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2018年1月に作成された投稿

2018/01/21

N先生のこと

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N先生が多摩川で自死したというニュースが流れた。N先生には、1973年ごろからほぼ10数年間に渡って、ゼミに参加させていただき、公私ともにお世話になった。学問上の影響を受けて独り立ちするまで、いつもの笑顔でもう駄目かと言われてしまうところまで面倒をみていただいた。わたしたちの結婚式にもご夫妻で出席いただき、いつもこのようなときにはそうであったように、テーブルの上で箸の袋にちょっとメモ書きして、ただちにスピーチしてくださったことも思い出される。また、わたしたちの新居祝いの日にたまたま、先輩のM氏を伴って八王子の山奥までいらっしゃって、お祝いの席は其処退けで、そのとき書かれていた論文内容の話をずっとしていたこともあった。 

 

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自死ということで印象に残っているのは、80年代当時ベストセラーの『機械の中の幽霊』を書いたA・ケストラーが英国の自宅で自死を選んで、ケストラー夫人も同時に亡くなったことが、ゼミの後に話題になった。遺書も立派な、決然とした自死だった。「意識がはっきりしていることが生きていることの証しだ」というようなことをN先生がおっしゃって、うっすらとではあるが印象に残っていた。N先生の奥様が亡くなってからも、このところ何回も復活していたから、今回もとは思っていたが、やはり思い描いたように生きたいという意識が強かったのではないだろうか。

 

 

 

2c11e2828786b9ea5e3467baa1ecb50c わたしはNゼミへは横浜国大の学部3年時から入り、たまたまゼミの後に、大学院へ行かないかと誘いを受けた。高校の教員になると言ったら、何とも言えない顔をなさった。わたしが4年生の時にN先生は東大へ移ったので、その後東大の大学院へ進んだ。わたしは大学院を出た後も、しばらく傑出した先輩たちのゼミの末席へ連なっていた。ゼミでは、いくつかの社会科学の大著を読んで細部にわたって議論した覚えがあるのだが、むしろゼミの後、そのまま近くの喫茶店(当時は中庭や二階のある旧い「ルオー」がまだ本郷に残っていた)あるいは酒場へ行っての議論の方が長く続いて、そのときの楽しさと厳しさが骨の髄にまで達する記憶として滲み込んでいる。

 

Unknown3 たとえば、当時わたしは玉川上水脇の借家に住んでいて、先輩たちの下宿も中央線沿線に多かったこともあって、駒場の白い会議室で議論し、場所を変えて井の頭公園の木洩れ陽の野外でゼミを行い、その後近くの他の東大の先生宅へ寄り、さらに吉祥寺と新宿(当時「ライブラ」という酒場によく寄った)で飲み屋をハシゴした。終電車を逃してしまい、線路をとぼとぼと歩いて帰った記憶も何回かある。日常の生活の中に社会科学で考えるべきことが隠れているということも、ゼミの中ではよく言われたことだった。

 

Images1 多くの著書の中でも、わたしにとって印象深いのは、やはりN先生の最初の単著であり、わたしの学部時代のNゼミでずっと取り上げてきた『ソシオ・エコノミックス』だ。雑誌「経済セミナー」連載論文の掲載時から、講義でも聴き、また何回も学部ゼミで議論してきたことで強烈な印象が残っている。それから、なぜか社会学のT・パーソンズに一生懸命に取り組んだ時代が何年かあって、これがN先生の中で最終的に結実したのが『知性の構造』だったのだと思われる。これも大方の批評は難しいということであったと思われるが、ゼミ参加者にとっては理解できる、N先生らしい特徴の出ている書物だと思う。けれども、もし百数十冊ある著書の中から1冊だけ選べと言われたならば、躊躇なくわたしは『妻と僕』を選ぶだろう。この点は、わたしの妻とも一致したのだった。妻はこの本か続編の本の中で、「妻と僕」の遺灰が森の中にまたは海辺近くにまかれることになっていることを思い出していた。

 

亡くなることには、このような思いがたくさん湧いてきて、それらが重なって一緒にくるものだ。また、それと同時に死というものには予兆ということもあって、じつは昨日の夢の中に、かなり若い時代のN先生が何十年かぶりに現れたこともあったのだった。夢や思いだけでは対応が冷たいと言う方もいらっしゃって、ここ当分わたしの中で、死ぬということと現実にとどまるということとの差異をかなり意識して生きていかなければならないだろうと思うのだった。(画像はAmazonから借りてきました。)

