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2017年3月に作成された投稿

2017/03/31

知識循環研究プロジェクトの終わりと印刷教材の電子保存

Img_6972 2003年から続いてきた「知識循環研究プロジェクト」が終わりに近づいている。放送大学の規定に則って、また振興会の許可を得て、印刷教材書籍の約9割の電子化を行った。放送大学設立の1985年から2014年までに至る、およそ2千冊分の印刷教材をDVDに納めて、このような形になったのだ。

 

Img_6977 当初の知識循環研究では、放送大学の放送教材、つまり映像の検索を行い、二次利用につなげようという研究開発だった。これは、3年くらいで文部科学省からの資金が終焉したのに合わせて、プロジェクトも終了した。これだけでも、相当な記憶装置を使った。これらは、研究が終了した時点で、保存目的以外のものは消去することになっている。

 

Img_6973 その後、この知識循環研究を継続することが文部科学省から求められたので、放送大学の内部資金や放送大学教育振興会助成金などをつないで、ようやくここまで来たということだ。この10年間には、主として放送大学の印刷教材のほとんどを電子化することに注力してきた。だいぶわたしの研究費もつぎ込んだので、かなりの負担と労力を使ってきたな、という感慨がある。また、同僚のH先生とK先生にはたいへんなご支持とご協力とをいただけた

 

とりわけ、実際に電子化作業にあたってくださった、SさんとKさんにはほんとうに感謝申し上げる次第である。ちょうどお子さんたちが小学校へ入り、次第に手から離れ、大学を出て、社会へ出て行く時期に、時間を割いて働いてくださった。丁寧で細やかな作業は、コンピュータを使うとはいえ、熟練が必要とされる作業だ。ちょっとしたやり方次第で、粗雑になったり、画像転換がうまくいかなくなったりするのだ。それをうまく制御して、綺麗な電子化を行ってくださったのだ。

 

今回、振興会からの資金が最後の3年計画となり、それ以上は無理だということで、計画がこれで切れることになり、終了ということになった。また、印刷教材自体の保存が悪く、電子化に使用できる紙版の原本が枯渇してしまったという事情も重なったのだ。じつは紙版自体の印刷教材も全部揃っているのは、附属図書館の1セットしかないようだ。今回の終了で、電子化のこの熟練した技能が失われてしまうのは、残念である。時には、他の先生方から頼まれて、その著書を電子化してあげたこともあるほど、腕を買われていたのだ。先日会食を近くのイタリアンのOREAJIで行った時に、この10数年間の思い出を出し合ったのだ。

 

Img_6462 年度末には、他にもこのような成果物がようやくにして出来上がってくる。じつは先日、いつも季節カフェを一緒するW大のO先生から、ご著書『変容する社会と社会学』が送付されてきていた。近代社会の「成功の物語」と「幸福の物語」と、その機能不全という、O先生の図式が説得的に語られていた。頭の中がすっきりとして、整理されるという論文だった。

2017/03/30

椅子と、椅子の言葉と

Img_6905 朝、雪道を散歩するのは、気持ちが良い。白い輝きが目を覚ましてくれる。この覚醒効果は素晴らしい。また、目を閉じると、ツーンとくる零度の香りがする。山の背へ向かって、樹々が立ち上るのが「図」とすれば、雪は油絵のキャンバスのような「地」を構成していて、山里の落ち着いた空気が伝わってくる。香りには生くささが少しもなく、硬質な感触を身体全体へ届けようとする。

 

Img_6898 ヘンリー・ソローの小さな小屋にはこんな飾りはなかったけれど、雪の広大さの中に立つ小屋は、明らかに雪を慮っているかのような気がする。それを、右目で眺めつつ通り過ぎながら、コミュニティバスへ乗った。

 

Img_6888 じつは田舎の家の水道管が凍結して、それに気づかずに破裂に至ったのだ。凍結で水道管にヒビが入り、その後の気温の緩みで、一気に水道水が噴水と化し、1階のリビング全体が水浸し状態となった。Img_6833 お世話になっている建築屋さんにお願いして、修理工事を行なってもらってはいたのだが、やはり掃除などは本人が行わなければならないと駆けつけた次第だ。ほぼ1日かけて、一応の清掃が終わり、市役所で水道料金の減免措置の手続きを済ませ、帰りの電車に乗ったのだ。

 

Img_6919 四月から新学期が始まるのだが、新しい研究計画を立てていて、今年は「椅子の社会経済学」というテーマで、様々なことを企てようと心に抱きつつ、研究も進めようと考えていた。椅子作家たちをヒアリングして、2、3年かけて椅子と椅子をめぐる産業についての社会経済学の可能性を探ろうというものだ。

 

Img_6920 この話を聞いてもらおうと、松本市中町通りにあるグレインノートのS氏を訪ねたのだ。近くの女鳥羽川沿いにある喫茶店「まるも」でじっくりと話すことができた。すると、どうだろう。思ってもみなかったような展開があったのだ。詳しいことは、2、3年先の結果をみていただくことにして、せっかくだから、わたしの研究だけに終わらずに、椅子作家たち自身の本を作ろう、という話に変わっていったのだった。きっかけは、S氏がある本を引き合いに出して、わたしがその本の現代版を作るというのはいかがか、とおっしゃったことから、話はどんどん深まっていったのだった。

 

Img_6932 まず、椅子作家の方がたが、自分の言葉で、自分の椅子を表現したことがあるのだろうか、という問いをしてみた。椅子は椅子であって、現物が存在すれば、それで良いのだ、ということがあり、なかなか「椅子の言葉」というものは存在しないことがわかったのだった。このことは、わたしにとっては新鮮な感覚だった。椅子があれば、「椅子の言葉」も当然に存在するのだろう、と思っていたのだが、そうではないのだということだ。これは面白いな、というのが二人の一致した考えだった。

