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2014年7月に作成された投稿

2014/07/31

パガニーニの天才性について

Img_6865 ニコロ・パガニーニのヴァイオリン超技巧を、どのように考えるか、ということは、音楽に興味のある人びとであれば、たいへん気になるところだ。ちょうど映画「パガニーニ」が封切られていて、映画に対する大方の不評にもかかわらず、これだけ観客を集めているのは、理由あることだと思われる。

Img_6888 あとで言うように、パガニーニのように四六時中見張られているわけではないが、わたしの場合、定期試験中に外へ出るのはなかなか難しい。試験監督に幾日かが取られるし、採点をつぎつぎに行わなければならない。通信制大学は、「規模の経済」性を最大限利用した教育システムだ、と言ってしまうと、無機的な感じがしてしまうのだが、「規模の経済」に頼れば頼るほど、そのプロセスの中でも、「規模の経済」に依存できないところに、却ってしわよせが出るのだ。記述式の採点がそれだ。授業は放送であるから、受講生を多く取ることができるが、採点はそうはいかない。まずは、非常勤で行っているK大の採点を、昨日一気に終わらせてしまって、今後押し寄せて来る放送大学の答案に備えた。

Img_6890 また、試験監督も手作業であって、人海戦術で成り立っている。一昨日は神奈川学習センターで監督を一日中務めたが、試験時特有の事故や摩擦がそれ相当にあって、センター所長をはじめとして、学習センターの職員の方々、アルバイトの横浜国大の大学院生のご苦労を拝見したところだった。数年前は、この渦中にあったのだが、と最近になってようやく距離をおいてみられるようになってきた。

Img_6862_4 それで、今日は試験期間中の、気分転換の日として設定していた。まずは虎ノ門へ出て、コンピュータ関係の会社へ伺い、委託研究の相談を行う。わたしが文科系であることもあり、内容がはっきりしない上に、方法も不確定であったため、相手の方々も質問の仕方がない、という顔をなさっていたのが印象的であった。契約をする上で、困った客のひとりであることは間違いないだろう。最初は、会社の会議室ではなく、近くに最近できた「虎ノ門ヒルズ(あちこちに「ヒルズ」ができて、この単体のビルでヒルズを称するのはいかがImg_6863 か、と思うのであるが、すでにブランド化している)」でどうか、と話したのだが、相談の内容からして、喫茶店で話すのが適当で、背広でネクタイを付けた、会社の会議室というのは場違いな感じがあったのだ。今日はとりあえず、話を聞いてもらう、ということで、早々に退散したのだ。

Img_6866 虎ノ門から千葉幕張へ出るが、映画案内を観ると、市内にある千葉劇場で、この映画「パガニーニ」が掛かっていたので、すぐその足で回った。パガニーニと、マネジメントを担当する「ウルバーニ」との人間関係が、今回の映画の最大の焦点だった。天才が生まれるには、魂を売り渡す相手がいるのだ。という天才神話が、今回の映画でも健在であった。天才を補佐し、マネジメント部門を一手に引き受けていたのが、興行師ウルバーニであったという設定で、のちにウルバーニと手を切って、彼を追い出し、パガニーニ自ら興行師になった途端に、「天才神話」が崩壊するという設定である。典型的な天才神話映画である。

Img_6881 これは有名な話だが、音楽の「実演」という職業は、言うまでもなく、労働集約的な仕事に属することになるので、通常であれば生産性の低い職業であり、赤字覚悟の職業であるという特性を持っている。けれども、「魂を悪魔に売り渡す」と、それが違ってくるのだ。薬物中毒、ギャンブル中毒、さらには女性遍歴などの俗っぽい描き方も然ることながら、いかなる実演の「売り方」が存在するのかが、この映画の見所だ。

そしてまた同時に、売り渡すことのできない「音楽の楽しみ」というものが、どのように描かれるのかももう一つの見所となっている。「売り渡すことができないものは何か」という、興味津々の場面も用意されている。たとえば、ロンドンのパブで、即興演奏する場面があるが、このようなところでのパガニーニ、さらには彼を演じている現代のギャレットも、クラシックな演奏以上の演奏をみせている。

