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2015年3月に作成された投稿

2015/03/31

同じ職場でともに長く働くということ

Img_9467 同じ職場でともに長く働くということがどのようなことなのか、改めて考えてみた。きょうは、今年度最後の日にあたり、今年度いっぱいで退任なさっていく放送大学の教職員と、たとえ顔を合わせなくても、同じ職場をともにする、最後の日である。これまで、退任なさる同じ所属コースのT先生や、お世話になった職員の方がたとの挨拶は大方済ませていた。

Img_9512 それで、きょうはここ数十年一緒に働いてきたHa先生とHo先生の送別会だ。かつて皆が准教授になる前に、「助教授会」という非公式の集まりがあって、その会の現役の面々が久しぶりに集まったのだ。当時の助教授たちは学習センターに所属していて、1ヶ月に1回本部の教授会に集まってきて、その夕方に助教授会を開いていた。

お二人はすでに放送大学の所属組織などからの公式の送別会は、何回も受けてきている。そのうえに、さらにこのような非公式の送別会を行う意味はどこにあるのだろうか。それは、やはりこの働いてきた期間の「長さ」だ。20年から30年一緒に働くという、この「長さ」は比類ない経験をともにしてきたという、特別の人間関係が暗黙のうちに形成されていることに気づかされるからだ。今日集まった先生方は、放送大学へ就職以来すでに数十年、職場をともにしている旧「助教授会」の方がただ。

Img_9515 お二人の先生と共有する体験を数え上げれば切りがなく、その間にも放送大学的事件が数々起こっており、それらすべてが直ちに整理できるわけではない。ある先生は楽しかった思い出を語ったし、ある先生は懺悔を述べた。わたしの関係に絞るならば、Ho先生とも、Ha先生とも、それぞれ神奈川学習センターで一緒に職場を共有したことが大きかった。Ho先生は現在、放送大学の先生のなかでは、もっとも古く長い、30年という在籍歴を持っている。Ho先生が、お茶の水女子大へ移ったTo先生と、神奈川学習センターの創成期に赴任していて、遅れて1年後に、Ta先生とわたしが就職したのだ。まだ、仮校舎で古い横浜高工時代の建物に事務所があった。なぜか先生方が着ていたオーバーコートが強烈な黄色であったり黒色であったりして、視覚的な記憶が残っているのだ。

Img_9510 職場を長く一緒にするということは、それぞれの家族を知ったり、恋愛事情を知ったりすることなので、その生活としての印象が強くなってしまうが、実際には一緒に仕事をしたのであって、入学式や卒業式ごとに、工夫して学生へスピーチをしたり、学習相談室で学生の相談に乗ったりすることで、同じ体験を共有していった思い出が数多く浮かんでくるのだった。また、当時の所長M先生宅でのバーベキュー大会の模様などは写真に残っているので、Ho先生の娘さんの笑顔や泣き顔が浮かんでくるのだ。30年間同じ職場にいたということは、たとえ果たしていた役割は違っても、共有する体験の特別な蓄積があったということだと思われる。

Img_9457 Ha先生とは、2000年代になってから、二人とも本部から神奈川学習センターへ赴任してきて、Ha先生が所長で、一緒にセンターを盛り立てていくことになった。現在では、他の学習センターでも、採用されている学生ボランティアによる「サポート支援」ということを提唱して、学生の方がたに快く受け入れていただいたことを覚えている。このとき創立されたのが、現在のK-サポートだ。最初に、学生数十人の方がたと一緒に、葉山にある湘南国際村の施設を借り切って、サポート組織の立ち上げ研究会を催した。このときには、古くからのほぼ20数年来おつきあいのある学生の方がたが駆けつけてきてくださって、人間関係の不思議さをみんなで体験したのだった。

Img_9477 今日の送別会の会場は、日比谷・丸の内のお堀端にある明治生命館のレストランCで開かれ、フレンチコース料理のランチパーティ形式だった。出席者全員の話をじっくりと聞くことができた。関東大震災後の1930年代に建てられたもので、大理石が贅沢に使われているギリシア神殿風の建物だ。Img_9481 戦後、米軍に接収されて、陸軍が使っていたらしい。当時地下には駐留軍のPXがあって、その壁にはコカコーラの商標が描かれていたり、商店の名札が描かれたりして、レトロな雰囲気で、落ち着いた空間を保っていた。ここの少人数の部屋を2時間借り切って行ったのだ。このアイディアは、A先生からのものだったが、参加者からはたいへん好評だった。二次会も、ここのラウンジを借りて、談論を楽しんだのだった。

Img_9482 「長く働く」ということは、どういうことなのか。放送大学特有の魅力がいくつかあり、それを次第に認識するようになったということだと思われるが、「なぜ放送大学を長期間にわたって離れなかったのか」という真面目な質問をしてみた。かつては、放送大学も研究費が潤沢にあり、理科系の人びとにとって、実験設備を豊富に揃えることができたというメリットがあったらしい。Img_9483 それから、出席した先生方のなかで、多くの意見を占めたのは、「社会人を教える」というメリットだ。学生の質が全般的に良いということだ。わたしもこの意見には賛成で、経済学や社会学を教える立場からして、社会経験のある人に授業を行うのと、経験のないひとに授業を行うのとでは、授業方法の行方がまったく異なるといえる。

Img_9507 「なぜ放送大学を離れなかった」のかについて、二番目の理由に上がってきたのは、テレビ・ラジオによる授業科目の制作だ。30歳代から40歳代に入ってくると、数多くの授業科目を提案できることになり、科目番組制作が楽しくなっていくのだ。わたしは、この現象を「放送大学の麻薬」と呼んでいる。Img_9455 テキストを書き、テレビ・ラジオ番組作るということは、他の大学ではできない授業形態で、多様な教育方法を駆使できるという意味において、苦労はかなり伴うものの、それ以上の達成感があり、創造性を発揮できるのだ。このために、良い言葉で言えば、一生懸命になり、悪い言葉で言えば、のめりこんでいくことになる。

Img_9520 このことは、すでに60歳の定年を過ぎて、さらに放送大学に再就職してくる大家の先生方にとっては、「麻薬」でも何でもなく、業績の積み上げをここで披瀝することで、危険なことはまったくない。ところが、40歳代に初めて制作に目覚めた先生方は、いわば「放送大学のワナ」に陥る危険性があるのだ。制作に没頭するあまり、専門の研究業績量が以前より下回ってきてしまう、というワナだ。もちろん例外はたくさんあって、教育も研究も素晴らしい先生方はたくさんいるので、安易な一般化はできないのだが、放送大学に数十年勤めていると、一度ならず陥るワナなのだ。

Img_9527 具体的な話は、ここに書くことはできないが、常日頃聞くことができないことが、たくさん出てきて、気のおけない仲間とのインフォーマルな会話の重要性を再認識したのだった。Img_9528 三次会は、女子会が新丸ビルで、男子会が丸ビルでそれぞれ開かれ、夕方になるころには、酒の量も度を越すようになってきて、気分の盛り上がりも最高潮となって、久しぶりに楽しい会となったのだ。

2015/03/29

孤独という社交性

Fullsizerender 社交理論を形成したジンメル以来、「孤独も社交のひとつだ」とよく言われてきた。けれども、一人でどうやって、社交ができるのか、とちょっと疑問に思ってしまうかもしれない。社会が形成されるには、最小限2名ないし3名が必要であるというのが常識だとされている。孤独であって、なおかつ社会を形成することが果たしてできるのであろうか。

映画「イミテーション・ゲーム」を観る。先日観た映画「博士と彼女のセオリー」と同様に、ケンブリッジ大学教授を主人公とした映画だ。第2次世界大戦中、ドイツが使っていた暗号「エニグマ」に対して、このエニグマを解読するチームが、英国内務省内に作られ、それを率いたのが、主人公のアラン・チューニングだ。亡くなったのちにようやく、コンピュータの基礎を作った人として、王室からも名誉を与えられた人物だ。アランは、小学校の頃から「変わり者」として虐められ、教室の床下に埋められたこともあった。解読チームを築いてからも、浮いた存在となった。この彼の「孤独な人生」が、この映画の見所だ。

