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2013/12/28

ほんものとは何か(映画:The Best Offer)

220pxthe_best_offer 現代において、「ほんもの」とは何か。オーセンティックとは、どのようなことなのか。これがこの映画「鑑定士と顔のない依頼人」の主題である。完璧な鑑定士である主人公が、姿を見せぬ依頼人から遺品の鑑定を頼まれる。果たして美術品はほんものなのか、そして女性依頼人の愛はほんものなのか、という二つのほんもの性に向き合うことになる。もっともここで、この映画を見る前提となっている現代社会の真実を確認しておかねばならない。

現代では、かつての倫理がそうであったように、「誠実」を続けていれば、「ほんもの」に通ずるという社会倫理が通用しなくなっている。片方が誠実を続けていれば、昔であれば、相手も誠実で返すだろうと考えられていたが、現代では必ずしも誠実を続けたからといって、ゲーム論的に考えて、相手が誠実を返す保証はないだろう。これが前提となっている。そういえば、念をいったことに、映画のなかでも、ほんものを鑑定している場面に、「誠実」と題した絵画を登場させていて、誠実の価値も貶めている。サービス精神が徹底している。(これ以降、ネタバレが含まれているので、これから映画に行く人は、観た後読んでほしい)

第一に出てくる「ほんもの」は、美術品についての「ほんもの」の話である。ジェフリー・ラッシュ演じる鑑定人が登場して、完璧なほんもの鑑定を映画の中で見せつける。顕微鏡的虫眼鏡を使って、他の人の気がつかない印を発見して、鑑定を完成させていく。

美術品には、本物と贋作とが存在する。それで、この主人公の鑑定人は、贋作だと鑑定しておいて、安く落札して、たくさんのほんものを自宅の隠し部屋に隠匿している。何が本物なのか。鑑定は主として、技術的な知識に依存することになる。この技術的なバリュエーションが経済的価値を持つことになるのだが、これがほんとうの「ほんもの」に値するものだろうか。

第二に出てくる「ほんもの」は、愛についての「ほんもの」の話である。ここで登場するのが、シルヴィア・ホークス演ずる、謎の鑑定依頼人クレアである。「広場恐怖症」ということになっていて、家の隠し部屋から一切出てこない。このクレアの示す愛が、なぜほんものだと思えるようになったのか。それは、当初は美術品のほんものに関わっていたはずの主人公が、その美術品からのズレで、美術品の所有者に興味を持ってしまったことから、愛が生まれるのだ。それは彼に取っては、隠れていたものが発見され、それに魅入られるという過程が美術品と同じだからだ。自分でそれを見いだしてしまった人は、愛を避ける事ができないということだ。

主人公はほんものだと思い込んだものを、贋作だということにして、結局ほんものを手に入れようとするのだが、このパターンはすでに破綻を含んでいるのだ。映画の中で、主人公が自己犠牲を払って、依頼人の広場恐怖症をなおそうとする。暴徒に襲われた主人公に、女依頼人は心を傾け始めると見えるが、この愛は果たしてほんものなのだろうか。

第三に出てくる「ほんもの」が、この映画の中心なのだが、じつはこの「ほんもの」はそれほど明確ではない。ほんものでありながら、表に出てこないほんものである。ほんものとは、本来このようなものなのかもしれない。人間が複雑な動物で、不確実で不条理で、理解しがたいものである、ということが描かれているから、そして、そのことを見事に描いているから、この映画は成功しているといえるのだろう。主人公は、完璧なまでに、周りのもっとも信頼していた人びとに裏切られ、ショックの余り養老院に入ってしまい、生きる気力もないほどの状態に陥る。けれども、その養老院を出た後、再び彼を騙した人びとを想って歩くのだ。この行動は、「ほんもの」なのか、「偽り」のものなのか。朝日新聞で、沢木耕太郎がうまい言葉で表現していた。

映画会社の宣伝を牽制しながらであるが、「二度目に見ると、絶望的な最後であるはずのものが、ひょっとしたらある種のハッピーエンドなのかもしれないと思わされるほど印象が変わっていた」と言わしめている。ここで彼のこの言葉を繰り返し言い換える必要があるわけではないが、何が言いたいのかといえば、騙されてそれまで集めて来た女性の肖像画をすべて失うことになるのだが、その失ったことよりも、一度でも生身の女性を愛したという現実が勝っていたということかもしれない。つまり、技術的な「ほんもの」よりも、感性上の「ほんもの」が勝るという、「ほんもの」感覚が存在するのだ。

映画の中で使われた言葉が秀逸だ。「贋作の中にもほんものが存在する」というのだ。愛の贋作の多くが失われようとも、ほんのわずかの「ほんもの」が存在していれば、それを受け入れれば、「ほんもの」となるという、現代の認識だ。ここには、現代のほんものというものの性質が遺憾なく現れている。

(付け足し)

でも諄いようだが、この解釈はあまりに予定調和的にすぎるかもしれない。現実的にみると、鑑定人に取っては、結局は相手の考えていることを理解しようとして失敗したのであり、ほんとうのところ、相手が鑑定人を騙したにしろ、どのように考えていたのか、鑑定人自身が知りたいと思うだろう。けれども、それはこの映画のあと、鑑賞者が解釈すべきものとして、そのままの状態で突き放されている。

他方、相手の女性の側に立ってみると、ほんとうに「偽りの愛」を演じただけなのか、ちょっとでも偽りの中に「ほんとうの愛」が存在していたのではないか、と問いたい欲望が残るのだ。けれども、このような感情を残すこと自体、この映画のねらいではなかろうか。この点でも映画の監督に対して、絶大の喝采をあたえるべきなのかもしれない。

原題の「the best offer」、つまりオークションへの「最高の出品」は、ほんものでなければならないのだ。それはオークションの経済的な価値を超えているのだと思いたい。

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  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。