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2017/03/22

映画「La・La・Land」を観る

Lalaland LaLaLandとは、カリフォルニア(LA)のように、有りえないような国のことだ。この映画はアカデミー賞の作品賞発表の時にトラブルがあったことで有名なのだが、これで有名になったと言われないようにするのはたいへんだと思う。けれども、それを超えたものを十分に持っていれば、恐るに足らない。ララランドにとって、恐るに足らないこととはなんだったのだろうか

 

ふつう感動して泣く時にはそれなりの理由がある。もちろん、涙は思わずでてしまうものなのだが、あとで考えれば、ふつうは理由があるのが当然だ。けれども、今回のララランドの場合には、これといった理由なく、感性に訴えてくるものがある。ところが、じつにその感性に訴えてくる理由というものがよくわからないところにあるのだ。もちろん、歳をとって涙腺が緩んでいるということもあるのだが、やはりそれとは違う理由だと思われるのだ。

 

そのヒントは冒頭の高速道路上の集団ダンスに隠されている。このダンス「Another Day of Sun」は、いかにもLaLaLand的なのだ。このダンスを見ると、やはり「なぜ」と思ってしまうところがあるのだ。自分の自動車の中に、道路混雑で隔離されていて、互いにイライラしている人びとが、急に道路に飛び出してきて、みんな愉快に楽しくダンスを始めるのだった。社会科学的にいうならば、最もありそうにない想定から、この映画は始まる。近代社会の象徴たる高速道路という状況のなかで、コミュニティ的なパーティがありうるはずがない。個人から、直結的に社会が現れるという想定は、最も社会学者が忌み嫌う想定なのだ。それでは、みんなが「そんなことはありえないよな」というシーンからなぜララランドは始まるのだろうか。ここにララランドの映画たる、所以があるといえるのだ。

 

つまり、この映画は、映画の筋で泣かせるのではなく、最も感性にちかいところで泣かせているのだ。個人が人と出会って、恋をして、仕事をして、そして別れを迎える。この筋が重要ではなく、この感性の落差が観る人の感性へ訴えかけるところがあるのだ。

 

このプロセスが重要であるというところが、どこで出てくるのかといえば、それはかなり後の方なのだ。女性主人公がすべてのオーディションに失敗し、これで最後だというときになって、最も自分の得意なところが発揮されるという筋書きなのだ。パリでの叔母さんとのことを自身の創作・想像の語りで表現させられる。このような特殊なところで、仕事との結びつきが現れてくるのだった。これまでの苦労がなければ、それまでの人と人の結びつきがなければ、このシーンはありえないところだ。このあとの主人公たちの別れの演出については、またひと工夫があって面白いところだが、それは観てのお楽しみだ。

 

Photo ということで、このララランドという映画は、ミュージカル映画の単純さを利用して、理性的な筋展開を逆転させ、感性的な落差を利用して、観客を泣かせる映画として、現代的な新しさがある映画なのだと思ったのだ。

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  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。