なぜ孤独が社交的なりうるのか。孤独にも、二種類あると考えれば、よく分かると思う。つまり、ジンメル的に言えば、「近接的な関係からの孤独」と、「遠隔的な関係からの孤独」があるのだ。じつは、人間関係が強くなればなるほど、近接的な関係が失われた時の喪失感、そして孤独感は強く感じるものだ。このときに、遠隔的な人間関係が有効であり、遠くの人と結びつくことによって、緩い人間関係で孤独感を緩和することができる。「弱い絆は強い」というM・グラノヴェッターの文脈は、このようなときに生ずるのだと思う。

「近接からの孤独」という状況に対して、「遠隔的な結合」を発揮することで、孤独は十分に社交的なのである。映画の中で、いくつかの例が示されていた。一つは、普通の孤独であって、「遠隔的な孤独」に対して、近接する友人が現れ、孤独が癒される例だ。チューリングの小学校時代の経験がこれに当たるだろう。問題は2番目だ。暗号解読チームを結成するのだが、この中でもチューリングはうまく立ち回れない。ところが、のちに結婚することになるショーンが素晴らしいのだ。外からやってきたにもかかわらず、チューリングの内側へぐっと入って、孤独でありながら、チームとの調整が次第にうまくいくことになるのだ。

そして、3番目の例として、チューリングがショーンとの婚約をホモセクシャルの性格を理由にして解消しようとする場面がある。ところが、ショーンは頑としてそれを受け入れないで、かつて自分がチューリングから受けた言葉でやり返すのだ。この場面において、チューリングの孤独に対して、ショーンの孤独がぶつかり、社交的な関係が生ずる瞬間なのだ。互いに「変わり者で孤独な者同士」の付き合いだからこそ、そこに社交が生ずるのだ、というのがショーンの論理だ。

そのときのセリフがふるっているのだ。この映画では3度ほど出てきて、制作者たちはかなり気に入っていたことがわかる。「ときに想像し得ない人物が、想像もできないような偉業を成し遂げることがある」というものだ。このこと自体は、チューリングの天才ぶりを強調するセリフなのだが、ちょっと曲解してしまえば、「孤独が社会に貢献することがある」、つまりは、孤独は社交的なのだと言っているようにも解釈できないだろうか。

事例として強烈なのは、チューリングがホモセクシャルな性格を持っていたことである。つまり、孤独を解決させたのは、男女関係ではなく、むしろ男性関係であったところに、孤独特有の、「遠隔的な社交」というものの性質がよく現れている。

2015/03/26

蒲田で春カフェ

Img_9386_2 早咲きの桜はもう散ってしまい、本格的な桜にはまだ間がある。コーヒーを楽しむにはちょうど良い時期だ。O先生から「春カフェしませんか?」という魅力的なお誘いがあり、すぐに乗ってしまった。

Img_9389 このところの彼のカフェ巡りのパートナーたちを眺めるに、20代から30代までの美女たちで、ネットワークを築いてきている。突如として、そのネットワークに老人男性の二人組のイメージが割り込むのは気が引けたが、ネットワークというものは多様性を混在させることで、ずっと発達することもあるので、生来の楽観主義を発揮することにして、いそいそと蒲田の街へ向かったのだ。

Img_9390 考えてみれば、蒲田へ下車するのは、生まれて初めてである。京浜東北線沿線の東京駅以南でこれまで降りたことがないのは、ここ蒲田だけで、首都圏の私鉄沿線ほぼすべてに住んだことがある、わたしにとっては珍しい場所なのだ。Img_9391 さっそく、O先生に駅周辺を案内していただく。NHKの朝ドラ「梅ちゃん先生」を見ていた人には、わかりやすい場所なのだろう。駅前が焼け跡の闇市になっていたところで、すこし離れて、戦前からの松竹撮影所のあったところです、との説明があった。Img_9398 そして、その闇市跡が、駅前のロータリーになったとO先生は教えてくださった。駅の両側の西口と東口にも、バスも発着できる立派なロータリーと広場がある。いつも電車の窓から、西口にある趣味雑貨の店「Y」だけは目立つので眺めていた。

Img_9394 広場からアーケードが伸びていて、カーテン屋さんなど、古くからの商店が軒を連ねる。人口の横溢さが目立つのは、アーケード街に沿って、二重、三重の商店街が発達していて、人通りが絶えないところだ。周辺部にこそ発展の中心があるという都市の核心を、未だなお、蒲田は維持していて、地方のシャッター街のあることなど、ここでは感じさせない。Img_9395 もちろん、新陳代謝はあるだろうが、まだまだ勢いがある。その勢いのひとつは、常連客の定着がある点に現れている。その典型的な店が1軒目の「春カフェ」だった。

Img_9397 商店街が輻輳している、ちょうど辻から二本目を入った通りの真ん中に、「カフェD」があった。古典的な喫茶店の構えをしており、茶色の建物の輪郭に、白い壁、そして大きなガラス窓が目立つ、中にはいると、地元の常連客がランチを食べに来ていた。印象として、オールランドな常連カフェだ。コーヒーにも力を相当注いでいるし、定食にもバラエティがあり、かつ美味しい。わたしが選んだのは、写真のハンバーグ定食で、見た目も味も洒落ていると思う。O先生はエスニック風の炒めご飯を注文した。このようにいつも常連を引きつけるものを持っており、幅広い集客能力を備えている。Img_9396 喫茶店が都市で生き残る条件は、チェーン店と伍して競争できることにあるのだが、そのためには、コーヒー店の専門性と、あとプラスαが必要なのだということだ。この店の場合、食事がそのプラスαということになるのだろう。年季の入った茶色のテーブルには、常連客たちの会話が染み込んでいた。もちろん、今日のO先生との歓談も見事に刻み込まれたことだろう。

Img_9399 2軒目の春カフェは、O先生の卒業生たちを惹きつけてやまない、スイーツ専門店の「M」だ。西口側から、環状7号線の跨線橋を通って、東口の商店街に入って行った。そして、警備員が常駐している、普通なら入るのをやめてしまうような、マンションの2階に「M」があった。Img_9402 O先生のブログで一応の想像はしていたものの、さらに上回る「隠れ家」ぶりで、一度来ただけでは到底場所がわからない。クリエイティビティ(あるいはスイーツの創造性)というものが、どのようなところで育まれるのかといえば、それは表の陽の当たる場所ではなく、陰の隠れ家で発生するのだ、という典型的な例である。隠れたところで考えられ、口コミで広がったらしい。「M」の印象は、隠れ家的だということも含めて、クリエイティブ系喫茶店であるというところだ。Img_9404 すっかり話に夢中になって、うっかりして肝心なことを聞き漏らしたが、O先生はどのように考えているのだろうか。カフェ文化論を地元紙に連載されているので、「M」について書くときに注目しよう。

Img_9403 メニューが季節ごとに変わるらしい。もちろん、定番はあるのだが、出て来る紅茶がそうであるように、初摘み、二番摘みとその時期の味を大切にしていることがわかる。イチゴやイチジクなどの果物とスイーツの仕合せな組み合わせは、この店の創造性がなせる技だ。O先生は、蒲田モダンロールを取って、わたしは、イチジクのケーキをいただく。それぞれ似合った紅茶を選ぶ。2時間ぐらい居たと思うが、次第に玄関で待つ客が増えてきたので、女性店長に挨拶してお暇することにする。Img_9408 ここの経営は、週の半分がこの喫茶店なのだが、この人気に頼るだけでなく、もう半分はスイーツの料理教室で成り立っているとのことだ。二つのマーケットの相乗効果を狙っているところも、極めてクリエイティブなところだ。いわば、大学経営で、講義だけでは成り立たなくて、必ずチュートリアルあるいはゼミナール的な授業が組み合わされているのと同じだ。

