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2015年6月に作成された投稿

2015/06/29

松江での3日目

Img_0569 今年の博士後期課程の学生Fさんが、島根の職場に勤めている方なので、ちょうど面接授業にきた折に、博士後期課程の授業についても、ついでに時間を稼いでおこうと、ここぞとばかりに柔軟性を発揮した。午前中に待ち合わせて、S大の講義室を借り受け、研究指導と研究法の講義を集中的に行った。6時間近くは、これでプールできたのではないかと思われる。

Img_0566 やはり、場所の問題は大きいことがわかった。おそらく、この授業を喫茶店やホテルのロビーで行ったとしたら、これほどの集中力を注ぐことはできなかったにちがいない。S大の校舎は中庭風の広場がビルの中に作られていて、授業期間中だけ有って、いくつもの教室に、若い学生たちが溢れている。それらの講義室の一番奥まったところで、互いに間断なくおしゃべりをしながら、フェイスtoフェイスの形式で行った。このような形式で行うのは初めてであったが、効果がかなりあることがわかったので、今後もFさんの勤めに合わせて、臨機応変に行いたいと思っている。

Img_0560 お昼休みには、大学構内を抜け出して、これもやはり、昨日の受講生から推薦を受けた、本店は境港にある「S珈琲」の松江支店を訪れた。1階が豆の売店で、2階がランチも食べられる喫茶店になっていて、アフタヌーンティセットやブランチセットが、写真のように2段重ねで出てくる。Img_0563 クロワッサンのサンドに、スコーンがついて、さらに甘いものがついてくる。もちろん、珈琲のお代わりもつくのだ。この様子はF氏のフェースブックでも紹介されている。

Img_0561 夕方の5時前には、おおよその見通しもたち、後期に行う授業にもだいぶ入ってしまって、この勢いだと、えんえんと2日間くらいは討論できるのではないかと互いに思われた。けれども、昨日と一昨日の面接授業のわたしの疲れと、F氏の通常業務の疲れが出てきたらしい。程よいところで終了させて、お世話になったI先生にもご挨拶して、S大を出ることにした。

Img_0606 学習センター所長のS先生との雑談の中で、「出西窯」の話がでた。母が生前好きだった松本の「ちきりや工芸店」に並んでいた製品のなかに、この出西窯のものがあった。Img_0574 やさしいクリーム色の混じった白い皿は、柔らかで使いやすそうな雰囲気をたたえていた。S先生も、次の機会には連れて行ってくださると言ってくださったが、すぐに行きたくなるのが、わたしの悪い癖だ。

Img_0588 Fさんにお願いして、出雲市にあるこの「出西窯」へつれていってもらうことになった。松江市から車で40分くらいの距離だ。畑が広がる農村の中の道路の両側に、工房と販売所などが並んでいる。外見はふつうの作業場に見える。Img_0587 けれども、一歩工房内に足を踏み入れると、ろくろから絵付けに至る一貫した一人の仕事が見えて来る。

Img_0576 この工房の特徴は、一つの屋根の下に、すべての工程が全部利用できるようになっていて、窓際にはろくろが並んで、それぞれ自分専用のろくろを持っていて、さらに出来上がった製品は、焼き上げ以外はすべての工程はひとりで完結するように仕事場が整序されていて、みごとな工房内の造りだった。Img_0594 この対比は重要で、いわば元祖「セル生産方式」だと言ってよい、工房組織だった。

Img_0613 Fさんにはすっかり世話になってしまったので、珈琲を1杯ご馳走することにする。Fさんが連れて行ってくださったのは、H珈琲系の喫茶店で、内装が真っ黒な板造りになっているという、たいへん落ち着いたデザインの部屋をもった喫茶店だった。Img_0612 ここでも、コスタリカを頼んでみたが、やはりここも苦味系の豆を使っていた。Img_0624 夕食はFさんご推薦の天婦羅の店Hだった。カウンター越しに、料理人の方と話ができたので、料理人という職業特性をさまざまな場面に分けて聞いて行った。Img_0625 いずれ、授業のなかで扱ってみたい職種であり、有望な職人技をいくつか聞き出すことができた。料理も美味しかったが、話も十分に美味しかったのだった。Img_0630 母の霊も、これらのご馳走ならば、ご満悦だったはずだ。感想を聞くことができなくなったのが、寂しいところだ。

Img_0200 今日の椅子は、事務所が廃止されたらしい、松江の商店街に打ち捨てられたベンチだ。Img_0635 けれども、しっかりとした造りだ。誰か再利用を考えて欲しい、と思わせるものだ。宿の時計台の音が聞こえてきて、レトロな街ともお別れが近づいている。

