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2014年12月に作成された投稿

2014/12/31

「年の瀬」のピエタ的雑音たち

車道へ飛び出そうとする子を

足を踏ん張ってとめようとする母の

絶叫の声が聞こえる。

マーケットで怒鳴り散らす男の声がする。

店員に憂さを晴らそうと、苛立ってしまう

独り暮らしの老人客がいる。

バスの客席へ殺到して、

前を行く人が右に足を踏み出し、

後に続いた人も同じく右へ身体を寄せ、

互いにぶつかる鈍い音がする。

病院の玄関外で、「こんにちは」と一日中

穏やかな声をかけてくれるガードマンがいる。

見守られる病人の安堵の息がする。

太陽の眩しさ、青空の広がる、9階の病室では

入れ歯無しで、香の物をくちゃくちゃと食べる

病人の口の音が聞こえる。

もう一花咲かせてよ、との気休めへ応酬する患者がいる。

トイレを流す音を聞きたいだけだ。立たせてよ。

お隣さん、お願いしますよ。

97歳の誕生日を迎え、ベッドでガムシャラに

食べ続ける老婆がスプーンを動かしている。うーうー。

食べることは快楽だ。

世の中の人びとは、パアーなのです、と

言ってのける患者たちの、間を動き回る、

看護師の軽やかな靴音がきゅきゅと鳴る。

脳梗塞が解け、妻の手を振り切って

走り出し、顔から鼻から血が流れ出しても

笑って喜ぶ声がする。

前から頑固でした。行かないで、と言ったのに、

言うことを聴かないで、飛び出すのですもの。

またやるでしょうけど、仕方ないですよね。

道路脇の植え込みに、疲れ果てた母子がどっと座り込む。

子は膝間付いて、目を斜めに据え、放心している。

母は抱きかかえて、子に支えられている。

2014/12/30

映画「ゴーンガール」をみる

Img_8598 歳末になって、今年最後の映画をどれにしようかと考え、一人で見るならと思い、この映画にした。もしこの映画を夫婦で見に行ったら、互いにどのような顔をして出てくるのだろうか。終了した時にお互いに顔を見合わせて、笑っていることができたなら、相当な夫婦だと思う。わたしにはとてもその勇気はないのだが。

Img_8590 もちろん、この映画は米国のように個人主義的な風土で生まれたもので、日本ではこのような、「自律」した夫婦関係は、・・・と言ってしまえば、それまでなのだが。途中までは、その解釈が成り立つだろう。しかしながら、結末に至るまで待っても、そう言えるかは微妙だ。

この映画の最大の特色は、終わり方にある。だから、ここで結末を言ってしまうわけにはいかない。オブラートに包んで言うのなら、「夫婦関係はそれでも続く」ということだが、このことは人間にとってかなりの真実を含んでおり、「映画の帰結」としては、最良のものであったと言えるだろう。それにしても、これだから、サスペンスは面白いのだとも言える。

Img_8596 さて、ある日パーティで、ハーバードを出た才媛の「エイミー」と出会ったさえない主人公との間に、夫婦生活が5年間存在することになる。その間に、事件が次第に進行することになる。完璧な「邪悪さ」が信頼関係を利用していく、スリラーだ。そして、エイミーがある日、家から居なくなり、事件の匂いだけが残される。残されたものたちのドラマが幕を開けることになる。

Img_8594_2 ここがいつも謎なのだが、米国人にとっては、信頼関係は増えたり減ったりするもので、量的なものであるという、了解があるようなのだ。だから、少しぐらい信頼関係が減っても、大方は変わらないらしいのだ。つまり、裏切られた後であっても、まだまだこの信頼関係を利用して、最終的な結果の訪れるのを「計画する」という、じつは有りえない設定を鑑賞者に強いるのだ。今回、この強制に鑑賞者は、なぜかやすやすと乗ってしまう。なぜこんなに異常な設定を納得して、鑑賞者たちは受け入れてしまうのだろうか。それは、物語の重要な部分が隠されているという、サスペンスの構造を保持しているからである。

Img_8591 重要な部分は何かといえば、それは「妻が夫を信用していない」という、部分が隠されているからである。常識的には、妻が夫を信用していて、その夫によっては決して加害されることがないという想定のもとに、ふつうのサスペンスは企てられる。だから、この常識たる「妻が夫を信用している」ということ自体が、疑われるに至ると、そもそもの信頼関係が崩れてしまうのだ。つまり、この映画の構造は、まさに人々の常識の構造をひっくり返すことで、ギョッとする展開を可能にして、そのために面白さが出てきているのだ。


この映画を観ると、たとえ夫婦関係の相手が自分を殺すかもしれないと自分が疑っていたとしても、つまり「相手を疑っていても、夫婦関係は成立するのだ」という、人間のひとつの真理がわかってしまうのだ。これは、人間関係の見方としては、180度の転換ではないかと思われるのだが、さて自分に引き寄せてみて、ここで「互いに疑っているから成立している夫婦関係」なのか、「互いに疑いを持たない夫婦関係」なのか、どちらが本当に存在する夫婦関係のか、本当のところ、自分の妻に対しては訊く勇気は全くないのだ。