左右社HPの追悼文

2018/01/14

修士論文の面接審査

Img_0658 今読んでいる北欧ミステリー「警部ヴァランダー」シリーズの中の1冊で、警部が一つの事件を終えて、疲れ切って帰る場面がある。疲れてはいるものの、事件が解決されて、多少の完結した満足感は存在しているはずである。同僚の女性刑事が呼びかける。「どこへ行くんです?」「家に帰って寝る」ヴァランダーは言った。「疲れたよ。それに悲しい。すべてうまくいったのだが」彼の声に感じるものがあったのか、彼女はそれ以上質問しなかった。というシーンが出てきて、まさにこんな感じだなあと思ったのだった。

 

修士論文を読んでいる最中は、気分も高揚してきていて、この1年にどれだけの議論をしてきたのか、と面接審査を行いながら思い出にふけるのだ。今日一日、ずっと付き合ってくださった副査のK先生はブータンから帰ってきて、そのあとずっと修士論文を読んできてくださった。メモ用紙が溢れるほどにたくさん挟まった論文フォルダーを抱えていらっしゃったのだ。面接審査では、互いに声をかなりあげて、説明し対話を行い、議論を楽しむのだが、それが済むと、沈黙と空白の時間が訪れるのだ。

 

このとき、ちょっとなのだが、物悲しくなるのだ。何というわけではないのだが、達成感と裏腹の関係にある物悲しさなのである。論文作りに関心のない、陽気な人には理解できないものだ。すべてうまく行ったはずなのに、何と無く感ずる感情があるのだ。ある種の虚脱感、空虚感なのだと思う。今まで満たされていたものが、一挙に外へ出てしまって、ここには残されていないのだ。論文としては満たされているのだが、残された頭と肉体は空虚なのだ。

 

Img_0660 このままずっと平行線を続けてくれ、交わることなく、このままずっと走り続けてくれ、そうすれば、この感情からは自由になれることはわかっている。けれども、いずれ終わらなければならないときが来ることはわかっている。だから、メソメソせずに、さあ次の言葉へ移っていこう。そうすれば、自分の外の世界のあることも遂には理解できるし、自分の内の世界から逃れることもできるに違いないだろう。

 

今回提出された論文は、完全にその通りの題名ではないのだが、次のような内容のテーマだった。

 

公立図書館における公共・民間セクターの役割

日本のPFI事業のValue for Money

ワーク&バランスと生活時間の変移

オペラ活動とNPO法人

宗教における社会貢献活動

スローシティとまちづくり

行政信頼とソーシャルキャピタル

ソフトウェア産業と成長要因

六十年代安保と政治

中国の対日経済交流

 

でも、きっと2、3日が経つうちに、修論を終えた方々は、きっと警部ヴァランダーが次のように感じた境地にまた再び舞い戻ってくることだろう。「ヴァランダーはふたたび一人になった。いままでにないほど、リードベリ(ヴァランダーの相談相手だった先輩刑事)がいないことが残念に感じられた。『どんな場合にも、あと一つ質問があるはずだ』いつも繰り返し聞かされたリードベリの口癖だ。さて、いま、彼がまだもう一つ質問できるとすれば何だろう? 何が残っている? ヴァランダーはそれを探した」というところではないかと思われる。

 

2018/01/11

人間最初の道具はどのように形成されたのか

Img_0911 本郷で仕事の打ち合わせがあったのだが、その帰りに東大総合研究博物館へ寄ることにする。ここには江戸時代に加賀藩前田家があって、その名残の懐徳門近くに、この博物館施設がある。仕事で訪れた相手の先生が親切にも地図をプリントしてくださったのだ。

 

Img_0998 ホモ・ファーベル(つくる人)という、人間のひとつの定義の根源を探る問題があるのだ。 人間にとって、最初の道具は何か。諸説があるのだが、それが何だというよりは、やはり道具というものと人間との関係がどのようにして発達してきたのか、どのようにして「人間の道具」というものになりえたのかに興味がそそられるのだ。人間が自然の状態で人間であると考えられるのは生理的な理由ということになるであろう。直立して、手を使ったということになっている。Img_0920 けれども、手を使うことから、この手の延長として、道具を使うという人工的な人間の本質が現れてきたということが重要だと思われる。