2015/06/28

島根学習センター面接授業の二日目

Img_0538 昨日の帰りに学習センターを出ようとしていたところ、学生のHさんが控え室へ来て、近くに良いところがありますよ、と教えてくださった。100メートルほど行った宍道湖湖岸の道路際に、SG銀行本店が建たっていて、この辺りのランドマークとなっており、この最上階にある展望台が一般に開放されている。360度の眺望を見ることができる。秋の宍道湖では、ここからの落陽の様子が素晴らしいとのことだ。

Img_0495 授業が17時に終わってから駆けつけたので、18時の閉鎖時間すれすれで、「残り物には福がある」とのコトワザどおり、他には観覧者はおらず、守衛さんの解説で、松江の町並み眺望を独占したのだった。たとえば、大橋川に面して、廻船問屋「森脇家」の建物が残っていて、上から見ると、その私有地にアーケード跡があって、その仕組みがはっきりわかるのだ。Img_0471_2 松江は戦災で焼かれていないので、古くからの町並みがまだまだ残っている。そういえば、一昨日空港バスにのって、松江市内にはいったところで、「貸本屋」が見え、煌々と明かりがついて、白髪頭の店主が座っていた。夢をみているようだった。さらに、市内には、ミシン屋さんが数店を構えていて、それで商売が成り立つ状態にあることを知ったのだ。

Img_0490_2 朝起きると、宿の窓から、このランドマークのタワービルがちょうど正面に見えた。じつは、面接授業では、出勤簿や成績簿への押印が必要なので、授業出張には印鑑持参が必須なのだ。ところが、カバンに入れたはずの印鑑がどうしても見当たらないのだ。それで、100円ショップあるいは文房具屋を宿で聞いて、一軒ずつ回ることになった。授業が始まる前の朝の散歩を1時間ほど行った。聞いていたので、目的の店はいくつか見つかったが、日曜日だったり、時間が早すぎたりして、結局印鑑は手に入らなかったのだ。あとで、もうすこしじっくりと探してみよう。

Img_0496 二日目の授業では、わたしの講義に加えて、グループ討論を重視した。わたしの話は、どうしても統計や理論を中心に話をするので、平均的で一般的な話としてはそれなりにわかるが、やはり働き方というのは、個別事例が重要なので、この点を補うために、仕事人たちへのインタビュー集を利用することになる。「監督者」を取り上げ、中間管理職における「功績」に関するキャリアを見たり、さらに「専業主婦」での家事労働の位置付けなどを討論したりして、意見をまとめた。

Img_0497 印象に残ったのは、主婦労働についての固定的な観念が、まだまだ日本では健在だということだ。ある女性は、グループ討論の発表者に当たっていたのだが、自分は専業主婦になったことがないので、発表者から外してもらった、という反応を見せていた。けれども、考えてみれば、現在では主婦労働は職業としてはインフォーマル化しているが、その仕事自体がなくなるわけではなく、誰がそれを行うかという問題だということではないだろうか。などと、話し合う題材には限りはなかった。ほぼ時間通りに終了しそうになってきたが、最期になって、やはり重い質問が出て、10分ほど超過してしまった。

Img_0205_2 それで、「日本の雇用システム」が今後どのような方向へ向かうのか、受講生に挙手を求めた。そうすると、ほぼ二つに大きく分かれたのだった。「終身雇用と年功賃金」という「日本型」が今後も維持されると考える人びとと、「長期雇用と成果主義型賃金」という「新しい日本型」賃金制度への変化を予想する人びとが同数で拮抗したのだった。Img_0617_2いつもの面接授業と同様に、受講生みんなの拍手で無事終わりに到達することができたのだった。

Img_0519_3 S大学のI先生と待ち合わせて、3年後に始まる新たな放送大学の授業科目について話合った。 宿から北にでたところに、小泉八雲の小説内の擬音語から取られた名称が付いている「カラコロ工房」というところがあり、その辺一帯が工芸品の観光名所になっている。

Img_0543 その一角には、以前の日本銀行支店が残されて、フランス料理屋になっている。地下には、当時の金庫室が複数残されていて、見応えがある。ところで、これだけの面積を使って、何が収められていたのだろうか。札束というのは非現実的な想像だ。現在ではコンサート会場や講演会場に利用されているのだ。

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Img_0553_3豊の秋、李白などの地元の清酒を中心に飲んだのだった。食材に困らない島根の名産が目白押しで出てきたのだった。Img_0554 Img_0552二日間の疲れが、いっぺんに清酒とともに洗い出されていく感じだった。母の霊も、海の幸や山の幸の、ご相伴にあずかったことだろう。

