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2014年1月に作成された投稿

2014/01/29

なぜ「七人の小人」は白雪姫に協力したのか?

Photo 昔から理不尽だと思っていた話に、グリム童話集の「白雪姫」伝説がある。誰もが記憶にあるのは、たとえばディズニー版の白雪姫で、最後に白い馬に乗った王子様が現れて、白雪姫をキスによって蘇らせ、小人たちから白雪姫を奪っていってしまうというものだ。小人たちがこれほど白雪姫の窮地を救って尽くしたのに、なぜ最後に報われないで、王子に仕合せを横取りされてしまうのか、という疑問である。

Photo_2 今、放送大学のラジオ授業科目で、「なぜ人びとは協力するのか」というテーマの授業を作っているのだが、その中で、逸話を題材とした協力モデルをいくつか紹介している。その中でも、「白雪姫モデル」はもっとも有力な協力モデルのひとつだと紹介している。紹介した時点では、もうテキストをすでに書き上げていて、内容が確定してしまっていたので、すでに一年前の構想になってしまって、この上記の疑問に答えることはできなかったのだが、今回じっくりと考える機会が巡って来たのだ。

Photo_3 昨日、千葉市中央区にある千葉劇場でかかっている映画「ブランカニエベス(白雪姫)」を見ているうちに、ようやく釈然としないままだった理由がわかって来たのだ。映画自体は、1930年代のスペインの闘牛士を題材としているので、グリム童話の白雪姫とは別物だという方もいるかもしれないが、しかしやはり、白雪姫解釈の最右翼的な解釈を披露していて、たいへん興味深かった。監督の意図がどの辺りにあったのかは、わからないけれども、十分に上記の「七人の小人」伝説の理不尽さに対して、ひとつの解答を与えている。

(見逃している人で、近くに住んでいる人は、「直ちに映画館へ走れ」的な、お勧めの一品であるとわたしは思う。)

白雪姫のグリム童話原典によれば、白雪姫と小人たちとの交流が核心のひとつにあると考えることができる。なぜ小人たちが見ず知らずの白雪姫を助けようとしたのか。小人たちの利他主義が根本にあるという解釈が、まずは成り立つと思われる。命を狙われている白雪姫を可哀想だと思ったから、助けたのだ。しかしながら、リアリズムを根本思想に持つグリム童話が純粋な利他主義だけで、白雪姫と小人たちの関係を描いたという解釈には、隔たりを覚えるだろう。

昔からあるもう一つの解釈は、利己主義的な解釈であり、小人たちの料理や炊事・洗濯を行って、小人たちの仕事を支えてあげているから、自分に利益があるから、白雪姫を助けたのだ、という解釈である。近代主義的な解釈で、ディズニー版もこの解釈で成り立っていたと思われる。家族は運命共同体ではなく、近代的な経営として運営されているのだ。

ところが、今回の映画では、第3の視点が呼び込まれていて、極めて現代的な解釈になっている。白雪姫は自分たちの「闘牛士ビジネス」のパートナーとして、一緒に仕事を行う仲間として、描いている。今日の女性像を反映している。たとえば、今回の映画では、小人たちは6人なのだが、白雪姫が入ることによって、「7人の小人」が成立していると考えられているのだ。そして、さらにビジネスであるからには、内部に対立者がいても不思議ではない。利他主義や利己主義解釈では得られることがなかった、内部の対立者として、小人たちのリーダーと白雪姫が対立する、という新しいエピソードまで挿入することができている。

さて、最後に残る問題は、最初に述べたようにこの映画が、王子にさらわれてしまう物語ではなく、小人たちのもとに止まる白雪姫の物語として、グリム童話と整合性を取った上で成り立つ可能性があるのか、という点である。ここには、一つの工夫があって、それは見てのお楽しみということになるのだが、わたしのみるところ、アルモドバル監督の映画「トーク・ツー・ハー」の系譜につながる工夫ではないか、と考えている。しかしそこまで、考えたうえで、なおかつ、グリム童話の持つ理不尽さが完全に消えたかといえば、必ずしもそういう訳ではないのだ。(ここも言いたいところだが、それを言ったら、映画の全部を言ってしまうことになるだろう。)それほど、グリム童話集の奥が深く、不条理に満ちた世界が展開されているということだ、と今更ながら思うのだった。