Img_9412 時間が経つのは早い。もう1軒行こうということになって、大井町へ足を延ばす。3軒目の春カフェは、線路沿いにすこし歩いて、土手からの桜並木が綺麗に続くのだが、その先にある喫茶店「P」だ。ここもO先生の馴染みの店で、温かく迎え入れられる。お気に入りの、半分の形をしたテーブル席で、外がぐるっと見渡せる、眺めのよい場所を占める。Img_9411_2 コーヒー茶碗に凝っていて、このときはウェッジウッドで出てきた。そして、途中から、ここの女性主人の方も会話に入ってきて、喫茶店談義をする。たぶん、この喫茶店の客は、スタンドの奥にずらっと並んでいる、素敵なコーヒー茶碗で静かにコーヒーを堪能することもさることながら、この女性主人の方との会話を楽しみに来る人びとが多いに違いないと思ったのだった。

Img_9409 春カフェがあるなら、夏カフェ、秋カフェ、冬カフェもきっとあるだろう。O先生と会うのは、詰まるところ、「社交」を実践するところにあるのだ。だから、何か必要に迫られて会うのだが、実際に会ってみると、実は必要はそっちのけで、会うこと自体を楽しんでしまう。次の夏カフェも会う機会を探っていて、今からどうしようかと思案しているのだ。

2015/03/25

「海老原喜之助」展へいく

Img_9358 春の陽が射している。でも、風は冷たい。妻が展覧会はどうかと誘ってきた。ちょうど気分を転換させたいと願っていたので、午後も少したってから出かけることにする。午後2時に出かければ、帰り道の途中で、ちょうど夕日が沈む頃、走水の崖から富士山の方向に夕焼けがみえるかもしれない。

Img_9344 横須賀美術館では、海老原喜之助の生誕110年記念展が開かれている。フランスで藤田嗣治に師事して、西洋の画法を的確に身につけており、方法に無理がなく、どの描法を取っても、安定した描き方をする。Img_9377 そのため、観ていて、その通りだと納得させられる感覚を与えてくれる絵画だ。藤田嗣治の白と同様にして、「エビハラ・ブルー」としてプロモートされている。けれども、それは1930年頃のことで、それ以降、必ずしも青が目立つわけではない。

Img_9431_2 代表作となると、やはり「青の時代」には多くの作品が集中していることは確かである。たとえば、作品「スケート」に見られるような、白色の雪と、うす青色の森(なぜわたしたちが森はグリーンだと思っているかが不思議だと思わせるような)の描写は、素晴らしい。さらにポスターにもなっている、やはり1930年頃の「曲馬」は空の青と、補色の馬の茶色が綺麗だ。それだけでなく、馬と乗り手とが、ぷかっと浮かんでいて、地上の親方のもつ綱につながり、全体として、余裕のあるユーモアを感じさせる構図となっている。ここで現実以上の何物かが生じたことがよく分かる絵だ。

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絵画の「リアリティ」を一山超えたと思える「遊戯」形式というものがよく出ているのは、1954年ごろからデッサンで準備され、58年に描かれた「人形使い」だ。複数の人形使いが一様に両方の手に一つずつの人形をはめて、両手を挙げて、人形芝居を行っている図だ。二つの動作を同時に行わなければならず、二つのそれぞれの相互作用が一人の人形使いによって統御されている。二つの人形を使うのは至難の技で、デッサンに現れる現実の人形師たちは真剣な眼差しを崩すことはない。

けれども、多くの「デッサン」を経て、最終的に描かれた「油絵」をみると、人形使いが笑っている。二つの人形に魂を奪われていた時期を脱して、人形使いの自在な様子が、ピエロ的な自由な動きに摸して描かれている。海老原喜之助は、上記の「曲馬」のぽかっと浮かんだ状態や、ピエロ風の笑いなどの余裕ある遊戯を捉えている点で、ひと首抜け出た画家であった。

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もうひとつ、わたしにとって特筆すべき発見があったのだ。昨年から、感性に注目して経済を眺めているのだが、いくつかの対象物がある。その一つに「椅子」があって、何回かの取材を重ねている。今回の海老原喜之助の描いた中に作品の「靴屋」があり、その中に描かれているものとして、ついに「一本足の椅子」を見つけたのだ。椅子の系譜には、いくつかの系統があるが、そのひとつは有名な「シューメーカー」椅子という系統がある。一応それらは、「三本足」の椅子ということになっていて、「一本足」椅子は、理論的には可能であっても、実際に見ることは初めてだった。絵画の中であるとはいえ、すっかり喜んでしまったのだった。究極の椅子として、この「一本足」椅子を「海老原の椅子」として記憶にとどめておきたい。絵の中では、安定した座りを見せていたのだが、ほんとうにあの椅子には座ることはできるのだろうか。

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すっかり豊かな遊戯を行い終えた気分で、予想どおり、綺麗な夕日のなかの走水を通って、家路に着いたのだ。

2015/03/24

映画「ディオールと私」を観る

Img_9328 映画という「複製技術」の中で、いかにして「創造技術」というリアリティを見せることができるのかという点が、この映画ではよく現れていた。どのようなブランドにも、普遍的なブランド要素と、変化を司るブランド要素とがあって、この映画では、ディオールの伝統は、この「普遍」と「変化」をミックスさせる魅力にあると主張するという、かなり正統的なところから見た映画となっている。

それは1950年代のクリスチャン・ディオールの打ち出した「ディオールと私」という伝統に現れている。少し前を行く「私」に対して、いかに「ディオール」というお針子を中心とした伝統的な職人集団が付いていくのかが、このブランドの勝負とするところだ、というのが、この映画の趣旨であるし、それはブランドというファッション界の一つの典型的な在り方だと思われる。

新進の革新的なデザイナー&ディレクター「ラフ」がディオール会長のアルノーによって、ディオールお針子集団に紹介されるところから、映画は始まる。ドレス部門とテーラー部門の二つの部門が、ディオール映画の今回の中心となる。お針子集団の個性の異なる女性職長二人が登場し、保守的な集団の中心を形成する。片方は調整型であり、片方は職人型である。それぞれデザイナー「ラフ」の要求に対して、摩擦を孕みながら、8週間後のオートクチュール展示会を制作していくのだ。内部のお針子集団に対して、外部からのデザイナーという構造だ。

保守と革新が一つになるときに、どのような仕組みが存在するのかが、今回の映画の目玉である。ふつうこのような保守的な職業集団の裏側を見せることはない。とりわけ、ブランドの周辺は見せても、その核心ではブランドイメージがコントロールされており、通常覗くことはできない。今回は特別にふつう見せないことに挑んだということには、映画を撮るという事情以外にも、おそらくディオール側にも、少しの理由があるようにも見受けられた。今回しか、撮れない事情があると思う。見せるに価するだけの演技と言葉が必要なのだが、演技人と職業人を兼ね備えた人びとがこれだけ集まるタイミングがいつもあるとは思われない。最初は、俳優が演じているのではないかと疑ったくらい、演技のうまい職人集団がディオールには育成されているのだ。

Img_9327 革新を要求するラフと、保守のお針子集団の接点が面白かった。保守と革新の接点の中で、第一に目を引いたのは、デザイナーから降りてきた服のデザインをみて、それを誰が担当するのか、という割り当てのシーンだ。お針子が集められ、テーブルの上に服のデザインがずらっと並ぶ。基本的には、お針子一人一人が自分の好みに合ったものを取っていくことになるが、一人だけ映画は注目していて、自分で選んでも、結局はそれを選べず、職長によって依頼される人もいるのを描いている。ここが保守と革新の接点であると同時に、妥協点でもある。内部の者にとっては当たり前の割り当てなのだろうが、外部の者にとっては矛盾をはらんだ調和のようにもみえてしまう。

