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2017年3月に作成された投稿

2017/03/10

群馬での合宿

Img_6157 今年も3月を迎えることができたという余韻が1週間経ってもまだある。原稿を出して、ホッとする余裕ができたことを喜んでいる。さて、この余韻の続いている時期に毎年恒例となった、「社会と産業」コースの先生方との合宿への参加のために群馬へ向かう。Img_6168 もちろん、自由参加の私費旅行なのだが、ほぼ9割の先生方が参加するのだ。これまで、K先生の地元である群馬の湯宿温泉で開かれてきている。

 

近年、東京駅のエキナカが充実してきていて、昔であったら駅弁を買い込んで、列車の中で食べるのだが、今はそれよりも、暖かい昼食をエキナカでしっかり食べてから、Img_6346 新幹線へ乗り込んだ方が、ゆったりとする気がするくらいなのだ。新幹線が速すぎて、上毛高原までの間に弁当を食べ、さらに列車を楽しむ余裕がない。

 

トンネルを抜けると、雪が残っているという毎年恒例の情景にも、慣れることがない。その山の頂に見える雪に向かい、バスは赤谷川に沿って、ずっと登っていく。Img_6130 三国街道の須川宿で降りると、そこには手作り工房が並んでいて、「たくみの里」が展開している。今年も昨年と同様に、ふっと顔あげると、H先生が目の前を歩いている。6回目の探訪となるらしいのだが、須川宿の郷土記念館から出てきたところだとおっしゃっていた。これも昨年と同様なのだが、山椒の店へ入って、甘酒を1杯いただく。Img_6159 夜のためのブルーベリージュースを農協で購入して、いつもながらの宿場町の「中央用水構造」についての雑談をしながら、雪が1メートルほど残る山道を、須川宿から湯宿温泉へ下る。

 

Img_6390 早めに宿へ入って、早速1度目の温泉風呂へ浸かる。じんじんと突き刺すくらい熱い湯が、この湯宿温泉の特色で、丸い湯船に身体を投げ出すと、肩こりや腰の痛みなどが吹き飛んでしまうのを覚える。決してキツくはないのだが、硫黄の香りがなんとなく漂ってきて、頭も刺激する。

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Img_6381 そもそもこの合宿の目的は、歓送迎会なのだが、大学に関する議論や研修として計画されたという昔の経緯もあるために、食事の前には、真面目な議論が行われることになっている。Img_6177 今年も真面目すぎて食事時間に食い込むくらいの議論を行ってしまった。Img_6379 程よいところで、M先生がそろそろ食事にしませんか、とにこやかに提案してくださったので、ようやくにして議論の方はめでたく終了となり、本来の歓送迎会となった。

 

Img_6176 今年度末に退任なさるK副学長とH先生のご挨拶は、放送大学での人生のあり方を感じさせるものだった。また、R先生が新任として4月から加わるので、この合宿にも参加してきていた。料理は、ヤマメの塩焼きをはじめとして、お腹いっぱいになるほどだった。

 

Img_6188 次の日には、午前中いくつかのグループに分かれて行動して、最終的に12時に集合して、これも恒例となった「たくみの里食堂」にて、ジビエ料理をいただくことになっている。わたしたちは、地元のK先生の運転で、須川宿、相俣宿、猿ヶ京に連なる宿場町であった、「永井宿」へ向かった。Img_6193 同行のH先生に寄れば、もしかしたら、宿場の中央用水構造の資料も手に入れることができるかもしれないとおっしゃるのだった。

 

Img_6199 標高がだいぶ上がってきていることこともあって、永井宿ではやはり雪が降っていた。K先生が地元のかたに昔の用水の様子を聞いてくださったりして、それなりの収穫があったのだ。Img_6203 また、古い旅館だったような建物も残っていて、柱に施された修飾模様なども凝った造りを残していた。三国街道の華やかなりし頃をしのぶのに十分であったのだ。Img_6214_2 残念ながら、冬季には資料館が閉じられていて、資料そのものは見ることができなかったけれど。同様にして、猿ヶ京温泉にある関所跡・役宅跡なども、閉まっていて中までは見ることができなかった。Img_6250 その代わりに、食堂への途中、相俣ダムに寄ったのだが、そこでの流木が印象に残った。Img_6266 「流木はゴミなのか、資源なのか」という問いかけも面白い視点だと思ったのだ。