Img_6871 三つ目の気分転換は、千葉市美術館の会員として、開催されている浮世絵の展覧会を回った。浮世絵であっても、子どもの描写に焦点を当てたものだ。学習塾の大手が買い集めていた江戸期の子どもの浮世絵だ。寺子屋などを描いたものも多く展示されていて、江戸時代の日本の識字率が高かったことを見事に描いていて、「実証」というのは、このことを言うのだと言いたいくらいだった。観ていて、歌麿と英泉の対比が面白かった。歌麿の子どもは、「美人」を引き立てる役割を持っていたことは確かだが、英泉の子どもではどちらかと言えば、日常の子どもそれ自体が描かれている。このことは、歌麿の描く女性はうなじが強調されているのだが、英泉の描く女性にはうなじがまったく現れないところの対比に現れている。美人の象徴である、首の長い、襟足のきれいな女性というのは、歌麿の観念であって、英泉にはまったく通用しないのだ。

Img_6875 などと生半可な考えを巡らせているうちに、時間が来てしまった。来週には、諏訪での面接授業があり、さらに田舎での生活がある。その準備として、コーヒーを調達しなければならない。Img_6885 選定のために、アフリカ産とインドネシア産の豆を買い込み、さらに安ワインを1本追加して、家路に着いた。

2014/07/23

川崎運河クルーズという審美主義

Img_6753 幕張の放送大学に夏休み前に提出しなければならない書類があって出かける。この辺が通信制大学であっても、すべてが通信とは行かないという人間的なところだ。その足で、千葉から東京を通過して、品川・蒲田で乗り換えて、京急線「天空橋」へ出る。

Img_6761 かつてまだ、京急線が羽田空港に乗り入れていない時代には、この天空橋が終点で、これ以降はたしかバスで行った覚えがある。まさか徒歩で行ったとは思えないが。それで、これ以降は「天空」の世界へ入るのだということで、ネイミングが絶妙の効果をあげている。普通は山の上に天空の世界があるのだが、さにあらん、海に面して、ここには天空に至る世界が展開されているのだ。モノレールが周りを囲み、ビルの合間から航空機が飛び立っていく。

Img_6858 ここに、蒲田からの呑川が流れ込んでいる「海老取川」があって、川というよりは、多摩川に流れ込んでいる運河のような位置にある。ここが、今日の目的地であり、出発点なのだ。今日は、「川崎運河クルーズ」に参加した。ここから、羽田空港を多摩川から仰ぎ見て、多摩運河に入っていくのだ。この多摩運河の奥には、全日空、花王、旭化成、ゼネラル石油などの大会社群が並んでいる。岡から車で回るのも良いのだが、運河から眺めていくと、また異なった風景が現出するのだ。

Img_6818 じつはこの運河クルーズは、たいへん流行っている。なぜ流行るのかと言えば、やはり工業というものが「審美的」な時代に入って行きていることを想像させるのだ。先日、富岡製糸場が世界遺産に登録されて、日本中が湧いたのだが、じつは富岡だけでなく、日本中の工業が今や産業遺産としての「登録」を待っている。Img_6820 いまや、日本の「ものづくり」が生産的な時代を卒業して、審美的な時代に入ってきている。といったら、怒る人がたくさんいることを承知しているのだが、クルーズが流行るべつの理由があるならば、そちらを採りたいところだ。

Img_6825 多摩運河から千鳥運河に入っていくと、右手に旭化成のパイプ群が有機的なデザインを覗かせていて、さらにパイプ群ではところどころ火を吐いていて、それが夜空に輝いて美しい。運河に映った姿も揺らぎを見せながら、変化を見せている。

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Img_6827 千鳥運河からさらに進んで、水江運河に入っていくと、運河クルーズの一つの到達点と言われている東亜石油が見えてくる。石油精製施設が、夜の城のような立体的なボリュームを見せつける。精製の各段階毎にオレンジの燈が掲げられていて、人工の不夜城のごとくの姿を船上から観ることができる。

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Img_6845 LNGの船も見え、倉庫群がおもちゃのブロックのように、青と白のくっきりとした造形を示している。藍色の海の重厚さと、夜景の優美さとをみていると、無機的な機械の塊であることを忘れ、あたかも芸術作品として展示されているようなもののように思えてきてしまう。Img_6851 日本の工業の衰退と、審美的な造形の発達とは、比例的に発達していることを確認したのだった。

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2014/07/14

コケットリーの対語はあり得るか

Img_6714_2 女性が男性を魅了するものには、古来いくつかのものがあって、社会学者ジンメルが注目した「コケットリー」はその最たるものだと言ってよい。なぜ女性は男性を魅了するのだろうか。わたしのことを考えるに、年を取って女性そのものに興味が無くなることがあっても、女性の「コケットリー」からは逃れることができない。会話をしていて、伝える情報以上のことが会話には含まれていて、コケットリーな社交性を求めてしまうのは、いつも感じることだ。これがあるから、用のない会話を楽しむことになるのだ。シュムーザーは、女性に主として付いて回る役割だということはわかるのだ。