Img_0202_2 さて、今日の椅子は、島根学習センターのスティックビルの歩道に設置されていた、ベンチだ。コンクリートの足に木製の板が敷いてある。けれども、端っこのシートから顔を出している木に注目して欲しい。朽ちてしまっていて、木の部分がぶよぶよだ。それで、木の部分だけにビニールシートが被せられている。それだけ、この場所に坐る需要があるということだ。この工夫に敬意を表して。

2015/06/27

松江に来ている

Img_0616 昨夜、空港から松江駅へリムジンバスで着く。朝日町通り、寺町、天神町通りを辿って宿へ向かう。大橋南詰から北詰へ渡る頃には、晩春の嵐が吹き荒んでいて、橋の真ん中あたりで、土産の入った大きな袋があやうく吹き飛ばされ、湖水から上がってくる川に落ちそうになった。Img_0467_3 袋だけが大きいだけで中身が小さいからだが。宍道湖からの風が強く、中の海を結んでいる大橋川の水嵩が高く、唸っている。山国に育ったわたしには、めまいのするような、水量の豊かさだ。

Img_0526 毎年6月には、わたしの面接授業が計画されており、土日ごとに、日本中を飛びまわらなければならない。それで今回、母の看病・介護も妹や妻に頼むことにしていて、何かあっても介護のほうの中断やむなしと考えていた。不測の事態が起こった場合にも、予定通り仕事を行うことにかねてより決めていた。それで昨日、葬式の準備を早々に済まして、つまりは親不孝を顧みず、告別式を先送りしたのだった。Img_0469_2 偶然にも、母の仕事仲間だった方々が他界した当日に、病院に見舞いにきて、そのまま対面するために家へ寄ってくださったりしたということもあった。けれども、母の霊が三途の川を渡るまで、まだ中空で暇だろうから、島根へ一緒に行こうと誘うことにしたのだ。

Img_0480 島根城地区と町家地区を結んでいるのが、宿の真下に見えるこの大橋なのだが、これを北から南へ渡って、150メートルほど行くと、放送大学島根学習センターが入っている、松江市生涯学習センターのスティックビルに至る。Img_0473 すぐ隣は、もう寺町で、大きな寺院が並んでいる。このビルの3階と4階に講義室と事務室があるのだ。40分も前なのに、すでに学生の方が数名、席を占めていた。学習センター所長のS先生は、美術教育が専門の元島大の先生だ。講義が始まる前に、わたしの紹介を丁寧に行ってくださった上に、そのあと講義室に残っていただいて、受講生を前にして、わたしの質問にも答えていただいた。たいへんお世話になってしまった。


Img_0478_2 最初に、自己紹介をかねて、現在なぜ働いているのか、労働目的を受講生に聞いた。このとき、何人が自ら手をあげるかで、その地域の勢いがわかるのだ。松江の受講生には、女性主導の勢いが前面に出たと思われる。あとは順調に推移した。

Img_0501 昼は一階にあるMそば店にて、おろしそば。学生のかたと同席した。話していたら、やはり珈琲が好きであることがわかったので、明日以降の珈琲調達のために、場所をいくつか教えていただく。それにしても、出雲そばの特徴は聞いてはいたが、想像以上で、このヌターっとした感触が好きな人しか、この味はお勧めできない。この食感と似ていたのが、夕食で取った魚だ。これはちょっと賛同を得られる人は、それほど多いとは思われないが、魚の「のどぐろ」だ。あぶらが乗って、とろりとした感触が、やさしいのだ。

Img_0504 宿へ帰る途中、昨年新しくオープンしたばかりの自家焙煎の店Iで、「コスタリカ」を飲む。苦味を強調して、コスタリカ本来の酸味が抑えられていたが、苦味がこの店のカラーなのだろう。講義の興奮が、苦味で覚めていくのを感じつつ、飲んだ。Img_0502 さて、母の霊はどの辺を舞っているのだろうか。たぶん講義を聞いても面白くないと思われるので、島根の神々の間を訪ね飛んで回ったのだろうか。出張にお付き合いいただいて、ご苦労様。

