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2015年9月に作成された投稿

2015/09/30

O先生とS先生と一緒にラジオ収録

このところ、聴覚空間(oral space)が、どのようにして社会的に構成されるのか、という問題に挑んでいる。挑んでいるというと、完全に舞い上がって、何か新しいことに向かっているように聞こえてしまうが、決してそうではなく、むしろ自分の身の周りのことに、じっと耳を凝らしてみる、という程度のことを行ってきたにすぎない。このような機会を得たのは、放送大学総合科目の「音を追究する」という番組作りに加えていただいたからだ。

ここ数年間、耳を凝らして考えてきたことが、今回ようやく放送大学のテキストに定着できたので、今日はその結果をラジオ収録することになった。放送大学のコミュニケーション学のO先生と臨床心理学のS先生が主任講師で、毎回のラジオ収録をリードしてくださっていて、わたしの回は第13回に当たる。ふつう、複数の人が座談するラジオ番組というのは、シナリオが作りにくいので、どのように進行するのか、たいへん不安があるのだが、すでに数年間の付き合いのあるO先生とS先生なので、その間には暗黙の了解が存在する。安心の程度が格段違うのだ。

どのような身の周りの音を集めたのかをちょっと紹介しておきたい。今回は担当ディレクターのKさんがあちこち車で走り回って、録ってきてくださった。もちろん、わたし自身もCDや自録りのものや、他の様々な音源を手元に置いていたのだが、著作権の問題があって、それをそのままラジオ放送へ出すことができないのだ。それで、著作権に問題のない音源を新たに録ってきてくださったのだ。

ひとつは、わたしたちの住んでいる地域に付随する聴覚空間というものに耳を凝らした。聴覚空間というのは、物理的には音圧(音の大きさ)と、振動数・周波数(音の音色)の二つの軸で捉えられているのだが、社会的構成として考えると、もう一つの軸があるのではないかと思われるのだ。どのくらいの音の強さで、どのくらいの高さの音がその地域で流されるか、ということが、発信者は意識するのだが、それらがどのように受信者に受け止められるのかは、もうひとつの仕組みが存在するのだ。

こう考えると、結構色んな音が社会的に聞こえてくるのだった。集めてきていただいたものの中で、とくにわたしの思い入れのある音は、横浜港の「霧笛」だ。徹夜して、朝のもやの中で、「ボー」と遠音として聞こえてくる音は格別なのだ。横浜の霧笛は、港に近い人にだけ聞こえるのではなく、内陸部のかなり丘の上の方や、谷の合間にまで登ってくる音なのだ。わたしは、横浜でも数回住所を変えているのだが、どこでも耳を凝らせば必ず聞こえてくる音なのだ。音の大きさや周波数の波の形について測ってみれば、40デシベルくらいの小さな音で、100ヘルツくらいの低い音が聴こえてくるだけなのだが、それ以上の、つまりは物理的特性以外の何者かが、作用を及ぼしている。だから、横浜の人はこれを聞くと、横浜人であることを意識するのだと思われる。地域を意識した音については、他にも九十九里町の音や、渋谷区の音、灯台の音なども取り上げたのだ。

もうひとつ力を入れたのが、鐘の音、梵鐘である。旅に出ると、夕方になって、どこからともなく聞こえてくるのが、お寺の鐘の音だ。これには、みんなに一斉に、ある範囲の地域では聞こえてしまうという特性があり、これを利用して、宗教的な意味や、共同体の象徴的な意味に利用されてきた歴史があるのだ。印刷教材では、画家ミレーの「晩鐘」のイメージだと書いておいた。この例として、現存する日本最古の梵鐘の音や、死者を蘇らせる音、さらには、江戸期の「時の鐘」などを取り上げたのだった。妙心寺の鐘、知恩院の鐘、上野寛永寺の鐘などを聞き比べたが、他にも候補に挙がっていた、方広寺や増上寺などは、それだけでまたひとつ、別の番組が作ることができそうで、それでは時間が足りないということで、残念ながら削ることになってしまったくらいだ。外国のチャイムも大方は、削ることになってしまったが、渋いところで、ロンドンのボウ・ベルだけは入れることができたのだった。音だけはたいへん華やかなものが入ったと思う。結論からすれば、社会における感性の問題が大きいということだ。理性的な方法が発達してきたのが、近代社会であるならば、それを見直す契機として、聴覚などの感性の力は、まだまだ見逃せない力を含んでいるように思えた。楽しい録音であった。

