« 2016年10月 | トップページ | 2016年12月 »

2016年11月に作成された投稿

2016/11/17

逗子で食事して、松本竣介展を観る

Img_5111 「思い立ったら、美術館」という良い習慣をずっと続けていた。身体に良いばかりか、精神衛生上良い効果があったのだ。ところが、気がついて見たら、昨年の今頃から、途絶えてしまっている。忙しさを理由にしたくないので、考えて観ると、つまりは良い展覧会がなかったということに落ち着くのだ。やはり、このようなところで、鎌倉の県立美術館が閉鎖されたということが効いているのではないだろうかと思ってしまうのだ

 

Img_5114 秋の冷気が朝早く地面に広がっていて、いくら歩いても汗が出ないのだ。空はすっかり晩秋の快晴で、散歩日和だ。妻と一緒に歩いて、上大岡へ出る。これまでと同様に、逗子周りで行く、鎌倉の美術館巡りの復活である。逗子の街は余所者には何となくよそよそしく感ずる街なのだ。それは、わたしの偏見かもしれないが、逗子の多くの住人がやはりみんな余所者だったからで、後から逗子市民になった人々が多いのではないかと考えている。鎌倉は高級住宅地のイメージが強いが、逗子は高級リゾート地のイメージで、つねに余所者がやってくる街なのだ。Img_5115 だから、逗子の街がよそよそしいのは当然で、わざと距離をとって、互いの余所者同士の摩擦を避けているようにも思えるのだった。もっとも、それは地元に昔からある魚屋さんなどで、観光客として買い物などすると、表に現れてきて、このクールさが逗子の特色なのだと思うようになるのだ。

 

Img_5119 まずは逗子に着いたら、昼食だ。いつもの「ヴェスパ」でピザとパスタだ。あいにく、席は満杯で、入口付近の真ん中の席になってしまったけれども、話をしているうちに、マリゲリータが運ばれ、クリームパスタもテーブルに乗って、近くの石焼窯の暖かさが伝わってくる。Img_1643 一人の男、一人の女の客も多く、外国人やサラリーマンのランチとして賑わっている。外国人の方は、肉なしでと後から注文を出していたが、習慣が異なる人を扱うことに慣れているのも、逗子の街の特徴だと思われる。

 

Img_1642 隣の駅なのに、逗子駅と鎌倉駅の、この違いは何なのだ。鎌倉の観光客の数が多く、盛り上がって異常な状態であることは理解できても、これらのほとんどが鶴岡八幡宮に行くのかと思うと、この街の幸福と不幸とを思わずにいられないのだ。Img_1647 足早に混雑している小町通りを通り抜け、でも豆屋の豆の試食はしっかりして、さらにずっと通り抜け、鶴岡八幡宮の横にあった、工事中の県立美術館前を横目で見ながら、県立美術館別館へ急ぐ。

 

Img_5132 松本竣介展がここで頻繁に開かれることについては、県立美術館が代表作の「立てる像」や「Y市の橋」などを持っているためである。それにちょっと個人蔵の作品を加えれば、このような小規模の展覧会は比較的容易にできるのだろうと想像される。今後も小規模で良いから、一年に一回は開いて欲しいのだ。

 

Img_5143 作品の「りんご」や「ニコライ堂」などは何度見ても飽きない。今回はモジリアーニ風やルオー風などの初期の作品が来ていた。これらの他者の作風を模倣した作品が並んでいて、それでもざっと見て行くと、やはり松本俊介風なのだ。

 

最近頼まれて、論文の引用とは何か、という文章をわたしは書いたのだが、引用はまさしく他者の言葉を活用して文章を書くことであり、言葉や作風を真似るということだ。それでも、最後には引用よりも、自分の文章らしさが出なければ、引用の意味がない。Img_5133 他者の言葉でありながら、自分の言葉として表現されてこそ、引用と呼べるのだ。どこで、線を引くことができるのか、と問われても、なかなか明確に答えることができない。けれども、これらの松本俊介の絵を見ていると、モジリアーニ風であってもそれを脱していると感じさせれば、真似しても真似ではないと言えると思われる。

