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2017年4月に作成された投稿

2017/04/29

天川晃先生、林敏彦先生が逝去される

427日に政治学の天川晃先生、28日に経済学の林敏彦先生が、相次いで亡くなった。それぞれ放送大学で、10年あまりに渡ってお世話になった。「社会と産業」コースの中でも、実際の職場で一緒に仕事をさせていただいたという公式の立場よりも、職場以外のゼミ、合宿、飲み会などでの立ち振る舞いや、言動での声の調子などでの印象が強い。二先生とも、日本における政治学と経済学の正統的な本流を歩んできているので、放送大学における存在感よりも、公的な場所での存在の方が大きかったと記憶しているのだが、もちろんそれを超えて、非公式での印象も深いものがあったのだ。

 

二先生とも、若い頃から、そして現役時代にも合唱団に関わっていたと聞いている。もちろん声質は違っていて、低音であったりバリトンであったりするのだが、よく通って聴きやすい声音だった。天川先生は神奈川の交響楽団とも共演する合唱団に所属していた。また、林先生は米国滞在中に、小澤征爾の合唱指導を受けた経験があるとのことだった。小澤はまず歌わせてみるそうで、最初にその合唱の良い点を褒めるのだ。そして、人びとが図に乗ってきたところで、成長曲線へ載せるべく、厳しく1ランクほどアップさせる指揮を行うとのことだった。天川先生のゼミは、合唱団のように結束が硬かったし、林先生のゼミ運営では、成長めざましい学生たちが次々と湧出したのだった。

 

合唱団での経験が、それぞれの学問方法にどれほどの影響を与えていたのかは、推測してみることしかできないのだが、思い出してみると、若手にどんどん新しいことを行わせ、勢いをつけるという方法には二先生とも長けていたといえる。それはきっと、合唱団での方法も影響を与えていたのではないかと考えるのだった。きっと天の上からも、みんなを引き上げてくださっていることだろうと思われるのだ。ご冥福をお祈りいたします。

2017/04/20

ブロイヤーの椅子

Photo ブロイヤーの椅子は、近代的デザインの申し子ともいうべき位置を占めている。並み居る椅子の中でも、とりわけ最も近代性という特徴を備えている。主たるブロイヤー作品の多くが金属パイプを多用していて、可塑性に富んでいるのはその一例だ。そのため、大量生産へ結びつく可能性を感じさせる。デザインのシンプルさは、多くの機能主義モデルの最右翼を占めていることは間違いない。ブロイヤーの椅子と並べて、これ以上に近代的だと比較できる椅子はあまり存在しない。

 

Photo_2 ブロイヤーの椅子は、デザイン源流のひとつと数えられている「バウハウス」の近代的デザインが生まれる中で育ち、それをさらに内発的に受け継いでいるなどの特徴は直ちにあげることができる。文化的に見ても、社会的に見ても、さらに経済的に見ても近代的なのだ。最終的に、機能美が椅子デザインの内側から起こって、必要最小限の素材を使うことで、椅子という領域の枠を広げる領域侵犯を招来していて、新たな椅子の概念を打ち立てている。

 

Photo_3 けれども、今回の近代美術館の展示で知ったのは、鉄やパイプを中心に発展させた椅子の始まりが、じつは木製椅子であったという、これまで想像していなかった展開があったことだ。この木製椅子のシンプルな見事さはさることながら、この狙いを推察するならば、やはり金属パイプへの転向は自然な流れであったと思わざるを得ない。ブロイヤーにとって何が革新の出発点であったのかは、想像することしかできないのだが、よく見ていると、やはり脚の構造にあったのではないかと思われる。木の椅子では、部品の数が多く、複雑な構造になってしまうのだが、金属パイプでは脚が固定されるものの、身体の揺れに対して椅子自体が自由に戯れ、さらにその機能がシンプルに実現される構造への転換が起こったということではないだろうか。

 

