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2016/12/23

映画「君の名は。」を観る

Poster 先日、パン日和「あをや」を訪れたときに、O先生と「あをや」のご夫妻それぞれ、アニメ映画「君の名は。」を今度見ましょうということになっていた。動機は不純で、なぜ現在の日本人がこぞって、このアニメを見たのか、ということを知りたいからだ、ということだ。今年の8月に封切られ、この12月の時点で、宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」を抜いて、観客動員数と興行収入で日本のアニメ映画歴代1位となっていた。とくに、日常生活学者である、O先生は何故なのかを説明しなければならないという、義務感を強く抱くほどになっているとのことだった。そういうレベルまで達するほど人気が高く、2016年の一つの社会現象になっていたのだ。これは今年の、細やかではあるが、日本特有の事件ということになるであろう。

 

大方の見るところでは、今回の動員数増大の要因は、供給側にあるという、たとえば雑誌アエラなどの意見が有力な見方だとされている。新海監督作品の東宝の映画館にかける数が、前回は23館に止まっていたのが、今回は一気に300館に増えたから、販売力の強化が観客動員数に働いているものだ、という見解である。それじゃ、観客の方はどうだったのか、という疑問は残るのだ。

 

「出張先で映画を観る」シリーズの本年最終回を飾ったのは、この映画だった。いつも訪れる、四条にある京都シネマでは、最終回時間が早く、仕事が済むまでには、すべての回が上映開始していたこともあって、それならばというので、同じく四条にある京都マックスシネマへ、サンドウィッチと自前のコーヒーを持って駆けつける。客層がだいぶ異なり、わたしと世代のかなり異なる若者のカップルが多かったが、その中に混じって銀幕に集中して目を凝らしたのだった。京都では、やはり観光客であるという共通項があるので、世代の違いなどは超えてしまうところが良いところなのだ。

 

このような映画紹介では、ネタバレを注意しなければならないのだが、すでに8月公開であることもあって、またこれだけの観客動員数を誇れば、ある程度の筋書きは漏れている。そこで、ここではネタバレすれすれの最小限の情報を使うことをためらわずに行い、なぜ日本人が「君の名は。」をこれほど観たのかを僭越ながら考えてみたいと思う。

 

まず、このアニメ映画は前半と後半に分かれている。前半に感動したのか、それとも後半に感動したのか、という点で、見解は分かれるのではないかと思われる。前半は恋愛劇という普遍性を持っていて、これだけでも動員数はかなり稼いだと考えられる。後半は災害劇という特殊性を持っていて、現在の日本人全体へ影響を与える要素を濃厚に持っていると思われる。

 

前半の恋愛劇では、主人公の高校生男の子「タキ」と女の子「ミツハ」が夢の中で入れ替わる。片方は東京の男子校、もう片方は岐阜県の高校生で、それまで会ったことがない二人が夢を通じて、意識が入れ替わる。それぞれの人間の人格・肉体はそのままの状態を維持するが、行動する感性と理性がときどき代わってしまうという想定だ。もちろん、この設定自体は荒唐無稽な設定であることは明らかだ。

 

けれども、わたしたちにとって普遍的な状況が書き込まれていないとは言い切れない部分がこの映画の前半では表現されている。それは、他者が自分の意識の中に入ってくるときには、どのような状態になるのか、ということだ。たとえば、わたしの場合には、他者たとえば妻がわたしの意識の中に入ってきた時、どのような状態であったのかを思い出してみると、それはまさにふたりが同一状況を考える状態がそこに現われたという、普遍的な状況がそこには存在した。けれども、この時の記憶は一体誰の記憶なのだろうか、という単純な疑問は厳然と残るのだ。この普遍的なことを「入れ替わり」という状況で描いている点で、みんなの共感を得たと言えると思われる。この共感が一つのポイントであることは間違いないだろう。

 

けれども、映画の前半の恋愛劇以上に日本人の共感を呼んだのは、やはり後半の災害劇だったと思われる。第1に、ここ数十年の間にほぼ日本人全体ひとりひとりが何らかの災害に遭遇したという体験が蓄積されてきており、これらの災害はそれぞれ異なるけれども、共通して存在している日本人の間の「不確実さ」というものの共通感覚が存在するようになっているということだろう。この共通感覚をどのように表現したら良いのか、ということをみんなが求めていたということだ。あたかも空から降ってくるような、これらの災害を一体わたしたちはどのように受け止めたら良いのだろうかという、目の前の現実が日本人共通に存在するのだ。

 

第2に、災害でバラバラになってしまった都市や農山村・漁村が、もしもう一度何かを一緒に行おうと協力するのならば、そのときどのようなところまで降りていけば、その一致を見つけることができるだろうか。今もし日本人の心を一致させることができるとしたら、それはどのようなことなのだろうか、という社会の現状をうまくすくい取っている映画だと思われる。それぞれの災害体験は、異なるものであったけれども、日本人の共通体験の底にあるものが何なのかを、イラスト的に単純明快に、情報量を少なくズバッと描き出したのが、この映画なのではないかと思われるのだ。このことが後で考えてみれば、安易な描き方だと批判が出るのかもしれないのだが、少なくとも2016年のこの時期に必要とされた描き方だったと思われるのだ。

 

そして、災害の記憶という問題が提起されていた。記憶が残っていれば、バラバラになっても、それを結合する強い力が再生される可能性は残されているのだが、一度記憶が途絶えるならば、人と人の結びつきは完全に失われてしまうという、災害の現実があるのだ。

 

第3に、もしこの災害を避けることができたなら、その後の世界がどのようであっただろうかという、災害を受けた人びとの中には、現状維持したかったとする強い願望がある。これは今となっては、果てない願望かもしれないけれども、そして現実は映画のようには反転できないのかもしれないけれども、わたしたちの中には、限りない願望としてまだまだ残っている。これを胸にしまったままでいるよりは、何らかの方法で表に出した方が良いだろう。表現には限りはあるけれども、他方で限りないものを追求したいという強い欲求には止めることはできないものがある。

 

これらから考えるに、わたしの場合には、日本人の心を捉えたのは、やはり後半の災害劇のエピソードではないか、という結論となったのだ。もちろん、この災害劇は前半の恋愛劇と緊密に結びついてはいるのだが。さて、O先生と「あをや」のご夫妻はいかがでしょうか。

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プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。