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Img_6931 などなど、まだまだ不確実なことがたくさんあるのは確かなのだが、先が見通せないことは決してマイナス効果をもたらすだけではない。むしろ期待を生む効果が勝る場合があるのだ。先ずは5月の連休目指して、椅子作家の方々への聞き取りを始めることにして、豊かな気分で「まるも」を後にした。Img_6957 グレインノートへ戻って、S氏の奥様にそのことを話すと、「椅子の言葉」の文章をみて、アイディアを出すことは面白そうだとおっしゃって、お誘いするとこの計画にご参加いただけることになったのだった。年度末には、何らかの転機が訪れるのだ。

 

Img_6929 駅までの途中、小腹が空いたので、グレインノートの近くの喫茶店「チーアン」へ寄ろうとしたら、木曜日は定休日だということで残念だった。もう1軒のいつも寄る喫茶店へ回ることにする。かつて市電通りだったところにあるブック・アンド・カフェ「栞日」で、カフェオレとレモンスコーンを注文する。Img_6936 栞日のご主人が、会うたびに大きくなっているお子さんを抱いて現れて、今回の展覧会の説明をしてくださった。「ウチダゴウ」という、松本で詩人とデザイナーを行なっている方の展覧会だった。Img_6958 中でも、スコットランドの7篇の詩ポスターには、緊張した日本での心を解放させるに十分な、スコットランド的自由が躍動していて、そして、とりわけ字体の綺麗さに心を動かされた。

2017/03/26

「正岡子規」展を観る

Img_6703 冷たい雨が降っている。関内駅で地下鉄を降り、横浜スタジオの横を通り抜け、フランス山の急な階段を駆け上って、いつもの風車の脇をすり抜けて、港の見える丘公園に出る。Img_6708 お花畑を横目で見ながら、霧笛橋を渡ってお話の世界へ入っていく。F氏と神奈川県立近代文学館で開かれている「正岡子規」展を観る。

 

Img_6713 先日、上野の「正岡子規球場」の話を書いたところだが、なぜ正岡子規が野球殿堂入りしているのかといえば、この「野球」という言葉を編み出したのが、子規だからだそうだ。幼名が「のぼる」というところから、「ノボール」という言葉になり、「野球」となったのだ。ほんとかなと思ってしまうほどのユーモアだ。ちなみに、ベースボールの中国訳は、F氏によれば「塁球」なので、直訳なのだが、日本では違うのだ。Img_6717_2 このような駄洒落めいたところが随所に正岡子規には見られる。とりわけ、夏目漱石との間で、笑いの掛け合いをしているところがたいへん面白かった。子規の批評を偽名で行っていて、その名前が「平凸凹(たいらのでこぼこ)」という名称を使っていたりする。このユーモア抜きに子規周辺を理解できないことを知る。

 

Img_6715 子規の若い頃の考え方で、ズバッと書いていて素晴らしいなと思えるのが、学問の中核にある「好奇心」についての記述であった。展覧会では、22歳の時の『水戸紀行』を引用していた。「好奇心といふことは強く遠く遊びて未だ知らざるの山水を見るは未だ知らざるの書物を讀むが如く面白く思ひしかば」と記されている。好奇心とは「強く遠く遊ぶ」ことである、というのは、素敵な言い方だと思う。Img_6711 好奇心では、「強く遊ぶ」ことと、「遠く遊ぶ」ことの両方が必要なのだ。強く遊ぶというのは、遊びに夢中になるという性質をよく捉えているが、さらに遠く遊ぶということがもっと重要なのだと思われる。日常から離れて、専門から離れて、中心から離れて、周辺から遊ぶ中で、好奇心は育まれることを説いていて、「うん、なるほど」と思ったのだった。経済学者ヴェブレンの言葉に、「怠惰なる好奇心」という言葉があるが、「遠く遊ぶ」というのは、この系列に属する考え方だと思った。

 

Img_6719 F氏は盛んに、子規と漱石との関係に興味を持っていた。展覧会には、第1高等学校時代の成績表が出展されていて、子規の同級生に漱石や南方熊楠や山田美妙が並んでいた。展覧会の解説者による説明文によると、漱石がアイディアを重視したのに対して、子規はレトリックを重視したと記していた。小説家は新しい話を作ることに秀でるのだが、俳句はレトリックの問題が重要であるというのはわかる話だ。Img_6720 もっとも、おそらくこれは相対的な話であって、それぞれ相互に影響を与えあっていたのだと思われる。漢文による書に対して、漢文による批評を返していて、当時の高等学校生の教養の深さを知った。また、有名な話では、子規の「柿くえば 鐘が鳴るなり 法隆寺」という句は、漱石の「鐘つけば 銀杏散るなり 建長寺」の影響を受けたということもあり、この証拠となる高浜虚子の手紙も公開されていた。

 

Img_6726 外は依然として寒空が広がっていて、雨が冷たい。山手111番館の横を通り抜けて、外人墓地へ出る。明治期の水道施設の樹々が鬱蒼とした公園を抜けて、元町商店街の裏通りへ出る。Img_6733 娘といつも行っていた喫茶店が移転していて、無くなっていたので、ランチは日本茶と豆腐料理の店「茶倉」へ入る。人気店らしくて、しばし待ってから、席に着いたが、ゆったりと食事できる店だったので、手足が冷たくなっていたのが、豆腐ハンバーグと抹茶とで、ようやく暖かくなったのだ。

 