 

「たくみの里」に戻って、初めてカスタネット工房の展示を見ることができた。Img_6281 日本のカスタネットの多くがここで作られているのだそうだ。それは、「赤谷プロジェクト」という林業プロジェクトとネットワークを形成していて、間伐材などを有効利用したり、広葉樹の植林などを行ったりしているのだそうだ。Img_6284 ブナやナラ、サクラなどの木工の材料となるような、樹木のプロジェクトが形成されているのを見せていただいたのだ。

 

Img_6141 今年の「たくみの里」での収穫は、これも毎年訪れている革工房「KURO」でいくつかの革製品を購入したことだ。ぷっくりとした作品を得意としている。Img_6426 この赤いハートの飾りもさることながら、この青いキーフォールダー風のものも面白いのだ。さてクイズなのだが、これは何に使うものでしょうか。Img_6428 それから、ご主人が昨年から今年にかけて店を改装していて、漆喰風に壁を真っ白に塗ってあった。その壁に飾られていた、黒革カバンがとても良かったのだ。Img_6302 2年前にわたしが購入したカバンよりもひとまわり大きなサイズで、柔らかそうなぷっくりしたタイプだ。

 

Img_6136 今年の「たくみの里食堂」のジビエ料理は、イノシシ中心だった。このイノシシ肉のソーセージやベーコンに始まり、山菜のオードブル、焼肉と煮物などが昨年同様に、どんどん続いて出てくる。Img_6310 今年はM先生が、「赤ワインがイノシシ肉に会うのでは」と言出だし、それに応じて、S先生がキャンティワインなどを見繕って持ってきてくださったのだ。

Img_6306Img_6308Img_6309Img_6311Img_6316Img_6317Img_6319Img_6320Img_6321Img_6325Img_6328Img_6331Img_6332Img_6333Img_6335 そして、最後は食堂のご主人の手打ち蕎麦で締めとなったのだ。わたしはここで先生方とはお別れして、ワインと日本酒が相当身体に染み込んでいたので、Img_6336 向かいの喫茶店「マッチ絵の家」の薪ストーブの前で、しばし読書し酔いを冷ますことにした。Img_6154 薪ストーブの暖かさは、時間の進行を緩くするのだった。

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夕方になって、湯宿温泉に帰り、宿の外湯を訪れることにする。Img_6338 4つの外湯があり、その中で最も古い建物が使われているという「松の湯」へ行く。Img_6362 昔からこの湯が好きで通ってきているという、地元の60歳くらいの方と一緒になった。Img_6360 お話を聞きながら、じっくりと温まる。この4つの外湯は、地元の70軒くらいの共同体によって維持されていて、各世帯は月に1500円費用負担しているとのことだった。これで、清掃代などが支払われているらしい。お湯は湯本温泉の源泉から大量に供給されている。この湯宿温泉のすべての泊り客は、心付けを払えば、これらの外湯に入って良いことになっている。鍵を宿のフロントで借りることができるのだ。Img_6361 4つも外湯があるというのは珍しいらしく、松の湯の帰りに、入り口で5人ほどの若い男女の温泉マニアの人々に呼び止められ、お湯の様子を聞かれてしまったのだ。お湯の効用は素晴らしく、暖房がいらないほど、布団の中でもポカポカとしてくるのだった。Img_6376

