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2013/05/19

金比羅さんへ詣でる

519_5 今年の初めに、香川を訪れたときに、セルフうどんに感激し、コスタリカ・コーヒーに覚醒した。それで、妻が四国旅行を提案してきたときに、二つ返事で賛成した。それに、職場に有給休暇という制度があることも昔から知ってはいたが、それを積極的に利用したことが無かったので、良い機会だと思ったのだ。519_7 5月の連休に、原稿のほうはあまり進まなかったけれども、ずっと仕事をしていたのだし、言い訳がましいが、代連休なのだ。一学期も中間をすぎ、そろそろ年相応の休憩が必要で、今校正を行っている原稿へのテコ入れが、これでできるかもしれない、ということもかすかに期待しつつ、旅行中、頭の中にいろいろな思いが渦巻くことを目論んでいたのだ。

519_8 京急電車で羽田空港へ出て、高松空港から琴平町へ直行し、ガイドに付いて、早速金比羅さんへ登り始める。突然、横浜の勤労生活から、香川の金比羅参りに没入して、階段登りを始めるというのも変かも知れないが、旅行というのは本来非日常なことなので変といえば変なのだ。

519_9 集合場所に用意されていた竹の杖を頼りに、石段を上へ上へ。785段ある。最初は、古い商家やお土産屋、さらに一刀彫の店、現世利益がありそうなお守りが売られている店もあって、ショッピング気分で、軽く足が進む。写真にある168段くらいまでは、妻と話をしながら、余裕ある歩きだった。その後、話すのはキツくなってきたので、いろいろな事を考えつつ登る。

519_10 話には聞いていたけれども、みんなして、これだけの石段を登るにはそれ相当の理由が昔からあったはずである。今回、ただひたすら登ることによって、江戸時代から現代に至まで、普遍的に庶民の期待を得られてきたものを思い計ってみよう、というのも、趣向のひとつなのだ。519_11 とはいったものの、だるまの素敵な彫刻や、土産物屋の秩序だった混沌に目を奪われることしきりで、現実的には、思考どころではなかった。

519_12 それで、ただひたすら登って見て、それは何だったのか。かなり多様な答えとなるのだが、誰の要求にもすべて応答するような何かが、そこには存在する、ということなのではないか。外側から見ると、同じことを行っているのだが、一緒に歩いている同行者から見れば、みんな異なることを考えて登っているように見える。519_13 この同じ事をみんなが行っているように見えるというところが、ほんとうのところ、金比羅参りの中核なのだと思われる。

519_14 もっとも、お参りにあらまほしきは先達であるのだから、ガイドがいて、説明をしてくれるから、ということもある。石段の横に並んでいる石たちが、寄付金の額を表していて、通常は百万円なのだが、途中書院当たりに、「金一封」と書かれた、金額のない石が並んでいて、それらがいくらの寄付だったのか、というようなことは、ガイドでなければわからないだろう。519_15 一本指が上がっていたが、石の隙間がなく、わたしが寄付したとしても、石碑を建てる余裕がないのが、せめてもの救いだろう。

519_16 もちろん、金毘羅さんは宗教施設なので、お参りにはそれ相当の神様にかかわる意味が存在することは否定できないが、しかし、それ以上なのである。それ以上のみんなの思い、共感がある。一つには、重力に逆らっている。ということは、苦痛でもあり、快楽でもあるのだ。修験者たちがなぜ山に登るのかということがようやくわかる。519_17 この重力がなかったならば、おそらく階段登りは成立しなかったのではないか。昔なら駕篭に乗ってまでも、上へ行きたい、という理由があったといえる。

519_18 二つには、集団で登る人も、個人で登る人も、みんな登っている。たとえば、集団での登っている人たちの中に、酔っ払いが紛れ込んでこようとも、みんな登っているから、ということで多少の暴言を吐いたとしても大目に見てしまうところがある。519_19 登るのであれば、何でも許させる世界がここに現出するのだ。

三つ目が高等戦術だと思えるのは、上には、何にかが用意されて

519_20

いる、という誘因が存在する。それは、金比羅の本堂が中心となっているのだが、そればかりでなく、芸術文化としても、登る理由が十分に作られている。


519_21 書院には、円山応挙や伊藤若冲が絵を残している。明治の絵では、高橋由一記念館があるし、一茶などの俳人の遺跡もある。これらは、階段を登る理由としては、十分なものである。さらに、健康にも良ければ、登らなければ損だ。

519_22 雨が降っていたのだが、かえって気温が上がらず、汗も適度にかく程度で、快適な金比羅参りだった。降りてきて、お腹が空いたので、519_23 さっそく、セルフの讃岐うどん屋へ駆け込んで、まずは一杯いただいた。素敵なガラス張りのコーヒー屋さんも見つけたが、日曜日は残念ながら休店らしかった。甘味は、お灸の形をした、白あんのまんじゅうをほおばって、お遍路巡りもどきに出発したのだった。

519_24 わたしたちが世話になった、金比羅のガイドさんは帰りにも、途中すれ違ったが、次の客たちを率いて、また登っていった。一日に何回、あの785段を往復するのだろうか。519_25 職業とはいえ、運動量の多さに驚かされる。これを見ていると、現代の観光は、はるか宗教的な意味を超えていることがよくわかるのだ。

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  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。