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2013/07/26

渋谷でのトークイベント

なぜもっとたくさん話し合っておかなかったのだろう。ということが、人生にはままあって、その数が多いだけ、その人の人生の密度は濃くなる可能性があるのだと思われる。そして、それを問題にした分、そのまま通り過ぎるよりは、より深いところに辿り着くような気がする。

今日は、興奮して眠れない。O先生の著書『日常生活の探究』を巡ってのトークイベントが、渋谷の東急百貨店内にあるジュンク堂で開かれた。O先生を囲んで、H先生の司会で、わたしが脇を務めた。関係者を含めて30名ほどの方々が駆けつけてくださった。O先生やH先生のゼミ生もいたが、放送大学の学生の方も少ないながらもいらっしゃった。また、放送大学叢書の責任者M先生もあいさつをしてくださって、さらに担当の放送大学I教務課長も手伝ってくださった。叢書を出版しているS社の方々も、総出でお世話いただいた。感謝申し上げる次第である。

O先生の著書であるから、他人のことだと言うわけにいかない状況になった。最初に、O先生がご著書の内容を詳細に語ってくださったので、どのような内容の本なのかを聴衆の方々は、かなり理解していて、そのあとどのような切り口でもトークイベントは始まりそうな雰囲気が満ち満ちて来ていた。

H先生がブログについて、話題を振ってくることは予想できたので、その話題に入ってしまうと制限時間がすぐ経ってしまう。それで、多少ゲリラ的ではあったかもしれないが、その本題の前に、ちょっとわたしの関心から始めさせていただいた。

それは突き詰めれば、「感性」の問題をどのように描くことができるか、ということではなかったかと思う。この本『日常生活の探究』には、もちろん感性以外のことも書かれているのだが、やはり中心は、感性とどう向き合うのかではないかと、思ったのだ。

たとえば、O先生は日常生活では、「プレゼンテーション(自己呈示)」が必要で、3つの自己呈示(まともな人間、有能な人間、愛される人間)が可能であると著書で書いている。3つの自己呈示が複合されて、社会的人間としての承認が得られるのだ、とおっしゃっている。すぱっと、ここに到達しているわけではないにしても、これは社会科学にとって、「愛される」などの感性を中心に据えるのはすごいことだと思ったのだ。

わたしとしては、経済学と社会学の違いが、ここに現れているのではないかと思った。経済学の場合には、近代社会の影響が激しいので、ダイレクトに「愛」などの感性を取り上げるのは憚ることになっていて、効用や満足などの媒介を経て、間接的に扱うことになっている。感情を扱うようになった行動経済学や経済心理学の立場からも、心理的バイアスとして扱うことはあっても、それは「バイアス」という言葉を使うことからわかるように、偏向したものとして取り扱い、合理的な関係をまだ重視している。

これに対して、社会学では、すぱっと直接斜めから論じてしまっていて、これは何なんだよ、とわたしからすれば、そういうことなのだ。ところが、これは社会学では当たり前の方法で、多少ズラして使われるにしても、それほど不思議な方法ではないことなのだ、というお二人の受け応えなのだった。

もう一歩攻めてみた。じつは、今回のO先生の本と、H先生の書いた山田太一論である『敗者の想像力』の両方に共通に取り上げられているテレビドラマがある。1970年代後半に書かれたNHKドラマ「男たちの旅路」のなかの「シルバーシート」である。

老人ホームに住んでいて、誰にも相手にされなくなった「老人たち」が、路面電車を乗っ取る。そこで鶴田浩二演じるガードマン「吉岡司令補」と、水谷豊、桃井かおり演じる部下のガードマンたちとのやり取りがドラマの後半に起きることになる。なぜ老人たちは路面電車を乗っ取るという、あまり意味のない、とんでもないことをしでかすことになったのか、が問われることになる。

この老人たちのキャストがすごいのだ。笠智衆(門前)、加藤嘉(辻本)、殿山泰司(曽根)、藤原釜足(須田)、それにドラマの中では、この事件のすこし前に亡くなってしまう本木を演じる志村喬という面々である。この事件は、まさにこれからの日本を象徴することであるし、このようなドラマが、すでに1970年代に名優たちによって演じられていたということ自体が驚きである。この電車ジャック事件とは、いったい何なのか。