2015/06/25

母から離れること

母から初めて離れたのは、

木曽谷にある幼稚園から帰ったときだ。

本通りから細道を入った民家を借りていた。

ただいまと言ったのに返事がなく、

わっと物陰から、現れた。

母とはいったい誰なのだろう。

異なる者として、このとき認めたが、

母はいつもわたしを同一のものと思っていた。

母から離れる予兆は前にあった。

鮮烈な記憶が残っている。

池袋近くの草茫々のアパートに住んでいた。

友人がわたしを母から連れ出し、

街の中でほっぽりだした。

母から離れる練習を

始めたのだった。

二番目に離れたのは、些細な家出のときだ。

神社に通ずる松本の家は、平屋のゆったりした建物だった。

意識的に悪びれ、すぐ帰ってくるつもりだった。

夜遅く、これから何度も起こる事を反芻した。

教育的な母は探しに出て、留守だった。

三番目に離れたときは、いよいよ世の中へ出て行くと思っていた。

大学受験に落ちて、浪人に甘んじた。

船橋の団地は狭く窒息しそうだった。

働く母を見ていて、日常にいたたまれず、

家を出た。

四番目に離れたときは、大学院進学を巡って

母と意見を違えた。

検見川の家から、渋谷の道元坂を登り切った

古い教会の寮へ移った。

わたしは、母の現実から離れた。

五番目に母から離れたのは、結婚したときだ。

千葉から東京の西の果てまで、遠く離れ住んだ。

他の女性と暮らすので、精神的にも肉体的にも、

離れたと思った。

結婚する頃に、三鷹の玉川上水に面した

一軒家に住んでいた。大家が精神分析家で、

ロールシャハテストを行っていた。

母の影が先天的に、無意識に大きく現れる。

内部から外部へのぐっと来るあの圧力は、

母だったのを知った。

母から離れてきたのは、心底逃れられない宿命を

感じていたからだ。

白衣の人が寄ってきて言うのだ。

逃げるのは、ちょっと食事で目を離したとき

旨いものを口元へ持って行こうとしたとき

歩こうとして、足が効かなくなったとき

ベッドから出て、家に帰ろうとするとき

それも、終わりになった。

もうすこし厄介になってもいいかと言っていたばかりだ。

そんな母から離れていたのは、いつもわたしのほうだった。

夜明けに目をさますと、

目を開いていて、こちらへ顔を向けた。

計測器は脈拍、血圧、酸素量、呼吸数を示していた。

酸素量が90、80、70に下がり、

脈拍が110、90、50、30に低下した。

すべての数値がゼロを示した。

アラームの音だけが病室中に響いた。

母のほうから離れたいという経験は初めてで、

ほんとうのところ、わたしは戸惑っている。

離れたいという核心がなくなることを恐れている。

2015/06/08

日本では珍しい、丸い建物があった

608 今日は、午前中仕事を済ませて、高松市内で見たポスターに誘われて、市内屋島にある四国村で開催されている「中原淳一」展を訪れた。608_2 松本に住んでいた時に、母が雑誌「それいゆ」をよく読んでいて、わたしも小学生ながら興味深く手に取っていた。それで、このモダンガールたちの肖像に懐かしさを感じたのだ。

608_5 安藤忠雄設計となる「四国村ギャラリー」は建物と、庭園を見るだけでも、十分満足のいく、楽しめる建物だった。静かな門をくぐり、コンクリート打ちぱなしの通路を壁に従って、細長くめぐる。この中で展示物がストイックに配列されている。608_4 ところが、その細い通路を抜けて、ひとたび庭園に出ると、斜面を利用した水路群と、階段の配置されたバラ園が広がって、遠景には高松市内が一望できる。光を制限した前半と、後半の光溢れる対比が素晴らしかった。608_6 とりわけ、バラの中でも、大輪のものが多い中で、ビロウドのような黄色い花弁を持つバラの種類が、綺麗だった。

608_7 このギャラリーは奥まったところに存在していて、表には、斜面を利用して、四国各地の古民家などが移築されている。有名な祖谷のかずら橋、小豆島の歌舞伎舞台、燈台や燈台の退息所などの並ぶ中で、河野家、下木家、中石家などの観ていて惚れ惚れするような古民家が保存されている。

608_8 とりわけ注目できるのは、産業遺産や公共遺産、コミュニティ遺産の数々だ。たとえば、添水唐臼小屋は画期的だ。水車を作るには費用がかかるので、生産効率は落ちるが、やはり水の力を利用した唐臼が、村の共同で運営され、608_9 それが残っていたのだ。以前九州の有田で、陶土の製造にも、この唐臼が利用されているのを見たことがあった。民具の中でも、村の共有物という位置付けのものとして、記憶すべきものだと思われる。

608_10 また、三崎の義倉は奈良時代にあった制度だが、飢饉のときのために公共的に食物を蓄えておいた倉で、彼の地で江戸時代に復活されたらしい608_11 。さらに、醤油倉も移築されていて、醤油の香りが漂っているかのようだった。醤油瓶も見事に集められ、壁に利用されていた。

608_12 なぜ日本の家屋には、丸い建物がないのか、曲線の建物がないのか、ずっと疑問を感じていた。おおよそは、素材の違いであって、木造では曲木にする手間がかかるために、石の建造物よりも、曲線の建物を作りにくいのだと思い込んでいた。ところが、この考えをまったく否定する建物が現れた。