番組の内容もさることながら、今回O先生とS先生の労力には感心してしまったのだ。全体で15回にのぼるすべての回に出演して、物理学、音響学、音楽学、心理学、言語学、社会学すべてのテーマに関わってくるのは、たいへんな苦労があると想像される。

たとえば、番組が始まって、わたしの発言するタイミングになって、話し始めたのだが、ちょっと長くなってしまったと見るや、すきをついて、O先生が話を転換してくださった。次に誰が発言するかは、たいがい決めておくのだが、細かいところはアドリブで進めるという、このタイミングの取り方は、ラジオで座談会を行う時の醍醐味で、すべてうまくいくわけではないが、活き活きと番組を保つためには大切なポイントなのだ。それを打ち合わせなしに、苦もなく行うことが可能なのは、やはり放送大学という集積があるからだと思っている。

横浜の大型船の汽笛

https://www.youtube.com/watch?v=aqqPJb7Ex2Y

2015/09/21

「シルバーウィーク」と呼ばれている期間

Img_2289 「シルバーウィーク」と呼ばれている期間に、松本へ来ている。春のゴールデンウィークに対抗して、秋のネーミングを考えたのだそうだ。これが毎年続くのであれば、このような恒常性を思い浮かべるネーミングでよいと思われるが、ここ数年で、2009年と2026年だけだそうだ。Img_2291 それだったら、「葡萄のめぐみウィーク」とか、「宝くじ的ウィーク」とか、「猫のひたいウィーク」とか、という意外性のネーミングの方がずっと罪が軽い。せっかくだから、毎年このシルバーウィークを続けてほしいと思う。

Img_2296 松本へ、来年度の授業番組制作の下準備で来ている。木工関連の取材を続けていて、いくつもの興味深いことに遭遇している。たとえば、極めて当たり前だとこれまで思っていたのだが、木工の職人の人びとが工房を構えるところは、だいたい中山間地域なのだ。だから、適度な都会と適度な田舎の両方が存在している、松本市はちょうどよいロケーションだと思われる。Img_2308 これよりも、都市の機能が薄れてしまうと寂しいし、これよりも田舎性が無くなると、木から離れてしまう。木工の工房のように、生活のそばにあって、なおかつ、生活から離れた仕事をする環境が必要なのだと思われる。

Img_2311 Sさんの店「グレイン・ノート」の二階では、「椅子展’15」が開催されている。今回、わたしは娘を伴って来たので、好都合とばかりに、ビデオ撮影を頼んでしまった。20人の椅子職人作家の椅子をひとつずつ丁寧に撮ってくれた。その間に、数時間かけて、ひとつひとつの椅子に試しに坐りながら、Sさんのお手すきの時間を狙って、いろいろな話を聞いたのだ。

Img_2360 それで気づいたのは、椅子展と家具屋さんの違いだ。椅子がたくさん並んでいるのは、ふつうの家具屋さんと同じだが、それに対して、「椅子展」の椅子は、むしろ椅子の可能性を表していて、生活を超えて、もっと自由な椅子の可能性を示していて、楽しくなってしまうのだ。Img_2353 もちろん、展示即売会なので、売り物であるのだが、それ以上に、椅子はもっと可能性のある道具であって、生活から着かず離れず存在していて、わたしたちの最も身近な道具なのだ、と見ていて改めて思ったのだ。

Img_2354_2 Sさんの話を聞いていたら、民芸の家具を作っている職人の方や、松本市の街起こしに関わっている都市工学の方、さらには鑑賞のため訪れた観光客などが、次から次へ訪れて、話に加わってくださった。たとえば、民芸の方が問題提起していたのは、椅子の柱をつなぐ「抜き」のことだった。伝統的な椅子には、補強のために、「抜き」が存在するが、ほんとうに必要なのだろうか、ということだった。Img_2357 これは、たいへん面白かった。また、伝統の製法と異なるのは、機械をどの程度使うのか、ということにも現れる問題なのだそうだ。かえって、古い機械を改めて買い求めたりするようだ。この辺が、個々に異なる「職人の世界」というものがあり、たいへん面白いところだ。

