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2015年4月に作成された投稿

2015/04/24

映画「百円の恋」を観る

Photo 百円に価する「恋」とは、どのような恋なのか。経済を勉強するものにとっては、興味深々たるテーマである。じつは、その昔35年ほど前に、「愛情」をサービス価値換算して、たとえば愛情を含めて、家庭の主婦労働はいったいいくらになるのか、などという計算を、学生時代のアルバイトでよくやって生活費を稼いだ時代もあった。また、当時ノーベル経済学賞を取った、G・ベッカーが「全てに能力を持っている女性Aと、全てにAより能力が劣る男性Bと結婚したら、女性Aは得をするか損をするか」という、マンガチックなジョークを書いていて、経済学の練習問題として流行らせたりしていた。感情に属する領域を経済計算するような「百円に価する恋」ということは、経済学的には、たいへん面白いテーマなのだ。

最近、ノッている安藤サクラ主演の映画「百円の恋」を観る。百円ショップに勤めるサクラ演ずる主人公「一子」と、百円バナナをいつも買いにくるボクサーとの恋愛について、百円に価しないとする「一子」と、その恋のゆくえを描いた作品だ。

百万円の恋と、百円の恋とを比べてみれば面白いことがわかるだろう。この映画では、当然のように、百円の恋でも、百万円の恋に匹敵する恋だというところを見せたいのだが、この映画によれば、幾つかの条件があるようだ。ひとつには「真剣」だという基準だ。百円に価するものでも、百万円に価するものでも、どちらもボクシングのように「ハングリーかつアングリー」の真剣さで取り組むのであれば、同等の価値を持つものだといえるらしい。

百円ライターも外見は百円でしかないが、燃やせば、百円以上の価値が出てくるように、炎であれば、百円ライターでも、ダンヒルのライターでも、熱さに関して変わることがないだろう。同様にして、恋だって、百円かけた恋も、百万円かけた恋も同等に熱いといえる。

それは、結局相手があるということだ。恋を仕掛けるだけの側から見れば、百円の恋と、百万円の恋とはかなりの格差が見えてしまうかもしれない。けれども、それを受け入れる方から見れば、お金の差が問題ではなく、結局のところ恋そのものが重要だからだ。相手をそれなりに尊重しないと、恋にはならない。

この映画では、恋の価値は「ボクシングへの情熱」と重なる部分がある。映画の中で、ボクシングを巡って面白いシーンがあったのだ。それは、男が一子に向かって、なぜボクシングをやり始めたのか、と聞く場面があるのだが、それに答えて、第1には前述のように、「真剣」だからで、第2に試合の終わった後でも、勝者と敗者とが、仲良く互いを讃え合うからだと答える。第2の視点が、この映画の特徴になっていると思われる。簡単に言って仕舞えば、ボクシングや恋では、勝ち負けが重要なのではなく、(もちろんこれも重要なのだが、それ以上に、)勝った者と負けた者同士が、相互に讃え合うところが重要なのだ、という視点だ。それは、この映画「百円の恋」の本質ではないかと思われる。恋やボクシングだから、「百円」の行為が成り立つという状況があり得るのだと思った。それは、きっと素晴らしいことだ。

2015/04/22

映画「陽だまりハウスでマラソンを」を観る

Photo_2 ドイツ映画「陽だまりハウスでマラソンを(原題:Back on Track)」を観る。この原題から、どうしてこのような邦題が出てくるのか、いつもながら不思議な気持ちになるが、原題からすれば、「再びトラックに立つ」ということだろうが、日本の客を意識すれば、「運動トラック」を強調するよりは、「老人ホーム」のほうを強調したほうが、客が増えるという、映画配給会社の判断があったものと推測するのだ。

元オリンピックのマラソン優勝ランナーであるパウルの物語である。オリンピック・アスリートがセカンド人生をいかに過ごすのか、というひとつの典型的な物語に仕上がっている。原題にあるように、主人公はかなり強気だ。老人ホームで引退人生を過ごすよりは、元の人生に戻り、現役と混じって過ごすことを最終的には選択する。その過程で、妻が亡くなり、娘の難しい人生に向き合い、老人ホームとの葛藤を経験するという、筋書きだ。

問題となるのは、ふつうの人と違って、人生の前半でオリンピックに優勝してしまうという賞賛を浴びることになり、その後静かなセカンド人生を過ごすことができるだろうかという点である。妻と二人で静謐な生活を過ごそうとするのだが、妻が倒れてしまって、老人ホームに入る頃から、セカンド人生の緊迫した問題が起こることになる。