2014/01/21

武雄温泉にたっぷり入る

0120_9 昨日、思い出したことがあった。武雄温泉駅の特急の次の停車駅が有田であり、その昔やはりテレビの収録で、有田の今泉今右衛門窯を取材させていただいたことがあって、ビデオ録画が一日かかるということで、前の晩に1泊したのが、この武雄温泉だったのだ。しかし、泊まったところが、山の上の高級そうなホテルだったので、つい思い出すのが遅れてしまった。

0120_10 それで、武雄温泉の中心には寄ることなく、有田へ出てしまっていたのだ。昨日、図書館から帰ってから、宿泊所の方に聞くと、歩いて15分くらいで、一般の人でも入れる大浴場があると言うことなので、すでに10時を回っていたが、とぼとぼと温泉へ向かった。温泉街へ入ると、両側に武雄焼きの店屋や、革工房などがならんでいて、現代を見通したような癒し屋や、ダンススタジオなどもあって、昼間の活気を想像させる町並みだった。

0120_11 桜門と武雄温泉新館に到達すると、そこは竜宮城を思わせるライトアップがされていて、温泉街の活況さが伝わって来た。地元の人びとが車で駆けつけて来て、次から次へと元湯温泉へ入っていく。大衆浴場として、営業しているのだ。期待通り、お湯は匂いがなく、入ると肌がつるつるしてくる温泉質だった。露天風呂も併設されていて、温泉趣味が堪能できた。つい、1時間ほどたっぷりと、温泉疲れが心配になるほど、浸かってしまったのだ。

0120_12 次の日は、9時から図書館が開くので、それに間に合うように出かける。どのような人びとが午前中に利用するのか、興味があり、着いてすぐ、館内を見て回る。朝のコーヒーを飲みながら、原稿に向かい、基本的な資料が手元におくことができるという環境は、望みべくもないものだ。比類ない状態が午前中には存在する。

0120_13 毎年、卒業研究や修士論文の最後の1週間は、どこかに籠って論文を仕上げることを学生の方々へ進めている。ここに、選択肢がもう一つ広がったと言ってよいだろう。この武雄温泉では、図書館に9時から夜の21時まで、たっぷり籠もり、夜は温泉に浸かって、頭痛と肩の凝りをほぐし、一日を論文につぎ込むことができる環境にある。あとは、都市が好きか、人里離れたところが好きかの違いはあるとしても、ここはまぎれもなく、このような候補のひとつである、と確信する。

0120_14 論文の書き方で、ひとつは緊張関係が重要であり、しかしもう一つは、やはり弛緩関係をいかに保つかが重要なのだ。

インタビューは、武雄市教育委員会のN氏にお願いしていた。図書館の近くにある市の文化会館で、0121_2 こちらも1時間たっぷりと、今回の武雄市図書館の試みについて聞くことができた。大学の授業に使うインタビューなので、問題点にも踏み込んで答えていただいて感謝している。0121_3 そのあと、再び図書館へいって、コーヒーを飲んでしばし黙考する、そしてまたまた、読書する時間を楽しんだのだった。

2014/01/20

武雄市図書館にて

0120 横浜を出るときには、曇りだったのだが、九州の福岡空港から特急に乗り、武雄温泉駅につく頃には、雨が降り出していた。ホテルから傘を借りて、さっそく武雄市図書館へ向かう。駅から続く街は、地方都市共通のシャッターの降りた店が続くが、0120_2 なんとなくゆったりとしているのは、風土のなせるものと思われる。なぜかと考えるに、特別にニョと飛び出たような山はあるものの、基本的には田んぼの平地が続いているので、農業の豊かなことが、ゆったりとした理由となっていると思われる。

0120_3 図書館に着くと、駐車場が満杯であり、利用者たちの交通手段が多くは、自動車であることを認識させられた。それは、子ども連れやお年寄りにとっても、0120_4 自動車で図書館という時代になっていることを感じさせるのだ。かつて、図書館へは、自転車に乗って、本を小脇に抱えてという、自転車少年のイメージで育って来たわたしの世代とは、やはり隔世の感がある。

0120_5 英国の大英博物館にまだ英国図書館が入っていた頃に、それはずっと昔になってしまったが、図書カードを造り、ミーハーと言われようとも、マルクスの座っていた席に座ろうと出かけたことがある。そのときに、360度書架で、ドームの天井を冠した空間に出会った。この圧倒的な書籍空間の演出には、やはり意味があって、0120_6 全部がそこにあると言うだけで、すでに亡くなった人びとの息づかいが影響を与えているのではないか、という気がしてくるのだった。この圧倒的な書架の効果はいろいろなところに受け継がれている。これは図書館建築の伝統となっているような気がする。武雄市図書館も玄関を入って、グルっと見回すと180度重層的に書架が並んでいて、壮観な建築になっている。しかも、木造建築の柔らかい感じが素晴らしい。