Img_2358 街おこしの方は、木製ベンチの限界について、述べてくださった。木製ベンチを外に置く場合に考えられる、雨風からの耐久性や、木に対するケアなどを考えると、街のベンチを木製にする危険性はかなりあるようだ。Img_2310 街の壁に据え付けたり、屋根のあるベンチを考えたり、ということも考えられる。などと話していると、いつの間にか時間がどんどん経ってしまったのだった。

Img_2365 長野市からきた老夫婦が、会場をじっくりと見て回っていた。ご主人が今年定年退職を迎えるそうだ。それでというわけでもないのだが、玄関に置くためのスツールとして、木目が綺麗に出た椅子を検討していた。いろいろと坐ってみることができるのは、たいへん良い仕組みで、種類豊富に触って坐ってみることのできる稀有な展覧会だと思った。Img_2367_2 坐って見ると、ワインの試飲と同じように、愛着が湧く椅子と、何も感じない椅子とがほんとうにあるのだ。わたしは、来年の話の素材となるSさんが作った木製椅子を、2脚購入した。どのような話として、これらの椅子が出演してくるのかは、乞うご期待というところだ。

Img_2283 シルバーウィークの観光客で、このグレイン・ノートのある中町通りは、すっかり混んできている。帰りに、縄手通りを抜けて、大名町にある枡形広場の「一箱古本市」を足早に覗きつつ、松本城のイベント公園へ出る。この街には素敵な古本屋がまだまだ健在で、本をめぐる文化が残っている。Img_2388 公園では、昨年も見物した、クラフトビールフェスタが開催されていた。すでに、夕方になっていたので、残り少なくなっていたが、ひとりでビール醸造を行っているというC醸造のIPAエールを飲む。Img_2393 ホップが効いていて、苦味と酸味が良い調合を示していた。ビールを片手に、駅まで急いで歩き、買い物を済ませて、実り多い一日を振り返りながら、電車に揺られた。Img_2411 Img_2404 Img_2400 Img_2398

2015/09/17

雨の中の散歩

Img_1375 このところ、いろいろな締め切りが続いてやってきている。研究雑誌「社会経営研究」「社会経営ジャーナル」の編集も、いくつかの段階の締め切りを経て、佳境に入ってきている。査読が一巡して、編集作業への移行期を迎えている。原稿締め切りのあと、査読結果が届き、編集委員会の原稿整理も進んできた。Img_1377 すこし遅れ気味の作業だが、何とかペースを上げようとみんな頑張っている。いつも無償ながら仕事を引き受けてくださっている、査読担当の放送大学の先生方と編集委員会の方々へ感謝申し上げたい。1日のうち、10分の1ぐらいの時間しかこの作業へ割くことができないために、進み方はノロいが確実な歩みを保持したい。あと、1ヶ月半で何とか形あるものへ持っていきたいと願っている。査読と編集を経て、応募論文がどのように変身を遂げるのかが楽しみだ。

Img_1378 この時期に集中するのが、この編集作業と2学期の試験問題作成である。忙しい時に必ず重なるのだ。それで、今年は1週間前に済ませようと考え、後者もノロいが確実な歩みを保ったところ、1日前には何とか出すことができた。というのも、昨年まではかなりの科目に関わっていたのだが、今年は終了した科目が出てきたので、作業がかなり軽減されたのだ。

Img_1379_2 このような忙しい時に起こるのが、日付の間違いである。まだまだ歳のせいだと言いたくはないが、それでも確実に証拠が上がってきている。Img_1376 カレンダー表を見間違えて、てっきり今日は金曜日だと思い込んでいた。妻に指摘されなかったら、危ないところだった。それで1日得をした気分になって、さっそく今日木曜日の散歩計画を立てることにする。