つまり、アスリート特有の問題が出てくることになるのだ。そのひとつの問題は、「激越性うつ病」である。最初に大きく成功してしまうと、その後に大きな挫折感が必ず伴う。ここで、精神的な悩みを生ずることになる。主人公のパウルも、本人はそれを否定するのだが、その気配は明らかに見られ、この手の人が老人ホームに入ってくると、通常は最も嫌われるタイプになるのだ。前の人生から転換できずに、老人ホームになじまないのだ。

ここから、ドイツ風老人ホームと、日本風老人ホームの共通点と相違点が出てくるのだ。どちらのホームでも、みんなそろって、馴染んだ人も馴染まなかった人も、同様に集団遊戯を行うことは共通している。映画では、真面目な「倫理的カウンセラー」ミューラーの音頭で歌を歌ったり遊戯をしたり、「クリ人形」の工作をしたりするシーンは、現実には未だだと思っていても、ここではつい、自分の母親(あるいは自分自身)が施設での生活を過ごす姿を想像してしまう。認知症の出てくる世代にとっては、この集団的な生活は致し方ないのだろうか。ところが、ドイツの老人ホームでは、もっと個性的な過ごし方がある。もっとも、ドイツだからというと、ちょっと語弊がある。

けれども、ここからはドイツと日本との違いが明らかになっていく。この映画では、70歳を超えたパウルがベルリンマラソン目指して、走り始めるという出来事が起こり、これを巡って、周辺の騒ぎが巻き起こることになるのだ。ここには、いつも寄り添って生きて来た、走りのパートナーとしての妻の存在が大きいし、マラソンランナーの家庭に育った娘の反応も難しいところがあることがわかり、さらに老人ホームでの影響はたいへん面白く描かれている。

運動選手が再びトラックに戻る、というセカンド人生を選んだ時に、どのようなことが起こるのかが、この映画の面白い点なのだ。それには、それを支える人びとが必要であることは当然だ。それは、応援という意味でも支援という意味でも必要であるということだと思われる。

結末は、映画を見てからのお楽しみなのだ。それにしても、最近になって日本の老人ホームにもお金さえ出せば洒落た建物のところが増えてきたが、ドイツの老人ホームのデザインは、もっと余裕があるように思えた。そしてさらに、セカンド人生には、それを乗り越えるユーモアが必要なのだというところも、説得力があった。映画では、何回も出てくる主題歌「ラ・メール」が流れ、その歌詞に関係していると思いきや全く関係ない「風と海」の比喩が効いていたと思う。「海」から付かず離れず、その上を「風」のように吹いて生きられたら、セカンド人生も楽しくなるにちがいない。わたしも「風の星」のもとに生まれているのだから、せめて精神的には、風が吹いていくように、海の上を触りながら離れながら、セカンド人生を暮らしたい。

2015/04/21

日本橋で焼きものを鑑賞する

Photo_3 日本橋の高島屋で、今泉今右衛門氏の展示即売会があるという、招待状(といっても、観覧だけならば無料なのだが)をいただいたので出かける。今回は、どのような磁器制作の深みを見せてくださるのかと、楽しみにして電車に乗った。

工藝というものには、個人であれ、集団であれ、「人」に所属する技能が大きく左右して、作品に投影されるものだと思っている。それは、陶磁器にあって、これだけ多様な作品が世の中に現れていることからもわかる。よほど均質で、工業化されたものでなければ、ほぼ一代限りの技能が切れ切れに存在するのが工藝の世界では当たり前だ。それは、現代の陶芸家の多くに、その傾向が見られる。たとえ師匠に付いて学んだとしても、師匠とは全く異なる意匠を発達させるのが通例で、同じ意匠をそのまま伝統的に受け継ぐような、陶芸家は数少ない。このような工藝の世界にあって、伝統工藝を受け継いでいる方がたは稀有な存在だといえる。何代も受け継がれるには、それだけの価値が蓄積されていないと、そう簡単には実現されない。と、僭越ながら想いを馳せたのだった。

