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2014/07/14

コケットリーの対語はあり得るか

Img_6714_2 女性が男性を魅了するものには、古来いくつかのものがあって、社会学者ジンメルが注目した「コケットリー」はその最たるものだと言ってよい。なぜ女性は男性を魅了するのだろうか。わたしのことを考えるに、年を取って女性そのものに興味が無くなることがあっても、女性の「コケットリー」からは逃れることができない。会話をしていて、伝える情報以上のことが会話には含まれていて、コケットリーな社交性を求めてしまうのは、いつも感じることだ。これがあるから、用のない会話を楽しむことになるのだ。シュムーザーは、女性に主として付いて回る役割だということはわかるのだ。

Img_6716 それで逆に問題は、男性が女性を魅了するのは可能かということである。このテーマにぴったりの映画が来ている。映画「ジゴロ・イン・ニューヨーク」を川崎のチネチッタで観る。役者のジョン・タトゥーロが監督・主役を担っていて、なぜかウディ・アレンが助演している。何でも、店屋で映画のネタを、タトゥーロがアレンに話したところ、すっかり意気投合してしまったとのことだ。映画は、アイディア勝負だ、というところがわかる映画だ。

いい歳をしてアルバイトを転々とする、静かで雰囲気のある男フィオラヴァンテと、ブルックリンの素敵な本屋を潰してしまった、おしゃべり店主マレーとの物語である。タトゥーロ演じる「ジゴロ」のフィオラヴァンテと、アレンが助演する「ポン引き」マレーの営むジゴロ業は、本屋の上客である、中年の金持ち女性たちや、禁欲的な女性を虜にする。マレー演じるアレンの軽いシニカルなおしゃべりは相変わらずで、今回はニューヨークのユダヤ社会も取り上げ揶揄しているところも見所だ。フィオラヴァンテがジゴロのタブーである「真の恋」におちたことから、2人の商売は当然の様に終息に向かうことになる。この落ちは最高だ。「弱いつながり」の強さを示す、社交都市というニューヨークらしさが出ている。都市のジゴロが創り出す「弱いつながり」が、地域の人びとの「強いつながり」をもたらすのだ。

ニューヨークらしいジャズの名曲がバックに流れ、それを知っているアレンと、生粋のニューヨークっ子タトゥーロが案内役となり、この街の多様な文化や、様々な人種の様子と暮らしを、たっぷりと見せてくれる映画だ。

ジゴロとは何か、というのがこの映画のテーマなのだ。たとえば、ジゴロの代名詞的な存在として、18世紀ベネチアのカサノヴァがいる。「長身で、浅黒い肌を持ち、芳香が漂う」ということに加えて、「社交的な魅力だけで生活の糧」を得ていて、多才で知識に長けていると評されている。ジゴロらしさとは、つまりは無私となって、女性を魅了する男性の特別な感性なのだ。

今回の映画では、意外性を含む、三つのジゴロの条件が描かれていた。納得させられたのは、残念ながら一にも二にも、自分には無い感性だというところだ。第一に、マレーが映画の中で言うには、肌が奇麗であること。カサノヴァは浅黒い肌の持ち主であった。タトゥーロ演じるフィオラヴァンテもそうなのだ。野性味ある清潔さが必要だということだ。つまり、寝室やベッドの中が勝負なので、ここで養われないもの、すなわち外にある教養的な身だしなみが必要なのだ。

第二に、花を扱うのがうまいという条件がある。あからさまに、赤いバラを贈ればよいということを言っているのではない。この映画では、フィオラヴァンテは小さな花屋でアルバイトをして、女性たちを集めて、生け花を教えていた。これも憧れる点だ。わたしの思い出の中では、信州の伯母が生け花師範であって、田舎へ行くたびに、庭へ出て草花のテストを受けさせられたということがあった。あの時、一生懸命覚えて、自然に身に付けていたら、ひとつの条件はクリアできたのかもしれないのだ。つまりは、花それ自体が問題ではなく、花を使ってのコミュニケーション能力がジゴロには問われるのだ。

第三に、決定的なのは、ダンスを自然にリードできるという条件だ。ジゴロには、身体的な感性が必要であるということはわかるのだ。それは、ふつうセクシーである身体能力のことを言っているように誤解されがちだ。けれども、それ以上の社交性が必要とされている。ダンスは、ジゴロの一般教養なのだ。

Img_6721 ジゴロにも弱点があって、これほどの親密圏を、女性との間に形成する能力に長けているのだが、じつはそれ以上に、さらにこの親密圏に過剰に踏み込むと、ジゴロの成立条件をかえって危うくすることになるのだ。だから、「真の恋」に目覚めてしまうと、じつはジゴロ業は成り立たなくなる。ジゴロとは、親密圏における「弱い関係」であるところに、最大の取り柄があり、それが同時に、ジゴロの最大の弱点でもあるのだ。カサノヴァも、最後はひとりで寂しく世を去っているのだが、もし彼がいなかったならば世の中はもっと寂しかったに違いない。

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  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。