Photo_4 もう一箇所注目したのは、バウハウスの画家カンディンスキーのために作ったと言われる「ワシリーチェア」椅子のパイプ結合部分である。一見するところ、この結合部分も近代的な考え方に従えば、部品を少なくして標準化を図るためには、一体化された構造が選ばれるのではないかと想像していたのだが、そうではなく、輸送して組み立てるのに便利な構造が選ばれている。コンパクトにして留め金で自由に結合できる構造が数年間の試行錯誤ののちに選ばれているのである。部品がバラバラで組み立て式の方が、操作性も良いのだ。

 

Photo_5 さて、展示会場の外には、写真撮影コーナーが作られていて、バウハウス時代へ自分がタイムスリップすることが可能となっているのだ。ここで、仮面をつけて、ワシリーチェアに座ると、近くの美術館の係員が写真を写してくださるのだ。Photo_6 なぜ仮面なのか、そういえば、近代性のひとつの特徴は、匿名性にあったなと思い至るのだった。竹橋を渡り、毎日新聞社の地下を通り、東西線地下鉄に乗った。

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2017/04/16

バイオリンのこと

Photo なぜバイオリンを弾き続けることができなかったのか。この想いがときどき蘇ってくる時がある。幼稚園時代から、小学校4年生までバイオリン教室に通っていた。特別な教室ではなく、当時信州の松本市に住んでいて、この松本市にはスズキメソードと呼ばれる世界的な教室チェーンの本部があって、街の近くには必ずバイオリンの教師が一人はいるという珍しい街だったのだ。この街の掟に沿って、木曽の幼稚園時代から引き続き松本の小学校時代にかけて、バイオリンを習っていたのだ。(写真は当時の松本市大手の裏町にあった「松本音楽院」で、スズキメソードのHPに載っていたものだ。1階にはバイオリン教室が並んでいて、2階には幼稚園時代の後半の1年間通ったスズキメソードの幼稚園があった。)

 

Img_7552さて今日は、妻から紹介された小説『櫛挽道守』(木内昇著)を読んでいる。バイオリンの話と関係するような気がしたのだ。こちらは職人技の話である。木曽に伝わる「お六櫛」という、櫛歯が細く、繊細な櫛を挽く職人技があって、この木曽地方独特の職人技継承の物語である。この櫛挽きには特別なキャリアを必要としていて、言葉では表すことのできない、手元を後ろから見て、技を盗むような修行が必要とされる。伝統的な職人技の本質が描かれている。

 

Img_7551 通常の徒弟制の良いところだとあげられるのは、どんなに合わない下手な人でも、ある一定の年季を積めば、途中で投げ出さない限りは、標準的な仕事を覚えて、独り立ちしていけるところにある、といわれる。ところが、職人技の恐ろしいところは、のちのちこの標準的な手仕事キャリアに加えて、それを超える力量が問われる点にある。ここに雇われ職人と、独立職人の違いが現れることになるのだ。この本では、この職人のタイプが書き分けられていて、たいへん興味深い。

 

先日、4月の授業の準備のために統計データを探して、ここ1ヶ月間の日経新聞を渉猟していたら、「龍五」という懐かしい固有名詞が目に飛び込んできた。T大の物理学の先生をなさっているHR氏がご自身の半生を語っている記事であった。ご本人にはこちらの記憶はないかもしれないが、当時スズキメソード本部の裏町でのM教室で、わたしはレッスンを受けていた。ところが、隣のレッスン室から標準をはるかに超える綺麗な音が毎度聞こえてくるのである。その音の主がHR氏であった。

 

ある期間、なぜバイオリンを弾くことを止めたのか、という問いに、このことを理由にあげた時期があった。ほぼ同い年で、近くに素晴らしい音を奏でる少年がいたから、続けてもダメではないかと思ったと答えていたのだ。現在となっては、とんでもない不遜な言い方だったと反省しているのだが、当時の先輩たちの中には、バイオリン弾きの将来を嘱望されていた人びとがたくさんいたのだ。

 