608_13 写真の砂糖締め小屋だ。この均整の取れた大きさといい、撫でてみたくなる壁の曲面は日本的でないようで、極めて日本的なのだ。なぜ丸い家屋になったのか、それは説明を聞くまでもなかった。608_14 さとうきびを絞る時に牛が回るのに、円形の空間を必要としていたからだ。けれども、牛を丸く回せば良いのであって、なぜ建物も丸くしなければならなかったのか。疑問は尽きないのだが、みていて惚れ惚れとする建物なのだ。

608_15 もちろん、他の民家が見劣りしたわけではない。河野家住宅の土間と居間の空間は、家の中でも二つの節合を表している。一つは「土間の釜」と、「居間の囲炉裏」などの家の中の火をめぐる対称性があり、もう一つは、608_16 「土間の作業空間」と「居間の休息空間」などの活動をめぐる対称性を浮き彫りにしていて、それらを木製の大きな梁が分断している。黒光りする板や、埃まみれの道具類が年月を感じさせるのだ。

608_17 また、粗谷の納屋・母屋・隠居所の並んだバランスは、家族模様を反映していて、微笑ましかった。隠居所には、土間はない。つまりは、土間は働く場所の象徴であり、現場なのだ。608_18 帰りに、この博物館の外にある、釜揚げうどんで有名なW店で、出汁の味が独特なうどんを食べた。次から次へと客が来て、この写真に写っている陶器の瓶から、暖かいだし汁を注いで、つるつると食べたのだ。

608_19 さらに、この駅が産業遺産に登録されていて、洒落た塗装が印象に残った。歩いて、喉が渇いたので、近くで見つけた、たいへん盛っている街の喫茶店Rで、コーヒーとケーキのセットで一服。608reis 帰りに、レジのすぐ横に、子どもがいるので、ひょいっとみると、なんと人形だった。608_20 女主人が、きっと休んでいるんでしょう、ということだった。街に馴染むには、このようなちょっとしたセンスがないと面白くない。

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今日の椅子は、こと電の屋島駅にあった、誰もが座ったことがある、駅のベンチだ。多くの人びとを分け隔てなく、608_22 乗せてくれた普遍的なベンチだ。傷は無数に受けているが、それが勲章みたいなものである。

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もう一つの今日の椅子は、小豆島の農村歌舞伎舞台を中心に作られた観客のためのベンチだ。こちらのベンチも見事に、舞台への奉仕という役割を与えられて忠実にそれに答えている。この夥しい椅子群がその忠実的な中心性を表している。608

2015/06/07

コーヒーの味覚が戻ってこないのだ

607 じつに困っている。コーヒーの味覚が戻ってこないのだ。原因は、先日の体調を崩したことにあることはほぼ分かっている。そのときに、胃腸の問題だったので大事をとって、コーヒーと酒を断って刺激を抑えたのだが、それで感覚を失ったのだ。ある種の記憶喪失だと自分では考えていて、感覚が鈍くなるどころか、もともと鈍かったのだから、完全に喪失してしまったという認識が合っている。

606 先日の痛烈な下血の原因は、内視鏡検査や専門医の検診などによって、「虚血性腸炎」という診断が下され、その後腸内には炎症も残されていないしポリープもひとつも発見されず、完治ということになった。もう来なくても良いと医者に言われた。それにもかかわらず味覚がおかしいのは、身体的な疾患は治っても、精神的な何かが異なっているのかもしれない。

606_2 高松での面接授業も、時間通りにぴったり終わり、多くの質問が出され、質問に答え、さらにわからない問題については、挙手を求めたり、議論を闘わせたり、10時間以上にわたる十分な授業ができたと思われる。レポートも書いてもらったが、講義の中でコメントはしておいたので、2日間のすべての授業が完了した。606_3 あとは、宿泊所に帰って、レポートの整理とグループ学習で点数化してもらった資料を解析するだけだ。明日の午前中まで行えば、おおよその学習センターでの講義全体が終わることになる。

606_4 高松でひとつ期待していたことがあって、それがコーヒーの味覚を取り戻すことだった。昨日、じつは1軒の喫茶店に行って、味覚が戻ったのか確かめてみた。講義のあとだったこともあって、タイミングが悪かった。甘いものが欲しかったので、身体のほうはケーキセットのスイーツに反応してしまった。せっかくのコーヒーの味はわからなかった。その後、高松のアーケードを隅から隅まで、歩いてみた。608 それで最後に足を休めるために到達したのは、真ん中の丸亀町商店の交差点にあるガレリアに面した、老舗煎餅屋のK堂の喫茶店である。落ち着いた緑茶色に統一された店内には、あまり人はみられず、かえって静かでゆったりとした空間を提供していた。