Img_1380 雨が降ってきて、散歩にはどうかとは思ったが、かえって空いているのではないか、と考え直した。歳相応に楽観主義が身についてきているらしい。京急線から東横線へ入って、武蔵小杉駅へ降りる。駅のロータリーでは、バスの待合場所の屋根が素晴らしく大きくて、横から吹き付ける雨も霧状になるまで防いでくれるのだ。Img_1395_2 ベンチに腰を下ろして、ゆったりと駅前の風と雨を堪能する。雨の駅で人びとが傘をさしたり閉じたりするリズムの大らかさを感じることができるし、そのリズムに合わせて人びとが交錯していくのは、海で波が満ちたり引いたりするのと同じだ。

Img_1382 バスで20分くらいのところに、川崎市民ミュージアムがある。「木村伊兵衛写真賞40周年記念展」が開催されている。現代人の多くが、自分の目で生のままの姿をみるのではなく、写真を通して現代というものを認識するようになってから、かなりの月日が経っている。Img_1394 この「木村伊兵衛写真賞」は、現代社会をスナップ的に切り取ってしめす、写真家の新人登竜門として特徴がある。

当時は新鮮であったかもしれないが、その後手法が定着された、手練の作品を一堂に見ることができるのだ。だから、「懐かしい」と思える写真がたくさんある。Img_1393 たぶん、肌の中に染み入るように、これらの写真が常識的なものとして、わたしたちはすでに認識しているのだと思われる。

わたしの記憶におぼろげながら置かれているような写真がいくつか並んでいて、とりわけこれまであの写真の撮り方は、誰の撮り方だったのか、ということを確かめるためには最高の展覧会だと思う。Img_1385 たとえば、第4回受賞者の石内都氏の「アパートメント」の写真は、「ああ、これだったのか」と思わせるものだった。写真の肌理が粗く取ってあって、いかにも古そうなアパートメントの薄暗い部屋の性質を強く印象付けている。第7回受賞者の渡辺兼人の「既視の街」は、離人症的な感覚を写真に定着させている。知らない街を見ていて、遠くに見えるのだが、どこに焦点があるのかが鮮明にわかる写真だ。この撮り方にも、憧れるのだ。

Img_1384 この市民ミュージアムは、都会からちょっと離れて、ぼうっとしたいときに来ると良いと思う。所蔵品はアニメがあったり写真があったりして面白い。庭がたっぷりとあって、都会を遠望する建物の、その真ん中に産業遺産のトーマス転炉(日本鋼管)が置かれている。Img_1387 これをみると、日本もかつての英国と同じように、鉄の時代が過去になりつつあるのを感じるのだ。

Img_1402 南武線へ出て、鹿島田で下車する。早大のO先生がよく来る「パン日和 A」で腹ごしらえをする。川崎で映画を見ようと思うのだが、最後は9時近くになってしまうので、今のうちにすこしお腹に入れておきたいと思ったのだ。この店には、初めて来たのだが、O先生のブログで見ていたので、初めての気はしない。けれども、現実に店に入ると、椅子とテーブルの調合バランスや、抑制された照明の具合など、居心地のよさを感じさせる雰囲気が素晴らしい。Img_1407 よくぞ、この店を見つけた、とO先生の功績を称えたい思ったのだった。天然酵母特有の時間をかけて膨らませた「パンの味」と、珍しい「さつま芋スープ」、そして、今月の飲み物として「紅茶とジュースのミックス」をいただいた。女主人の方から、椅子のコーディネートに関心があるとのことで、飛騨の木工カタログを見せてもらいながら、この店の椅子とテーブルの成り立ちを解説してもらった。Img_1405 なるほど、そのような考え方もあるのか、という説明があって、たいへん参考になったのだ。帰り際に、託児所帰りの親子連れが立ち寄った。パンを買ってもらった男の子が、ほんとうに嬉しそうな顔をするのだ。赤ちゃんのときからずっと買いに来ている客なのだそうだ。

Img_1411 川崎に着くと、人混みの多さに辟易とする。このように都市化がまだまだ続く街がある一方で、信州のO市のように過疎化が進む街があるのだ。映画までの間に、いつもの珈琲豆屋さんで、ガテマラとタンザニアの豆を購入し、薄口のコーヒーを一杯飲む。