 

Img_5151 先日、K大図書館のポスター掲示を見ていたら、鏑木清方美術館への招待券がもらえるということがあり、それを持って来ていた。静かな住宅街の一角に、アトリエを改造した平屋の洒落た建物で、絵と同時に、その場所を鑑賞したいと思わせる美術館なのだ。Img_5154 小さな展覧会なので、ちょっと散歩がてら一つだけ見たいというのに適した美術館なのだ。今回は、屏風絵の美人画が素敵だった。

 

そのまま、小町通りを下れば駅には近道なのだが、前を行く観光客の多さに、思わず表通りへ出ることにする。Img_5124 すると、横丁にはやはり雑貨の店が綺麗なブルーのショールを出していて、道ゆくものの気を引いている。このまま、参道をくだって、海まで出たい気分もあったのだが、秋がここまで来てしまうと物悲しい気分も手伝って、今日のところはここまでにしようと、来た道を家まで戻ることにしたのだった。久しぶりに随分と歩いた一日となった。Img_5121 Img_5164

2016/11/10

青空と、落葉と、世界と

Img_1623_2

青空と、落葉と、世界と

(オーデン詩へのオマージュ)

紅葉が風に耐えている。

秋の日の遠くまで見通すような青空の中に

萌えたつ葉たちが揺れているのを見ると、

つい足が進んでいくのを覚える。

きのうまでの頭にひびが入るような忙しさと

同じ空間の延長線上に

あっけらかんとした

こんな日常がある。

明治時代に作られた椅子にすわって

昔のことを空想しているようで

どこかで忘れられていた安逸どもが

秋風とともに

身体全体に染み込んでくる。

椅子が青空の中へ飛んでいく。

幼児のクレヨンが

青空に絵を描いていくように。

もし昔の仲間たちがみんな死んでいったとしても

青空に描かれた空想たちがそのまま残ってくれるならば

わたしの書いたことだって、

そんなに非難されることではない。

足腰が立たなくなって

この坂道を這いずり登ったとして

元気に並んで、ピクニックを楽しむ

子供達に反感を抱くこともないだろう。

青空に描かれた空想が子供達に見えないないだろうし、

それらが理解されることもない。

それでも、わたしはそっと足を出すだろう。

老人ホームを夜に抜け出し

時計屋のコチコチと鳴る時間を泳ぐよりは

江戸時代の畑の真ん中に石を見つけて

のぼり旗を立て、

日本中から人びとを呼び出し

踊り出す方が面白いだろう。

青空のもとでこそ

許される祝祭の幕開けだ。

さあ、泣いていても始まらない。

青空の椅子が飛び込んだのは、

百人の会議が繰り広げられている

図書館だ。ちょうど後ろの席では、

大統領選挙の開票ニュースが

告げられている。

共和党がわずかだった差を広げている。

けっしてストイックだとは言えない選挙戦が

終わったことにみんな共感している。

貧しい人も金持ちも

ただ結果を待っている。

公園の片隅の椅子は

青空に描かれた椅子とどこか違う。

世界の人びとを近づけようと

青空の椅子は言っている。

けれども、目の前の椅子は、人びとを

遠ざけている。

現実の椅子は、

すわることは拒否しなくても

すわる人びとを選んでいる。

それが証拠に、椅子と椅子の距離は

会話ができないほど離れてしまっている。

まさに公園を歩いているうちに、

予期せぬことが起こってしまったのだ。

同じ青空のもとで

紅葉は風に揺らいでいる。

先行きのわからない世界を

青空の下の向こう側とこちら側で

計りかねている人びとがいる。

震災の後にも同じように青空が

広がっていて、みんなあっけらかんとした状況を

理解できないでいた。

風が吹いている。

今日も一日が暮れようとしている。

家に帰って、妻と今日を語ろう。

どんな世界が待っていようとも

みんな同じ青空の下にいることだけは

確かなのだから。

Img_1626

2016/11/01

社会経営ジャーナル第4号が発行された

20161031_164537 社会経営ジャーナルの本年度号がようやくできた。5月に原稿提出があって、約半年間かかって、雑誌という形になったのだ。今年度の特徴は、エッセイ風のものよりも、論文調のものが多かった点にある。