Img_6745 日曜日なので、観光客の多い中華街は垂直に通り抜けて、本町通の裏街を歩く。ここには幕末期の居留地跡がいくつか残っている。もっとも、この地面の下には、レンガ遺構などが埋まっているので、地表に現れているほんの少しのものを見ることができる。Img_6739 西洋商事館の建物のレンガや、松代藩佐久間象山の大砲、さらに居留地での日本初の近代的消防団跡などを見ることができる。Img_6766 そして、最終的には、F氏がジャーナリストだったこととは無関係だとは思われるが、いくつかの候補の喫茶店の中から、フレンチ料理のアルテリーベが1階に入っているビルの新聞博物館二階のクラシックな喫茶店に腰を落ち着かせる。Img_6769Img_6772 窓はすっかり水滴で真っ白になっていて、当分の間外には出たく無いほどだったので、老人二人はおしゃべりに精を出したのだったのだ。Img_6774Img_6780

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2017/03/22

映画「La・La・Land」を観る

Lalaland LaLaLandとは、カリフォルニア(LA)のように、有りえないような国のことだ。この映画はアカデミー賞の作品賞発表の時にトラブルがあったことで有名なのだが、これで有名になったと言われないようにするのはたいへんだと思う。けれども、それを超えたものを十分に持っていれば、恐るに足らない。ララランドにとって、恐るに足らないこととはなんだったのだろうか

 

ふつう感動して泣く時にはそれなりの理由がある。もちろん、涙は思わずでてしまうものなのだが、あとで考えれば、ふつうは理由があるのが当然だ。けれども、今回のララランドの場合には、これといった理由なく、感性に訴えてくるものがある。ところが、じつにその感性に訴えてくる理由というものがよくわからないところにあるのだ。もちろん、歳をとって涙腺が緩んでいるということもあるのだが、やはりそれとは違う理由だと思われるのだ。

 

そのヒントは冒頭の高速道路上の集団ダンスに隠されている。このダンス「Another Day of Sun」は、いかにもLaLaLand的なのだ。このダンスを見ると、やはり「なぜ」と思ってしまうところがあるのだ。自分の自動車の中に、道路混雑で隔離されていて、互いにイライラしている人びとが、急に道路に飛び出してきて、みんな愉快に楽しくダンスを始めるのだった。社会科学的にいうならば、最もありそうにない想定から、この映画は始まる。近代社会の象徴たる高速道路という状況のなかで、コミュニティ的なパーティがありうるはずがない。個人から、直結的に社会が現れるという想定は、最も社会学者が忌み嫌う想定なのだ。それでは、みんなが「そんなことはありえないよな」というシーンからなぜララランドは始まるのだろうか。ここにララランドの映画たる、所以があるといえるのだ。

 

つまり、この映画は、映画の筋で泣かせるのではなく、最も感性にちかいところで泣かせているのだ。個人が人と出会って、恋をして、仕事をして、そして別れを迎える。この筋が重要ではなく、この感性の落差が観る人の感性へ訴えかけるところがあるのだ。

 

このプロセスが重要であるというところが、どこで出てくるのかといえば、それはかなり後の方なのだ。女性主人公がすべてのオーディションに失敗し、これで最後だというときになって、最も自分の得意なところが発揮されるという筋書きなのだ。パリでの叔母さんとのことを自身の創作・想像の語りで表現させられる。このような特殊なところで、仕事との結びつきが現れてくるのだった。これまでの苦労がなければ、それまでの人と人の結びつきがなければ、このシーンはありえないところだ。このあとの主人公たちの別れの演出については、またひと工夫があって面白いところだが、それは観てのお楽しみだ。

 

Photo ということで、このララランドという映画は、ミュージカル映画の単純さを利用して、理性的な筋展開を逆転させ、感性的な落差を利用して、観客を泣かせる映画として、現代的な新しさがある映画なのだと思ったのだ。

2017/03/21

東海道と中山道の追分を歩く

Img_6514 朝早くに新幹線で、大阪の伊丹市へ出張。昨年から、4人の先生方の協力で、授業番組「農山村と都市における身近な経済」というラジオ科目を作っている。社会科学では、現在「地域」とは何か、という趣旨の研究が目白押しなのだ。放送大学では、退任された経済学のH先生が「比較地域研究」にみんなで参加しようということで、10年ほど前に「比較地域研究センター」を設けてきている。H先生のもとで、これまで修士課程の経済分野の研究指導を担当なさってきた、I先生、A先生、S先生に、わたしを加えて、今回この科目を企画したのだった。

 

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今年の2月には、ほぼ原稿が出揃って、今日は放送教材収録の相談を行うために集まることになった。ところが、日程調整を行なってみると、4人の先生があうような日は皆無に等しいことがわかった。島根からのI先生、大阪からはA先生、熊本からはS先生に、横浜のわたしなので、そう簡単に日程調整が成り立つわけではないのだ。それで、短時間でも良いから、また先生によっては日帰りでも良いからということで集まってもらったのだ。だから、一番日程がキツかった島根のI先生の飛行機時間に合わせて、伊丹空港近くの貸し会議室を借りることになった。また、これに合わせて、一昨年「音を追究する」でお世話になったKディレクターも千葉から駆けつけてきてくださった。

 

Img_6518 相談は順調に進み、メールでは互いに誤解していたような事柄も解くことができ、どうにか全体の調整がつき、次の段階に進むことができたのだった。それにしても、伊丹市という地域の外面的な印象は、ちょっと変わっている。交通通過都市だということだと思われる。Img_6517_3 空港、二つの鉄道、それに会議室やホール、ビジネスビルなどの箱物はたくさんあり、中心を宝塚へ伸びる幹線道路が縦断していて、街の全般に余裕がある。ゆったりとした再開発が行われているところだという印象だった。これまで、あまり経験したことのない、不思議な街のイメージだったのだ。