Img_1415 映画は、「ヴィンセントが教えてくれたこと」。原題は、「聖ヴィンセント」。つまりは、市井の人であっても、「聖人」であり得るというテーマの映画だ。ビル・マーレー主演ものだというところで、真面目さがうまくはぐらかされて、娯楽性が出ている。ほとんど、ビル・マーレーのギャグにお付き合いするという趣旨の映画だ。たとえば、彼の愛人が妊娠しているのだが、「破水しそうだ」というセリフに続いて、マーレーが「配管工を呼べば!」と言うといった調子の会話が次から次へ続いていく映画だ。もちろん、最後には十分に泣かせるシーンがあるから、この映画を目指す人は、泣く準備をしていったほうが良いと思う。Img_1414 泣くぞ、泣くぞと思っているうちに、感情が高ぶってくる映画だ。だから、最近あまり涙を流したことがない人は、たまには、このような映画を見て、生理現象を正常に保つことをお勧めしたい、などと言うことが、推薦の言葉になるかどうかはわからないが、ビル・マーレーの演技は、どこか人嫌いなところがあって、人からも嫌われるのだが、どうしても憎めない性格を演じていて、たいへん興味深いのだ。カンファレンス室のAさんは、すでにこの映画を見ていて、ボブ・ディランの好きな人向けの映画だ、と謎かけを行っていた。この謎は最後にわかるのだ。Youtubeに、そのシーンがどういうわけか、アップされている。

Img_1417 ということで、横浜から武蔵小杉、鹿島田から川崎、そして横浜へという円環を最後には閉じる散歩を成立することができた一日だった。今度は、O先生に付いて、鹿島田のパン屋さんへ行きたいものだ。じつは、このパン屋さんには、アルコール類も置いてある。パンでワインをといきたいのだ。唯一の難点は、O先生が飲めないというところだけなのだ。

Img_1389 今日の椅子は、川崎市民ミュージアムの中に展示?してあった木製のベンチだ。なぜか、監獄に繋がれているような雰囲気の様相を表している。ひとつには、ベンチ同士が鎖で繋がれているし、さらにベンチの真ん中には、あとで無理やり取り付けたような間仕切りが金具で取り付けられている。Img_1391 凝ったことには、座板の下からも補強が行われていて、執着の程度が並ではないことを示している。「過酷なベンチ」と名付けておこう。

2015/09/10

世の中に起こる全てが瑣末なことであったなら

Img_1319 世の中で起こることがすべて「瑣末なこと」で構成されていたならば、その世の中はどのようなことになるだろうか、という映画が来ている。映画「さよなら、人類」だ。原題は、スウェーデン語だったのでわからなかったが、あとでウェブで調べると、原題:En duva satt på en gren och funderade på tillvaron 英題:A Pigeon Sat on a Branch Reflecting on Existenceということで、「枝に止まって、実存を省察する鳩」という題だ。冬のブリューゲル絵画をイメージしているらしい。けれども、映画は、このような哲学的で重い意味があるようにはぜったいに思えない。けれども、重要でないが、瑣末なことが世の中にはたくさんあって、この瑣末なことが重なればどうなるのか、ということは、現代社会の中で重要なことになりつつあると思われる。

Img_1325 映画手法を使ってはいるが、いわば美術館を見て回るような手法の趣を持っている。一枚ずつの絵画をつぎつぎに連ねたような感じだ。全部で39のシーンが撮られているが、1シーンずつがそれぞれ長回しのワンカットで撮られている。ひとつひとつが、いわば動画の美術館ということになる。

Img_1326 たとえば、冒頭の1シーンは、博物館の展示室に夫婦が写っている。男のほうは一つ一つの陳列ケースを丹念に、しかし理解しているとは思えないほど気がなく歩き回っている。これに対して、女のほうは、この陳列室の出口に立っていて、いかにも面白くなさそうに、鑑賞している男を眺めている。Img_1324 けれども、いつまで辛抱強く、待っているのだろうか。それにしても、男の陳列棚を見るときの気のなさはどうしたのだろうか。それは、陳列棚が本当に瑣末にできていて、みる気がしないからだ。それは観ていて、ちょっと心配になってきてしまった。もちろん、瑣末さに対してだ。眠気を最初から振りまいていた。