第2に注目できるのは、デザイナーのラフと職長との間は、直接的なやりとりが行われるのではなく、もう一つの緩衝材が入っている。ピーターというラフの右腕で、フランス語のよくでき、調整役を受け持つ人が存在する。ラフが無理難題を出す。たとえば、この世に存在しないプリント地を短期間で作り出すことを要求するが、この調整はピーターが行うのだ。

第3に、ここが人間関係の重要なところだと思われるが、個人的な悩みを一人で悩ませずに、必ず誰かが寄ってきて、慰める役がいるという点だ。職長には愚痴をこぼす同僚がいるし、ラフにも最後の展示会の緊張をほぐす役が付くのだ。この点が、やはり長期にわたって、同一ブランドを張ることができるディオールの強さであり、もしこの人間関係がうまくいかなくなったら、すぐに崩れてしまう集団というものの不思議なところだと思われるのだった。

Img_9326 というわけで、映画としてよりも、デザイナー対お針子集団という組織論の事例として、この映画を見てしまった。ドキュメンタリー風を狙ったのも、おそらくこの辺の本質を見せたかったからだと、踏んだからである。しかし、演技としても十分見せるところがあって、その意味では、純粋なドキュメンタリーに見えないのは、やはりブランドとしての「ディオール」のコントロールが至る所で効いているからなのだろう。

2015/03/21

学位授与式を参観する

Img_9289 NHKホールで行われた学位授与式を参観する。学生からの謝辞には、考えさせるものが毎年含まれていて、聴いていてほんとうに楽しい。Img_9288 他のひとにはどのように聞こえたのかわからないのだが、同僚のY先生ゼミ卒業生の述べた謝辞は、一見それほど工夫を凝らせた節は見られないと思われた。だがしかし、あとで考えてみると、含蓄のあるものだった。たとえば、「卵焼きの隠喩」はあやうく見逃すところだった。

Img_9294 小学校のときには、勉強が嫌いで、母が作ってくれた「卵焼き」を 食べることができるというので、学校に通った。そして、勤めている間、数年のブランクの後に、今は妻の「卵焼き」を持って、放送大学の学習センターへ通って、卒業に至ったのだというのだ。

Img_9303 この「卵焼き」とは、いったい何だろうか。メタファーにしているところが表現として憎いところだが、この「卵焼き」は何にでも置き換えることができる。たとえば、元気であったり、励ましであったり、支援であったりということになるだろうが、このような説明的な言葉を使わずに、「卵焼きを持って生涯学習」だけで、話が通ずるのだ。

Img_9309 場所を移して、赤坂のニューオオタニにて、懇親会が始まる。卒業研究生や修士課程のゼミ生との歓談は、この1年間の思い出が基本にあるから、とても懐かしく、また思い出しても楽しいことがあって、まだまだ議論したいことが見つかるのだ。Img_9318 それで、このような全学的な懇親会の便利なところは、他のところにもあるのだ。何人かの初対面の学生の方がたが、寄ってきて話をしてくださる機会としてたいへん有難い。

Img_9313 いく人かのかたとの会話が印象に残った。たとえば、会場の向こうのほうからこちらをちらっと眺めながらその方はいらっしゃった。Mさんは、昨年放送大学を退任なさった佐藤先生のところで哲学を勉強した方だ。今学期、わたしの科目「社会的協力論」を履修なさったそうだ。それで感想を述べてくださったのだ。内容を要約するとほぼ次のようなことだった。「協力」というものが通常はあたかも参加者同士が合意に基づいて行われるから協力なのだ、という面ばかり強調されているが、そうではなく、動的で便宜的で、その場面に至ってようやくにして立ち現れるものだ、という。Img_9306 このような「協力」の本質的な議論をなさりはじめたので、わたしはすっかり嬉しくなってしまったのだった。そこから始まって、さらに授業内容についても、面白い見解を示してくださって、ここまで受講生の方がたに読んでそして聴いていただければ、ほんとうに制作者冥利に尽きるというものだ。

Img_9302 もう一人の印象に残った卒業生は、山梨からいらっしゃったIさんだ。わたしのブログをみていてくださっていて、そこからリンクされている早稲田大のO先生のブログを知ったそうだ。そこで偶然なのだが、彼女はなんと30年ほど前に、山梨でO先生の授業に出たことがあるのだそうだ。25年間は専業主婦で家にいたのだが、ここ数年は放送大学の学生を始めていて、第二の人生を歩み始めているのだそうだ。30年を経て、ふたたび社会学を勉強し始めているとのことだ。この巡り会う時間の不思議さに感激したのだった。

Img_9324 懇親会が終わって、仕事で授与式と懇親会に出ることができなかったMさんと合流し、修士課程修了生たちと赤坂の喫茶店でお別れの懇談をして、散会したのだった。何人かの方がたは、今後の第二論文の展開が期待できそうだったし、さらに多くの方々から、研究誌「社会経営研究」への投稿を取り付けた。そとは、春の夕闇が緩く迫ってきていた。

2015/03/18

ケンブリッジの街角で

Img_9281_2 20年ほど前に、わたしの担当する放送大学の授業番組を、海外で作るということになり、世界一周の取材旅行をしたことがあった。英国のケンブリッジで、ケインズと制度学派を取材ロケして、ケインズがフェローをしていたキングス・カレッジと、その隣のレンガ建ての施設を借りて、ビデオ撮影をした。終わって道路に出た時に、宇宙物理学者のホーキンズが画面の付いた有名な車椅子で、歩道をすいすい行くのを見た。

Img_9282 映画「博士と彼女のセオリー(原題:The Theory of Everything)」を観る。ブラックホールの研究で知られる物理学者ホーキンズの伝記映画であるが、妻との関係を中心に描いていることで、映画の虚構性を保っている。映画の中で、ケンブリッジ市内を移動していて、観光客に話しかけられた話をする場面があった。「本物ですか」と尋ねられ、答えて曰く「本物はもっとハンサムです」。わたしが遭遇したくらいだから、毎日何百人のケンブリッジ詣での観光客の目に触れていたのだと思う。

それで、この映画はケンブリッジの学問的厳しさとユーモアのセンスを描いていて、ホーキンズを生み出すこのような風土に、ケンブリッジ神話の源泉があると思う。映画の中で、博士論文の最初のゼミ場面の雰囲気などは、独特のものがあるし、ちょっと視点は異なるが、このような古典的な部屋があれば、ゼミ生を呼びたくもなるだろうし、研究が進むとは思えないが、知識を循環させる部屋として欲しいなと思ったほどだ。

それにこの映画には、ケンブリッジ風景がいたるところに出てくるので、一度ケンブリッジに行ったことのある人は、懐かしく観ることだろう。ケム川からのキングス・カレッジの映像は、何回も出てくる。やはり、ホーキンズの物語は、ケンブリッジという街を抜きには考えられないし、さらにこのような母体の下に、人間というものが育ち、かつ人間の枠をかなり広げることができたというところに核心があると思われる。それがケンブリッジ神話なのだと思われる。

Img_9279 ホーキンズが運動ニューロン疾患(筋萎縮性側索硬化症)にかかり、余命2年と知って、彼の父親がホーキンズの恋人だったジェーンに言う言葉には宇宙の法則以上の普遍性がある。「この戦いに勝利はなく、負け戦をどこまでも続けていくことになるんだ」と。けれども、ケンブリッジ神話の強さは、負け戦をどこまでも支える仕組みがあって、たとえ最後は破れるとしても、いくたびかは勝利をもたらしてしまうというところだと思われる。

この映画で注目したのは、やはりホーキンズと妻との関係だ。夫婦関係というものの、一つの典型を示していて、原題の「すべてのものの理論」というのは、このことかと穿ってしまった。宇宙のブラックホールの理論に関しては、ホーキンズ理論ではいわば「収縮閉じ込め」理論と「発散消滅」理論が対立しており、それで「すべての理論」となっていると解釈したのだが、同様にして、英国文化的な家族像というものも、ここでは「収縮型」と「発散型」が現れ、ホーキンズの夫婦関係にもこのことが反映されている。収縮と発散というすべての理論を描いている点で、この映画の原題が納得させられるのである。