Img_6716 それで逆に問題は、男性が女性を魅了するのは可能かということである。このテーマにぴったりの映画が来ている。映画「ジゴロ・イン・ニューヨーク」を川崎のチネチッタで観る。役者のジョン・タトゥーロが監督・主役を担っていて、なぜかウディ・アレンが助演している。何でも、店屋で映画のネタを、タトゥーロがアレンに話したところ、すっかり意気投合してしまったとのことだ。映画は、アイディア勝負だ、というところがわかる映画だ。

いい歳をしてアルバイトを転々とする、静かで雰囲気のある男フィオラヴァンテと、ブルックリンの素敵な本屋を潰してしまった、おしゃべり店主マレーとの物語である。タトゥーロ演じる「ジゴロ」のフィオラヴァンテと、アレンが助演する「ポン引き」マレーの営むジゴロ業は、本屋の上客である、中年の金持ち女性たちや、禁欲的な女性を虜にする。マレー演じるアレンの軽いシニカルなおしゃべりは相変わらずで、今回はニューヨークのユダヤ社会も取り上げ揶揄しているところも見所だ。フィオラヴァンテがジゴロのタブーである「真の恋」におちたことから、2人の商売は当然の様に終息に向かうことになる。この落ちは最高だ。「弱いつながり」の強さを示す、社交都市というニューヨークらしさが出ている。都市のジゴロが創り出す「弱いつながり」が、地域の人びとの「強いつながり」をもたらすのだ。

ニューヨークらしいジャズの名曲がバックに流れ、それを知っているアレンと、生粋のニューヨークっ子タトゥーロが案内役となり、この街の多様な文化や、様々な人種の様子と暮らしを、たっぷりと見せてくれる映画だ。

ジゴロとは何か、というのがこの映画のテーマなのだ。たとえば、ジゴロの代名詞的な存在として、18世紀ベネチアのカサノヴァがいる。「長身で、浅黒い肌を持ち、芳香が漂う」ということに加えて、「社交的な魅力だけで生活の糧」を得ていて、多才で知識に長けていると評されている。ジゴロらしさとは、つまりは無私となって、女性を魅了する男性の特別な感性なのだ。

今回の映画では、意外性を含む、三つのジゴロの条件が描かれていた。納得させられたのは、残念ながら一にも二にも、自分には無い感性だというところだ。第一に、マレーが映画の中で言うには、肌が奇麗であること。カサノヴァは浅黒い肌の持ち主であった。タトゥーロ演じるフィオラヴァンテもそうなのだ。野性味ある清潔さが必要だということだ。つまり、寝室やベッドの中が勝負なので、ここで養われないもの、すなわち外にある教養的な身だしなみが必要なのだ。

第二に、花を扱うのがうまいという条件がある。あからさまに、赤いバラを贈ればよいということを言っているのではない。この映画では、フィオラヴァンテは小さな花屋でアルバイトをして、女性たちを集めて、生け花を教えていた。これも憧れる点だ。わたしの思い出の中では、信州の伯母が生け花師範であって、田舎へ行くたびに、庭へ出て草花のテストを受けさせられたということがあった。あの時、一生懸命覚えて、自然に身に付けていたら、ひとつの条件はクリアできたのかもしれないのだ。つまりは、花それ自体が問題ではなく、花を使ってのコミュニケーション能力がジゴロには問われるのだ。

第三に、決定的なのは、ダンスを自然にリードできるという条件だ。ジゴロには、身体的な感性が必要であるということはわかるのだ。それは、ふつうセクシーである身体能力のことを言っているように誤解されがちだ。けれども、それ以上の社交性が必要とされている。ダンスは、ジゴロの一般教養なのだ。

Img_6721 ジゴロにも弱点があって、これほどの親密圏を、女性との間に形成する能力に長けているのだが、じつはそれ以上に、さらにこの親密圏に過剰に踏み込むと、ジゴロの成立条件をかえって危うくすることになるのだ。だから、「真の恋」に目覚めてしまうと、じつはジゴロ業は成り立たなくなる。ジゴロとは、親密圏における「弱い関係」であるところに、最大の取り柄があり、それが同時に、ジゴロの最大の弱点でもあるのだ。カサノヴァも、最後はひとりで寂しく世を去っているのだが、もし彼がいなかったならば世の中はもっと寂しかったに違いない。