Img_1322 カンファレンス室のAさんは、先日すでに観てきたようで、「三回、眠りました」と言っていた。これで、アカデミー作品賞の「バードマン」を凌いで、ヴェネチア映画祭で金獅子賞を受賞したらしい。斬新なアイディアがあふれていて、本当に面白いはずの作品だったが、何が眠気を誘うのだろうか。切り取り方には、素敵な要素が含まれていて、良い感じだ。もしこの作品が写真集であったならば、きっと眠らなかっただろう。と言いつつ、じつはわたしも途中、何回か眠ってしまったのだが。

Img_1328 瑣末さはどの程度なのか、ということが思い当たらないほど、すべての話が瑣末さから離れられないのだ。第2話の瑣末さは、さらに堂に入っている。なにしろ、何気なくワインのコルク栓を抜こうとして、それが抜けずに、一生懸命になりすぎて、心臓麻痺を起こしてしまうというエピソードだ。Img_1329 食事がすでに用意されているし、ワインを開ければ、もう楽しい団欒が始まるというのに、ワインが抜けないだけで、食事もワインも団欒も諦めなければならないのだ。なんという、瑣末さなのだろうか。

Img_1331 ただ、1シーンだけは、光輝き、こころ躍る場面が用意されている。それは、酒場でみんなが「リパブリック賛歌」を歌うシーンだ。なぜスウェーデンでリパブリック賛歌が歌われなければならないのか、と不思議な感覚に襲われたが、この酒場の女主人が、酒を振舞っている。ところが、ある貧しそうな兵隊が金のない人には振舞ってくれないのか、と歌の中で問うのだ。その応答が、素晴らしいのだ。ほんとうに、一緒に歌いたくなってしまう気分だ。これこそ、眠気を我慢して、耐えに耐えて、最後に(途中なのだが)到達されるクライマックスといってよいだろう。

Img_1333 もちろん、一応の映画の主人公である、大人のおもちゃを売り歩く二人の行商人は、傑出している。「ヨナタン、ごめんよ」ということで、おさまる二人の行方は瑣末ながらも、前途洋々としている。のかな?当分、この言葉は耳から離れられないだろう。

Img_1336 瑣末さも度を越せば、グローリ、グローリ、ハレルーヤ、グローリ、グローリ、ハレルーヤ、なのだと思うのだ。「バードマン」もそうなのだが、わたしたちは当分、レイモンド・カーヴァー的世界に住むことになるのだろうか。家に帰って、「ささやかだけれど、役に立つこと」を読み返してみたい気分だった。

Img_1345 映画を観たのは、千葉劇場だが、千葉市内をあるいて横切っていくと、ほかの街にないいくつかの特徴ある風景が見られる。上記の映画の部分へ挟ませてもらった。

Img_1339 千葉駅から、なだらかな丘をすこし登ったところに、千葉市の中央図書館がある。広々とした座席が確保されていて、利用しやすい図書館のひとつだ。とりわけ、生活に関係した雑誌が充実しているのだ。Img_1340 このところ2年間、見逃していた生活工芸の読み物をコピーするために訪れたのだ。1冊だけ、貸し出しがあって、見ることができなかったが、その他の雑誌バックナンバーは全てあり、その場で最新号も読むことができ、効率良い読書ができた。Img_1341_2 もっとも、最新号については、読み物の半分はコピーしても良いが、全文のコピーは許されなかった。コピーの権利関係が厳しくなっているのを感じた。

そろそろ秋蕎麦の季節だ。新蕎麦が待ち遠しい。一足先に、てんぷらのほうで、秋を感じようという趣向で、てんぷら蕎麦を食べる。キノコたちが香りを周りに振りまいていた。Img_1343 今日の椅子は、このそば店の前に置かれた木製のベンチだ。昼には、近くの人びとがここに坐って、順番を待つのだろうと思う。注目したのは、椅子の後ろにある赤い板だ。このようなちょっとしたアクセントがあるだけで、この店の趣向が現れるのだ。

2015/09/05

酒造りもクラフトだと思った

Img_2251 今日は、O市挙げての「三蔵呑み歩き」という催しがある。O市にある3つの酒蔵で、蔵出しの酒が振舞われ、食べ物のもてなしがある。数千人の人びと(呑助・呑ん兵衛)が集まるのだ。松本からもこのためのJR大糸線の特別列車が仕立てられる。