 

Img_6497_2 さて、半日の自由時間ができたので、横浜へ帰るまでの間、以前から行ってみたかった宿場町の草津宿へ、新快速へ乗っていく。この滋賀の草津で、東海道と中山道が合流する。このような特別な宿場として、江戸時代に発達したのだ。まずは、問題の道標を見る。いくつかのバリエーションがあって、一番有名なのは19世紀のものだが、街道沿いの神社には17世紀のものもあるのだ。また、近代になっても新しい道標が作られており、草津はここ数世紀に渡って、交通の要所を占めてきた場所なのだ。Img_6520 本陣が素晴らしい。草津には、二つの本陣と脇本陣とが存在しており、現在一つの田中家本陣が残されていて、一般公開されている。とりわけ、大福帳には泊まり客が記されており、本陣であるから、公家と大名ということになるのだが、幕末になると、新撰組なども宿泊していた記録がある。また、宿特有の「関札」が大量に残されていて、これを掲げることで、「見せびらかしの消費」が行われたのだな、ということがよくわかる象徴的な歴史資産だ。

 

Img_6531 本陣の構造については、群馬の大庄屋の子孫であるK先生から知識を得ているので、その視線でみていくと、なんなくわかってくる。中世の上下関係を建物の構造に取り入れていて、玄関を入って、次の間、畳廊下、脇の部屋、そして最後は上段の間へ向かって、Img_6533 少しずつ敷居が高くなっていくという建物構造を持っている。この草津の本陣でも、見事にそのように作られている。そして、上段の間の奥に、位の高い人の雪隠と湯殿が作られているのだった。

 

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Img_6565 草津宿の並びにモダンな交流会館が建っていて、もちろん展示されている模型や物的な標本は面白いのだが、わたしが注目したのは、じつは資料室だった。玄関横に作られていて、現在はそれほど重要ではないかのように、傍に追いやられているという印象だった。けれども、いざ一冊一冊みていくと、なかなか魅力的な資料が集められていることがわかってきた。Img_6568 全部紹介するわけにはいかないのだが、じつは先日群馬合宿の時に書いた、いわゆる「中央用水」構造の宿場町をみていくのに最適の資料が揃っていたのだ。さすが東海道と中山道の合流地点だけのことがある。東海道では、あまり目立たないのだが、中山道には2、3例が見つかったのだ。H先生の喜ぶ顔が目に浮かぶのだった。

 

Img_6614 この収穫だけでも、心はウキウキしてきてしまった。やはり、このような時には、心落ち着く喫茶店で、獲得した知識を反芻しながら、最後はサードプレイス的効用を一人で楽しむべきだろう。Img_6607 山科で電車をおり、地下鉄で京都へ戻って、いつもの喫茶店「Kosci」で玉ねぎのポタージュとパン、そして、珈琲を頼んだ。長かった今日の散策を思い返したのだった。帰りの新幹線では、このコチで購入した「キッシュ」と「くるみとはちみつパン」を食べ、収穫多い出張を終えたのだった。Img_6633

2017/03/20

神保町で研究指導

Img_6480 松江に住む修士課程の学生の方から、仕事での研究会が東京であり出張してくるから、そのついでに会えないかと連絡が来た。彼女はたいへん仕事が忙しい人で、いつもはインターネットを通じて、ゼミに参加することになっていたのだが、このところ上手く繋がらないこともあって、連絡が途絶えがちになっていて、心配していたのだった。ちょうど、春休みになって、こちらの仕事も一段落してきたので、東京の出張先に近いところで会おうということになったのだ。

 

Img_6469 出張先はどこかと聞くと、どうやら文京区のT大だということがわかったので、東京文京学習センターで会うのがよいなと考えていたのだ。ところが、約束の日が320日だということになり、祝日の代替日でセンターはお休みだということになっていた。Img_6470 長居できる場所が必要だということから、それでは、ということで、神保町の喫茶店でどうかということになったのだ。ところがということなのだが、じつはここもやはり、この日ばかりはお休みの店が多くて、いつも行く静かな喫茶店ラドリオもだめだった。それで、ラドリオの向かいの、初めて行くミロンガという店でと約束をしていた。

 

Img_6473 ところが実際、ミロンガに着いてみると、他の店がお休みだということを受けて、やはり、満席で研究指導を行うどころではないのだった。それで、入るのをあきらめて、横丁を出たところのビル地下にある、自家焙煎の喫茶店「伯刺西爾(ブラジル)」へ降りて行く。Img_6477 ここも満員なのはわかっていたのだが、ちょっとまてば、良い席が空くこともわかっていたので、入り口付近でプリントを広げながら、話して待つこと10分、案の定一番奥の話しやすい最適の席をとれたのだった。

 

Img_6475 修士論文の内容は、まだ途中なので、ここで言うことはできないのだが、全体的な筋展開であれば、影響はないだろう。社会人研究者特有の現代的なテーマで、独自の社会調査を行うというので、出来上がれば興味のつきないものとなるであろう。今日のところは仮説と因果関係のおおよそのところをきいておいて、調査が上がってきたら詰めようということになったのだ。Img_6474_3 ただ、興味津々のところだったので、雑多などうでもよい知識をたくさん吹聴してしまったのは悪かったと反省している次第なのだ。でも、たとえ修士論文であっても、面白くなければ書く意味がうすれるだろう。ここが肝心だと思う。

 

Img_6481 この神保町という街の健全で人を惹きつけるところは、このようなむかしからの店が残って集積が素晴らしいから、十分にアマゾンやブックオフへ対抗できる力をもっている点であろう。Tさんとはここでお別れして、わたしは仕事が残っている幕張へ取って返して、4月から始まる授業の準備に余念がなかったのだ。まだまだ、春休み中も、旅する人を続けなければならない運命にあるようだ。