Img_8579 例年の研究室での「大納会」は、31日と決めているのだが、明日はいろいろと忙しそうなので、今日行った。最後に、研究室からの眺めを写真に収めたが、この写真の左側に写っているビル群は、「幕張ファミールハイツ」である。故後藤明生氏が、関西へ行く前に住んでいて、ここからの眺めにヒントを得て、小説『首塚の上のアドバルーン』が書かれたのだ。


Img_8587 さて、放送大学の研究棟を出るときに、先生方が何人いるのかを見ることにしているが、今年は二人の先生方の明かりが点いていた。ご苦労様です。

2014/12/26

今日は仕事納め

Photo_7 年末にもかかわらず、今日は朝から、風邪の影響が出てきて、身体がだるい。熱を計ったが、7度程度なので、風邪というにはあまりに軽度だ。インフルエンザが流行っているが、これにかかったわけではない。心配はまったくないのにもかかわらず、身体だけがだるい。

Photo_10 渋谷学習センター開所当時から続けてきた夜間授業「現代の経済・経営書を読む」が、かれこれ3、4年経った。所長から申し入れがあって、一区切りつけたいということなので、残念ではあったが、若手の講師の方がたとも話し合って、いったん終了することにした。

近年、10人ルールというのがあって、受講生が10人以下になると、授業が終了する候補となる。もちろん、放送大学も大学であるから、むしろ学生が苦手とするような学問領域を手厚く保護することも行っているのだが、ときどきリジットなルールが顔を出すことになる。一度、10人を切ったからといって、今回は10人を超過しているのだから、10人ルール以外のルールが暗黙のうちに存在するのかもしれない。

所長からは、茗荷谷のほうへも紹介してくださるとの申し出もあり、今回は閉鎖するが、また別の形で、捲土重来を期したいと思っているところだ。放送大学の学生には、もちろん一般的には言えないのだが、おおよそ文献購読や輪読・読書が苦手な人びとが多いのではないかと、僭越ながら思っている。その影響は、卒業論文や修士論文作成の際に、如実に出てきてしまうのだ。

「現代の経済・経営書を読む」は、シリーズとして、5回続いたことになる。だいたい5人の講師が担当したから、毎回平均4、5冊の本を取り上げてきた。だから、全部で20数冊をみんなで読んだことになる。振り返ってみると、ずいぶんたくさんの本を読んだのだな、とこれらの書籍を前にして、ちょっと感慨に浸ってしまった。

So講師は、地方自治問題系の本たちを取り上げた。公務員の非正規問題などは面白かった。Si講師は、環境経済学系問題の本を主として取り上げていた。政策論が多かった印象だ。H講師は、沖縄問題や格差問題を多く取り上げていた。Su講師は都市史問題系を選んでいた。東京のオリンピック問題などが興味深かった。(彼は、来学期から渋谷学習センターの面接授業を受け継いでくれることになっている。)そして、わたしは社会のインフォーマル問題を取り上げて、ソーシャルキャピタルやサードプレイスなどを扱った。

Photo_9 毎回、問題意識の旺盛な学生が集結していたと思う。渋谷郊外に住んでいて、山手線の内側に勤めて、帰りの6時から読書会に加わる気分で、参加いただけたと考えている。学生の視点からの、面白い観点がどんどん積み上がって行って、授業というよりは討論会の様相を呈していたと、振り返ってみると思うのだった。やり方次第で、放送大学の授業でも十分に議論・討論が育っていくのを実感できた科目だったと思う。ここで止めるのはたいへん残念ではあるが、惜しまれて終了するのが良いのだと思われる。また、参加した学生の方がたとは、いずれまた、別の機会に違う形で再会したいと願っている。最後は、恒例の拍手をいただいて、大団円を迎えることができた。講師の方々とは、桜ヶ丘のイタリアンで打ち上げ会を行って別れた。

Photo_8 今日は、この授業へ来る前に、すこし時間があったので、この授業の前によく通った宇田川町の喫茶店Mへ入って、しばし休息と夕飯をとってから、最後の授業へ向かったのだった。

2014/12/23

映画「ストックホルムでワルツを」をみる

Photo 映画「ストックホルムでワルツを(原題:モニカ・Z)」を観る。世界的な普遍性とは何か、ということを考えたいのであれば、この映画は最適なのだ。ワルツとはなっているが、このワルツは「デビーのワルツ」でビル・エヴァンスのジャズ・スタンダードナンバーの「ワルツ」なのだ。なぜこの「ワルツ」がストックホルムで歌われ、そしてのちに、ビル・エヴァンスと共演することになったのか、ということがこの映画のテーマだ。

Photo_2 まず、モニカ役のエッダ・マグナソンが歌う、出だしのジャズ曲が素晴らしい。このスタートで、ノッテいる雰囲気がわかってしまったから、途中の身の上話も我慢して、最後の山場まで、十分に楽しめた。それにしても、スエーデンでの「モニカ」というジャズシンガーは、米国の各州、さらには世界中全てのジャズの存在する国でのジャズの象徴的存在だと思われる。