 

Img_0932 先日のNHKニュースで、東大の諏訪元教授チームが数十年かけて、エチオピア発掘を行っていて、その展覧会が開催されていることを報じていた。その筋ではルロワ=グーランが指摘したことで著名な「握斧(hand axe)」の展示が年代を追って整理されているということだった。年代を追ってとはいえ、わたしたちの常識的な尺度ではなく、人類となりつつある歴史なので、およそ300万年くらいに渡る時間の中での展示だ。

 

Img_0926 「道具とは何か」という自明のことを考える機会はあまりない。産業社会に生きるわたしたちは情報機器をはじめとして、道具なしでは生活できない状況のもとにいる。人間から道具を取り去ったら、何が残るだろうかとさえ思うのだ。今回の展示は、それを考えさせられるのだ。Img_0922 最初に現れた人類の石器として、これら写真のゴナ遺跡のものが展示されていた。これらをみると、自然に破砕された礫片と、人為的に剝片を削った石器とを識別するのは難しいではないか、というほどの「道具」がありえたことがわかるのだ。

 

Katoh_1 今回の展示の中心は、最古のオルドワン石器から、人間のデザインということが認められるとするアシュール石器への変遷で、人間に何が起こったのかという点に尽きる。この展示で強調されていることは、剝片のパターン化という点である。岩から大型の剝片が素材として剥がされ、それらがいくつかの剥離する加工技術として定着していったことを示している。Img_0976 ここでも重要なことは、素材が先なのか、デザインが先なのか、という以前指摘した「資量形相論」が出てくるのだ。先日引用したインゴルドも左右社刊『メイキング』の中で、このハンドアックス問題を取り上げている。

 

Img_0935 問題はどこにあるのかというと、それはわたしたちの想像を超えるところにあるのだ。つまり、たいがいの方は、このエチオピアのコンソ遺跡から出土したアシュール石器の「ハンドアックス、ピック、クリーパー」3点セットを見て、確かに人類が作り出したものであり、そこに一定のデザインが創造されこれに関わっているいくつかのパターンを知ることができるのだ。Img_0962 だから、これらが人類最初のデザインだということは共通認識できるのだが、インゴルドによれば、それならばなぜ300万年間に渡って、これらのデザインが数種類に止まって、あまり変わらなかったのだろうか、ということが不思議な現象として浮かび上がってくるのだ。

 

Img_0969 逆にいえば、わたしたちの現代文化の下では、数十年の間には、道具はほとんど使い古され、革新されたら直ちにまた更新されるほど、技術進歩が激しいのが、人間社会の特徴だと考えられている。ところが、300万年に渡って、不変の道具が世界中で剝片文化として維持されてきたという事実があるのだ。Img_0979 道具を生み出し、何か新しいことを生み出すことが人間の本質だということから、かなり離れた認識をこれらのハンドアックスたちは提示していると考えることができるのではないだろうか。


 

Img_0945 問題は何かといえば、つくるということが自然からもたらされた素材に対して、人間の文化的パターンを忠実に転写することという、今日の産業社会の方法と同じだと考えると、このようなアシュール文化は生まれなかったということだ。300万年もの時間がかかって移行していった石器文化というものには、このような石器を生み出すデザイン能力はあったが、それを実行できない物理的・肉体的理由が存在していたのか、それとも、物理的・肉体的能力はあったが、技術的・デザイン的能力が劣っていたか、などの難点を克服する必要があったのだといえる。Img_0905 いずれにしても、遅々として進むか進まないかの中で、素材から剝片を削り、それを制御していく知的な作業の進化過程が必要であったのだといえる。新しいものを次々に生み出す中に、人間の文化が宿るのではなく、遅々として進まない、むしろ停滞しているとさえ見えるような、100万年規模の文化の在りようの中にこそ文化は宿るのだと教えているとさえ見えるのだ。


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帰りに、エチオピアに敬意を評して、いつもの焙煎の店によって、「エチオピア・ハロバルディ」のコーヒー豆を購入して一息をついた。