 

 

2017/03/16

授業番組制作の打ち上げ

Img_6438 今年の打ち上げ会はなぜか東京駅近辺が多い、と言っても、二つだけなので、それほど極端に多くあったわけではないのだが。両方の会ともに、たいへん楽しい会だったので、やはり記して記憶に留めておきたいと思ったのだった。一つは3月14日に飲み会が行われた。授業番組「音を追究する」のみなさんが集まった。こちらは昨年度完成しているので、今回は試験問題完了祝いおよび問題作成催促の会という趣向だ。O先生とS先生が主任講師を勤めていて、今回の飲み会でもコーディネーターで走り回ってくださった。

 

Img_6437 東京駅八重洲口の高島屋へ通ずる飲み屋街にあるイタリアンの一軒だ。この番組の担当講師を務めてくださった藝大の録音学K先生、聖徳大の音楽学T先生、それからゲスト出演の日本語学のT先生と心理学のH先生、それにKディレクターと録音技師のOさん、さらに物理学のK先生、主任講師のコミュニケーション学のO先生と臨床心理学のS先生、全部で10名の方々が集まった。じつは部屋のたいへん狭いところで、袖すり合う、近接したコミュニケーションをとるためには最適な部屋だった。その分、内容も濃密なコミュニケーションとなったのだ。

 

Img_6445 もう一つは、二日後に開かれた「日本語アカデミックライティング」の打ち上げで、T先生がコーディネートしてくださった。T先生とは、14日の「音を追究する」の会でも一緒だったので、今期2回目だ。もう一人の主任講師の経済史学K先生と、さらに天文学のY先生、ディレクターのOさん、教育社会学のI先生が出席した。この店も八重洲口に近いところにあるのだが、八重洲ブックセンターの裏に当たるビジネス街の一角にある店で、仕事の帰りに仲間とおしゃべりしながら、夕食をとることを想定された店だった。けれども、14日の店と比べると、周りが静かで、その分高級な雰囲気があった。

 

Img_6441 印象に残ったお話はたくさんあったのだけれども、K先生のケインズの話は特別だった。英国留学当時に、メーナードの甥にあたるジョフリー・ケインズと親交があったそうだ。わたしも番組を作る時に、ケインズの映像をいくつか集めていて、本人の映像はニュース映画などで手に入れていたのだが、そのほかには、やはりこのジョフリー・ケインズがメーナードの生前の思い出を語っているのをみた記憶があるのだ。ケインズがブルームズベリー・グループの人びとと行った会話については、会話や手紙類が残されていて、じっくりと話すタイプのケインズを想像できるのだ。K先生はエッセイの名手で、この辺りのことについてお書きになりたいと話されていたのだ。ぜひそのような書籍を読んでみたいと思わせるお話だったのだ。

 

Img_6435 このように二日間の飲み会を振り返ってみると、幕張の仕事の帰りに、友人と待ち合わせて、帰路この辺で飲んで帰るという生活もあり得たのだなと思ったのだ。東京駅を通勤経路としている割には、貧しいアフターファイブを過ごしてきたことを反省した次第である。

2017/03/11

埼玉学習センターで合同研究会

Img_6184 湯宿では、朝の6時に起きて、もう一度身体を温泉に沈めた。もともと、低血圧の遺伝子を受け継いでいるので、朝のエンジンがかかるまでに、身体もそして特に頭のエンジンについては、時間がかかる方だ。けれども、ここのお湯があれば、数分でエンジン全開だ。Img_6388 宿の方々に聞いてみると、あまり湯に入りすぎても身体に良くないので、ほどほどを保っているとのことだ。日常と非日常の違いを感じるのだった。毎年帰りには、この宿の自家製の梅漬けを購入して帰る。1個15円で分けてもらえるのだ。おまけもいただいたので、当分ご飯の友には困らないだろう。

 

Img_6398 新幹線に順調に乗り継ぎ、小1時間で大宮へ到着する。午後には、駅から軒先がつながっているビルに入っている、放送大学の埼玉学習センターにて、修士課程修了生たちとの「比較地域研究会」が半年ぶりに開かれた。また、今日は特別に、幹事のH氏がアレンジしてくださったので、埼玉県の地域職員たちによる「働き方」研究会との合同研究会となったのだ。

 

Img_6399 印象に残ったのは、新潟から参加してくださった、ゼミOGであり、かつ大学教員をなさっているUさんの発表だ。ポスターにあるように、「病者が災害避難をあきらめる気持ち」という題名で、被災タイプに特別な類型のあることを発表なさったのだが、興味深かったのは「なぜ避難を諦めてしまうのか」という解釈だった。20170311 聴衆からもいくつかの意見が出た。これらの意見を有効に取り入れて、おそらく数ヶ月後には良い論文を上梓するであろうことを予想させたのだった。

 

Img_6400 OGAさんと、またいつもと異なるテーマで挑んだ修士課程のIさんの発表もギャラリーを刺激していた。「働き方」研究会の方々の発表テーマは、題して「多様な働き方、埼玉スタイルの推進」ということだった。放送大学の学生の方々と比べると、たいへん歳の若い研究者たちであるにもかかわらず、チーム力を発揮して、まとまりの良い政策提言を4つほど行っていた。印象に残ったのは、もし放送大学生であれば、社会が多様であるところを慎重すぎるくらいに、微に入り細に入りはいり込んでしまって、あまりに細かすぎて印象の薄い研究になってしまうのだろうが、彼らの発表は良い意味で若いチームの発表を持っていて、全員一致の答えを率直に提言していて気持ち良かった。Img_6403 一例を挙げるならば、過去の政策としては評判良かったが、実際にはあまり活用されてこなかった、「ジョブカード」政策を再提言したりしており、話し合いの結果が要領よく盛り込まれていた。おそらく、放送大学の学生間ではこのような共同研究は行われる可能性が低いという傾向があるのだということが、今回の比較でわかったのだった。