608_2 今日は3年前に訪れて、これはと感じた珈琲店へ行ってみた。中央公園の北を瓦町方向へ一本曲がったところにある、C珈琲店である。3年前はコスタリカがちょうど入荷したばかりだということで、香りと味を舌に刻みつけた覚えがある。608_3 だから、今回はかなりの期待をしての訪問だった。早速、カウンターへ行って、今日のオススメをいただく。エルサドバトルのナチュラル豆だということだ。わたしの好きな酸味系だった。自然に美味しいと感じて、味覚がないという感触は忘れてしまうほどだった。608_4 大袈裟だと思われようが、美味しさがわかった、という感覚は、やはり得難い体験で、メンバーじゃなかった者が再びメンバーになることを許されたような感覚だった。また、コーヒーを味わうことができるのだ。最初に、ヘレン・ケラーが水を感じたときも、このような感覚だったのだろうか。608_5 この店の名前の「コルシカ」というのは、村上春樹の小説から取られた名前だったらしくて、書棚には、ずらっと作品が並んでいた。1990年代に出された対談集を読みながら、感覚の戻った喜びをかみしめていたのだ。

607_2 後日談があって、高松を離れるときに、他のコーヒー専門店に寄って、ブレンドを頼んだのだ。すでに、コーヒーの味覚を取り戻したとばかり、思い込んでいたのだったが、それはヌカ喜びで、こちらのコーヒーではまたまた味覚がわからなくなっていたのだ。まずいという感覚とはちょっと違って、口の中が無機的なのだ。まだ当分は、戻ったり戻らなかったりが続くような予感がある。

606_5 今日の椅子は、やはりベンチだ。高松市のアーケードのさまざまな場所に据え付けられているベンチに工夫がなされている。ベンチでも、カップルが坐るには、隣同士で同じ方向を向いていた方が良いが、ベンチに坐るのは必ずしもカップルばかりでない。608_6 見ず知らずの人が隣同士で座るときには、別の方向を向いていた方が良い、ということで、多方向のベンチがみられた。これは都市のアイディアだと思った。

2015/06/06

香川学習センターで面接授業

607 ホテルから中央公園へ出て、県庁の大きな建物を超えて、香川大学の正門を目指した。ところが、途中菊池寛通りでの公園や菊池寛の生家跡などで、写真を撮っていたら、余裕をもって、出て来たはずなのに、ほぼ10分前に着くことになってしまった。大急ぎで、事務手続きを終え、講義室でセンター所長のO先生の講師紹介を受けて、本当のところ、早速に授業をはじめることになった。

606 今回のテーマは、先週の奈良学習センターと同じで、働く意味についてだが、場所が変われば、雰囲気も変わり、奈良学習センターと比べると、なんとなくだが、奥床しい方々が集まったような気がする。だからと言って、奈良学習センターでの方々が奥床しくなかったという意味ではない。単に、自ら進んで質問する人数が少ないというだけのことだ。それは参加人数のせいかもしれないのだが、当てれば、みんなしゃべりだすのは共通している。

607_2 全員の学生のかたに、「何のために働いているのか」という質問に答えていただいた。最初は恥ずかしがっていたが、こちらから当てればなんらかの反応を返すのが、放送大学生の良いところだと思っている。今回も、途中からはあふれるほどの体験を話してくださった。印象に残ったのは、今回の一つのテーマである「非正規」雇用についての体験だった。

606_2 当然のように、わたしの話は一般論や平均値での話が主となるので、実際のケースを学生の方々が話してくださるのは、本当に助かる。講義とは、本来的には、このような対話が必要なのだと今回も確認したのだった。印象に残ったのは、女性の方々の多くがいろいろな理由で、複数回の転職を経験していることだ。たとえば、子育てや介護と、転職は密接な関係があるのだ。個々の事例は、たいへん興味深いものであり、ここで紹介したいのはやまやまなのだが、残念ながら、それは講義に出席して、はじめて意味が出てくることなので、ぜひ講義で聞いていただきたい。講義の内容もさることながら、他の学生の生の事例を、さまざまの業種に渡って、一度に聞くことができるのも、放送大学の面接授業の魅力だ。

606_3 昼食は、北門を出て、通りを横切ったところにあるセルフのうどん屋「G」だ。店に入ると、トッピングの天ぷらがずらっと並んでいて、カウンター越しにうどんの種類を頼み、キャッシャーに支払いを済ませて待つと、すぐ出てくる。この写真の釜玉うどんが、増量をしても、280円だった。学生街であるからでなく、近くの主婦や子供連れにとっても、これが当たり前の値段なのだ。この値段でだせるだけの、うどん文化の蓄積が高松の街の魅力だと思う、街角ごとに、このようなうどん屋がある。

606_4 大写しをすれば、わかるように、もちもちとして、コシがあり、さらに角がたっている。透明である。つまりは、旨いということだ。このうどんを食べれば、午後の授業もさほど気にならない。