Photo_4 今回の展示会でもっとも注目したのは、すっと宇宙を目指すスマートな姿をしているが、大きく世界全体を捉える太さも持った「色絵薄墨墨はじき花文瓶」と、それから同じ形で対になって並べてあった「色絵緑地花文瓶」だ(作品銘が長くて記憶が定かではないのだが)。後者の「緑地」瓶は、13代にも見られる意匠で、すでに熟成の模様をいくつも含んで、華やかな中にも落ち着いた形象のデザインになっているものだ。とりわけ、模様から白地に入る際の見事さは比類ないものだった。完成度が高いものだった。これに対して、前者の瓶は14代の特色とする「墨はじき」を中心にした落ち着いた雰囲気を持っていて、復活された技巧の深化が図られていた。細部の巧みさは際立っている。あの線の細さをどのように描くのか、また工房を訪れて見てみたい気にさせられた。

もうひとつ注目したのは、「色絵薄墨墨はじき雪文瓶」だ。瓶の模様に、14代の個人的意匠を示す「白い雪印」が、何度もモチーフとして焼き付けられている。これには、グレイバージョンとブルーバージョンとがあった。「墨はじき」は通常、墨で行われているのだが、このようにみてくると、色の「墨はじき」も悪くないような気にさせられる。シンプルで清楚な感じがとても現代的だ。たぶん、これらの現代的な意匠は、伝統的な工房としての今右衛門窯から、すこし距離を置いて考えらえたものだと想像する。

Photo_5 前回拝見した時と異なる点が、気になった。会場の奥隅に追いやられたように展示されていたのが、手のかかる、白地に透明な草木模様をあしらった地に、「薄墨」や「墨はじき」の複雑な意匠を半分ほど乗せた作品だ。これらは、前回の作品群を引っ張っていた基本的な意匠なのだが、今回の展示会では、ほとんどみられなかった。これは意外な気がした。というのも、今後の発展は、このような白地をいかに「墨はじき」と組み合わせて発展させるのか、という方向性を持っていたと、わたしは思い込んでいたからだ。今回は、白地と墨はじきの切り分けは、意外にシンプルに、線で区切って、なおかつ、白地は地のままで置かれていて、そこには透明な意匠はみられなかった。この傾向はなぜ生じたのか、ちょっと聞いてみたい気がしたが、考えてみれば、視覚的な効果の点から見て、目立たない意匠を削ることは至極当然の帰結であったともいえよう。けれども、素人目のわたし個人としては、この白地の意匠と、「墨はじき」の意匠との対立と調和とをもっと進化させていただきたかった。もっとも、このようなわたしの個人的な思い込みは、僭越過ぎることには承知の上であるが。

今右衛門窯の特色のひとつとして、他の作家工房窯を完全に凌いでいるのが、販売部門の充実だ。今回の展示会も、むしろ販売部門の強さを見せつけているように感じた。たとえば、それは値段の付け方に表れている。作品は、30万円台、50万円台、90万円台、100万円台、200万円台、500万円台、800万円台となっていて、その中でも、中心を占めるのは、中間の90から100万円台であった。全体と比較して、もっとも求めやすい価格として、この90万円台が活用され、もっとも多くの予約を得ていたのだ。工藝で言うところの「上手物」のブランドというものの性質を心得た価格決定が行われている。

有田にある今右衛門窯を最初に訪れたのは、放送大学の授業科目収録のためであった。2000年代はじめに、14代を襲名してすぐの頃だった。その後、何年かに1回ずつはテレビ取材を行っている。現在放送中の「社会の中の芸術」でも、取り上げている。窯のある一階がろくろ中心の作業所に当てられていて、二階には絵付けが役割に分かれて部屋が定められていた。この工房全体の整序には、いつも感心させられていた。わたしは本来、工藝で言えば民藝などの「下手物」趣味の人間であるために、時折このような「上手物」に触れることは、たいへん新鮮で基本的な勉強になるのだが、とりわけ手仕事特有の分業のあり方は、現代の産業を考える上でも参考になるのだ。

Photo_6 今回は、今右衛門氏が人間国宝の指定を受けての展示会であった。パンフレットによると、史上最年少での選定だったそうだ。けれども、わたしのような素人が言うまでもなく、この色鍋島の美術館を含んだ工房全体、さらに販売部門を入れた組織の状態を拝見させてもらえば、伝統工藝を受け継ぐ体制として、申し分ない人間国宝指定であったと思われる。制作の厳しさと余裕を含んだ、口伝と暗黙知による継承の典型例としても、比類ないものがあるのだ。

