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2017年9月に作成された投稿

2017/09/20

グレインノート椅子展を観る

Img_8460 あずさ5号で松本へ降り立つ。駅で感ずる、すうっと入ってくる風に秋だなと思う。今日、水曜日は松本市全体がほぼ休業日となるので、観光客も少なく感ずる。けれども、それを知らない外国人がかえって目立つのだ。考えてみれば、わたしも地元の人からは外国人と見られているのかもしれないと思うのだった。

 

Img_8461 グレインノート椅子展は公式には第10回を迎えている。わたしはここ3年ほど前からようやく通いはじめているのだが、毎年新作が出て少しずつ趣が変わってくるところが良いのだと感じている。「少しずつ趣が変わる」法則性というものがあって、その年には「座編み」が座板の世界の中から、一斉に出てきたり、椅子のデザインがカラフルになって出てきたりするのだ。今年も以前のものを少し発展させて、全体の流れはそれほど変わるわけではないのだが、少しずつなのだが、部分的に見るとかなりの発展が見られたものがあったのだ。

 

Img_8463 グレインノートのS氏制作のベンチは、昨年のUアームチェアの発展型なのだそうだ。Uアームチェアが魅力的であることは、わたしも放送大学の教材で取り上げさせていただいたので、十分にわかっているつもりだったのだが、Img_8495 これをみて、さらに想像力を異なる方向へ発展させていた方が顧客の中にいたということだ。世の中は広いのだ。

 

それで、このUアームチェアを発展させて、ベンチを作って欲しいという注文があったそうだ。それでできたのが、この新作のUアームチェア・ベンチなのだ。確かに、Uアームの肘木を受け継いでいる。つまり、特徴ある曲がり方と形状はUアームチェアの遺伝子を継いでいる。Img_8505 けれども、本来のUアームチェアの肘木は、たいへん細いので、背部分をベンチ風に長くするには、背部分を厚くする補強が必要となってくる。そして、アームを支える点も以前よりもスピンドルを多く設定しなければならなくなる。このような必然性が、少しずつUアームチェアの基本的な部分を改良し、発展させていく動因となっていることがわかる。少しずつ変わるということに必然性のあることがわかる。

 

Img_8506 そして、この少し変えたことによって、元のUアームチェアとは異なる造形を少しずつ生み出していることもわかるのだ。たとえば、座板の網部分以外にも、横のところに栗の木の木目を生かした部分が出てきて、これがこのベンチの特色となっている。デザインというものは、このようにして変化していくものなのだ。さて、このベンチがどのような場所に収められるのか、たいへん楽しみだ。このことこそ、想像力を掻き立てられるところなのだ。

 

Img_8471 少しずつ変えている点では、Y氏の編みの椅子にも、この特徴が出ている。これまでY氏は、野生的な特色を強調してきた椅子を作ってきている。そこにほんの少し変化を加えただけで、野性的であることに変わりがないのだが、野性的な印象が野に居る「貴婦人的な印象」に変わっているのが、この椅子だ。なぜ女性的な印象に変わったのかといえば、後脚を完全に45度に転ばせて、前脚から後脚への幅を極端に絞ったところに、その秘密がある。そしてまた、むき出しの背板部分を編みで覆ったところから、全体的に洒落た感じが出てきたのだといえよう。従来の男性的な椅子と、今回の女性的な椅子と、これら両方をペアで組み合わせて使う人が出てきても不思議ではないだろう。このようにして、基調は同じだが、重層的な多様性が出てくるのが、「少しずつ変える」醍醐味だといえる。

 

Img_8481 少し変えたという点では、H氏のウィンザーチェアも昨年から少し変わっている。どこが変わったのかわからないほどなのだが、座った感触が違うことがわかる。さて、これは製作者ご本人に聞いて見てようやくわかるのだと思われるほどなのだ。歯切れが悪くて済みません。でも、確かに昨年の小さくすっぽりした感触とは違っていて、少し大きくゆったりとした感じを優先させたのではないかと思われるのだが、さてどうだろうか。何れにしても、ウィンザーチェアなのだが、たいへん軽量に作られていて、それは座板を薄く削り込んだところに現れているのだ。

