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2013/03/16

「事実」は十分にドラマティックだ

0317「事実」は十分にドラマティックであり、そうあるべき状態を悠々と超えてしまう。映画「愛、アムール」を観る。アカデミー外国語賞を獲得した作品だ。極めて現代的な、自宅での妻への介護という問題を扱っている。ピアニスト同士の夫婦が都市のマンションに住んでいる。妻が突然半身不随になるところから、ドラマが始まる。

舞台となっているところがほとんど自宅であるのだが、同時にこのことが愛の問題ということを象徴的に表しているのだ。自宅は18世紀調の広い玄関ホールを挟んで、二つに分かれている。左へ行くと、閉鎖的な寝室へ向かう。右に行くと、夫婦の会話が交わされていた食堂と、客が来ると通されるピアノのある客間に通じている。ここは開かれている。映画も、前半には自宅の右半分で開かれた社交が演じられる。後半には、愛の閉じられた物語となる。

たぶん、この話はほとんど実話で、誰の身にも起こってしまうくらい、普遍的な問題を含んだ話なのだ。それほど、誰が見ても、自分の姿がそこに投影されてしまうだろう。現実が「愛」という妥当な状態を超えてしまって、そのまま「愛」という事実として十分にレベルの違うところの妥当性を獲得してしまっている。

それも、わたしたちが常日頃認めている、そうあるべきだという、妥当性というものが、事実として現実世界の内にあり、それを突き動かしているからであって、そのような事実が実際の事実として作用しているからかもしれない。それでは、妥当性を獲得した事実はどうなるのか。結局のところ、レベルを一つあげた、もうひとつ上の妥当性の審判を受けることになるのだ。けれども、家族にあっては、そして夫婦間にあっては、すでに存在しているような妥当性など、誰も判定できないだろう。それほど、愛は複雑だ。

介護は十分にドラマティックであり、あるべき姿を悠々と簡単に超えていく。介護には、さらに「愛」というものが加算され、いわば愛が過剰となった時、重ねられた本人たちは相当な重圧を互いに受けることになるのだ。それが、この映画では十分に描かれている。

寝たきりになった二人の会話のなかで、世話をすることを巡って、次のような会話が交わされていた。世話をするとは、どのようなことなのか。世話をされる方は、負い目を感じることになるし、世話をする方も貸しを与えたような気分になるのだということだ。それで、夫は次のようにいうことになる。「負い目を感ずることはないのだ、立場が互いに逆であったら、同じことをしただろう」と言い、交換論的な介護論を展開している。果たして、立場の互換性で、寝たきり老人の世話を説明することができるだろうか。

結末をいうわけにはいかないけれども、思いがけない結末が用意されている。

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  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。