2017/03/05

牛久でゼミ

Img_5947 牛久で大学院ゼミを開催した。修士のGさんが今年度の論文テーマを、茨城県牛久市の「まちづくり」としていたので、それではみんなで見に行こうということになり、今月の修士課程ゼミナールは上野から常磐線に乗って1時間ほどの距離にある牛久まで行って、開くことにしたのだ。修士OBIさん、Fさん、Yさん、Hさんも参加して、賑やかな小ゼミ旅行となった。

 

Img_5891 牛久市は、冬場所に優勝し見事横綱となった、「稀勢の里」の故郷だということで、最近有名になった。東口駅前には、彼の手形を飾った碑も立っていた。Img_5914 駅前の整備も終わり、イタリアのキャンティ市から輸入した明るい色の赤レンガが敷き詰められていて、一見順調にまちづくりが進んでいるように見える。

 

Img_5899 けれども、ひとたび西口駅前の商業施設に入ると、そこはシャッター街となっていた。この牛久駅の西口正面のビルには、関西資本のスーパーマーケットの「イズミヤ」が入っていたのだが、先月30年の歴史を閉じ撤退し、その煽りで1階から3階まで、専門店街が軒並みシャッターを閉ざしていた。Img_6118 30年間といえば、やはりひと時代潜り抜けたということではなかろうか。駅広場にあったという、コンビニも閉められ、その二階のチェーン居酒屋も撤退したそうだ。駅のドラッグストアも近々撤退するそうで、牛久駅近辺は、転換期(衰退的)の真っ最中ということだ。Img_6116 これほど、一気に転換期を迎える市中央というのも、珍しいのではないかと思われる。その意味では、Gさんにとっては研究するには困難な題材ではあるが、問題状況のタイミング良い時に取り掛かったと言えるのではないだろうか。

 

Img_5885 なぜ街の衰退がこれほど急激に進んでいるのだろうか。いくつかの要因があるのだが、Gさんが指摘する象徴的な出来事を挙げるならば、最盛期にはJR牛久駅を利用する人が、2万人を超えていたのが、近年1万人程度になって、半減したということだ。Img_5926 都市のスプロール化が進んで、膨張した働く世代が、一挙に減ってしまったということらしい。けれども、人口は8万人を超えていて、この変動はあまりないということだ。つまり、都市内容の性格が変化してきたということになる。

 

Img_5937 さて、今日の見学のメインは、駅から徒歩10分ほどのところにある。立志伝中の人物である、神谷伝兵衛が創立した、重要文化財の建物「シャトー・カミヤ」だ。日本で初めて本格的なワイン醸造所を建てた、神谷伝兵衛とはどのような人物だったのだろうか。

 

Img_5958 面白かったのは、3点である。一つは、神谷伝兵衛の企業家的性格である。なぜ彼は明治期にこのシャトー・カミヤを中心として、成功したのだろうか、という点である。二つは「シャトー・カミヤ」は牛久のまちづくりにとって、どのような意味を持ちうるのだろうかという点である。三つには、牛久市の現状と課題は何か、という点である。Img_5970 二つ目と三つ目については、Gさんの個人的なテーマ内容であり、そのうち修士論文として成就されるだろうから、その時の発表に注目したいと考えている。また、駅ビルの研修室でのゼミでじっくりと議論したので、ここでは触れないことにする。

 

Img_5982 第一の点は、面白かった。印象的な物言いをするならば、神谷伝兵衛の本質は葡萄作りの農民体質だったのか、それとも営利的な企業家体質だったのかという点である。Img_6031 シャトー・カミヤは、確かに明治期(今から100年前)にはフランスに学んだ本格的ワイン醸造所として出発した。けれども、明らかにそこからの変質があり、これがシャトー・カミヤの成功理由であったのではないだろうか。

 