 

Img_8470 最後に注目したいのは、K氏のスツールだ。両方とも、じっくりと眺めるとようやく苦労した点が見えてくるような椅子なのだ。K氏は様々な意匠を組み合わせることがうまいことで知られている。たとえば、こちらのハイスツールでは、座面にレザーの柔らかい素材を配置して、座り心地の良いものとなっている。おそらくレザー部分は外注したものと思われるが、スツールというものがお尻に過酷であることを知っていないと、このような工夫はできないだろう。どうしても、木工で生きてきた人は、木工でどうにかしたくなるのだが、K氏はそれを乗り越えている。さらに、S氏にこのハイスツールの貫の作り方を聞いてみた。すると、このハイスツールの隠れた苦労が色々と見えてきたのだった。ちょっと見た目には、貫に椅子の脚が刺さって突き抜けているように見えるかもしれないのだが、そう見えるように作られているが、じつはそのような作りでは不可能なことがわかるのだ。Img_8469 それじゃ、どのようにしてこの貫を突き抜けるような脚をつけたのかが問題となるのだった。ほんとうに見れば見るほど、不思議な作り方をしているのだった。同様にして、もう一つの編みのスツールも、簡単そうに見えて、じつはウルトラC級の技術が入っていることが、それもようやく説明されるとわかるのだった。これだから、椅子を見るのはやめられないのだ。(9月16日から9月24日まで、松本市の中町通りグレインノートにて開催されています。)

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2017/09/08

パン日和「あをや」で夕食し、映画「Paterson」を観る

Img_2933 日常の一日を詩の言葉であらわしたら、どのようなことになるのだろうか。日常の変わらない一日を映像であらわしたら、どのようなものになるのだろうか。監督J・ジャームッシュの映画「パターソン」をチネチッタで観る。まずは日常ということで似合うのは、ベッドだ。というと、ちょっと違うことを想像する方もいるかもしれないが、今回の映画では、一日ずっとベッドを写していても良いくらいなのだった。S__28319755 この主人公二人のベッドでの姿は静かな日常そのものだ。歴史はベッドで作られるのはヴェルサイユ宮殿なのだが、日常こそベッドで作られるのだ。ここが平静である家庭は、日常も平静だ。ポスターがその仕合せなシーンを写している。

 

Img_2931 もう一つは仕事の日常だ。映画の中で、主人公の運転するバスが交差点を左に大きく曲がる。ウィンドウに街の日常がぐるっと映し出される。人びとが歩いている。ショッピングバッグを持っている。反対側を走るタクシーが光っている。

 

世界中から光粒子が集まってくるが、バスが通り抜けるところだけを避けている。周りはすべて日常だ。今日だけは、日常から抜け出て、ということが起こらないことになっているのだが、さてどうだろうか。

 

Img_2911 バスの運転手である主人公は、ニュージャージーのパターソンに住む「パターソン」で、ちょっとした時間に、詩を書いている。朝の6時10数分ごろ、目が覚める。妻の「ローラ」にキスをして、古い椅子の上から服をとる。最初はモーエンセンの椅子だった気がしたのだが、途中からフランク・ロイド・ライト風の椅子に変わっていた。どちらの椅子も古くて素敵だ。

 

Img_2925 詩のノートの入ったブリキの弁当箱を持って、古いレンガの街を通り抜ける。運転席で詩を書き付けると、上司がやってきて、周りの日常が流れて行くのだ。バスが出発し、時計が早回りして、乗客の会話に微笑む日常もある。

 

最初に出てくる詩は、「Ohio Blue Tip Matches」だ。食卓に何気なくおかれているキッチンマッチなのだが、マッチ箱からマッチ棒が取り出され、火が着けられるにしたがって、生の詩になっていくのだ。はじめは日常で、何か火を使う目的があったり火が求められていたりしていたのだが、それがマッチと火と人間との全体の関係に変わってしまうのだ。マッチが擦られ、炎が燃え上がるときに。Ohiobluetipmatches2boxesfullorigina