第4号はこちらから

http://u-air.net/SGJ/category/journal/

これには幾つもの経緯があって、ほんとうに残念なことだったのだが、査読付きの研究誌「社会経営研究」が休刊となったことだ。いずれこのような事態が起こることは予想していたのだが、意外に早く起こったのは、やはりショックだ。査読付き雑誌の必要性については、博士後期課程ができて、応募者の候補生が数多くいることから、理解されてきているのだ。けれども、査読というのがネックであって、論文審査を厳しく行えば、いくらでも厳しくできるのだ。それで、今回はかなり厳しい方へ振れてしまったのだと言える。つまり、一本も査読でパスしなかったのである。

しかしながら、社会経営ジャーナルの方は、9本の論文執筆があり、例年の倍くらいの分量になった。雑誌というのは、4、5本よりも、やはり9、10本あったほうが、賑やかで良いのではと思っている。もちろん、分量が多くなると、編集委員の担当も増えて、その調整が難しくなるのだが。

もう一つの残念なことは、3年目にして色々なミスが出てきたことだ。3月以前に応募があった早い段階の原稿があったのだが、編集委員会が開かれた時にそれが反映されなかったという事件が起こったことだ。この原稿は、どちらかといえば、エッセイ風の原稿だった。著者のMさんにはたいへん済まない気持ちでいっぱいで、反省している。先日の比較地域研究会でも、話題になった。メールで原稿を管理するシステムに不完全があり、ダウンしている時にこの問題が起こってしまったのだ。メールシステムが万能ではないことを改めて示されて、今後の対応が必要であると考えている。

このような雑誌では、いつも気に留めている人がいることが必要なのだが、やはり編集委員は他に幾つも仕事を持っているために、必ずしもこの雑誌だけに注意しているわけにはいかない。そこで対応策が必要になってくる。複数の方が常にメールをチェックすることを考えているが、うまくいくかどうかは、来年度わかるだろう。

「箸墓」古墳についてのエッセイを書いてくださった、Kさんからはさっそくメールが届き、奈良へ行ってきたことと、エッセイがプリントされたことが重なって、ハッピーな気分なのだそうだ。自分の文章が自己満足だけに終わらずに、人目に晒され、実際に公になることは緊張感があると同時に、「創る」という人間の本能的なものを刺激することは間違いないと思われる。ヴェブレンによれば、このような製作者本能は見せびらかしの本能と紙一重なのだが、ハレやかな気分には比類がないものがある。Mさんからも雑誌を見たという報告が入った。

あれやこれやで、ここ一ヶ月は卒業論文数本と2、3回のやり取りを行い、修士論文数本とこれも2、3回やり取りを行い、さらに社会経営ジャーナルの数本と2、3回やり取りを行ったのだ。これに加えて、放送大学のテキスト2冊の再校と三校の時期が集中して、10月は結局編集する側と、編集される側とで、編集者の苦労と執筆者の楽しみと両方を同時に味わうことになったのだった。

« 2016年10月 | トップページ | 2016年12月 »

社会経営研究配布中

  • 2015study

社会経営ジャーナル配布中

  • 2015journal

開いている講義    「社会的協力論」

  • cooperation

「音を追究する」第13回・第14回

  • art

「多様なキャリアを考える」第2回・第3回・第4回

  • cooperation

「グローバル化と私たちの社会」第11回

  • cooperation
2017年3月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
無料ブログはココログ

Recommend

プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。