0120_7 今回、C株式会社のY氏を通じて、わたしが今進めている協力論のインタビューが可能になったので、ちょっと挨拶をして、館内を案内してもらった。最初に連れて行かれたのは、図書館の中央部に作られている、書架の部屋だ。この作り方は、代官山のT書店と同じ考え方で作られていて、いわば図書館を特徴づけている「顔」の意味を持つとの説明だった。料理の部屋、子どもの部屋、人文の部屋が現在作られていて、特色を出している。

0121 C株式会社の得意とするところは、Tチェーンのフランチャイズ資産を使えるところにある。この共通資産がなければ、0から公共図書館を民間企業が引き受けることはできなかったにちがいないだろう。公共と民間のパートナーシップを結ぶときに、問題になるのは、「コード」の問題だ。共通のコードを使わなければ、協力は成り立たない。通常は、双方の組織文化が問題になり、どのような規則ルールのもとに、人びとが働くのかが問題になる。

けれども、この図書館でまず問題になったコードは、図書館分類だ。通常の図書館は標準分類を使っているのだが、ここはTチェーンの分類を採用した。これは、大きな決断だったと思われる。けれども、考えてみれば、これは大学図書館を回ってみればわかることだが、大学によっては、独自の図書分類を行っているところはたくさんある。つまりは、利用者が利用しやすい分類であれば良いのだと思われる。市の図書館であって、子どもや中学・高校生が利用者の多くを占めていることを考えれば、Tチェーンの分類はわかりやすいものだと言えよう。もっとも、番組で使うための童話本を検索してみて、実際に見つけてみようとしたら、何冊かは出て来たが、どうしても見つからないものもあって、困ってしまった。

武雄市図書館の特色でもっとも好評なのは、Sコーヒー店が中に入っていて、ブックカフェとして機能していることだろう。図書館の本や、新刊本の本を持ち込んで、読みながらコーヒーを楽しむことができる、というのは、図書館を利用するものにとってはたいへん好ましい環境であると言える。その昔、家と学校あるいは、歳をとってからは職場との間で、ちょっと息抜きをしたいという「サードプレイス」として、喫茶店があった。図書館とサードプレイスの複合は、相性がよいのではないかと思われる。

わたしの中で、思い出として残っている図書館は、まず小学校の図書館から始まる。図書委員となって、図書新聞まで発行して、通い詰めた。それでも、本の種類は足らなくて、学校の前にあった貸本屋に日参したし、さらに自転車に乗って、当時は松本市内丸の内にあった市の図書館へ通ったものだ。だから、市の図書館というものに出会ったのは、やはり小学校時代だった。漫画の週刊誌が発行され始めた頃だった。月刊の冒険小説にも興味をもったのだ。それ以来、東京に出て来てからも、学校以外の公共図書館にはかならず通った。当時は冷房が入っていない図書館が多く、汗がたらたら出て来た思い出がある。これは、船橋市図書館だ。

市の図書館が多様性の典型施設であるといえるのは、時間によって利用者が異なることだ。この世代間の複合機能があるから、これを組み合わせた利用を図れば、市の施設として、たいへん好ましいところだといえるのだと思われる。午後の3時頃、この武雄市図書館に着いたのだが、多かった利用者は、子どもと主婦層だった。中央部の児童書コーナーはやはり市の図書館のメインなのだ。5時になると、アナウンスが流れて、児童が家族同伴でない場合には、帰宅するように促される。このころから目立つのが、中学・高校生でおしゃべりを楽しみたい人びとは、外のテラスで、マフラーを巻いて粘っていた。寒かろうに。

そのあとの時間帯には、比較的若い層が目立つのだが、仕事帰りの人びとなのだろうか。カップルで一緒に本を見ながら相談しているのは、旅行の相談か、仕事場の宴会の相談なのか、都会での図書館では見られない風景も見られる。