Photo_3 なぜジャズが世界普遍的な特性を持っているのか。第1に、ローカリティを根強く持っているからであり、映画の中で、大御所のエラフィッツジェラルドをして、モノマネでなく「自分の歌を歌え」と言わしめている。第2に、その国特有のジャズという普遍性を育てている。家を出て、「外の世界を見たいのだ」と主人公に言わせている。第3に、結局のところ、「ジャズそのもの」でなければならない、という点を、ジャズは強く持っているのだ。

Photo_4 それにしても、このスローな現代性は、いつ聴いても良いと思う。間の沈黙が含まれていても、十分にノッテ、スイングしているのは、最初に聴いた時そのままだ。Photo_5 それに今回は、この間合いの長い器楽曲にしかならないと思われていた(わたしが勝手に思い込んでいただけであることが判明したのだが)曲に、モニカのスエーデン語の歌詞がついても、素晴らしいことがわかったのだ。これらの曲を聴くだけでも、十分に価値ある映画であると思われる。

Photo_6 なお、ユーチューブにある、ビル・エヴァンスの原曲と、モニカの途中から加わった雰囲気を収めた映像も、こちらで聴くことができる。帰りに、K喫茶店でランチのカレーを食べて、身も心も満たして、街を歩いた。

おまけです。

https://www.youtube.com/watch?v=a2LFVWBmoiw

2014/12/07

デ クーニング展をB美術館で見る

Img_8484 なぜ抽象絵画を開拓した一方は、前衛だと考えられ、他方にも保守だと考えられているのか、ということは、時々引っかかっていた。それには、抽象化の意味について、二つの可能性のあることを思わなければわからないだろう。

Img_8486 ひとつは、変化の要素であり、ふたつは、不変の要素である。抽象というからには、抽象の元になるものが存在することを構想しており、何から抽出したものかが問われる。だから、不変の要素を必要としている。他方、抽象というからには、抽出されて出ていくものが必要であり、変化の要素を想定しているのだ。

Img_8487 だから、この展覧会会場に近づくにつれ、会場のショーウインドウを飾る作品群が目に入ってくるのだが、飛び込んでくるのは、この「不変要素」のオンパレードなのだ。顔らしき形があり、ふくよかなお腹があり、そして足が伸びている。これで、「女」が形成されていると観てしまえば、それでこのデ クーニングの基本要素が決まっていて、あとはこれらのバリエーションを楽しむことになるのだ。

Img_8491 今回の作品は、これらの不変要素を特に意識して収集してきたものを中心に展示しているように思える。この点では、少数の展示にもかかわらず、意図のはっきりしたわかりやすい、抽象絵画展である。

Img_8497 B美術館を出て、東京駅へ向かおうとすると、目の前に「カリヨン」が現れた。日本にカリヨンブームがあって、各地に設置されていたことは知っていたが、このような東京駅の真ん前に、これほど大きなカリヨンがあったとは知らなかった。

Img_8504 江戸期の交易で活躍したオランダ人を記念していて、「平和の鐘」と名付けられている。(ご丁寧に、オランダの東インド会社のマークまで、右の写真のように、刻み込まれている。)鐘の発達には、中世から近代にかけて、世俗化が行われた。それに、なおかつ音楽の要素が付け加わったのが「カリヨン」だ。音の社会化の最終段階の遺物が、カリヨンだと思われる。Img_8509 ヨーロッパのように、実際に世俗の中で活躍していれば良いのだが、日本におけるカリヨンには伝統がないだけに、この音が実質的な意味を獲得するに至っていないように思われる。交通騒音にカリヨンのメロディーがかき消されていて、寂しい限りの構築物となっている。この音に気づく人が、どれだけいるだろうか。

Img_8511_2 八重洲地下街には、ときどき入ってみたいと思わせる店が開店する。今はもうなくなってしまったが、かなり嗜好を絞った古本屋さんが入っていて、重宝してのだが、いつの間にかなくなっている。目利きの中級程度の靴を揃えている靴屋さんもあって、丸の内近辺の下層サラリーマン層を引きつけていた。わたしの小遣いでもなんとかなる定価だった。これもいつの間にか、店が移ってしまっている。

Img_8513 今日、展覧会後の喉の渇きを癒してくれたのが、アメリカ・スイーツ文化プンプンとするBである。店の作りから、テーブル・イスに至るまで、米国田舎の独立系ドライブインに入った感じになっていて、女性客を引きつけている。アップルパイに引きつけられたのだが、メニューを見ているうちに、酸っぱいチェリーが目に入ってきてしまった。Img_8494 量はかなり多そうに見えたのだが、この味を賞味した途端に、一口一口大切に口に運ぶくらい、典型的なチェリーパイであることがわかった。グラスワインにちょうどあって、展覧会の熱を冷ますには最適の休憩となった。

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プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。