 

Img_6404 じつは、これらの発表に対しての放送大学生たちの反応が面白かった。簡単に言えば、理想主義対現実主義の対立ということになるのだろうか。全員一致を信じて疑わない若手の「働き方」研究会に対して、多様な人びとの存在を重要視する放送大学生たちの質問に、現実的な視点が目立ち、興味深かったのだ。けれども、総じて言えば、世代の違いは確かに存在したのだが、そのあとの懇親会での意見交換も加わって、議論の交わり方はうまく行ったといえよう。双方の健闘に感謝したい。とりわけ、懇親会では、裏方として「働き方」研究会を支えた財団や機構の方々の役割がたいへん重要であったことを知って、共同研究という放送大学にはない研究方法のプロセスに触れた点でも、学生の方々にはたいへん勉強になった研究会であったといえよう。

 

Img_6386 研究会は西口のオフィスビルに入っている学習センターで行ったのだが、懇親会は東口の飲み屋街で行われたのだ。それにしても、その通りの猥雑さにはびっくりしたのだった。さいたまの「歌舞伎町」という雰囲気だといえばわかるだろうか、大宮という都市の元気ある姿を見たのだった。

2017/03/10

群馬での合宿

Img_6157 今年も3月を迎えることができたという余韻が1週間経ってもまだある。原稿を出して、ホッとする余裕ができたことを喜んでいる。さて、この余韻の続いている時期に毎年恒例となった、「社会と産業」コースの先生方との合宿への参加のために群馬へ向かう。Img_6168 もちろん、自由参加の私費旅行なのだが、ほぼ9割の先生方が参加するのだ。これまで、K先生の地元である群馬の湯宿温泉で開かれてきている。

 

近年、東京駅のエキナカが充実してきていて、昔であったら駅弁を買い込んで、列車の中で食べるのだが、今はそれよりも、暖かい昼食をエキナカでしっかり食べてから、Img_6346 新幹線へ乗り込んだ方が、ゆったりとする気がするくらいなのだ。新幹線が速すぎて、上毛高原までの間に弁当を食べ、さらに列車を楽しむ余裕がない。

 

トンネルを抜けると、雪が残っているという毎年恒例の情景にも、慣れることがない。その山の頂に見える雪に向かい、バスは赤谷川に沿って、ずっと登っていく。Img_6130 三国街道の須川宿で降りると、そこには手作り工房が並んでいて、「たくみの里」が展開している。今年も昨年と同様に、ふっと顔あげると、H先生が目の前を歩いている。6回目の探訪となるらしいのだが、須川宿の郷土記念館から出てきたところだとおっしゃっていた。これも昨年と同様なのだが、山椒の店へ入って、甘酒を1杯いただく。Img_6159 夜のためのブルーベリージュースを農協で購入して、いつもながらの宿場町の「中央用水構造」についての雑談をしながら、雪が1メートルほど残る山道を、須川宿から湯宿温泉へ下る。

 

Img_6390 早めに宿へ入って、早速1度目の温泉風呂へ浸かる。じんじんと突き刺すくらい熱い湯が、この湯宿温泉の特色で、丸い湯船に身体を投げ出すと、肩こりや腰の痛みなどが吹き飛んでしまうのを覚える。決してキツくはないのだが、硫黄の香りがなんとなく漂ってきて、頭も刺激する。

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Img_6381 そもそもこの合宿の目的は、歓送迎会なのだが、大学に関する議論や研修として計画されたという昔の経緯もあるために、食事の前には、真面目な議論が行われることになっている。Img_6177 今年も真面目すぎて食事時間に食い込むくらいの議論を行ってしまった。Img_6379 程よいところで、M先生がそろそろ食事にしませんか、とにこやかに提案してくださったので、ようやくにして議論の方はめでたく終了となり、本来の歓送迎会となった。

 

Img_6176 今年度末に退任なさるK副学長とH先生のご挨拶は、放送大学での人生のあり方を感じさせるものだった。また、R先生が新任として4月から加わるので、この合宿にも参加してきていた。料理は、ヤマメの塩焼きをはじめとして、お腹いっぱいになるほどだった。

 

Img_6188 次の日には、午前中いくつかのグループに分かれて行動して、最終的に12時に集合して、これも恒例となった「たくみの里食堂」にて、ジビエ料理をいただくことになっている。わたしたちは、地元のK先生の運転で、須川宿、相俣宿、猿ヶ京に連なる宿場町であった、「永井宿」へ向かった。Img_6193 同行のH先生に寄れば、もしかしたら、宿場の中央用水構造の資料も手に入れることができるかもしれないとおっしゃるのだった。

 

Img_6199 標高がだいぶ上がってきていることこともあって、永井宿ではやはり雪が降っていた。K先生が地元のかたに昔の用水の様子を聞いてくださったりして、それなりの収穫があったのだ。Img_6203 また、古い旅館だったような建物も残っていて、柱に施された修飾模様なども凝った造りを残していた。三国街道の華やかなりし頃をしのぶのに十分であったのだ。Img_6214_2 残念ながら、冬季には資料館が閉じられていて、資料そのものは見ることができなかったけれど。同様にして、猿ヶ京温泉にある関所跡・役宅跡なども、閉まっていて中までは見ることができなかった。Img_6250 その代わりに、食堂への途中、相俣ダムに寄ったのだが、そこでの流木が印象に残った。Img_6266 「流木はゴミなのか、資源なのか」という問いかけも面白い視点だと思ったのだ。