職員は、社員5名、契約社員13名、パート26名で運営されているとのことだ。現在では、昨年4月開館からすでに、8ヶ月を過ぎているので、当初社員11名体制で動いていたのよりも、手がかからなくなっていると言うことだ。結局、考えてみれば、固定的な費用部分については、C株式会社の共通運営で行うことができるので、純粋に運営費部分だけで良いのだということである。契約社員というのは、専門職の司書で、主として選書が任務だと言うことだ。評価は、入館者数と貸出冊数であり、これらの数値管理は通常の図書館と同じである。指定管理者であるから、年度毎の監査は受けるが、3ヶ月毎のC株式会社内での監査があるとのことだった。そこでは、費用対効果として、新規購入冊数に対して、貸出増加冊数がどのくらいだったか、これにはより効果的な貸出活動の評価が行われることになる。

0120_8 結局、C株式会社が民間企業として、指定管理業者として参入するメリットは、固定費部分の節約ができる点と、複合的なサービスを提供できる点だと思われる。

2014/01/12

冬の京都で、合宿

0112 昨日、すでに修士論文審査が駅前の京都学習センターで行われていたので、京都入りしていた。それで、きょうはかなり余裕を持って、ホテルを後にし、合宿の会場へと向かった。Sというパン屋の開いているカフェテラスが、御池の広い通りに面していて、本を読むには最適なのだ。朝にもかかわらず、観光客やら地元の暇人やら、たくさんの人びとが集まっている。夏であれば、オープンテラスになっているところだろうが、京都の底冷えする冬では、太陽の光を浴びながらの窓際の席で満足する。

0112_2 持ち込んだ本を半分くらい読んだところで、今日の合宿する同志社大学の隣りの相国寺の美術館で「丸山応挙展」を開催しているのを思い出して、駆けつける。参道をから入って、地元の人びとが行き交う境内を横切って、静かな佇まいを示す寺の奥へ進む。美術館だけに人が集まっている。

0112_3 幼稚園のころ、本を送られて、その中に円山応挙(もしかしたら、池大雅だったかもしれない)の逸話が乗っていた。子供用の絵本だったので、記憶も定かではないが、応挙が子どものころに、悪さをして、土蔵に縄で結わえられた、という話だ。そのとき、応挙は手を使えなかったのだが、足を使って、涙でネズミの絵を描いて、縄を解きに来た大人を驚かせた。0112_4 それほど、絵がうまかったという逸話である。今日は、三井家文書がたくさん出ていて、それは丸山派の教科書的なものだったらしい。その絵は、逸話に違わず、描写が素晴らしかった。

0112_5 でも、今回感動した絵がある。それは、「白狐図」で、現代的な言葉でいえば、マットな感じなのだ。狐なのだから動物の動きが通常ならば描かれるはずだが、そしてそれを描くには、周りとのギャップが描かれるはずだから、線がないとその動きは描くことができない。0112_6 ところが、輪郭がないのだ。あるいは、輪郭がないというよりは、むしろ輪郭が面として描かれていると言った方が適当かもしれない。周りとの境目が曖昧で、白く輝いている。

0112_7 もう一つマットな感じを受けた絵がある。それは、大瀑布図である。滝を描いているのだが、上から落ちてくる様が動的というよりは、平面的なのだ。平面的な滝など、想像することすらできない。落ちて流れている様が、そこで時間が止まっている感じなのだ。

0112_8 水墨画の趣向は、黒い線で描いていくというイメージが強いのだが、これらの絵を見ていくと、この固定したイメージを定め直さなければならないだろう。輪郭が無くとも、十分に狐であることが0112_9 わかる様に描かれている。というよりは、輪郭が描かれていない方法でのほうが、むしろ狐であることが浮かび上がってくるやり方があり得るということなのだ。0112_10

2014/01/11

映画「魔法のデパート:バーグドルフ・グッドマン」

0111 この映画の冒頭が素晴らしい。中流以下の住宅が映し出される。そこから、中年で風采もそれほど良くない男性が出て来て、通勤電車で仕事場へ出る。ところが、その途端に世界が変わるのだ。この男性は、今回の映画の主役となる魔法のデパート「バーグドルフ・グットマン」の守衛だったのだ。魔法という、あざとい言い方が適当であるかどうかは解らないが、確かに現実にあって、ニューヨークの日常の中に存在する世界ではあるが、ちょっと次元を異にする世界がそこに現れるのだ。

現代には、神話が成り立ちがたいといわれているが、ところがここには、極めて現代的な神話、「見せびらかし消費」の神話がまだまだ温存されている世界が存在するのだ。それは、誰の心の中にでもあったものだが、いつもは恥ずかしくて他の国の人であれば、表には現さないものなのだが、そこはニューヨークという都市のなせる技なのだと思われる。これでもかこれでもかと言葉の爆発が起こり、出てくる出演者毎に、いかにファッションというものの儚さ、贅沢さ、素晴らしさ、過剰さなどが延々と語られ続けるのだ。神話でなければ、これほどの言葉は生まれなかっただろう。五番街57丁目という歴史にもたびたび現れるニューヨークの中心地において、この神話が積み重ねられて来たのだ。

