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2019/01/02

Bench 34-ベンチにも日常があって、その日常を保つことには人間と同じような難しさがある

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妹夫婦の用意してくれたおせち料理をいただくために、京葉線の駅に降り立った。駅前には、広場があり、隣接してバスの発着場がある。住人たちは駅を降りて生垣に沿ってバス停やショッピングへ向かうのだが、これらの人びとが休憩できるようにと、この風に晒された長いベンチが広場の中の植え込みに組み込まれている。ここは、通勤客たちが頻繁に通る広場なのだけれど、それだけでなく、家庭から押し出された病人や行くところを失った人びとが座るには、これらのベンチはちょうど良い場所を提供していると考えられる。


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このベンチを見ていると、日常を保つことの難しさについて、視覚的に理解することになるのだ。まず、最初の写真では、一枚の木製の板が、ずっと長くベンチの座面を覆っているように見える。けれども、当初のベンチでは、この部分は板ではなく、スノコ状の座面をもつベンチであった。それは、このベンチの隣のベンチを見れば、そのことがわかる。横に通した柱板状の木部、これらは明らかに経年の破損を負っているように見えるのだ。それから修復のときに、その上に柱板部分の破損を覆って、たぶんさらにこれらを修理することを諦めて、上から板をかぶせることで、これらのベンチを再利用しようと考えたことがわかるのだ。


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ここで、薄い板を厚い柱板の上に持ってくるという発想は、いわば弥縫策でしかないのは明らかなのだが、本格的な全体の取り替えよりは、ずっと費用がかからないと考えられたのだろう。けれども、当初は単に破損した部分だけを修復するためにだけ、この板をかぶせる方法がとられていて、破損しない部分は、上記のように、むき出しのままで放置されたのだ。


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その結果、何が起こったのかといえば、最後の写真でわかるように、木ねじの部分から始まった、修復のできないような破損が深刻な状態になるまで発展し、そこで放置されるということになったのだと思われるのだ。弥縫策が結果としてすべてに影響を与えてしまい、日常の肝心な部分すら、弥縫策的な実体を示してしまうことになったものだ。日常的弥縫策と日常的放置は、日常自体を変えてしまうのだ。人間の日常を保つのと同様に、部分を変えれば良いのではなく全体の問題が起こってきて、木のベンチの日常を保つのには、それなりに難しい問題の存在することに気づくのだ。

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