 

帰りにも同じレンガの道を通る。家に着くと郵便受けをカラにする。妻はカントリー歌手目指しての服飾つくりと、週末バザーに出品するカップケーキつくりに余念がない。この服とケーキのデザインが、以前の監督作品「コーヒー&シガレッツ」の市松模様の趣味を受け継いでいる。彼は夜の散歩に、飼い犬の「マーヴィン」を連れ、バーでビールを一杯飲み、客の悲喜劇に付き合いクックと笑う。こんな余裕ある日常もある。家に帰ると、ビールのほのかな香りを、妻のローラは好きだと言う。こんな毎日が繰り返される。

 

Img_2927 パターソンの日常とはいったい何だろう。映画のパンフレットに次の引用があった。「身の回りにある物事や日常におけるディテールから出発し、それらに美しさと奥深さを見つけること、詩はそこから生まれる」と。もちろん、兵役の写真などがベッドサイドに飾られていて、過去がちらりとのぞく場面もあって、映画には現れない日常もあることは想像させられる。なぜ彼は詩を書き始めたのだろうかということも気になるところだ。詩のシーンを通じて映画が何か描くと、ふつう非日常的なことになってしまいがちなのだが、むしろこの映画では大切な日常がかえって現れてくるのを感じてしまうのだ。少女の詩人が読んでくれる詩には、それが現れている。

 

Img_2913 監督J・ジャームッシュは、20数年まえにアメリカの詩人ウィリアム・C・ウィリアムスの詩集「パターソン」を読み、この街パターソンを訪れたそうだ。映画の主人公が「バスの運転手」であり「詩人」でもあるという、ディテールがいっぺんに浮かんだそうだ。

 

Img_2914 詩の好きな人であれば、映画の最後に出てくる「The Line」という詩には、きっと涙することだろう。この「1行(Line)」には、ドラマが凝縮されている。わたしたちにも、いつもこの「1行」が与えられていて、みんな気づかないかもしれないのだが、じつはそれぞれのノートに、ほんとうは書き込まれているのだ。

 

Img_2915 映画は、夜の7時からだった。K大の図書館で仕事をしての帰りに、少し時間ができた。その間に久しぶりに、パン日和「あをや」へ寄って、夕食をとった。Img_2917 奥様がちょうど2階で、パンの仕込みを行なっていて、パン屋の帽子なのだと思われるが、横縞の白い柔らかな毛糸の帽子を付けて現れた。かぼちゃなどのスープと、クリームチーズとアボガドのサンドをいただく。Img_2919 食後に、りんごと紅茶のセパレートティ。夏には、ご主人の実家のある帯広へ行ってきたとのことなどを雑談した。帯広に本店のある六花亭のチョコレートをおみやげにいただく。仕事中毒の自分自身から抜け出す、最良の一日となったのだ。

2017/09/03

急勾配の坂道を自転車で飛ばす

レンタル自転車を借りることができるというので、観光協会へ行く。保険には入っていないので、自己責任でお願いいたしますというのだが、それは借りたわたしのことを案じていってくださったのか、自転車のことを心配していったのか、つい聞くのをためらってしまった。

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山の中の道路なので、一直線に続いている。それがなだらかに数百メートル続くので、下から見上げると、大した坂ではないように思えた。それが間違いだった。電動付きの自転車があったらと、途中で振り返ってみたが、すでに坂道をだいぶ上がってきていた。Img_8399

ちょっと休憩。山籠りして、すでに数週間経つ。この間の稲の成長ぶりは大したもので、すでに頭を垂れ始めている。そして、これだけの高地になると、稲よりも蕎麦畑が目立つ。稲穂よりも高く育ち、一面白い花を咲かせている。ずっと向こうの山までも達するかのように、白い絨毯が敷き詰められている。

 

Img_8360 最近では、スズメ除けの様々な機械が発達したので、案山子の姿をすっかり見ることがなくなったのだが、たまたま休憩した近くの田んぼには、それなりの表現力を持った立派な案山子が立てられていた。Img_8362 こっちの田んぼはダメだよ、あっちの田んぼもダメだよと聞こえるようだった。シェーの姿勢が標準形で外向的なものが多いのかと思ったら、意外に内向的な案山子もいることに気づく。