これまで、住む世界が違うのだと、わたしが前は通っても、近づくことや入ることはなかったのだが、考えてみれば、これほど普遍的な消費主義の殿堂は、他に類を見ないのではないだろうか。わたしのニューヨーク取材のときに、この斜め向かいにあったジェネラルモーターズのショールームで、オールドモービルやキャデラックを横にして、しゃべらせてもらったことはあったが、バーグドルフにまでは入る勇気はなかったのだ。この映画は、消費の魔法の世界である、プチデパート「バーグドルフ・グッドマン」についての一口インタビューをつなげて作ったドキュメンタリーだ。しかし、ドキュメンタリーというには、あまりに夢の中の世界のインタビュー集なのだ。

「見せびらかし」極まれり、と叫んでしまったのは、セントラル・パークの対岸に住む、オノヨーコから毛皮担当販売員へ電話があり、購入したいからと連絡してきた話が面白かった。それで、販売員がトランクに詰めて、運んでいったところ、なんと一日に40万ドル分の家族中の毛皮を購入し、最終的には、250万ドルの購入があった、というエピソードだ。オノヨーコは、自然派ではなかったのか、とちょっと思ったが、「見せびらかし」の度が過ぎれば、成金趣味であっても記録的なものとなり、立派なものだということになるのだ。

0111_2 つまり、ニューヨーク的価値観という特別なものがあるのだ。というのか、ここを通り過ぎる通過儀礼として、貨幣的成金のモデルという生活様式が、19世紀以来、存在するようになったのだ、と思える。それらが、時々形をかえ、わたしたちの目の前に、このような形態でもって、突如として現れてくるのだ。

2014/01/02

いつもながらのお正月

0101 元日に妹夫婦と母の家に集まって、二日目に初詣に出る、という三ヶ日の生活パターンが定着している。

0101_2 今回も正月料理を楽しんだ後に、フランス菓子ガレットによる今年の運勢をみるのだが、そのガレットでの当たりを引き当てるまでが、大変だ。「Dobon」ゲームに勝たなければならない。このところ、わたしのゲーム成績は世相を反映して、長期低迷を続けていて、日本経済的な衰退様相を呈している。ビリやビリから二番目をここ数年保っていて、完全に駄目というわけではないが、比較すると明らかに低迷しているという具合だ。ひとつひとつのゲームは、それなりに駄目とはいえ、最低戦を保っているのは確かなのだが、全部をまとめてみると、停滞が目立ってくるという状態である。

0101_3 それで、結果として、ガレットの順番は後の方になる。ここでは、アベノミクス的な一発逆転を狙うこともあり得るのだが、じつはこちらもわたしに限っては、現実と同様低迷している。今年は母がガレットのフェーブを引き当てた。ゲームでは最下位だったから、0102_4 明らかに大逆転も良いところだ。現実の世界も、このようなことがあれば面白いのだが、ゲームの世界と現実の世界とは脈絡がないから、ゲームが成り立っているのだ。

0102 二日目の初詣は、母と娘と一緒に、近くのK神社へ行く。年々、参拝客がふえているらし。参道の整備は、昨年同様に、進んでおり、何やら定型のお参りを行っているような気分だ。今年も気になったのは、方位厄で、これによるとそろそろ、わたしの厄も最後の部分へ近づいているようだ。

0102_2 つまり、初詣の意味にどのようなものがあるのか、といえば、もちろん上記の方位厄などの宗教的な意味があるのだが、不信心なものにとっては、それ以外の目的がじつは大きい。ひとつは将来の問題であり、もう一つは過去の問題であり、それからさらに、日常の現在から離れて、ちょっと非日常を目指すのが、初詣の意味だと思われる。ちょっと大雑把なくくり方だが。

0102_3 今年も、ドラム缶の焚き火に当たりながら、前を行きかう人びとを眺め、自分のこの一年を考える。ここで甘酒が出てくるというのが、微妙なところだと思われる。好きなコーヒーでも良いと思われるのだが、そうも行かない。0102_5 甘酒か、清酒かというのが、たとえ信心が薄くても慣例にしたがうのが相場だ。という、いつもながらのお正月が過ぎていった。

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プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。