その新聞記事を読むと、HR氏は小学校時代もバイオリンを続け、さらに中学校時代には米国派遣の第1回少年バイオリン隊に選ばれて、米国各地を演奏旅行するまでになったのだ。ところが、このHR氏をしても、高校受験に際して、バイオリン弾きのプロを目指すことを止める決断に至ったらしいのだ。そのときの理由が、まさに「近くに素晴らしい音を奏でる人がいたから止めたのだ」と述べている。当時から、何万人に一人しかプロにはならないことは理解していたのだが、このように生々しい重層化した現実があることは、身を以て経験してみないと最後のところはわからないものだ。ここで、重要なことは、ほんとうのところ「近くに素晴らしい音を奏でる人がいたから止めたのだ」ということではなく、止める理由としてあげるのに、都合が良かったということだ。少なくとも、わたしの場合はそうだった。自分の中で、そろそろ面白くなくなったと感じていたことを表に出すのを恐れていたからだ。

 

けれども、この時点でバイオリンを止めたために、その後聴くことに関しては、ますますバイオリンの音色が好きになったということは確かにあるのだ。もしバイオリン教室に通うことがなかったら、中学校時代に仲間たちと渋谷や文京などのコンサートを夜になっても聴き歩くこともなかっただろうと思われるのだ。いやいやながら続けていたら、ますますバイオリンが嫌いになってしまったことは間違いないと、今では思っている。

 

2017/04/06

パン日和「あをや」で、春カフェ

Img_6982 O先生との春カフェを、パン日和「あをや」で行う。予感のあったのは、お花見にも行くのではということだった。横浜駅から横須賀線に乗って、一駅目の新川崎で降り、超高層マンション群が軒を連ねる中に、一列だけ満開の桜並木があった。Img_6995 今年一番の満開に魅せられてしまって、道々に咲くタンポポや梅の花も「春だな」と感じさせてくれたのだが、やはり桜のこのイメージがずっとあったのだ。

 

Img_6999 パン日和「あをや」に着くと、奥様が店の前の「鉢のスミレ」に水をさしていた。「あれ、夕方じゃなかったですか」とおっしゃって、メールを確かめていた。一瞬、O先生が間違えたのかなと思ったが、そうではなかったようだ。Img_7004 黒板の右隅に、本日の特別メニューとして、「アスパラガス・スペシャル」と書かれていて、この北海道から送られてきた、巨大で太い野菜を見せてくださったのだ。これは期待できる。

 

Img_7005 今日のドリンクメニューにあった「抹茶ミルク」を飲んでいると、O先生が店の前景写真を撮りながら登場なさった。先週には、松本市を互いにちょっとずれた時期に訪れていて、その時の話題となった。Img_7011 昼食は、先ほどのアスパラガスを使った「アスパラガス・スペシャル」と、スープは「ナスとチキンのタイカレー」だ。Img_7015 そのあと、奥様のサービスで、友人からいただいた珈琲「ニカラグアサンタフェ農園のモランゴ」を振舞ってくださったので、デザートのパンとして、「スフォリアテッレ」をお願いする。Img_7016 アーモンドクリームが美味しい。このニカラグアの珈琲豆は、モランゴすなわち苺を意味するらしいのだ。確かに、最初の一口にストロベリーの香りがして、その後の味にも、かなり酸味が効いていて、苦味よりは酸味の好きなわたし好みの味だった。

 

Img_7012 それにしても、この「あをや」の北海道直送アスパラガスは、圧倒的な存在感だった。野菜というものは、そもそもその地域へ行けば、存在感を示すのは当たり前なのだが、やはり都会でこれだけのものが目の前に現れると驚きを感ずるのだ。サラダにちょこちょこと入っているようなものとは違って、存在感があるのだ。添え物としてのアスパラガスが、突如として主役を張ったというところだろうか。Img_7018 これだけ大きくなってしまうとふつうは筋が残ってしまって、サトウキビの茎をかじっているような感じになってしまうのだが、このアスパラガスは程よい歯ごたえはあるものの、筋のあるという歯ごたえでなく、肉厚の柔らかい野菜という食感なのだ。Img_7000 Img_7020 アスパラがメインの昼食となった。そういえば、「このアスパラガスをただ焼いたものはほんとうに美味しいのですよ」と奥様に言われていたのをすっかり忘れてしまって、帰ってしまったのだ。今度ということがない、いつ手に入るかわからないものなので、たいへん残念な気分だ。焼きナスならぬ、焼きアスパラを食べたい。