 

Img_8388 さらに目的地は遠い。老人ホームがゆったりと現れる。そして、高級ホテルに配給車が次々に入って行く。この辺も、坂道で猿たちが戯れている。Img_8369 ボスザルともなると、自動車も避けない。今日は、クマが木に登っていました。と木工工房につく早々、椅子作家のY氏がおっしゃった。

 

Img_8371 じつは訪問の理由があるのだ。7月に訪れた時に、当地に忘れ物をしてしまい、それをいただきに来たのだ。ということにあるのだが、もちろんそれ以上に、再びお話を伺いたかったのだった。Img_8372_2 Y氏の椅子に囲まれて、1時間ほどおしゃべりを楽しんだ。5月にヒアリングを受けていただいてから、7月にはテープ起こしした原稿を見てもらっていたのだ。それで、いくつかのさらに聞いておきたいことがわかってきて、このことが気になっていた。

 

Img_8373 ヒアリングのときに、「作っていて楽しい」、という話をされていて、この「楽しい」という意味は、椅子を鑑賞したり座ったりする利用者の楽しさとは、明らかに違って、制作者としての楽しみということになるだろうことはわかっているのだが、それでは実際にどうなのだろうか、という質問をおそるおそる行ってみた。

 

Img_8416 制作者としての楽しみは、制作者それぞれで異なるのだろうが、と慎重に前置きして、Y氏の場合には、「形に現れてくる」ことだとおっしゃるのだ。これは聞くものにとっては意外な展開だ。制作者は自分の図面をひいて、その通りに椅子を作るから、形はすでに椅子ができる前には図面の中に、あるいは図面を作らない人でも、頭の中にあるはずである。だから、むしろ図面通りいかなかったり、自分の頭に描いた通りに行かなかったりすることは、制作者にとってはストレスになるはずだとわたしたちは思いがちである。Img_8409 ところが、そうではないと、Y氏はいうのだ。じつに、まさにここを聞きたかったというところに直ちに突き当たったのだ。ここで、楽しめるという境地がありうるということは、たいへん興味深かったのだった。

 

Img_8423 ヒントは、機械でできることなら、予想通りの製品ができないとストレスになるかも知れないが、けれども、ここが手作りの違うところだ、という確信にあるのだ。予想通りの製品ができないことの方が、楽しいのだ。近代がスベスベで、均質でなおかつ規格品を求めて来たという歴史をひっくり返す言葉だったと思う。

 

Img_8418 Y氏の作り出す椅子に座っていて、最近気のついたことがあった。山籠りのここ数週間、ずっと彼の椅子に座っていたのだ。それで、座り心地はぴったりで申し分ない。けれども、もう一つの面白い現象を発見したのだ。話は入り組んでいるので、わからないと感じた方は飛ばして読んでいただければと思う。

 

Img_8417 それは、Y氏の椅子の脚が八角形で作られているというところにある。じつは、椅子の脚には、貫(ぬき)が通っている。ふつう、直角に縦横二本の貫が一本の脚から出ている。これで、脚の二面が取られる。そして、縦横の貫に挟まれた一面があるので、椅子の構造では、合計三面がそれらに取られている。八角形の残りは五面ということになる。

 

Img_8420 ここで、わたしの癖なのだが、仕事をしていて、椅子の脚に触ることを絶えず行っているのだ。そして、いずれ頭に神経が集中して来て、疲れが溜まってくるのだが、そのときに、手で脚を上から下まで触ると気分が落ち着くのだ。おそらく、木に触っていることで、手へ血液が回るからかもしれない。最初、人差し指と中指で、脚の面をなぞっていた。そのうち、薬指、親指、小指とそれぞれの面があることに気づいたのだ。つまり、椅子の構造に使われている三面と、5本の指に割り当てられた五面とで、ちょうど八角形に当てはまるのだ。

 