O先生の説明は、次の老人たちの言葉を選んでいることから、明瞭である。

門前「自分を必要としてくれる人がいません」

辻本「ただ世間の重荷になっちまう」

門前「私は、人に愛情を感じる。しかし、私が愛されることはない」

辻本「仕事をしたくても場がないし、力もない。大体、仕事に喜びを感じなくなってくる。名誉なんてものの空しさもわかってくる」

門前「もうろくがはじまったかな、と思う」

辻本「しかし、自分のもうろくは自分ではわかならい」

門前「使い捨てられた人間です」

つまり、高齢者は、社会の中で、O先生が主張する、「まともな人間、有能な人間、愛される人間」という積極的な自己呈示が難しいのだとされる。このために、彼らには理由なき不安定が起こり、いわば「存在論的不安」が生ずるのだと説明されている。

これに対して、H先生のこのドラマの解釈には、すこしズレが入っている。H先生が切り取っているセリフは次のところだ。吉岡「こんなことをした以上、通じても通じなくても、みなさんの思いを表に出て言いなさい。(中略)でなければ、すねた子ども子どもが押し入れにとじこもったのと変わらんじゃありませんか」門前「すねて押し入れにとじこもった子どもです」と認めてしまう。それで、このドラマで何が言いたかったのか、とH先生は問うている。

もし彼らが堂々とこれこれが要求だ、と言えるのであれば、公的市民としての権利と資格を獲得してしたことになってしまうのだが、そうではなく、権利と資格の失われた者をそのままで認めることが可能か、と脚本家は問いかけているのだと主張している。それは日常生活の示す不条理だとまで言っている。老人が吉岡に言う「お前も年をとる」というセリフに現れているように、ただその事実のみが残るだけだ。いわば、負けることをあるがままに認めることで、何らかの救いとでもいうようなものが生まれる可能性のあることを、脚本家山田太一は発見したのだ、とH先生は解釈している。

でも、ここで「あるがままに認める」の「認める」は、誰が何を認めることなのか、という問題があると、わたしには思える。負ける人自体が認めるのであれば、それは自己満足あるいは、もっと良く解釈するならば、「悟り」とでも言えるような境地に到達できたということだろう。このような、「あるがままに認める」方式が、感性への普遍的な対処と考えているのではないかと、疑問を持ったのである。

「あるがままに認める」のは誰か、ということには、もうひとつの可能性がある。それは、負ける人ではなく、社会それ自体である。社会が、その人びとが負けてはいるけれども、かれらの存在自体を否定されたわけではないことを「あるがままに認める」ことができる可能性がある。社会が人の負けた状態を、あるがままに承認することができる。すこし乱暴な解釈かもしれないが、事件を起こした老人たちを警察が逮捕することも、いわば社会的承認のひとつともいえなくはないのだ。もっとも、そこまで行かなくても、吉岡たちの説得に老人たちが応じていれば、ここでは立派な社会的承認が行われたことになるだろう。あるいは、小説家や脚本家がこの話題を取り上げること自体、消極的ではあっても、ひとつの「承認」といえる。どこまで、降りるのか、が問題なのだ。

それで、この電車ジャック事件について、どのような感性としての位置づけを与えるのか、がここでの社会学的問題だと思われたのだ。O先生はこの「存在論的不安」に日常の感情という位置づけを与え、H先生は「あるがままを認める」可能性を指摘し、日常の不条理という位置づけを与えている。ここで共通に指摘されていることは、社会の「ひとつ下のレベルへ降りてみる」式な方法である。不安や不条理という感性は、日常の中では、ふつう潜在化していて、観ることができない。けれども、ひとつ降りてみることで、認識の可能性が出てくるのだ。

もちろん、降りてみたところで、状況が急に変わるわけではない。また、解決方法がすぐに見つかるわけでもない。それでも、ひとつの社会科学的認識を開いていると、わたしは思う。O先生とH先生にとっては、すでに会話済みのことで、改めてイベントの場で話したいとは思わなかったのかもしれない。それでトークイベント会場では、わたしの立場上、挑戦的な言葉を選んで述べさせてもらったが、それは決して批難しているのではなく、大いに賞賛していることを逆説的に言いたかったからだということは、十分にわかってもらえただろうと思うのだ。

トークイベントの話題では、他に「ブログとツイッター」「孤独」、そしてO先生ゼミ生によるフラッシュ・モブ的な「電車内しりとり」「電車内輪唱」などが面白かった。また、O先生のブログでたびたび話題になっている「定食屋」についての議論も盛り上がった。

トークイベントの様子については、O先生のブログでも言及されている。

http://blog.goo.ne.jp/ohkubo-takaji/e/7d793e96dff2724656d8de2cbee47b0c

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プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。