606_5 授業が終わって、センター所長のO先生と話をする機会を得た。とりわけ、近年いろいろな問題が山積されてきている、放送大学の卒業研究についての意見を聞くことができたのは、たいへん興味深かった。

606_6 今日の椅子は、香川学習センターの講師室で休憩の時にお世話になった応接セットだ。黒光りする肘や骨格の木の本体、それに洒落た明るい茶色の革のシート。汗をかいて、身体中がパンパンになったときに、この椅子に包まれると、すっと眠ってしまいそうになるのだ。香川学習センターが創立時に、かなり予算が取れた時代の遺物なのだ。遺物ほど、後年有益なものになる。

2015/06/05

四国の高松へ向かう

605 K大での講義も今学期の中盤に差し掛かっていて、幾つかの山場を過ぎた。それで、今は貨幣論のところに差し掛かっている。学生の中には、気の早い人がいて、このところ毎回試験のことを質問する人が訪れる。最近、このように前もって試験のことを気にする学生が多くなったと思う。これだけ多くの人が来るということは、集団的な理由があるのだと思われる。

605_2 明日から、四国の高松で面接授業を行う予定なので、羽田へ移動する。夕方に横浜で授業を済ませてから向かったので、夜の便になってしまった。金曜日の移動日には、そうなることが多い。そこで、たいがい羽田空港内で夕飯を済ますことになり、勢いいつも懐かしさを振りまいている、A店へ入ることになる。「2貫入り」という独特の言い方をするのだが、ロールキャベツ、あるいは単に、キャベツと称して注文し、ご飯のセットで食べた。

605_3 空港で待っていると、放送があって、天候不順で途中引き返すのかもしれないと告げられる。妻に連絡したら、そのような放送があって、これまで引き返した経験はないと強気の発言だ。実際、飛行機は雷雨のなかで、大揺れに揺れて、久しぶりに胃のあたりがストンとする体験をしたにもかかわらず、無事雨の中に着陸した。エアポケットに入ったと頭ではわかっていても、この感覚は嫌なのだ。

この気分が苦手なのには、理由があって、思い返すだに悔しいのは、幼稚園でブランコから落ちた経験だ。最上点に達したところで、座席からスポッと抜け落ちてしまったのだ。このときの落ちる感覚が飛行機での経験とそっくりなので、この記憶のせいで、お腹のあたりが何となく虚しい。

607_2 高松では、アーケードが発達していて、Y先生がおっしゃるには、日本一の総延長距離を誇っているとのことだ。前回の3年前に行ったときにも、中心部だけは歩いてみたが、到底1日だけでは回りきれるものではない。今回は隅々まで探索してみようということで、アーケードの中心部に近いホテルに宿をとった。

605_4 けれども、市内に着いたら、なにはともあれ、讃岐うどんを食べようと、夜の繁華街へ繰り出した。ビジネス官庁街が近くにあることもあって、12時を過ぎても、飲んだ後に寄る、専門のうどん屋があって、外で行列ができるほどなのだ。ホテルを出て、左を平行して走るアーケードを通り過ぎ、もう一つ左へ曲がって少し行ったところに、Tという、間口が狭く客で満席のうどん屋さんがあって、早速きつねうどんを注文した。605_5 うどんでお酒を飲む人がいるのかと思えば、ビールしか置いていないということで、ほぼうどん専門店なのだった。うん、この腰の強さだ。こうして、毎日がうどんの生活がまた始まったのだ。

2015/06/02

O先生のお母様が亡くなる

ブログ仲間のO先生のお母様が亡くなった。お悔やみ申し上げます。

そのことは、O先生がずっとブログで書いていたので、様子はかなり克明に毎日読者には伝わっていた。食欲が無くなったあたりから、急速に体調が悪くなった様子が書かれていた。いつものブログ日記のように、淡々と記されていたので、差し迫った感じが全くなかった。それで、自分ことに引きつけて考えてしまい、もう少しどうにかならなかったのかと、他人事と思えなくなってしまうのだ。

O先生のお母様は、じつは偶然にも、わたしの母と同い年の昭和2年生まれで、また生まれた月も同じで、3月生まれなのだ。そして、これも偶然なのだが、ここ数ヶ月、生死の間を彷徨った、あるいは彷徨っていることでも共通している。(さらにいえば、わたしたちの父親の名前も漢字は異なるが、音は同じなのだ。)

母親たちの共通点は他にもいくつかあって、昭和一桁世代に共通していることが現れる。まずは、田舎から東京へ出てくるという転機が含まれていることだ。O先生のお母様の場合には、群馬県から東京に出てきた。他方、うちの母は、信州から出てきた。うちの場合には、結婚したのち、一度東京の池袋へ出てくるが、その後また、祖父の仕事を手伝うために戻り、そののち再び東京へ出てきている。わたしの母の場合には、二度の上京に表れているように、生活の安定はままならなかった時代が続いたらしい。