Img_2254 諏訪市のイベントにも同じような「呑み歩き」があり、それを模倣して、今回で8回目となるらしい。それで、近くの「酒の博物館」へ行って、参加証となるお猪口を購入する。洒落た巾着がついてくる。

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Img_2008 街に出て、少し早かったけれどもお墓まいりを済ませて、精進落としというわけでもないが、三蔵の中でも、一番小さな酒造メーカー「北安大國」へ向かう。「一番小さい」ということをわざわざ売りコピーにしている。酒造りもクラフツだと思った。Img_1965 大手酒造メーカーと違って、小ロット生産を旨とする。手仕事で決まる部分がかなりある。まだ、開始までにかなり時間があるので、料理はラップに包まれていて、呑み歩きの客はほとんどいない。それで時間になるまで、蔵の中をずっと見せていただいた。メーカーの人も、準備に余念がない。Img_1972 「みんな呑むほうに夢中なので」とおっしゃって、「洗米」と「蒸す」場所までは連れて行ってくださったが、その奥の蔵と二階麹室の説明までは付き合って下さらなかった。貯蔵タンクが並ぶ蔵の階段を上って、大きな広い板間に出た。Img_2009 100畳くらいはあるのだろうか。麹つくりに使われる部屋だ。米を運ぶ布が干されている。Img_1977 今日は、書道家が大きな書を並べていた。運動会が屋内でできそうな、大きな部屋で、今まで見た板敷きの部屋としては、最大級の部屋ではないかと思われる。

Img_2013 表玄関の試飲の場所へ出たが、まだまだ1時間もあるので、近くのA倉で催されている、陶器・雑器展を見る。このころになると、O駅から大勢の人々が上ってきて、酒蔵目指して、大移動が始まったので、Img_2024 わたしも酒造メーカー「白馬錦」と定めて、門の前で待つことにする。ここでは、抽選で当たった人が、「鏡割り」を行うことになっているのだ。Img_2040 秒読みをして、いよいよ呑み歩きが始まった。盛大に割って太鼓のような音がするのではないかと期待していたのだが、Img_2061 どうやら、あまり強く打つと、中の酒が跳ねてしまうので、静かに打ったようなのだ。Img_2057

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クラフツ生産に必要な相対取引習慣をどのように維持するのか、これは口少ない職人メーカーにとっては工夫のいるところだ。「鏡割り」のようなポトラッチは、人びとを饗応するにはもってこいの儀式だ。

Img_2046 このところ、最初に呑む酒が一番旨いのだ。今日も、「無濾過生原酒」という樽から出して、火入れを行わない、つまりは複雑な味をそのまま保つ酒から、始めた。これは、良かった。フルーティで現代的だ。ワインに対抗する種類だと思われた。そして、辛口の「大吟醸」、季節の「秋あがり」、純米酒、そして、呑み歩き特別蔵出し「雪嶺」へと進んだ。特別品は、アルコール度が21%もある。Img_2051 この蔵だけでも、9種類、さらにお燗コーナーまで含めると、10数種類以上の試飲ができることになる。そして、実際にそうしたのだった。これだけの人数がどこから来たのだろうか。Img_2056 大通りはあいかわらず、シャッター街が続いているのだが、ここだけはなぜか、人がこんなに集まっている。この違いはどこにあるのだろうか。Img_2054 さて、ここだけでも、たいへん仕合わせな気分になってしまって、腰を落ち着かせて、呑みたい気分だったが、さきほど見てきたところも気になり、良い気分のまま、千鳥足で北へ進路を取ったのだ。街全体、歩いている人みんなが揺れているので、一人だけ酔っているような感じにはならない。Img_2052

「北安大國」でも、まず飲んだのは、生原酒だ。ここでも、これは呑みやすい。パンフレットによれば、ここは小さいので特色を出すことに、それも甘口にこだわっているのだそうだ。Img_2069 それで、鏡割りした樽酒を呑むと、これがまた良い味をしている。ここの特色は、さらにもうひとつあって、赤い古代米を使った清酒を作っている。Img_2075 これも悪くなかった。たぶん、お米の特徴をうまく取り出しているのだと思った。店先のそれほど広くない土間は、呑助たちで満杯だった。みんななぜか幸せそうな顔をしている。

