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2013/03/02

友人との感性的つき合いについて

0302夜のうち、雨がかなり降ってきて、タンタンと水の垂れる音が、低層の屋根に響く。それも、朝になると止んで、出かける頃には、晴れてきた。朝から仕事をしていて、相当進んだこともあり、京都駅へ出る頃には、すっかり気分も晴れてきた。

人並みに押されて、朝の錦小路を辿って、大丸の地下鉄口へ出る。操業1717年と看板にあり、京都商業の中心地であることを改めて想う。03021717友人Kくんに会いに琵琶湖湖畔へ向かう。彼との付き合いは長い。最初に、大学生時代の研究会を組織して以来の関係だ。時にはテーマが重なったりしたこともあるが、境界線の向こう側という感触を持った時期もあったりしたこともあり、ひとつの糸で繋がっているというわけではなく、複数のしかも複合した関係が、繰り返し何回も続いてきた、という感じだ。

0302_2この意味では、どういう友人か、と聞かれるのが一番困る。最も答えに困る関係だと思われる。ずいぶん世話になったこともあるし、引越しを手伝ったくらいの少しの世話をしたこともあり、利害関係こそあまりないが、しかし少ないながらも複雑な感情関係はあるのだ。お互いに同じことを考えて、それを競い合って生きてきたというよりは、つまりライバルとして道具的な理性によって互いの生活を生きてきたのではなく、むしろ強制されることなく、遠くから関連を静かに眺めるようなコミュニケーション的な理性を育んできたといえるかもしれない。友人ということは、だからきわめて曖昧で、はっきりした特定の関係がないにもかかわらず、あらゆることで共通点のないわけではないという関係だ。

もうひとつ加えるならば、やはり言葉の世界でのつき合いというところが、大きな位置を占めているような気がする。会話のやり取りは、だいたい印象に残っている。それから、論文を書くのも好きだが、論文を読むのも好きで、そのやり取りにはたいへん楽しい思い出が残っている。言葉の結びつきの大きな友人関係だと言って良いかもしれない。会話の力の大きさをいつも感じている。

共通の友人に、I君がいて、数年前から行方不明なのだ。それで、本人には申し訳ないが、いつもどうしているのか、会話の想像力でKくんと膨らましあっている。事実は、病気で長期入院しているか、事故にあって転地療養しているかだろうが、今日はもうひとつの可能性が、話しているうちに出てきた。I君はフランス語が得意で、フランスの田舎に長期滞在していたことがあることを思い出したのだ。それで、きっと向こうへ行って、女の人に捕まってしまったのだ、という可能性を、アランドロンの映画仕立てというわけではないが、今回二人で想像してみたのだ。もし当たっていたら、フランスからメールを送って欲しいと思う。遠くにいても、十分に友人であるのだから。

言葉の世界が大きかったので、それだけかと思っていたら、思い出したことがある。Kくんと大学で最初の頃出会った時、彼がマウスピースを携帯していた。高校時代に吹奏楽をやっていて、コンサートマスターだったことを知った。下宿にも、クラシック音楽のレコードが多く積まれていたように思う。けれども、その後言葉のつき合いが多くなったので、すっかりそのことを忘れてしまっていた。

それでは、日常的なつき合いの中で、感性的な関係はなかったのかといえば、幾つものことを思い出す。日常的なつき合いはしていなかったので、趣味については話したことがなかったように思っていたのだが、それはまったくの思い過ごしで、そんなわけではなかった。

0302_3なかでも印象に残っているのは、かなり昔になるが、銀座の松坂屋で開かれたピカソの版画展へ一緒に行ったのだ。それが、観客は多くはなかったにもかかわらず、版画の数が夥しい量で、午後までたっぷりと掛かってしまった。帰りに階段をおりながら、疲れの大きかったことを思い出した。あの制作への熱意ということは、確実に共有したと思った。このような共通体験は、陰に陽に関係に影響を与えていると思われる。

0302_4どのような友人関係なのか、を挙げていくと、その時間だけ項目が上がっていって、ゼノンのいう「アキレスと亀」がごとくの関係を形成することになるだろう。すべての関係の糸をすべてほぐすのは困難だ。友人関係なのだから、ほとんどすべてがインフォーマルな関係の特徴を持っていることは間違いない。何処かに表示されることもないし、ブログに載るくらいのインフォーマルな関係である。けれども、インフォーマルな関係だけに、多重性を持っていて、これを表現しようとすれば、おそらく多様な現れ方をしてしまって、この関係は気楽そうにみえるが、真実深そうには決して見えないだろうな、という感じだ。それは、照れというインフォーマル特有の現れ方が反映しているというよりは、隠れている部分がかなり多いし、底が深いことに由来しているのだ、ということになるのではないだろうか。

京都の宿に帰って、夕食には、いつも食事をする高瀬川沿いにあるレストラン「M」へ向かう。ちょうど中庭の席が空いていて、ゆったりとした食事をすることが出来た。ここに座っていると、旅先にもかかわらず日常が帰ってくるような感覚だ。料理が近年ちょっと脇道に逸れていて、経営が別の方向を観ているのではないかと気になるが、それは直すことができるだろう。最後は、いつものたっぷりとしたアメリカン・コーヒーをとって、一日を振り返る。

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プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。