この映画で、この点がよく表れているところに感激するのだ。映画の前半では、献身的な世話をするほどに一体となった夫婦の闘病生活を描いている。ところが、映画の後半では、個人が独立していることを描いていて、このことを最大限尊重するという英国の伝統を描いている。夫婦関係であろうとも、前半で見せるような、積極的に個人の中へ介入するときと、後半で見せるような、個人同士が独立し発散していく、消極的な方法をとるときとがある。これが英国式だし、またホーキンズ理論のすべてだと思われる。このことは映画の至るところに見られるのだ。

もう一つ、ケンブリッジの思い出を述べるならば、映画にも出てきたカレッジ毎に組織化されている「カレッジ・コーラス」だ。夜になると、それぞれのカレッジの聖堂で合唱会が開かれていた。市民の多くがこれに所属して、家族からすこし離れた文化活動を行う。けれども、それは家族を外側へ向かって発展させる社交的な活動となっている。聖堂の壁に見事に響いて、自前のコンサート場を持って練習する合唱団の仕合わせが伝わってくる。

Img_9278 また、これも覚えているのだが、「フライヤー」という言葉を知ったのもここだった。つまりチラシが発達していて、市内のいたるところにこのカレッジ・コーラスのフライヤーが貼られていた。トリニティカレッジのコーラスが、黄色くて黒い太い文字でフライヤーを作っていて、それが古典的なチラシ形式を備えていて、今でも手本にしている。

2015/03/14

今年度最終ゼミナールの開催

Img_9284 菜の花が咲き始めた。今月末には、満開となるだろう。その昔、新しいことに飛び込んだ時に、このような菜の花畑が目の前に広がっているのをみて、この黄色一色で染まった光景が今後の世界を示唆しているように思えた。元気付けられたときがあった。

今の時期、M1の大学院生は修士論文目指して、どのようなことを考えているのだろうか。昨年の方がたを考えてみると、早い人は草稿を書くことに入っていたが、多くは草稿に入る準備をしていたような気がする。

Img_9285 このような時期は、方向性を探る時期だと思われる。「方向性」という言葉がわかり難いのであれば、論文のポイントとなる「道標」を見つけ、その点を線で結んでいくという作業といっても良いだろう。これまでの研究でポイントとなるメモはかなりたまってきているのだが、初めて書く論文の場合には、これからどのような困難が待っているのかが予想できない。二度目には、何とかここでどの方向へ向かって踏み出せば良いのかが見当がつくのだが、初めての道を通る時がそうであるように、どちらの方向を目指して良いのかがわからない、という状態なのだと思われる。

Img_9283 方向性を探る方法は限られている。ひとつは、ゴールが見えている人の場合には、現在とゴールとを結んだ線上を目指して進めば良いのだ。けれども、まだ1枚目も書いてない人が、ゴールが見えるというのはなかなかできないことだ。また、見えてしまった人でも、最後まで、ゴールが変わらないのかといえば、必ずしもそういう訳にはいかないものだ。

もう一つは、上記のようにはゴールが見えないならば、すこしずつ積み上げていって、最後にゴールへ到達する方法がある。ポイントを確かめて、すこしずつ地道に確実な方向を瞬間的に察知して、とにかく足を踏み出していくやり方だ。この方法の欠点は、いつのまにか、あるべきゴールから離れてしまう場合があるということだ。現実的すぎると、墓穴を掘ることになってしまう。

Img_9286 と抽象的にいくら言っても、わからないかもしれない。そこで、一つの方便として、想像力を発揮する方法を提案したい。もし自分の論文にゴールがあるとしたら、そして、最終的に積み上げて構成できるなら、自分の論文はどのような方向へ進んでいくだろうか、という想像力である。仮設で良いので、いくつもの方向性をとりあえず設定してみる。当然、うまくいかないから、その度に修正を行っていけばよいだろう。この想像力の活用は、かなり有効だと思われるし、今後の指針になること請け合いだ。これこそ、「道標の示す方向」というものだろう。何事にも、「道標」と「方向性」はあらまほしけれ。

2015/03/13

合宿からの帰り道・寄り道

Img_9199 この温泉旅館のある一帯には、いろいろな名産品があるのだが、昨年小梅漬けを買って帰ったら、妻が美味しいというので、今年も宿から分けてもらう。もちろん、朝食にも回ってきて、お茶のともにつまんだ。雑談をしていたら、早めに次の訪問地へ行こうということになって、この段階で東京へ帰ってしまう先生方を見送りして、Img_9211 最後の朝風呂温泉へ飛び込む。さすがに、温泉の熱さは朝になってぶり返していて、温度の高い風呂に入ると、一瞬身体がこわばって、血の巡りが止まってしまうような感覚になり、身体中がさっと真っ白に冷えるかのような瞬間を楽しむ。けれども、2、3分もすると、身体の中からじわじわと温まってくる。

Img_9212 山道を登って、まだ根雪の残る山里の道を行く。すると、河岸段丘が急に開けて、平原が目の前に広がる「須川宿」に到着する。午前には、ここにある観光客用の「たくみの里」で工芸作家たちの作品を見て歩く。といっても、まだまだ午前中で早かったため、店が閉まっているところが多かった。Img_9223 そこで、かねてより入ってみたかった「マッチ絵の家」に併設されている喫茶店へ入る。ここは、名前のとおりのマッチ絵の画家がいて、工房を開いている。そしてそのマッチ絵が、とても素敵に改装された隣接の喫茶店のギャラリーで展示され、他の鉄職人の作品などとともに売られている。

Img_9225 家自体が窓の大きなモダンな家に改築されていたので、気が付かなかったのだが、ここは100年以上たつ養蚕農家の小さな家だったそうだ。太い梁や柱がこげ茶に塗られて、木張りの床に合っている。Img_9224_2 来年授業で取り上げ予定の木工品に関係するような、素敵な骨董品が集められていて、それらを眺めているだけで、時間がゆったりと過ぎていく。Img_9227 ほんとうはこれから蕎麦打ちを見に行くことになっていて、Aさんがわざわざ教えにきてくださったのだが、この喫茶店で話を聞いているうちに、それを逃してしまった。観光も意外なところで忙しい。

Img_9235 この喫茶店で注目したのは、この椅子だ。骨格は手作りの細い鋼鉄で構成されていて、かなり丈夫な作りをしている。珍しいことに三本脚の構成を取っていて、前部に足をかけるようになっている。ここに足をかけて、腿のところで、何かの作業ができるかのように作られている。この前部の広がりは美しいとともに、機能性が考えられているのだ。Img_9229 それから、何気なく背板がちょこっと、一本の鉄の柱で上に伸びているが、実際にすわってみると、こんな小さな背もたれなのに、すっと背中のツボに張り付いてきて、気持ちが良いのだ。Img_9228 また、この椅子には、テーブルがセットされていて、写真の後ろに写っている。やはり細いテーブル脚なのだが、それに似合わずどっしりとした一枚板が乗っていて、存在を誇示するテーブルとなっている。この古い家に似合っている。そして、部屋の対角線上に据えられた薪ストーブの重量感に拮抗しているのだ。

Img_9232 じつはこの椅子とテーブルを作った鉄職人Nさんの作品が、何点か小物の鉄製品としても売られていた。その中に鉄のカトラリー展示があった。なかでもコーヒーメジャーが展示されていて、すっと細い首を伸ばして、くるっとした匙の部分を強調しており、このバランスが素晴らしかったのだ。鉄の錆びがこげ茶色に付着して、と思ってよく見たら、錆びではなく、漆が焼き付けられていて、落ち着いた道具となっている。店の方に許可を得て、写真を撮らせていただいた。Img_9234 すると、一緒に見ていたK先生が、わたしが放送大学を退任するときに贈ってくださる、と言ってくださった。実現するとは思わないが、嬉しかった。それまで、売れ残って待っていてほしいのだ。