2015/04/14

映画「マジック・イン・ムーンライト」を観る

Photo_7 いつの時代にあっても、恋愛は魔法のようなものだ。と映画のなかで言われているが、よく言ったものである。それで、登場人物の主人公がマジシャンで、主人公の相手の女性が占い師である、というよくできた話のなかで、さらに恋は魔法というのであるから。マジックには、必ずタネがあるということがわかっているマジシャンなのに、そこでころっと騙されるところから、俄然この映画は面白くなってくる。マジックは魔法ではないのだが、マジシャンがかかる恋は魔法なのだ。

主演のマジシャン役スタンリーのコリン・ファースは、映画「英国国王のスピーチ」で好演しており、今回の演技にも安定感があったし、さらに相手役の占い師役ソフィのエマ・ストーンは、先日観た映画「バードマン」の娘役でも飛び抜けた演技をしていて、あの大きな眼で見つめられてしまったら、どうしようもないと思われたのだった。それに、ほんとうにユーモラスだったのは、霊能師の問いかけに、床を踏む音がするというシーンだ。「あなたは⚪︎⚪︎ですか?・・・ドンドン」と床が鳴った時には、思わず笑い転げてしまったのだ。このような単純無垢な仕掛けが、映画的なのだ。

Photo_8 監督はウディ・アレンで、彼の映画の特徴は、登場人物たちがおしゃべりなところにあるのだが、今回の映画の核心は、アイロニーと非アイロニーとの対立にあるために、このおしゃべりにさらにウディ・アレン的輝きを増していると思う。敵対する相手同士が、結局恋をしてしまうという、よくある話なのだが、なぜかわたしたちは、このような常套的で、幸福感で満たしてくれるような、底抜けの恋愛に弱いのだ。

この映画でもっとも印象的だったのは、自分が真実を暴いたことを反省して、アイロニーを魔法に置き換えて、再び占い師崩れの女性に求婚するところだ。このパターンはどこかで見たことがあるな、と思ったのだった。

それは、ピグマリオン(映画「マイフェアレディ」)に似ていたのだった。ピグマリオンでは、自分の育てた女性を、一時は卑下するのだが、恋していることに気づき、思い直す劇だ。「自分で育てた」というところは、違っていて、この映画では逆に自分のアイロニーを武器に、相手のインチキを見破ることで、真実らしきものを獲得することになる。

Photo_9 けれども、その後の展開は似ていて、主人公は敵対行為を反省するが女性に拒否され、母のところで、ようやくこの恋が受け入れられるのだった。「ミイラ取りがミイラになる」という魔法が、この映画のミソだ。

2015/04/11

映画「バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」を観る

Photo_10 率直に言って、なぜ「バードマン」なのか。この映画については、上記の副題のほうが、内容を言い当てている。2014年度アカデミー作品賞をはじめ、数々の賞を獲得した作品だ。現代のアメリカを代表する映画だということになる。

第1に、最初のシーンから最後まで、共通したカメラワークがあって、常にクローズアップされた人物と映像が大写しされ、存在が強調されるような写真となっている。しかしじつは、この映画には、これらの人物以上にクローズアップされている対象がある。それは、アメリカという国そのものだ。マイケル・キートンが演じる主人公のリーガンは、一度はバードマンという最絶頂期を経験するが、それからは落ち目一直線で、苦悩しているのだ。これがアメリカでなくて、何なのだろう。バードマンは、米国のスーパーマンなのだと思われる。つまり挫折のスーパーマンを描いている。

Photo_11 それから、第2に印象的なのは、ニューヨーク的な雰囲気だ。もちろん、舞台芸術が背景にあるから、ブロードウェイの物語であるという点は随所に現れており、特有のニューヨーク的雰囲気を借景にしている。そしてそれ以上に、ジャズのドラムを至る所に配置して、聴覚的にも視覚的にも、ニューヨークを前面に出している。これこそ、現代のアメリカなのだと誇示している。現代アメリカにはメロディではなく、リズムだけが駆動していると、この監督は描いたのだと思われる。

第3の極め付けは、人びとの自然な一致ではなく、どちらかといえば、無理やりの、社会的一致がアメリカには必要だという点をうまく描いている。奇跡的な一致をアメリカ人民は求めているかのようだ。

Photo_12 劇中劇で採用されているのが、レイモンド・カーヴァーの短編「愛について語るときに我々の語ること」であり、この映画全体へ影響を与えており、決定的な奇跡も、この劇中劇の事故?から生まれるのだった。ここの部分は、カーヴァーの一部が乗り移ったような趣がちょっとだけした。この映画は、「いわば、複数のディメンションを組み合わせてものを書くことによって、寓話と、「現実」という名で通っているあの捉えがたい表層とを結び付け、その結果まったく新しい存在を創り出していた」のだった。アメリカほど、このような異なる複数のディメンションに分かれている社会はないほどだ。だから、一度ばらばらになってしまうと収拾がつかなくなってしまう。だから、それを避けるために、「現実」と結び付け、新たな社会的一致を見出していかなければならなかったのである。