 

「たくみの里」に戻って、初めてカスタネット工房の展示を見ることができた。Img_6281 日本のカスタネットの多くがここで作られているのだそうだ。それは、「赤谷プロジェクト」という林業プロジェクトとネットワークを形成していて、間伐材などを有効利用したり、広葉樹の植林などを行ったりしているのだそうだ。Img_6284 ブナやナラ、サクラなどの木工の材料となるような、樹木のプロジェクトが形成されているのを見せていただいたのだ。

 

Img_6141 今年の「たくみの里」での収穫は、これも毎年訪れている革工房「KURO」でいくつかの革製品を購入したことだ。ぷっくりとした作品を得意としている。Img_6426 この赤いハートの飾りもさることながら、この青いキーフォールダー風のものも面白いのだ。さてクイズなのだが、これは何に使うものでしょうか。Img_6428 それから、ご主人が昨年から今年にかけて店を改装していて、漆喰風に壁を真っ白に塗ってあった。その壁に飾られていた、黒革カバンがとても良かったのだ。Img_6302 2年前にわたしが購入したカバンよりもひとまわり大きなサイズで、柔らかそうなぷっくりしたタイプだ。

 

Img_6136 今年の「たくみの里食堂」のジビエ料理は、イノシシ中心だった。このイノシシ肉のソーセージやベーコンに始まり、山菜のオードブル、焼肉と煮物などが昨年同様に、どんどん続いて出てくる。Img_6310 今年はM先生が、「赤ワインがイノシシ肉に会うのでは」と言出だし、それに応じて、S先生がキャンティワインなどを見繕って持ってきてくださったのだ。

Img_6306Img_6308Img_6309Img_6311Img_6316Img_6317Img_6319Img_6320Img_6321Img_6325Img_6328Img_6331Img_6332Img_6333Img_6335 そして、最後は食堂のご主人の手打ち蕎麦で締めとなったのだ。わたしはここで先生方とはお別れして、ワインと日本酒が相当身体に染み込んでいたので、Img_6336 向かいの喫茶店「マッチ絵の家」の薪ストーブの前で、しばし読書し酔いを冷ますことにした。Img_6154 薪ストーブの暖かさは、時間の進行を緩くするのだった。

Img_6342

夕方になって、湯宿温泉に帰り、宿の外湯を訪れることにする。Img_6338 4つの外湯があり、その中で最も古い建物が使われているという「松の湯」へ行く。Img_6362 昔からこの湯が好きで通ってきているという、地元の60歳くらいの方と一緒になった。Img_6360 お話を聞きながら、じっくりと温まる。この4つの外湯は、地元の70軒くらいの共同体によって維持されていて、各世帯は月に1500円費用負担しているとのことだった。これで、清掃代などが支払われているらしい。お湯は湯本温泉の源泉から大量に供給されている。この湯宿温泉のすべての泊り客は、心付けを払えば、これらの外湯に入って良いことになっている。鍵を宿のフロントで借りることができるのだ。Img_6361 4つも外湯があるというのは珍しいらしく、松の湯の帰りに、入り口で5人ほどの若い男女の温泉マニアの人々に呼び止められ、お湯の様子を聞かれてしまったのだ。お湯の効用は素晴らしく、暖房がいらないほど、布団の中でもポカポカとしてくるのだった。Img_6376

2017/03/05

牛久でゼミ

Img_5947 牛久で大学院ゼミを開催した。修士のGさんが今年度の論文テーマを、茨城県牛久市の「まちづくり」としていたので、それではみんなで見に行こうということになり、今月の修士課程ゼミナールは上野から常磐線に乗って1時間ほどの距離にある牛久まで行って、開くことにしたのだ。修士OBIさん、Fさん、Yさん、Hさんも参加して、賑やかな小ゼミ旅行となった。

 

Img_5891 牛久市は、冬場所に優勝し見事横綱となった、「稀勢の里」の故郷だということで、最近有名になった。東口駅前には、彼の手形を飾った碑も立っていた。Img_5914 駅前の整備も終わり、イタリアのキャンティ市から輸入した明るい色の赤レンガが敷き詰められていて、一見順調にまちづくりが進んでいるように見える。

 

Img_5899 けれども、ひとたび西口駅前の商業施設に入ると、そこはシャッター街となっていた。この牛久駅の西口正面のビルには、関西資本のスーパーマーケットの「イズミヤ」が入っていたのだが、先月30年の歴史を閉じ撤退し、その煽りで1階から3階まで、専門店街が軒並みシャッターを閉ざしていた。Img_6118 30年間といえば、やはりひと時代潜り抜けたということではなかろうか。駅広場にあったという、コンビニも閉められ、その二階のチェーン居酒屋も撤退したそうだ。駅のドラッグストアも近々撤退するそうで、牛久駅近辺は、転換期(衰退的)の真っ最中ということだ。Img_6116 これほど、一気に転換期を迎える市中央というのも、珍しいのではないかと思われる。その意味では、Gさんにとっては研究するには困難な題材ではあるが、問題状況のタイミング良い時に取り掛かったと言えるのではないだろうか。

 

Img_5885 なぜ街の衰退がこれほど急激に進んでいるのだろうか。いくつかの要因があるのだが、Gさんが指摘する象徴的な出来事を挙げるならば、最盛期にはJR牛久駅を利用する人が、2万人を超えていたのが、近年1万人程度になって、半減したということだ。Img_5926 都市のスプロール化が進んで、膨張した働く世代が、一挙に減ってしまったということらしい。けれども、人口は8万人を超えていて、この変動はあまりないということだ。つまり、都市内容の性格が変化してきたということになる。