Img_2097 最後に訪れたのは、「金蘭黒部」だ。ここは、大通りに面していて、さらに黒い建物と蔵がずっと奥まで続いている。酒を運んでいたと思われるレールが敷かれているのも見られる。Img_2098 明治以来のこの蔵の歴史だけでも相当なエピソードが隠されているのではないかと思われる。酒もさることながら、まずは蔵の奥へ向かった。そこでは、主人らしき方が、蔵の歴史を説明しながら、珍しい建て方を解説くださった。Img_2106 蔵が左右にいくつか並んでいるのだが、それらを全て覆い尽くすような木造の屋根「置屋根」が付けられている。しかも、それぞれ置かれている蔵の高さには段差があるのだ。Img_2112 それら段差を克服して、複雑な構造を見せて、アーケードのように数十メートルもの木製の置屋根が続いているのだ。つまり、雨や雪に左右されることなく、酒造りの作業が可能な作りになっているのだ。Img_2125 これらの蔵には、その昔ガラス瓶はなかったので、小さな樽で売られていたらしい、その小さな樽も柱の隙間から、山になっているのが見えたのだ。Img_2140





Img_2149 最後は、もう一度、「白馬錦」へ向かった。最初に飲んだ「無濾過生原酒」で最後を締めるつもりだった。結局、お猪口が一杯で20ccだとして、全部で20数種類のお酒を呑んだことになるから、合計では、400ccくらいを呑んだことになるのだ。量としたら、そんなに多い量ではないだろう。Img_2152 けれども、種類がかなりの数に上っているので、多く呑んだような気になっているのだと思われる。数人で一緒に来ている人びともいるが、一人で来ている人びとも結構いた。

Img_2164 わたしのとなりに、観察に余念がない方いらっしゃったので、話をする。なんと東京のAからきたとこのことで、イベント担当者だそうだ。この酒造メーカーを含めた「呑み歩き」をAで行っているのだそうだ。Img_2166 彼が言うには、「ぜんぜん違いますね。」参加者の熱意や全体の雰囲気がこちらの方が上なのだそうだ。値段の差もあるらしい。Aでは、参加料が4千円で、こちらは千5百円なのだ。呑助たちのコストパフォーマンスは圧倒的に、こちらの方が良いだろう。

Img_2169 けれども、この方の端々に出てくるのは、「採算性がこれで取れるでしょうかね」という言葉だった。なるほど、Aに集まる人びとの多くは、4千円払って、どのくらいの満足が得られるかが勝負なのだ、と思ったのだ。Img_2004 ここがクラフツ生産の異なるところなのだ。採算性を度外視したところで、ポトラッチとして、1日だけ散財する。ここに楽しみがあるのだ。

Img_2183 帰りのシャトルバスの中も、まだまだ酔いが冷めない呑助たちで、いっぱいだった。キンキンと響いてくる会話の声に揺られて、家路を急いだ。


Img_2197_2 今日の椅子は、呑み歩きの最後に用意されていた、仕合せなヨッパライたちの木製ベンチだ。ヨッパライという呼び名は、今日に限っては立派な名誉称号だ。何やらみんな少し赤い、愉快そうな顔をして歓談している。手から吊り下げているのは、呑み歩きの参加お猪口の入った巾着である。楽しかったお酒を反芻していらっしゃるのだと思われる。William_hogarth__beer_street この図で思い出されるのは、英国の画家ホガースが描いたビール街とジン横丁である。ビール街では、上記と同じような木製のベンチに腰掛けて、裕福そうな人びとが呑んでいる図になっている。仕合せの極致を描いている。ところが、ジン横丁では皆地べたに腰を下ろし、スツール椅子は見えるが、坐られてはいない。地獄図が描かれている。Imgd6d523a3zik8zj 酩酊文化には、二種類あって、天国と地獄だ。今日の三蔵呑み歩きは、この写真では前者だったに相違ない。それがわかるのは、ちゃんと椅子ベンチに腰掛けているという表象を守っているからだ。

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『貨幣・勤労・代理人』(経済文明論)

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プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。