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2018/01/08

ゼミ研修旅行で宇治の平等院へ行く

Img_0807 ゼミ合宿の熱が冷めやらぬうちに、論文に向かうのが良いだろう。とは思われるのだが、京都にきたからには、やはり仏様にお祈りしてから書けば、ご利益もますのではと考え、かねてより放送大学のM先生にお願いして、平等院を訪れることにしていた。Img_0806 M先生は昨年の4月から、奈良女子大から放送大学へ移って来られた。平等院塔頭の最勝院ご住職なのだ。お正月早々であったので、ご家族の方々にご迷惑ではとは考えたのだが、お話をすると、快く承諾してくださったので、ゼミの方々を連れて、午前中早々に宇治へ参拝となったのだった。

 

Img_0799 平等院の正門でM先生が出迎えてくださった。あいにくの雨がむしろ幸いして、いつもならば見学者の列がずっと並ぶところ、まだまだ少なかったのだ。正門を入って、平等院を左手に見て、まず連れて行っていただいたのが最勝院で、門がとにかく古く、紫の垂れ幕がよく似合う。Img_0798 左手に源頼政の墓があり、お不動さんのお堂が連なる。最勝院の玄関を入って、左手には苔が雨に濡れて光り輝いている中庭があり、縁側には和風のラウンドチェアが2脚おかれていて、静かな佇まいだ。奥様にご挨拶して、お茶とお団子をいただく。

 

Img_0810 平等院鳳凰堂では、あらかじめM先生が10時30分の拝観予約の切符をとってくださってあり、直ちに入堂させていただいた。鳳凰堂には、仏師「定朝」作である阿弥陀仏を中心として、雲中菩薩像52体が祀られてあり、極楽を現出させている。Img_0815 また、壁絵には、貴き人も賤しき人もそれぞれ極楽浄土へ召される図が階級ごとに描かれていているのだが、じつはどれも平等な召されかたであることを印象づけている。この壁絵を見ると、死は万人に平等であるという、平等院の名称の由来?がわかる仕組みになっているのだ。説明をお聞きしているうちに、やはり気になってくるのは、自分自身の死のイメージだ。「何もない」というイメージがこれまで占めていたのだが、「何か雲の上からやってくる」という死のイメージも悪くないことがわかる。

 

Img_0816 鳳凰堂の正面にまわる。十円玉に描かれている有名な、池に映る景色を堪能する。そして、鳳凰堂の中心に火が入ると、正面の扉に丸く開けられた穴を通じて、阿弥陀仏の顔が浮かび上がってくる仕組みに気づく。写真のシャッター音がしばし鳴り止まなかったのだ。鳳凰堂の向かって左手が宇治川の河岸段丘になっていて、その中がくり抜かれて、コンクリートで内部が固められたミュージアムが現れる。外からはまったくわからないほどの自然さだ。Img_0818 一番下に入口があって、釣鐘や雲中菩薩像を間近に見ながら、登っていくと河岸段丘の一番上にある出口に到達するように、デザインされている。印象に残ったのは、雲中菩薩像で、本堂に半分の26体があり、このミュージアムに残りの26体がある。この中で、死の行列のイメージの中でも、真っ先に現れる菩薩をじっくりと瞼に焼き付けたのだった。

 

Img_0820 これらの雲中菩薩像は、定朝の工房が制作に当たったらしい。発想からすると唐突ではあるのだが、工房製作の利点は、画一性よりも多様性だと思う。Img_0851 52体もの菩薩像を作り分けなければならない。一人で彫刻するならば、同じパターンになってしまうだろう。けれども、複数の弟子たちが腕を競い合って製作しており、その多様な像に自分を象徴するものを投影するものが必ず見つかると思わせるものがあるのだ。

 

Img_0850 M先生と奥様にお礼とご挨拶をして、門前に並ぶお茶屋さんの一つ、中村藤吉にて食事。宇治川に面していて、雨で増水しだくだくと乱れた流れを見ながら、鰊茶そばとスイーツをいただく。裏門から出ると、宇治川の沿岸沿いの歩道に出る。Img_0841 この土手道に沿って、平等院と宇治川の中間に民家が一列に並んでいるのだが、昔はおそらく平等院から直接宇治川を望むことができたのだろう。その一軒が和風に改装されて、今は珈琲店スターバックスとなっている。昔はさる方に囲われたひと(女)の住まいだったそうだ。

 