 

Img_7008 O先生との雑談の中で思い出したのだが、日経新聞のコラムについて話題を出したのだ。じつはこの経済紙が経済紙たる所以のひとつとして、月曜日版には必ず「景気指標」欄が設けられてきたのだった。Img_7002 それが、この3月でここ数十年の伝統を破って、この欄が廃止されたのだった。これは時代の象徴ではないかと言い、かつ現代人は紙版の新聞を読まなくなったと言ったら、雑談なので繋がりはかなりなく話題は飛んで行くのだが、O先生はこれにつなげて、若者の意識も変化してきていることを述べられた。Img_7014_2 大学を出てすぐの若者たちは、現在では転職するのが当たり前の風潮が存在することを強調していた。職場というものが固定的な場所ではなくなる傾向を示しているということだろう。一つの職場で、紙版の新聞を、みんなが共通に読むというコミュニケーション文化それ自体が変化していることなのかもしれない。

 

Img_7035 あまりに天気が良いものだから、歩くには少し遠いのだが、駅の反対側にある「夢見ヶ崎公園」へ行こうということになった。O先生は、先週の松本旅行の疲れがあり、なおかつ、一昨日は小石川植物園でかなり歩いたらしいので、あまり歩きたくなさそうだったのだが、公園にある動物園もさることながら、お花見を期待したのだった。一歩帰る方へ踏み出したのだが、足の二歩目を方向転換してくださった。

Img_7112 この公園は、かつて近畿圏古墳文化の前方後円墳が10あまり固まって存在する歴史ある丘なのだ。そして、近世には太田道灌がここに城を築こうとして、夢見が悪かったので、築城をやめたという言い伝えがあるところなのだ。この写真にあるように、どのように夢見が悪かったのか、説明看板の肝心なところの語句が傷つけられていて、想像するほかない。O先生は「刀」かな、と言い、わたしは「首」かな、と思ったのだった。さて、正解は何なのだろうか。

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この公園にはラマの桜や、山羊の桜など、桜も満開のものから葉桜まで、多様な桜があって、堪能したのだが、それ以上に印象に残っているのは、スギ木立が50メートルほどのトンネルというのか、ラビリンスというのかを作っていて、この木立の中が幻想的なひとつの世界となっていて、子供たちを引きつけていたことだった。Img_7122

写真からはわからないかもしれないけれども、木立という、木でできていると安心感があり、さらに閉じられた、美しい完結した世界がありそうなところが魅力なのだ。Img_7088

動物園の、顔の大きな、優しい目をしたロバに乗って、この木立をくぐり抜けたい。このような想像を羽ばたかせるほどの木立ラビリンスだったのだ。

 

Img_7209 春カフェの最後は、蒲田まで行って、この蒲田の象徴たる「呑川」の桜を見ながら、最近O先生が見つけたシフォンケーキと紅茶の喫茶店「カフェ・スリック」へ入る。Img_7224_2 注文したのは、スパイスシフォンで、4種のスパイス、ジンジャー、シナモン、ナツメグ、クローブが生地に入っているものだ。ホイップクリームとスパイスのコンビネーションが良かった。Img_7228 はちみつの溶け込んだ焼きリンゴが添えられている。この焼きリンゴだけでも、十分に紅茶の友となるくらいだ。Img_7227 紅茶は、これも珍しいというのか、わたしが味わったことがないだけなのかもしれないのだが、松の木で茶葉をスモークした濃厚な味の「ラプサンスーチョン」を頼んだ。濃い味なのだが、渋みの少ない紅茶だった。


*注:

O先生のブログは、こちら。それから、先ほどのクイズで、太田道灌が夢の中で、鷲によって持ち去られたのは、「兜」でした。正解の方は、歴史的想像力の旺盛な方だと思います。O先生のいくつか挙げた中にも、兜は入っていましたね。

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プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。