱れてしまう。Photo_33 丁寧に書いても、悪字は悪字なのだと諦める。受け取った学生の方には済まないが、この答案が関西出張の間に書かれたことを、答案から聞いていただければ、と思うが、事実はこのとおりなのだ。

Photo_35 昼食まで頑張って、いつもこの宿に泊まるときに訪れるカフェ「K」へ滑りこむ。ちょうど窓際のカウンター席が一つだけ空いていて、腰を落ち着ける。目の前には文庫本が並んでいて、仕事を続けるには、ちょっと気が散ってしまうのだが、それでも何時来ても、Photo_36 気の置けない雰囲気がある喫茶店なのだ。ランチのスープとパン、そしてコーヒーを取ることにする。

Photo_37 旅行に出ることは、日常的ではないことを行うためにでるのだから、このような落ち着ける場所を見つけてしまうことは、旅行の趣旨と矛盾するのだが、そうはいっても、これほどたびたび同じ宿に泊まってしまうと、やはり近所にいつも行くような場所をみつけてしまうことに、Photo_38 つまりは、旅行にあっても日常的な場所を求めてしまうという習性が、人間にはというよりも、わたしにはあるらしい。

さて、年を取ってくると、昔の友人と会う楽しみがあると思う。それは単に、将来どうなるのか、とその昔想像していたことが、ほんとうのところ、実際にどうなったのか、というありきたりの関心を満足させるというよりは、むしろ年を隔てて、新たな関係が生ずるのではないかという、楽しみもあるから、と思っている。けれども、そこで想起されて来ることは、やはり過去のことが多くて、それで記憶が蘇ってきてしまって、じつは困ってしまうのだが。

大学時代の友人たち、三人が集まった。ひとりのSくんとは、以前会ってから、10年くらいが経っている。じつはもう二人の、SくんとKくんとは、じつに大学卒業以来だということだから、かれこれ40年くらい経っていることになる。離れてしまって、違う生活をする時間の方が圧倒的に多いにもかかわらず、会えばそのまま以前の友人のままでいると言う関係は、いったい何なのだろうと思う。

三人の共通点は、大学から大学院へ進んだということと、大学1年生のときに、経済学の自主的な研究会を三人で作ったということだ。最初に選んだテキストが、なぜか「ドイツイデオロギー(マルクス)」であって、わたしにとっては、なぜ参加したのか、わからないところもあったのだ。もっとも、経済学を勉強することでは一致していたが、研究会をどのように利用するのかは、やはり三人三様だったと、後で知ることになる。

Photo_39 今回、集まったところは、Kくんの家のそばにある、「びわ湖大津館」というところで、旧琵琶湖ホテルを移築したものだ。明治期の宮殿を思わせる和洋折衷形式で建てられていて、重厚さを感じさせるホテル建築だ。広い玄関を入ると、赤い絨毯が迎えてくれる。いまは、レストランだけが営業されている。それでゆったりと、長時間滞在しても大丈夫な、ある種隠れ家的な場所である。

Kくんの奥さんも一緒に、楽しい会話を楽しんだ。印象に残っているのは、学生時代に持っていた、それぞれの個性が丸くなって出ていた、ということだった。このことは、年を取ると、丸くなるということではない。個性は、ほぼ学生時代そのまま温存されていて、40年が経ったとは到底思えないほどの、同じような会話のリズムであり、メロディーであるのだが、複雑さが増したな、という感想である。多層的な会話になった分だけ、単純さが表に出なくなったということだと思われる。

人生の多くの時間を共有した訳ではない。一緒に行動したのは、ほんのわずかの時間であったにもかかわらず、決定的な瞬間をいくつか共有したのが、友人の関係だ。決定的といっても、人生で必ずしも重要である必要はない、けれども記憶のなかではかなりの部分を潜在的には占めているかのように、思われる。この時間を超えた友人関係とは、ほんとうに不思議な関係だと思う。

2年生か3年生の時に、この三人が加わって、コンパを行い、野毛山へ向かう坂道を数人で登っていった。かなり酒が入っていて、誰かが溝に落ちたりした。こんな酔い方も学生時代だったからだ。飲み始めたら、止まらないという飲み方だ。それで、酔い方も激しくて、ちょうど交番前を通りかかったときに、Kくんが叫んだのだ。お巡りさん、過激派がいます、と巡査たちは笑って受け流してくれたけれども、当時は大学内で、たびたび内ゲバで人が死んでいる時代だった。

Photo_40 Sくんが新幹線で東京へ帰るということで、京都駅で分かれた。そのあと、夕飯を食べるために、宿の近くの蕎麦屋さん「W」へ行く。お酒を飲みながら、昨日の蕎麦が美味しかったな、と思って、今日も再び、梅おろし蕎麦を食べてしまったのだ。

Photo_42 帰り道、宿までの道筋には、老舗の店が並んでいる。先日終了したドラマ「鴨、京都へいく」に出てきそうな老舗旅館が暗くなった夜道にぬっと現れてきた。隣りの骨董屋には、今回は伊万里焼きが並んでいた。夜になっても、わたしのような観光客が引きも切らず注目する街に、どのようにしてなったのだろうか。

より以前の記事一覧

社会経営研究配布中

  • 2015study

社会経営ジャーナル配布中

  • 2015journal

開いている講義    「社会的協力論」

  • cooperation

「音を追究する」第13回・第14回

  • art

「多様なキャリアを考える」第2回・第3回・第4回

  • cooperation

「グローバル化と私たちの社会」第11回

  • cooperation
2017年2月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28        
無料ブログはココログ

Recommend

プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。