Img_9277 喫茶店の女主人のかたと雑談をしていて、しばらく経ったので、今日のもう一つの目的である、「革細工の家」へ向かう。先ほどは閉まっていたのだが、他の店よりやや遅れて、開店したようだ。じつは二年前にここを訪れたときにキーホルダーを求めた、Img_9215 ぷくっとした茄子の形をした革製品で、カバンの中で手探りをして見つけられる、特徴あるキーホルダーで大変便利に使っている。そのときに、柱にかかっていた散歩用のカバンがあって、昨年これを求めようと来店したところ、お休みの日にあたってしまったということがあったのだ。だから、二年越しの買い物だ。

Img_9262 革職人のかたの後ろに、そのカバンを見つけて、触っていると、じつはこのカバンはこのところ随分売れて、この革自体がもうないのだというのだ。それで新作で、もっと薄く、ひとまわり大きなカバンを作っているとのことだった。値段は同じで、Img_9263 前よりも洗練されたカバンを奥から出してきた。ところが、存在感がまったく違うのだ。二年前のこの旧作でしか現れない、曰く言い難い味があって、触ってみないとそれはわからないのだが。

20141 職人のかたはこの旧作を自分用に使っているので、売ることはできないと最初は言っていた。一緒に行った先生方が、中古でも良いから売ってやりなさい、と助言してくださって、ようやく職人の方を口説き落としたのだった。持つべきものは、友だと、げんきんなようだが、この時はそう思ったのだった。Img_9237 先生方から、何に使うのか、と問われたが、横にペンを指して、メモ帳とカメラを入れて散歩するのに最適なのだ。

Img_9240 さて、お昼になったので、地元出身のKW先生が予約を入れてくださった、T食堂へ集まる。そして、次から次へ出てくる肉料理とそばとを楽しんだのだった。オードブルとして出てきたのは、Img_9242 大皿に地元で採れた野菜を漬けたり合わせたりした写真のような料理で、この中で豆味噌やふきのとう入りの卵焼きなどが並んでいる。好みはあるとは思うが、ふきのとうの苦みが卵の甘さと合っているし、さらに鼻に抜ける香りが春を感じさせてくれた。

Img_9244 メインメニューは、鹿肉の刺身とうど、鹿肉のユッケ、鹿肉の焼き肉、さらにイノシシ焼き肉で、次から次へと出てきた。そして、最後はさきほど打っていたそばだ。Img_9247 そばを食べていたところ、わたしが農産物市場で買った紫色かかった「辛み大根」が話題になって、このそばと合わせてみようということになって、早速おろしてもらって、食べた。Img_9249 少なくともわさびよりはこちらの方が、そばに合うと思ったのだ。日本酒には、H銘柄のお燗を選び、食欲が進んだのだった。

Img_9250 このまま、だるまストーブに当たって、午後の会話を楽しんで、もう一度温泉に浸かりたいと思ったのだが、切りがないので、仕方なくバスに乗って、新幹線で仕事の待つ東京へ戻ったのだった。Img_9246

Img_9251 Img_9252_2 Img_9257 Img_9260 Img_9261 Img_9238 Img_9265 Img_9266

2015/03/12

T先生送別会および湯宿合宿

Img_9160 恒例となった、大学の「社会と産業コース」の先生方による湯宿温泉合宿へ出かける。東京駅エキナカで、合宿への差し入れ用に勝沼ワインCを購入した。三寒四温の季節のはずだが、上越新幹線の上毛高原駅に降り立つと、風が厳しく、底冷えのする寒さがまだこちらには残っている。Img_9205 正面には、谷川岳とそれに連なる山々が切り立っており、そこから道路にそって、寒風がヒューっと降りてくるという寒さだ。上州特有の寒い風の通り道に降り立ったのだ。

新幹線の中でも、上毛高原駅に着く頃には、人影もまばらになった。ウィークデーの昼頃で、この寒さなので、観光客もまだまだ数えられる程度しかみられない。Img_9210 駅の構内はあまりに閑散として、暖房も効いていないので、観光物産館のベンチで、路線バスの到着を待つ。

三国街道を辿って、宿に到着。勝手知ったる旅館なので、早々に岩風呂へ入る。毎年、水で埋めなければ入れないほど熱いのだが、今年は到着に合わせてもらったおかげで、程よい温度になっていた。Img_9174 丸く大きな湯船に身体を伸ばすと、肌に染み込んだ自身の悩みが溶け出していくようだった。ここの温泉質は、たいへんよいと思う。匂いもなく、透明無色で、入った後は、肌がすべすべになる。と思っているうちに、真っ白だった肌が、桜色から赤みを帯びてきて、脳の中まで温泉状態になってきた。

Img_9171 ロビーへ出ると、到着したT先生とM先生がコーヒーを飲みながら雑談していたので加わる。T先生が放送大学を退任なさるので、先生方や学生との思い出などを、と言っても辛口直言派のT先生の話だから、感傷的な話はこれっぽっちもなく、苦労話などは多かったが楽しい話ばかりだった。今年の修了生たちが、T先生の批評にメゲていた話をすると、辛口だからな、とカラッとおっしゃる。修了生の方々へ言いたい。Img_9176 つまり、批評だから否定的になるのだが、それで論文が悪いわけではない、ということだ。T先生の辛口批評が多かった人ほど、むしろ評価が高いということになるだろう。ちょっとお手盛りすぎかもしれないが。

Img_9181 先生方が続々と到着して、合宿の目的のひとつである、社会と産業コース会議が始まる。内容は充実していて、最後はいつも「放送大学の教養とは何か」、という定番テーマに帰っていくのだが、そこに至るまでが長く厳しい。そうしているうちに、会議の場所が畳の宴会場なので、腰に負担がかかってきて、足がしびれ、背もたれはあるのだが、Img_9182 身体がきつくなるのを感ずることになる。このころには、隣の部屋に用意されている料理の香りがしてきて、ここへきたもう一つの目的を思い出すことになる。

Img_9183 料理は、昨年からコック長が新しくなり、川魚主体の料理が続くことになる。鮎の塩焼きや鯉こくなど、酒が進むのに合わせて、さらにてんぷらや山菜の珍味が並んで、日本酒とワインももっと進むのだ。隣に座った建築学のH先生は早めに来て、わたしたちが明日行く「たくみの里」をすでに探訪していた。Img_9187 例年、H先生は三国街道の須川宿資料館を訪れ、学芸員の方との意見交換を行っていて、毎年のように新しい知識の発見をなさっている。H先生はメモ魔で知られているのだが、きっと今日もメモが数センチ溜まったことだろうと思われる。

Img_9184 その中のエピソードの一つで、このところ数年続いている課題がある。今年もまた話題になった。現在はそうではないのだが、須川宿の用水路が街道の真ん中を通っており、なぜ当時は道の両側に水路があるのでなく、道の真ん中に水路が通っていたのだろうか、という問題があるのだ。それで、今年はその用水路が上水道だったのか、下水道だったのか、ということを議論しあった。話せば長い理由がいくつかあって特定は難しいのだが、この須川宿の場合には、山から引いてきた水を通すところとして、真ん中の溝が使われており、やはり上水道的な利用が行われたのではないかということになった。今年は社会科学的な理由よりも、工学的な理由が勝ったというべきなのだろうか。

Img_9162 食事と宴会が終わって、二次会としてKW先生の部屋へ行き、さらに杯を交わすことになる。わたしたちが会議を行っているときに、Aさんは宿を抜け出して、外湯に入ってきたらしい。わたしも一昨年に、宿のすぐ前ある共同浴場へ行ってきたことがあった。雪が降っていたので、身体は温まっているが、外は寒いという幸福な体感を楽しんだ。外湯にも、いくつかの異なった場所があって、地元のKW先生によれば、それぞれ協同組合を成立させて、いわば会員制のコミュニティを形成していて、肌と肌の付き合いを自分たちの費用で運営しているのだ。水資源と同様に、お湯資源共同体が成立しているのをみることができる。Img_9172 Aさんはその中でも、T湯が良かったと言っていた。来年は、外湯巡りにも挑んでみたい。と話しているうちに、午前2時を回ってしまった。解散のあと、深深と更ける夜の余韻を楽しんで、コタツに照明を灯して、読書を楽しんだ。