Img_0845 宇治川の奥の方に煙って観える悠久なる眺望を楽しみながら、朱色の橋を渡る。観光客がちらほらして、源氏物語の宇治十帖の舞台があちこちに現れる。宇治にあるもう一つの世界遺産である宇治上神社と宇治神社が道なりに出現する。Img_0855 ゼミの方々は、仏ばかりか神様にまでお願いしたからには、ずいぶんと霊験あらたかな論文が出来上がるのだろう。わたしの原稿についても、決して神まかせにするつもりではないのだが、ついでに成就祈願を行った次第だ。

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2018/01/07

大学院ゼミナールと懇親会を行った

Img_0767 朝起きて、京都おばんざい風の食事を摂り、いつものように部屋でコーヒーを淹れた。今日1日は長丁場になるので、ポット入りのコーヒーは必需品だ。眠け覚しだとは決して言わない。やはり、10時から夜の11時過ぎまでの長時間の議論の中では、時々ではあるのだが、エアポケットに吸い込まれる感覚の時があり、ぼーっとしてしまう。Img_0770 おそらく老化現象の一つだと思われるのだが、このような時には、ちょっとの苦味と気付が必要なのだと思っている。コーヒーを旅行先で淹れる時には、いつもはプラスティック製のロートを持ち歩くのであるが、今回は紙製のロートを用意できたので、これを駆使したのだ。

 

Img_0768 宿泊場所から出ると、冷たい小雨が降っていたので、まだ準備中の錦小路を辿って、地下鉄の四条駅に出る。徒歩5分、地下鉄5分、徒歩で3分で、駅前のキャンパスプラザへ着く。すでに、学生の方々が揃っていて、早急にパソコンやプロジェクターを準備して、机をコの字型に並べ替えて、それぞれの発表へと入っていく。

 

Img_0769 さあ、「答えはすべてこの中にあるはず。でもわたしたちにはそれが見えない」と北欧ミステリーも呟いている。それにメゲることなく、一つ一つ討論の俎上に乗せていこう。

 

Img_0772 M1の方々の今回のテーマも多様な領域に及んでいて、楽しい。また、今回の発表会には、OBの修士修了生たちも5名、H氏、Y氏、F氏、K氏、そしてTさんが加わった。さらに、卒論生も1名T氏が参加した。

 



「現代社会における消費者哲学に関する研究」

「地域における大型社会基盤事業と非公式組織に関する研究」

「貿易自由化(グローバル化)と産業・企業との関係について」

「さいたま市の第三セクターにおける考察」 

「災害における人間の安全保障」

「観光とサンゴ礁保護手段の環境経済学的研究」 

「消防小隊隊員間で共有されるソーシャルキャピタルの研究」

 

Img_0778 昼食の時間もそこそこに、議論は夕方まで続いた。今回の課題が、論文の中核についての予備的な考察を行うことということだったので、結論を意識した自分の論文へのコメントが中心となった。Img_0781 多くの方々が、転地によるゼミ開催の効果を認めてくださった。ちょうど論文作成の転換期であることも手伝って、いつもと異なる雰囲気のもとで、自分の論文作成を十分に振り返ってみる、ちょうど良い機会となったことだろう。

 

Img_0785 幹事のK氏とH氏の奮闘によって、忙しい中、懇親会の準備を行なってくださった。キャンパスプラザの1階にあるイタリアンの店「ケニヤ」が会場となった。いつもは昼食を取りに入るところだ。Img_0787 二方にガラス張りのテラスになっていて、会場は極めて開かれた感じの素晴らしい場所での開催となった。アルコール類も持ち込みが自由なので、幹事の方々が昼食時を利用して、近くまで買い出しに行ってくださったのだ。2時間の時間いっぱいまで、それぞれのお話と雑談が続いたのだった。

 

Img_0790 明日も研修旅行があるので、京都に泊まる方々中心に近くのビルの3階にあるBarにて、二次会を催した。この頃になってくると、アルコールも程よく回ってきて、雑談もいろいろな方向へ移って行くことになった。Barの静けさが、京都にいることを感じさせたのだった。わたしたちの話し声だけがガラス窓に響いているようだった。Img_0789

 

 

 

 