このことは生活の基盤に影響を与えているように思える。O先生のお母様は、蒲田に居を構えて、ずっとそこに落ち着いていたため、コミュニティのことにずいぶんと専心なさっていたようである。これに対して、わたしの母は東京に出てから、現在の千葉の住居に定まるまでに、6回も引越しを繰り返しており、結婚以来12回の引越しを行っている。東京圏でなかなか落ち着けなかったことを表している。田舎にいるときには、合唱活動やPTA活動など、地域の活動をずいぶん引き受けていて、小学校では朝登校すると、母の方が早く来ていたほど、PTAに熱心だったが、東京へ来てからは、そのような活動には一切行かなかったと思う。

このことは、おそらく父親の職業が作用していたのではないかと思われる。O先生のお父様は公務員であったため、収入が一定し、安定した生活が計画できたということだと思われる。うちの父の場合、祖父が経営していた林業の会社が倒産して失職し、その結果、東京へ出てきたので、その後も給料の安い民間の会社に勤めなければならなかったから、生活に余裕がなかったといえよう。このことは、住む場所に大きな影響を与えていたと思われる。

母と話をするとよく出てくるのは、青春の話だが、他の世代と異なっていて、第二次世界大戦のことが重なっている。祖父の家には、風呂の釜焚き場から地下室へ降りていく階段があって、そこが防空壕になっていた。何度となく、そこへ避難したことを聞かされた覚えがある。また、会社の東京支店があって、そこへ泊まって、ずいぶん百貨店めぐりや名所を回った話も、戦争と重なってくるのだ。もちろん、戦後になって、田舎から食べ物を供給しようと、リュックサックいっぱいの荷物も途中の検閲で、没収された経験も何度かあったようだ。田舎は豊かで、ほとんど食べ物で不自由したことがなかったらしい。

そして、母親たちには最近の共通点もある。それは、通院と入院だ。O先生の付き添いと入退院の記録記事は、ブログに連日載っている。他方、うちの母は、昨年の暮れに心不全で入院して、それ以来さまざまな病気が複合して押し寄せたために、未だ病院から戻れないでいる。

88歳という節目の年に亡くなったということは、生前はきわめてバランスの良い、計画性のある人生を全うしてきたのだと思われる。ご冥福をお祈りします。

2015/06/01

映画「サンドラの週末」を観る

601 この映画は、寝起きの電話呼び出し音から始まる。寝起きの電話に、良いことがあるわけがない。主人公のサンドラが解雇される電話から、場面が展開し始める。

サンドラが病気で入院している最中に、それまで17人体制で働いていたシステムが16人で動くことがわかってしまい、社長がサンドラの解雇を言い出したのだ。この状況は現実そのもので、この世のどこかで、毎日のようにして、労働者たちに降ってわいてきていることなのだ。

601_2 それを聞いたサンドラの上司が、社長に掛け合って、月曜日に投票を行い、サンドラの雇用継続か、それともサンドラ分の給料を分け合った、各自の1000ユーロのボーナスを受け取るのか、を決定することになった。サンドラの復職を認めてもとの17人体制へ戻るか、それとも、サンドラの継続を認めず、16人でボーナスを受け取るのか、つまり雇用の維持か、給料の割増か、という究極の労働問題の縮図が展開することになった。

601_3 映画では、給料の問題として象徴的に扱われているのだが、現実がそうであるように、労働は賃金だけでは解決できない問題なのだ。サンドラが月曜日までの週末に訪ねた、16人の労働者のそれぞれの事情が明らかにされていく。親友だと思っていた人には、会うことを拒否されるし、借金が溜まっている人にも会うことになる。けれども、結末はいうわけにはいかないが、サンドラが夫の協力で、ひとりから始めて、ほぼ半数を説得することになる。

フランスと日本の違いがわかるのは、サンドラがひとりで動き出すところだ。もちろん、夫や上司の協力が大きかったが、ほとんどは自分の働きで、説得を始める。ここが違うのだ。

日本では、長期雇用の慣行が大企業を中心として一般的なので、1000ユーロのボーナスと、ひとりの雇用とが天秤にかけられる状況が社長の一存で現出するというところには、日本の事情とは異なることがわかるのだ。けれども、日本においても非正規雇用が増大しており、自分の職場の中で、非正規雇用をひとり取るか、それとも、ボーナスを取るか、という選択を迫られることがそれほど珍しい状況ではなくなりつつあるのも事実だ。

この意味で、サンドラの週末は、もう少しすれば、わたしたちの週末になりうる可能性は大である。

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  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。