2015/03/08

「社会経営研究」発表会

Img_9119 Web研究誌「社会経営研究」「社会経営ジャーナル」そして例年恒例となった「比較地域研究会」の発表会を行うことになった。全国の放送大学学習センターへチラシを貼ってもらって、今回は宣伝にも力を入れた。Img_9123 それで、大学院レベルでは24名の方々が全国から集まってくださって、5時間にわたる発表と議論が行われた。首都圏ばかりでなく、新潟や岐阜からも、仕事の合間を見つけて、駆けつけてくださった。テーマは、以下のとおりだった。

「社会経営研究第2号」「社会経営ジャーナル第2号」発表と討論

第1部「社会経営ジャーナル発表会」

「最期の場所について一度考えてみよう在宅から病院を垣間みて」

「非正規雇用はなぜ増大するのか内部・外部労働市場の多様化について」

第2部「社会経営研究発表会」

「市民満足度調査における二元的品質分析手法の提案」

2000年代以降、銀行貸出は地域経済の成長に貢献してきたか?パネル分析に基づいた暫定的な一考察」

「リーマンショック後の不況期における日本の主要製造企業100社の収益性」

第3部「第10回比較地域研究会」

「新潟県中越地震10中山間地域の震災復興とは」

「高齢者向け自叙伝作成支援事業(試案)」

Img_9125 相変わらず、テーマに共通点は無いように見えるが、今後の方向性を占う意味では、地域に関するものに特色が見られたように思われる。今後統一テーマを設けて、研究会を行っても良いかもしれないということを期待させる内容だった。

たとえば、新潟の中越地震についてのUさんの発表は典型例だった。時間が制限されていて、討議できなかったのが、残念なくらいだったので、そのあとの懇親会ではとくにコメントを伝えたのだった。どのような点でアピールしたのかといえば、地震の復興では、個人の地域リーダーを見出して、それを中心に行う方式と、もう一つには、集団間で組織化が行われる方式とがある。Img_9126 個人リーダー方式は目立つから、よく他でも報告が行われているが、後者の集団方式はなかなか報告されることが少ない。ここで、Uさんのモデルについて言ってしまうわけにはいかないが、地震復興についてその地域に合わせた復興パターンがあり、ここでとりわけ、人的交流について一定のパターンが見られるというものだった。地域循環のパターンには規則性が存在するのだ。ほどなく、Uさんの論文も仕上がってくるものと思われるので、その時には詳細に報告したい。

Img_9118 じつは発表者以外にも、参加者の中には、論文作成を抱えている人が数多くいるのだ。たとえば、Yさんはここ数年抱え続けてきた結果、名古屋の大学から博士号をこの3月に取得することができたというので、出来立ての博士論文の分厚いのをいただいてしまった。ほかにも、将来有望そうな論文が懇親会の席ではまわりにたくさん漂っていた。それらがまとまった時には、ぜひ「社会経営研究」誌への掲載を検討していただきたい。懇親会も無事終わり、課題を抱えて、みんな日常へ戻って行った。

2015/03/03

一升瓶ワインはなぜ発達したのか

Img_9017 他の日本のワイン産地でもそうだと思うが、継続した、(ということは、地元に根ざした)ワインメーカーであるかどうかを判定する基準がいくつか存在する。その中でも確実な基準なのは、「一升瓶ワイン」を製造して、高級ワイン(700数十ミリ瓶)とは別の販売戦略を成功させているかどうかだ。Img_9074 この基準で判定して、多様な一升瓶ワインの銘柄を成功させていて、一升瓶ワインだけの商圏をうまく築いているのは、甲州の勝沼と信州の塩尻だ。他の地域では、単発に単銘柄の一升瓶ワインを作ってはいるものの、やはり商圏とまでは行っていない。おそらく勝沼では10数社、塩尻では5、6社が製造していると思われるが、この一升瓶ワインは見逃せない。

Img_9076 今日は、O市からの帰り道、塩尻のワイン造りで有名な「桔梗が原」近辺を通り、さらに甲府から勝沼のぶどう畑を、このツアーバスが何度も通ったおかげで、途中の酒屋やワインセラー、土産物屋さらにワイナリーにたびたび寄ることができた。それで、とくに一升瓶ワインを中心に、品揃えを見て回ることができたのだった。写真の一升瓶ワインが数種類並んでいる酒棚は、木曽の奈良井宿の酒屋さんに頼んで撮らせてもらったものだ。最近は、洒落た壜やレッテルの一升瓶ワインも見かけるようになった。

Img_9077 ここ数年、信州へ行くたびに愛飲していて、空いた一升瓶を捨てるのに困るほどだったのは、H農場Gワインの一升瓶ワイン(エコノミー白)だ。たぶん、ナイヤガラ主体のちょっと甘い、口当たりの良いものだ。この銘柄は、信州の酒屋ならばどこでも見かける、もっとも確立され、すでにブランドとして相当な価値を獲得している銘柄であると言える。これと比較しながら、他の一升瓶ワインを見て歩いた。

Img_9014 ワインといえば、やはり贈答用の「高級ワイン」か、自宅でちょっと飲む「テーブルワイン」というイメージが定着していたので、一升瓶ワインについてはこれまであまり注意してこなかった。東京の人は一升瓶ワインの魅力をほとんど知らないし、そもそも東京には一升瓶ワインを継続して売っている店がない。けれども、今回数カ所でみてみると、一升瓶ワインが定着するいくつかの理由があることが理解できたのだ。

Img_9098 第1に、「安価」であるというのは、理由の最大のものだ。高級ワイン1本分で、一升瓶ワインを何本も買うことができる。コストパフォーマンスがすこぶる良い。第2に、量が多いことから、主として「晩酌用」に最適だ。毎日、一定量を少しずつ飲む個人にとっては、一升瓶というのは、感覚的に合っている。日本酒の晩酌に慣れた人と同じで、一升を何日で飲むということが身体で認識できる量なのである。また、日本酒・焼酎や洋酒との競合状態から考えて、ある一定のアルコール飲料シェアを確保するにも、量としての特性をもつ一升瓶ワインは欠かせない。第3に、壜製造コストが日本酒と同じで、定型なので安いのではないかと思われる。このような一般向けのものの条件は、製造コストと流通コストがかからないという条件は必須だ。通常の日本酒と同じ、流通を利用できるメリットは計り知れない。

Img_9102 第4は、やはり「味」だ。赤ワインはそれぞれ特徴があり、まだわからないところがあるが、白ワインはすこし一般受けするところを狙っている。味が男性向きではないということが、なぜ一升瓶ワインが流行るのかの最大のポイントではないかと、じつはわたしは思っているのだ。現代はまさに女性の時代を迎えていて、田舎の女性たちのひそかな楽しみとして、台所の奥に、じつはこの一升瓶ワインが秘匿され、夜な夜な女性たちの口に注ぎ込まれている、というのがわたしの推測なのだ。それともう一つは、高齢者用に発達したということも見逃せない。

Img_9051 勝沼を取材していた時に、日本のワインは当初、生食用のぶどう造り農家が副業としてワインを造り始め、まずは自分で飲むために造り始め、次にコミュニティの協同組合として発達した話を聞いた。とすれば、一升瓶ワインこそ、その原点にあるワインなのだ。自分の晩酌用の味を作って、自分で飲むのが一升瓶ワインなのだ。毎年、大きな樽で作られたワインが、この一升瓶ワイン用にブレンドされ、そのメーカー独自の味が決まって出荷される。Img_9092 どのようにブレンドするのかが、メーカーに委ねられている。もともとは輸入ワインをうまくブレンドして出荷していたものもあり、ブレンダーの腕が問われるのが一升瓶ワインなのだ。その意味では、この味を決めるセンスがあるかないかで、そのメーカーの質が問われるのだといえる。だから、高級志向のメーカーや独立系の新興ワイン醸造所では安易に一升瓶ワインには手を出せない。