Img_8421 それがどうしたと言われるとじつに困るのだが、限りなく緩やかな何らかの法則性がそこに存在しているかのような気になって来て、仕合せな気分になったのだった。もちろん、Y氏の側から、なぜ八角形にしたのか、という理由はあるのだ。それは、手で握るというときに、丸だと滑ってしまうが、八角形だと握りやすいということなのだ。何らかの引っ掛かりが必要なのだということだった。たぶん、手で触る感覚の問題であることは共通しているのだ。

 

Img_8394 すっかり話し込んでしまった。自転車のレンタル時間が迫って来たので、超スピードで坂道を飛ばす。すでに9月の風だ。風除けのヤッケを通して、寒さを感じさせる空気が染み込んでくる。道端の猿たちも、そろそろ冬仕度に入ろうかという早めの算段をしているようだった。

途中、「わっぱらんど」という、子供たちが水遊びをし、樹上の家を楽しむ場所を通ったが、当然のように閑散としていて、清冽な水だけが変わらずに流れていた。いよいよ、田舎の生活を切り上げて、都会の生活へ戻らなければならないのだ。

2017/09/02

仕事の打ち上げで、三蔵呑み歩き

Img_8302 今年も、夏の仕事の打ち上げを行う季節がやってきた。という口調からわかるように、目標からすれば、かなりの成果をあげたと言えるが、じつは一番済ませようと考えていたものが二つも残ってしまったのが残念な季節でもあったのだ。これらはじっくりと横浜へ帰ってから取り掛かることで、わたしの中では、一応の始末がついた。Img_8320 何といっても、意外なほど多くの20ほどの仕事を終えることができたことが大きい。このことを感謝して、それで満足しなければならないだろうし、これならば、打ち上げを行なっても良いだろうと思ったのだ。

 

Img_8242夏の仕事の打ち上げは、毎年恒例となった酒蔵の呑み歩きだ。信濃大町の街中に日本酒の香りが漂い、それに魅せられて特別JR列車が仕立てられて、都会から田舎から人びとが押し寄せるのだ。今年は冷夏で、昨年までの30度を超える中での呑み歩きとは少し異なる気分だ。宿から、シャトルバスが酒蔵近くまで出ていて、それに乗り込む。Img_8325 すると、いずれ劣らぬ常連の夫婦やカップルやら、さらには呑兵衛の若いグループがバスに乗り込んできた。さりげなく、そんなことはおくびにも出さないで集まって来てはいるが、じつはみんな、喉の奥には焼けるような欲望が渦巻いているに違いないのだ。

 

Img_8346買い物をする妻と別れて、まずは酒器が展示されている展示会場&レストランの「麻倉」へ行く。一番奥には、大町市在住のY氏の椅子も、2脚展示されている。いつものように、それに座ってみる。さらに木工の花瓶や彫刻画を一番多く出品しているH氏の作品を見学する。葉っぱをかたどった菓子皿を購入する。桜材の赤みを帯びた木理が生かされている。削りの手間がかかっている。

 

Img_8246 15時の三蔵「鏡開き」から始まる。最初の年、酒蔵「白馬錦」の大勢の中で立ち会った。昨年は甘口の酒蔵「大安北國」で歓声をあげた。そして、今年は辛口の酒蔵「金蘭黒部(市野屋商店)」でのカウントダウンに声を合わせたのだった。鏡開きの役割分担に興味があった。社長が進行役を務め、全体をリードするのは共通している。ここで、樽を割る槌をあげる面々が重要で、1人は華添えで、ミス大町。次がやはり杜氏の棟梁で、この後ずっと大吟醸の注ぎ手も勤めていた。自分の作品がどのように呑まれるのかは、ほんとうに気になるところだろう。

3番目はおそらく経営者の親族だろう。そして、最後に社員代表ではないかと推察した。この並び具合からすると、酒蔵の中での「杜氏」という職務の特殊性ということが際立っているように思えた。 