Img_6027 蜂印ハニーワインをご存知の方は多くいらっしゃるだろう。この甘みを加えたワインが、赤玉ポートワーンと並んで、戦後まで日本人のワインの中心を占めてきたのだが、その基礎を作った一人が神谷伝兵衛だったのだ。どのようなワインが日本人に合うのかを、起業家としてわかっていたのが、神谷伝兵衛だったとわたしは思う。明治期においてはまだ本格的ワインは日本人の趣味には合わず、ハニーワインを売ったというところに、神谷伝兵衛の企業家精神を見るのだ。Img_6018 そして、これに加えて、浅草の「神谷バー」で当たりをとった「電気ブラン」。これもブランディーに手を加えて、日本人向けにしたものであり、単なる洋物のまねではなく、日本人の嗜好に合わせた洋酒作りを行ったのが、神谷伝兵衛の成功物語なのだ。

 

Img_6128 電気ブランの名称由来が記念館に書かれていた。なぜ「電気」なのかといえば、わたしは「ビリビリ」と舌へくるからだと思い込んでいたのだが、そうではなく、神谷伝兵衛のマーケティング能力からの命名だそうだ。つまり、当時流行してきた電灯や電話などに使われている「電気」という言葉をそのままブランディーの名前に持ってきたらしいのだ。Img_6048 たとえば、「超伝導うなぎ」などという命名と同じなのだ。伝兵衛はかなりキャッチーな志向を狙っていたことがわかるのだ。

 

Img_6032 神谷伝兵衛の企業家としてのマーケティング能力は相当高かったと思われる。まず、若い頃に横浜の居留地でワインと出会った後、酒を巡る様々な業界を渡り歩いて、最終的に牛久の土地を購入している。Img_5977 けれども、電気ブランでわかるように、牛久だけに閉じこもらずに、浅草にアンテナショップを開店させたのも、現代的な広告宣伝方法を先取りしている。また、日本酒の宣伝ポスターによく使われていた、美人画ポスターを取り入れたり、新聞広告でのイラスト記事を作ったりしていているのが、記念館を見て回るとわかってくる。Img_6034 最初は、ワイン醸造所のぶどう酒造りの機械・機器類に目を奪われていたのだが、どうやら違っていることに気がついたのだった。

 

Img_5954 けれども、100年経ってみてどうだろうか。ここで勝沼のワインと比べてみたい。 ほぼ同時代に、両者ともにフランスへ技術者を派遣して、ワイン造りをはじめた。勝沼では、本格的ワインでは、数々の失敗を重ね、また日本人の嗜好はなかなかワインを受け入れるには至らなかった。Img_6015 主たる企業も倒産してしまう。これに対して、シャトー・カミヤでは本格的ワインは脇に置いて、日本人の好みに合うワインやブランディーをヒットさせ、かなりの成功を当初から納めた。この違いは大きかったといえるだろう。

 

Img_5994 けれども、現在はどうだろうか。明らかに、ワイン醸造所の集積では、牛久に対して、勝沼は圧倒しているといえるだろう。ここに、産業というものの難しさがあるといえる。短期的に営利的に成功しても、必ずしも100年後にもその成功が持続するとは言えないのだ。Img_5916 牛久では、ワイン製造の時期が早くに終結したぶんだけ、営利性の強い観光・販売の面で強みを見せる時代へ早めに入っていくことになったのだ。さて、どちらの方がよかっただろうか。100年間の年表をみんなで見ながら、議論のたねは尽きなかったのだった。

 

Img_6121 昼食はもちろんワインを飲みながら、肉料理ランチをいただく。重要文化財のレンガ建ての昔の貯蔵庫が、レストランに生まれ変わっているのだ。また、今日は日曜日だということもあって、団体客が大型バスで押し寄せていた。バスの表示を見ていたら、建材メーカーの接待旅行の途中のようだった。帰りも、牛久市のコミュニティバスで、駅に向かった。Img_5883 駅ビルはこのように空いている分だけ、ゼミに使える研修室が備わっているのであって、都市の衰退ということも、わたし達のような有閑活用グループにとっては、悪い事態ではないのだ、と考えた次第である。議論をして、その後もう一度、イタリアンの店のワインで乾杯して、上野行きの常磐線に乗ったのだった。

 

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プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。