Img_9021 妻の協力もあって、ワイン5本を購入し、バスの座席と床に足で固定しながら、信州・甲州から横浜まで運んできたのだ。明日からの日常生活に余裕を持たせようと考えている。ワインあっての人生なのだ。

2015/03/02

原稿提出完了記念の旅行

Img_8924 おとといまで、原稿の締め切りに間に合わせるために、校正を続けた。前の晩には原稿はほぼ完成していたのだが、やはり最後の点検は重要で、いくつかの修正を、朝のすっきりした頭の中で行い、そして提出した。編著者のO先生、S先生から、絶えず激励のメールが入って、たいへん待たせて申し訳なかったと思う。けれども、『細雪』の雪子がずっと縁がなくて最後に結婚を決めて、長女と次女から「ねばりはりましたな」というシーンがある。今回もそれと重ね合わせて、自分に言ってみたのだった。

Img_8936 妻が盛りだくさんのツアーを見つけてきて、趣味と実益を兼ねた原稿完了記念旅行となった。今日は、横浜ベイ地区にあるビルに朝早くに集合して、そのツアーが出発する。

今日の訪問先で印象に残ったのは、やはり長野の善光寺詣だ。じつは善光寺詣については、小学校5年生のころの思い出がある。Img_8941 当時、松本に住んでいて、母と、友人一家と一緒に、ご開帳があるというので、長野へ行ったのだ。信州に暮らす人びとの中には、江戸時代から続く家には大抵、善光寺へ寄付することがひとつのステイタスとなっていて、それぞれの栄えた家では、善光寺への

寄進神話が残っている。うちも同じで、母が言うには寺の背後にある灯篭に、祖父の名前が残っているのだというのだが、もっとも今となっては確かめる術もない。

Img_8956 まず、ふつうのお寺との違いに気がついた。ふつうのお寺は、宗派がはっきりしており、地域の特殊性を追求するのだが、善光寺は多くの宗派が相互に乗り入れていて、普遍性を追求しているのだ。宿坊がたくさん並んでいて、宗派を問わず、多くの信者を受け入れてきた歴史を感じさせる。Img_8957 牛に引かれて善光寺参り、とはよく言ったものだ。仏ならたくさんあって、特定の宗派ごとに引いていく仏が違ってきてしまうが、牛ならば普遍的だ。寺の周りでも、どこに牛がいるのか、探してしまった。

Img_8959 それでは、善光寺が開かれた寺なのか、といえば、必ずしもそうではない。まえから不思議だったのは、「秘仏」という考え方だ。善光寺本尊の阿弥陀像は7世紀後半に作られたものだが、これが真正の秘仏なのだ。普段は見ることができずに、奥に仕舞われている。善光寺の場合には、「普段は」どころでなく、ここ百年間くらい、誰も本尊を見たことがないそうだ。これはまた凄い。

Img_8961 たぶん、二つの考え方が「秘仏」には存在する。一つには、現物がないから、秘仏にするというものだ。これはわかりやすい。みんなも、そう思っている節がある。けれども、善光寺の場合には、ちょっと複雑だ。もう一つには、ほんとうは本尊があるにもかかわらず、秘仏とするというものだ。これには、あるにもかかわらず、なぜ隠すのか、という疑問が生ずることになる。

Img_8944 そこには、一応権威という問題がある。隠す事で、潜在的な価値を上げることができるとする。つまり、本尊を常に見せると、価値が減ってしまうが、ある一時的にしか見ることができないとするならば、その時期の参観の価値がグッと増えると考えるのだ。Img_8950 宗教の問題を世俗の価値観で判断すると叱られるかもしれないので、あらかじめそのことは謝っておきたいが、それは、美術館の通常展示の値段が安く、イベント・特集展の値段が高いのと同様である。イベントはまさに他の展覧会との差別化にあるのだ。つまり、「秘仏」にする理由は、今日的にいえば、「製品差別化」であって、秘仏しない仏様より、秘仏にする仏様のほうが、製品価値が高く、わかりやすく言えば、お賽銭がたくさんその時期に集中して集まるのだ。ちょっと下世話すぎるかもしれないが、普遍的な真実だ。

Img_8951 善光寺の「秘仏」に伝統を感じる点がある。それは、じつはもう一つの方法を善光寺が取っている点だ。身代わりの代替仏像を用意している。このアイディアは、たとえ普遍的であると言えても、実際に適用している例はまれで、じつに感心する手練手管だ。じつは善光寺で実際に開帳するのは、こちらの身代わりの仏像であり、Img_8962 あいかわらず本尊は秘仏のままであり、現在生きている人の誰もこの秘仏を拝んだ人はいないそうだ。身代わり、代替、影武者を用意する手法は、世俗の考え方であり、卓越したマーケティングの僧侶がいたとしか思いようがないのだ。秘仏本体の第1ブランドで売るのでなく、部分的秘仏である第2ブランドで売るという現世的な考え方が、この善光寺の成立のころより続いているのだ。そういえば、本尊にはさらに、発見の寺があって、元善光寺と呼ばれていて、善光寺自体が、じつは二重構造的な身代わり構造をすでに持っていることがわかる。

Img_8932 ほかにも趣向がたくさんあって、善光寺の興味は尽きない。回向柱がにゅっと立っていて、前世と現世と来世を繋いでいるとする、この善光寺の世界観が現れている。

Img_8948 本堂の戒壇巡りは、またまた、善光寺の秘匿のひとつの現れであり、面白いのだ。急な階段を降りると、真の「暗闇の世界」に放り出される。数十メートルの間、真っ暗闇の中を進んで、3回ほど曲がるのだ。Img_8964 おそらく、この暗闇は人生そのものであるのだが、突如として、腰あたりの右の壁に、本尊につながる「錠前」が手の先に触るのだ。これに触った人には幸運があるらしい。Img_8963 まれに、真っ暗闇なので、これを通過してしまう人があるらしい。じつは、以前にわたしが来た時にも、戒壇めぐりを行ったはずなのだが、錠前に触った記憶がないのだ。もしかしたら、以前は通過組に入ってしまっていたのかもしれない。Img_8930 表に出て、見回すと、ほんとうに錠前に触っていない人がいて、みなの同情を集めていた。

Img_8940 暗闇の世界を通過すると、自分の世界観が変わった気がする。つまり、人生というのは暗闇が当たり前で、目に見えない世界で世界は回っているのだ。錠前を触ることで、人は何かがちょっとわかった気になることもあるが、それは全体の暗闇の世界からすれば、ほんのちょっとのことでしかないのだ。戒壇巡りは様々な思いを残して、人びとに人生を振り返らせ続けているのだ。

Img_8953 拝観を終えると、去年までの習性で、鐘撞堂へつい足を向けてしまった。ここの鐘も古いほうは重要文化財級のもので、音を聴いて見たかった。中ぐらいの大きさからすると、落ち着いた音色が想像される。重くもなく、軽くもなく、中程度の程よい響きが期待できるのではないかと思われる鐘だった。

Img_8972 帰り道は、参道から一本入った宿坊の並んでいる道をたどった。そうすると、老舗の店が新しく特色ある喫茶店などを開いているのに、当たった。なんと七味トウガラシの店の現代的なスイーツの喫茶店があった。Img_8974 次に右へ曲がって、表通りへ出る。そこには早稲田大のO先生がこれまで2度ほど訪れている、F旅館レストラン喫茶もあった。ブログで紹介なさっていたように、明治・大正期の様式の良い建物だった。Img_8965 時間がなかったので、残念ながら入ることができなかったのが残念だ。来年には、長野市で授業を持つことを計画しているので、その時にはたっぷりと堪能したいと思ったのだった。宿坊には、現代でも泊めてもらえるのだろうか。Img_8987

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『貨幣・勤労・代理人』(経済文明論)

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プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。