2018/01/06

仕事始めの京都合宿

Img_0727 今年も仕事始めは、京都からだ。修士論文審査と大学院ゼミナールが開かれる。往きの新幹線の中では、相変わらず北欧ミステリー「ヴァランダー警部」が時間を埋めてくれた。曰く「この事件には、パターンがない。自動車事故に見せかけた父親の弁護士が殺された事件と、数週間後息子の弁護士が銃殺された事件の間には、目に見える関連性はない。息子の死は父親の死の結果に続くものとは限らない。順序が逆かもしれない。リードベリーが最後の頃に言った言葉を思い出す。殺人事件の捜査で暗礁に乗り上げたときのことだ。『原因が結果の後からわかる場合もある。いつでも原因の後に結果があるわけではない。警察官は逆も考えることができなければならない』」という、仕事始めから、何やら波乱含みのスタートとなる予感があった。

 

Img_0737 今年も、不確実で、ちょっと先が闇の世界が支配している状態から出発するというご託宣だ。修士論文に取り掛かったころには、みんなが感ずるのは、このような不確実性だ。何が原因で、何が結果なのかわからない。それどころか、事実の過大な姿に圧倒され、原因・結果を考えることすら、忘れるくらいだったことだろう。このようなときに、どれだけ柔軟な考え方ができるかが、かなり重要なことだ。

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今年は、この半月間で17本の修士論文審査を行う予定になっている。まずは、関西方面の方々から提出された4本を今日審査しなければならない。多彩な論文が並んだ。

 

日本の生産力の変化と就業形態の変化と高齢化

ワイマル共和国のもとでのナチス台頭

地方空港のナイトスティ機とストロー効果

企業におけるインターンシップの有効性

 

Img_0740 放送大学では、学生が論文テーマを選択し指定するために、盛り沢山と感ずるくらい多様な論題がどうしても多くなってくるのは仕方ないことである。この中で、経済とは関係ないと思われる「ワイマル共和国のもとでのナチス台頭」がなぜわたしの審査を受けるのか、不思議に思う向きもあるかもしれない。簡単にいえば、学生はプログラム全体で承認されるので、その後どの先生が担当するのかは、かなり未知数なのだ。けれども、当時の経済的・政治的社会構造については、十分に社会経済学のテーマになりうることはわかっていた。

 

Img_0755 わたしは、阪大にいた友人の故K君がフランクフルト学派だったので、何度かアドルノやハーバマスやアーレントの議論は行っていて、今回も昔懐かしい議論を振り返ってみたかったということがあったのだ。それを楽しみにして引き受けることになった。Img_0746 今回の論文の作成者Ka氏は期待通りに、大著を次々に読みこなし、それらを丁寧に読み解いて、緻密な修士論文を完成させたのだった。Img_0753 近年の海外文献を多少議論し残したのは残念だったのだが、それでもわたしにとっても、たいへん興味深い内容の議論ができたのだった。わたしにとってもK君との思い出が至る所で呼び起こされて、不思議な体験を何回も受けたのだった。論文作成には、このような覚醒の効用のあることも知ったのだ。

 

Img_0749 今日はまだ4本だったので、夕方の京都散歩を楽しむ余裕ができた。K君と会うときに利用していた料理屋が、またオーナーが変わっていて、地元のビールを出す店になっていた。様子を見ながら、いつも座った賀茂川に近い中庭に席を占める。一乗寺ブリューワリーという地ビールIPAを頼み、K君との議論を思い出したのだった。ビールは旨かったのだが、ピザがそれほどではなかったので、場所を変えて食事を探す。

 

Img_0757 一人で食事をするところは限られていて、やはり長く落ち着けるところにおさまることになる。年末にも過ごした姉小路のKocsiへ向かう。4人掛けのゆったりした席を一人のために用意してくださった。ここの食事は、パンを基本としていることもあって、スープやシチューなどの日替わり料理が多いのだが、中には今まであまり挑戦したことのないものもメニューにあって楽しめる。Img_0759 今回はアヒージョを選んだ。「ベーコンとキノコのアヒージョ」で、ニンニクの効いた汁にパンをつけて食べたら、という趣向だ。グツグツと煮えたぎった小皿が届いて、オリーブオイルがたっぷりと入っている。Img_0762 本来のニンニクの強烈さは、実は次の日になってようやく身体に現れるほど、密やかなものだった。この料理でも、そして今年全体を占って見ても、「原因」と「結果」が後からわかるような、一年の始まりとなったのであった。Img_0731_2 Img_0734

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2018/01/01

謹賀新年

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『貨幣・勤労・代理人』(経済文明論)

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社会経営研究配布中

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社会経営ジャーナル配布中

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プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。