2014/07/13

合宿の二日目

Img_6709 今日も朝から気温が30度を上回っている。晴耕雨読という言葉を援用するならば、「晴耕」ということになろうが、ただし耕すのは頭の中だ。一応、ゼミが開かれているセミナーハウスの研修室には、冷房は入っているから、まだ救われる。コーヒーを飲みながら、二日目の議論に入る。

Img_6701 いくつかの系統だった議論が行われたと思う。中でも注目できたのは、共同性の問題だ。「農地」「水資源」「介護」「福祉」などにおけるソーシャル・キャピタルや資源プーリングなどの示す外部性を、どのように考えるのか、という問題は、発表者共通の問題を提起していた。このようにまとめてしまうと、ちっとも面白くは無いが、二日間に渡る中で、それぞれが異なった文脈で出てきて、ああそうか、というころには、また新たな議論が起こっている。

Img_6699 昼食には、先生方を誘って、このところT先生と通っているステーキ屋さんでランチ。サラダをもりもりとって、150グラムの小振りのステーキに挑戦する。仕上げは、果物とワッフル。これだけ、栄養を摂れば、午後からの議論にも持ちこたえられるだろう。

Img_6700 もうひとつ流行の問題は、正規・非正規雇用問題だ。これにも、モチベーション論、格差論、組織論、集団論などの複数の議論が起こって、たいへん興味深かった。やはり、現代日本の経済転換問題は、財政、年金、社会保障問題を取り上げる発表者たちに、共通した問題を投げかけていると思われる。Img_6698 これらの問題は、現在進行形のものが多いから、ゼミと議論が終わり、自宅に戻って、すこし落ち着いてから、改めて考えると論文のアイディアへ結びついてくるのだろう。そのときを逃さないようにしてもらいたい。Img_6711 8月の夏期に起こるであろう、大変貌に期待したい。

2014/07/12

夏期合宿が始まる

Img_6706 今日から2日間、修士課程の合宿である。いつもは、一週間後の連休に合わせて合宿が組まれるのだが、今年度は博士後期課程の入試が予定されているために、止む無く早めの開催となった。今年の暑さは異常で、この幕張の街は、暑い砂漠が固まったようなところと化すのだ。10分歩いただけで、上着までも汗でびっしょりとなる。

連休を使えないために、通常3日間掛けて議論するところ、2日で終えなければならない。今年は臨時の処置で仕方が無かったけれども、来年からは通常の日程に戻したいところだ。

Img_6705 Tゼミ、Sゼミ、Aゼミ、Nゼミ、Iゼミ、Sゼミ合計で、28名の発表者が予定されている。先輩たちが駆けつけて来てくれて、タイムキーパーやコメンターの役割を果たしてくれた。また、先生方も、10年前から退任されたH先生がこの経済学教室を組織して以来、毎回ほぼ全員7名が参加している。今回も熱い合宿になりそうだ。

Img_6695 博士後期課程では、チーム制を採ることになっているが、すでにこのようにして、経済学関係では修士課程でも十分にチーム制が機能している。チーム制継続の秘訣は何か、と考えてみるに、議論が面白いというところにあると思う。題材が普通の大学と違って、経験的な情報に満ちていて、それを整理し考察を加える余地がかなり存在するのだ。問題提起が重要だ。だから、中核となる問題提起に魅力がないと、途端に議論が詰まらなくなり、せっかくのチーム制の議論が機能しないことが起こるのだ。色々な議論が起こる土壌を養うことが基礎となって、合宿でのチーム制が成り立っているものと考えられる。

Img_6697 夕方からは、中華料理屋「H」を例年通り借り切って、懇親会が行われた。合宿にひとつの魅力は、表立った議論だけでなく、このような非公式の飲み会で議論が行われるところにあるだろう。とりわけ、昼間の発表会で聞くことができなかったことを、十分に時間を採って議論できることは合宿の醍醐味だ。

2014/07/04

講義が終盤に近づいて、夜には映画を

Img_6675 K大学での講義が終盤に近づいて、そろそろ学生たちも、最後のまとめを求める時期に来ている。参考文献を自分で探してもらうことを、例年行っていて、講義だけに縛られない自由な発想を養ってもらう工夫をしている。こちらから、こんなことを言うのはおこがましいのではあるが、自分自身が学生のときに、やはり自由論題の科目で苦労して良かったという思いがあって、取り入れているのだ。図書館へ帰りに寄ると、わたしの科目を取った学生たちが、書棚の前でいろいろな書籍を渉猟していた。十分に悩んで、1ヶ月後の試験に臨んでいただきたい。