Img_8252 鏡開きの樽酒から利き酒は始める。杉の香りが辛口の味にしみていて、最初の1杯がまずはおいしいのだ。隣は、すぐに「金蘭黒部」の大吟醸の列だった。ふつう、呑み歩きスペシャルや、生原酒を試してから、最後に大吟醸というのが通例であるのだが、つい先ほどの「杜氏」の真剣な顔に魅せられて、まず大吟醸を頂いてしまったのだ。大吟醸がおいしいのは、当たり前なのだ、という言い方をするとたいへん失礼なのかもしれないが、おいしいのだ。香りもあるし、コクもあり、すっと入っていく。コメを削りに削って、一番の中心だけを使っていて、たいへん贅沢な作りの酒なのだ。Img_8240 こうなってくると、美味しければ良いのか、ということが出て来てしまうだろう。この大町には、長野県全体の搗精工場があって、そこで機械によって、コメを削るのだが、この機械化から生み出された味が大吟醸だということであれば、手作りの味はどこへいってしまったのだろうか。

 

Img_8250 ここでは、蔵でしか購入できない「どぶろく」をいつも購入することにしている。現地でしか呑むことができない、となると、この地域でこのような呑みのイベントを行う理由が出てくるだろう。ここでしか味わえないものが確かにあるのだ。

 

Img_8254 この蔵を出る頃は、まだまだ意識もあり、千鳥足というわけではない。次の蔵への道すがら、多くの呑兵衛たちが一緒に移動していくので、集団効果が働いて、みんな仕合わせ気分で歩く。いつもながら感心するのは、利き酒のテーブルの端には、必ず「やわらぎ水」が用意されていることだ。そして、毎回感ずるのは、水のおいしさがあって、酒がおいしくなるのだという常識的なことだ。Img_8268 ほぼ酒と同量、あるいは水の方が酒の量を凌駕するくらい、やわらぎの水にはお世話になっている。もちろん、食べ物として、お漬物が用意されているのだが、また今日は新鮮なトマトも食べ放題だったのだが、食べ物よりも、水が日本酒には合う、というのか、相性が良い、というのか、そのような気がするのだ。

 

Img_8275 次に、白馬錦と大安北國を続いて訪れる。大安北國では、集団効果が最大限発揮される。正面玄関を入ると、広い土間があって、もちろん広いといっても、これだけの人数が集まると狭く感ずるほどで、この中を利き酒のおちょこを持って、並ぶのだ。Img_8281 この並びつつ呑み、呑みつつ並ぶ中で、数種類の酒の比較をみんな言葉にしていくのだった。ここでは、この集合の効果が発揮されるのだろうか。いつもここの「無濾過生原酒」を購入することになる。Img_8278 甘口の特徴があるため、辛口から徐々に上がってくると、この生原酒のコクの深さにやられてしまうのだった。すでに、鏡開きの杉樽の中は空っぽで、それを惜しんで、さらに汲みあげるのだった。

 

Img_8261 この時点で、約1時間半ほどが経っており、その間呑み続けるのだから、すでに脚に来てもおかしくはない状態だと言えよう。けれども、道端に倒れている人は1人もいないし、気持ちの悪そうな、ドクターストップのかかりそうな方も見受けない。Img_8241 アルコール効果の最も良いところが集合に発揮されたという状況だった。今回は商工会議所の青年団が人力車を用意して、それに乗って回っている人々も見られたが、アルコール摂取で歩けなくなった方用ではないようだった。

 

Img_8263 地元の青年と話をする。すると、次から次へ、仲間たちがタッパを持って来て、持参の料理を提供してくださるのだった。すでに、地元のお祭りとして定着していることの証左であろう。Img_8266 帰りのシャトルバスに乗ったまでは良かったのだが、すでに三半規管にまでアルコールが回っていて、すべての乗客が過剰状態にあり、酔客のおしゃべりの量が夥しいのだった。バス中、わんわんとして、欲望の渦が騒ぎの渦に変わっていったのだった。Img_8287 きわめつけは、バスを降りるときに起こった。前を行く若いカップルの女性が、脚に来ていたらしく、道路に顔をつけるくらいにコケたのだった。ここまでくると、やはり中庸ということはあらまほしきことなりといえるのだった。

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プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。