2015/04/01

今年度予定している「授業科目」ラインナップ

仕事を行うには、気持ちを入れなければ成り立たない、とはわかっていても、なかなかそういう機会はない。ブログの良いところは、すでに起こってしまったことも整理するにも便利だが、これからどのようなことが起こるのかを言語化することでも便利である。言葉に変えておけば、気持ちも乗ってくることだろう。

4月になって新学期がスタートした。学習センターに勤めていた時には、入学式や始業式などがあって、季節の変わり目があざやかに見えたのだが、放送大学の本部へ移ってしまったあたりから、授業は放送で行われているために、この季節感が薄れてしまった。けれども、以下のように上げておけば、整理が付くだろう。今年度のラインナップは次のとおりだ。

今学期からの始まる新規科目は、

1.「グローバル化と私たちの社会」(基礎科目)

2.「多様なキャリアを考える」(総合科目)

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科目「グローバル化と私たちの社会」の1章半くらいを担当している。「社会と産業」コースの先生がたが総出で制作していて、華やかな科目になった。それから、総合科目「多様なキャリアを考える」では、3章分を担当している。職業キャリアには、常識的な賃金キャリア以外にも、技能キャリアや功績キャリア、さらに生きがいキャリアなどの多様なキャリアが見られ、それらが年齢とともに変化することを見たものだ。

継続しているのは、

3.「社会的協力論」(大学院科目)

4.「社会の中の芸術」(総合科目)

これらの二つの科目は、わたしの現在の中心テーマを含んでいる授業科目であるのだが、何回考え直しても、まだまだ過渡期的な産物であることに変わりないなあ、と未だに往生できない想いを抱いている。現在、進んでいる総合科目の制作が終わったら、本格的なフィールドワークを行って、これら2科目の後継科目を制作したいと考えている。

本年度の1学期に再履修の方々が終えれば、それで終了する科目が結構ある。これらは「社会と産業」コースの先生がそれぞれ1章から3章くらいを担当して、またなるべく、オムニバスにはならないように配慮しつつ作った科目であり、3科目をシリーズとして制作できたという、思い出深い科目たちだ。

5.「市民と社会を生きるために」(基礎科目)

6.「市民と社会を考えるために」(基礎科目)

7.「市民と社会を知るために」(基礎科目)

8.「消費者と証券投資」(専門科目)

それから、これもまだまだ、自分の中では解決できない問題を抱えている科目が終了する。

9.「格差社会と新自由主義」(総合科目)

この科目は、学生の方々からの質問数が多かったので、印象深い科目となった。ということは、まだまだ現在進行中で、課題の多いテーマなのだが、これも終了する。これまで関心を持ってくださった多くの放送大学受講生の方々へ感謝申し上げる次第である。

現在進行中の制作科目も二つある。おおよそ原稿も出来上がってきているので、放送教材の工夫を行う段階へ入ってきているのだ。

10.「音を追究する」(総合科目)

11.「色と形を究める」(総合科目)

これら二つの科目については、感性からみて社会ということが、どのように聞こえたり見えたりするのだろうか、というテーマであって、じつに楽しみながら制作を行っている。また、学問横断的な科目には、常に関わるようにしてきているのだが、もう一科目関わってみても面白いな、と思い、提案を受けているものがある。

面接授業については、もう直ぐグランドスラム達成だ。今年度は、奈良学習センター、香川学習センター、島根学習センター、長野学習センターを回って、学生の方々との議論を楽しみたいと準備している。

もちろん、これらに加えて、卒業研究、修士論文、博士論文などのゼミがそれぞれあって、本年度も学生の方々が魅力的なテーマを寄せてきているので、こちらの完成も目指さなければならない。

今年心がけたいのは、これらの多様な関心を幾つかの太い基本的な問題点へ集約させて、自分の論文へ雪崩れ込むように持っていきたいと願っているのだ。さて、どうなることやら、神のみぞ知るとは言いたくないところだが。

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『貨幣・勤労・代理人』(経済文明論)

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社会経営研究配布中

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社会経営ジャーナル配布中

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「音を追究する」第13回・第14回

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「グローバル化と私たちの社会」第11回

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プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。