 

Img_5937 さて、今日の見学のメインは、駅から徒歩10分ほどのところにある。立志伝中の人物である、神谷伝兵衛が創立した、重要文化財の建物「シャトー・カミヤ」だ。日本で初めて本格的なワイン醸造所を建てた、神谷伝兵衛とはどのような人物だったのだろうか。

 

Img_5958 面白かったのは、3点である。一つは、神谷伝兵衛の企業家的性格である。なぜ彼は明治期にこのシャトー・カミヤを中心として、成功したのだろうか、という点である。二つは「シャトー・カミヤ」は牛久のまちづくりにとって、どのような意味を持ちうるのだろうかという点である。三つには、牛久市の現状と課題は何か、という点である。Img_5970 二つ目と三つ目については、Gさんの個人的なテーマ内容であり、そのうち修士論文として成就されるだろうから、その時の発表に注目したいと考えている。また、駅ビルの研修室でのゼミでじっくりと議論したので、ここでは触れないことにする。

 

Img_5982 第一の点は、面白かった。印象的な物言いをするならば、神谷伝兵衛の本質は葡萄作りの農民体質だったのか、それとも営利的な企業家体質だったのかという点である。Img_6031 シャトー・カミヤは、確かに明治期(今から100年前)にはフランスに学んだ本格的ワイン醸造所として出発した。けれども、明らかにそこからの変質があり、これがシャトー・カミヤの成功理由であったのではないだろうか。

 

Img_6027 蜂印ハニーワインをご存知の方は多くいらっしゃるだろう。この甘みを加えたワインが、赤玉ポートワーンと並んで、戦後まで日本人のワインの中心を占めてきたのだが、その基礎を作った一人が神谷伝兵衛だったのだ。どのようなワインが日本人に合うのかを、起業家としてわかっていたのが、神谷伝兵衛だったとわたしは思う。明治期においてはまだ本格的ワインは日本人の趣味には合わず、ハニーワインを売ったというところに、神谷伝兵衛の企業家精神を見るのだ。Img_6018 そして、これに加えて、浅草の「神谷バー」で当たりをとった「電気ブラン」。これもブランディーに手を加えて、日本人向けにしたものであり、単なる洋物のまねではなく、日本人の嗜好に合わせた洋酒作りを行ったのが、神谷伝兵衛の成功物語なのだ。

 

Img_6128 電気ブランの名称由来が記念館に書かれていた。なぜ「電気」なのかといえば、わたしは「ビリビリ」と舌へくるからだと思い込んでいたのだが、そうではなく、神谷伝兵衛のマーケティング能力からの命名だそうだ。つまり、当時流行してきた電灯や電話などに使われている「電気」という言葉をそのままブランディーの名前に持ってきたらしいのだ。Img_6048 たとえば、「超伝導うなぎ」などという命名と同じなのだ。伝兵衛はかなりキャッチーな志向を狙っていたことがわかるのだ。

 

Img_6032 神谷伝兵衛の企業家としてのマーケティング能力は相当高かったと思われる。まず、若い頃に横浜の居留地でワインと出会った後、酒を巡る様々な業界を渡り歩いて、最終的に牛久の土地を購入している。Img_5977 けれども、電気ブランでわかるように、牛久だけに閉じこもらずに、浅草にアンテナショップを開店させたのも、現代的な広告宣伝方法を先取りしている。また、日本酒の宣伝ポスターによく使われていた、美人画ポスターを取り入れたり、新聞広告でのイラスト記事を作ったりしていているのが、記念館を見て回るとわかってくる。Img_6034 最初は、ワイン醸造所のぶどう酒造りの機械・機器類に目を奪われていたのだが、どうやら違っていることに気がついたのだった。

 

Img_5954 けれども、100年経ってみてどうだろうか。ここで勝沼のワインと比べてみたい。 ほぼ同時代に、両者ともにフランスへ技術者を派遣して、ワイン造りをはじめた。勝沼では、本格的ワインでは、数々の失敗を重ね、また日本人の嗜好はなかなかワインを受け入れるには至らなかった。Img_6015 主たる企業も倒産してしまう。これに対して、シャトー・カミヤでは本格的ワインは脇に置いて、日本人の好みに合うワインやブランディーをヒットさせ、かなりの成功を当初から納めた。この違いは大きかったといえるだろう。

 

Img_5994 けれども、現在はどうだろうか。明らかに、ワイン醸造所の集積では、牛久に対して、勝沼は圧倒しているといえるだろう。ここに、産業というものの難しさがあるといえる。短期的に営利的に成功しても、必ずしも100年後にもその成功が持続するとは言えないのだ。Img_5916 牛久では、ワイン製造の時期が早くに終結したぶんだけ、営利性の強い観光・販売の面で強みを見せる時代へ早めに入っていくことになったのだ。さて、どちらの方がよかっただろうか。100年間の年表をみんなで見ながら、議論のたねは尽きなかったのだった。

 

Img_6121 昼食はもちろんワインを飲みながら、肉料理ランチをいただく。重要文化財のレンガ建ての昔の貯蔵庫が、レストランに生まれ変わっているのだ。また、今日は日曜日だということもあって、団体客が大型バスで押し寄せていた。バスの表示を見ていたら、建材メーカーの接待旅行の途中のようだった。帰りも、牛久市のコミュニティバスで、駅に向かった。Img_5883 駅ビルはこのように空いている分だけ、ゼミに使える研修室が備わっているのであって、都市の衰退ということも、わたし達のような有閑活用グループにとっては、悪い事態ではないのだ、と考えた次第である。議論をして、その後もう一度、イタリアンの店のワインで乾杯して、上野行きの常磐線に乗ったのだった。

 

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プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。