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2013/03/21

映画「千年の愉楽」を観る

0320 どのような共同体にあっても、人びとのコミュニケーションさえ通じていれば、共同の基本は守られているとみてよい。けれども、その共同体以外の者が一見したところでは、この共同体のコミュニケーションがとんでもないものに見えてしまうこともある。いわゆる「困った人」と呼ばれる人びとがどのような共同体にもいるのだ。

この中上健次原作、若松孝二監督の映画「千年の愉楽」では、「路地」と呼ばれる熊野の地域共同体が舞台である。主として物語を繋いでいる「産婆と住職の夫婦」の家を中心とした坂道に、この路地は発達していて、ここにも、伝統的に困った家系が存在するのだ。ナカモト家の男系は美男子ぞろいで、オンナにもてるのだが、それが災いして、皆若くして命が果てる、という神話的物語なのだ。

その人びとがいることで、その共同体には魂が吹き込まれるが、同時に、死神に取り付かれもするのだ。生と死の隣り合わせの、奇妙な路地なのだ。このナカモト家のオンナの影が薄いのが気になるところなのだが、それは現代におけるオンナが過剰に表に出てきていることを、正反対の隠喩で示している。この物語は、あくまで神話の時代の物語なのだ。

共同体の一員が、オンナに代々好かれる「病気」を持っていて、この穢れをいかに共同体の中で、きれいに浄めることができるのかが、共同体にとっての最大かつ最も根源的な問題なのだ。穢れを洗い浄めることを描いた映画、という位置づけの映画だと思われる。この設定は秀逸で、共同体を賭けて、生と死の境を乗り越えて、共同体というものの根源性を問うことができるかもしれないと感じられた。

大筋は、ナカモトの男たちが生命を落として、穢れを自浄した、ということになるかもしれないが、やはり共同体を守るために、共同体を支えるために、過剰な男たちは死を迎えなければならなかったのだ、と考えたい。突然、突き上げてくる生の衝動は、みんなで抑えなければ、収拾がつかない、ということではないか。現代では、これほど強烈な生の衝動は、長々と続く路地が無いのと同様に、なかなか見ることはできない。

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プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。