Img_6676 講義が終わった後、生協書籍部へ頼んでいた本を二冊と、予てから検索しておいた図書館の本九冊を持って、桜木町のBシネマへ出る。時間がなかったので、途中の東神奈川のパン屋さんから、カレーパンとカスタードのパンを買って、映画館で空いた腹をすこし埋めて、開始を待つ。

それにしても、どういうわけか、今日のこの映画は上映最終日なのだが、女性客が圧倒的に多く、しかも一人客なのだ。Img_6677 複数で入ってきたのは、仕事帰りの女性5名客だけで、カップルはまったくいない、という珍しい客層の映画なのだった。それはおそらく、映画評のせいなのだろう。酷い方では、長くて退屈というのと、良い方でも、複雑で理知的などという、金輪際観たいという意欲を挫くような批評しか乗っていないのだ。最近の女性は逞しい限りなのだが、このようなミステリアスな映画が好みらしい。

Img_6684 今日の映画は、ハギス監督の「サード・パーソン」だ。パリ、ローマ、ニューヨークを舞台に3組の男女、ピュリツアー賞の小説家「マイケル」と愛人「アンナ」、ビジネスマンの「スコット」と娘を誘拐されたと言うロマの女性、元女優「ジュリア」とその元夫である画家「リック」の物語が複雑に交錯する映画だ。フランスのホテルで起こっていることなのかと観ていると、いつの間にか、ニューヨークのホテルの出来事となっているのだ、なぜこんなに交錯するのかについては、それぞれ観ている観客の側に特別な解釈が必要なのだ。

この映画の場合、じつは題名に惹かれて、見に来てしまったのだ。まったく関係ないのだが、数ヶ月前に読んだ本「サード・プレイス」のイメージが強くて、ファースト・プレイスが家庭、セカンド・プレイスが職場、そしてサード・プレイスがあるのと同様にして、どうしてもファースト・パーソン、セカンド・パーソン、そしてサード・パーソンとは誰なのかが気になってしまう。

三つほどの解釈が成り立つだろう。第1に、3組の男女がそれぞれパリ、ローマ、ニューヨーク出ていて、それぞれの男女には、第三の人が絡んで出てくる。小説家には、愛人の男。ビジネスマンには、女性の娘を誘拐した男。そして、元女優には、元夫の現在の妻だ。それぞれの男女には、サード・パーソンが現れてくるのだ。という解釈はいかがだろうか。

第2に、三組のそれぞれの男のほうには、独特の特徴がある。もしビジネスマンがファースト・パーソンならば、騙されてもなお「信頼」を尽くす男として登場している。そして、もし元女優の元夫がセカンド・パーソンならば、真実を話しても決して信用することのない「懐疑」の男が彼だ。そして、サード・パーソンはこの映画の中核を担ってきた小説家のマイケルだ。信頼できそうに演じていて、しかし信頼を得ることができない男として描かれている。彼こそ、ビジネスマン、元夫に続く、サード・パーソンだ。

第3の解釈は、この映画の成り立ちすらも揺るがしてしまう解釈だ。この映画は3組の男女を描いているが、じつは中心は小説家「マイケル」と愛人「アンナ」の物語であって、もう2組の男女は、小説家の描いた小説の中の登場人物に過ぎない、という解釈だ。まず、小説家マイケルには、実際の妻との間に存在するファースト・パーソンたる第1の「マイケル」がいる。つぎに、愛人との間に存在するセカンド・パーソンたる第2の「マイケル」がいる。そして、これらの関係を観ているサード・パーソンたる小説家としての第3の「マイケル」がいるのだ。

Img_6686 さて、どのようなサード・パーソン像が妥当なのだろうか。わたしの趣味をいうならば、最後の解釈だ。書き物を行っている者として、最後に残るのは、実際の人間関係なのではなく、小説の内容における人間関係なのだ、という思いが強く出るのだ。手の込んだことに、この映画の中で、姿なきサード・パーソンからの3回ほどの、つぶやきを入れているのだ。小説家の背後に、すこし離れたところから、「Watch Me!」とつぶやくサード・パーソンが存在する。そして、このサード・パーソンは、ファースト・パーソンの関係やセカンド・パーソンの関係を破壊する力を発揮してまで、自己保存の激しい性格をもっているのだ。自分の中の、恐るべき「サード・パーソン」なのだ。

Img_6687 目に見えない人物を描くのは、極めて映画的な作業だ。サード・パーソンは、まさにあなたの中にいて、現代の特徴的な個人の在り方なのだ、ということで、久しぶりに映画的な映画を堪能したという気分なのだ。

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プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。