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2013/03/30

人生の目的を決められない男の物語、でも誰だって自分だけで決めているわけではない

Sn3t0173_2 人生の目的を決められない男の物語、でも誰だって自分だけで決めているわけではない。映画「ザ・マスター」を見る。この自分の人生を自分で決められない男フレディが主人公だ。自分の人生を自分で決めるとは、どのようなことなのかが、何となくわかってくる。この点では、再帰的なトリックの詰まった映画だといえるかもしれない。このような精神分析的な裏読みがいくらでもできる、いわば玄人受けする映画だと思われる。

主人公は、海軍の水兵として従軍して、アルコール依存症になる。各地を点々とするのだが、それはなぜかと言えば、感情的な偏りがあるために、自分を制御できない状態にたびたび陥るからだ。そのような時に、これまでの人生の目的を与えてくれていた、「軍の支配」や「家族の支配」の代わりとなる、「マスターの支配」に出会うことになる。フレディは、アルコール依存症特有の目的意識の脱落状態に陥っていたので、精神的な「治療」を施してくれる「マスター」であるランカスターの存在は、フレディにとって絶対的なものとなる。これは心理学的にいうところの「転移」ではないかと思われる。親密な関係から、権威的な関係へ移行していく。マスターとの信頼関係は、フレディの病状に対して一時的には良好にはたらくが、最終的には、破綻するという物語だ。

もうひとつの「マスター関係」が描かれていて、こちらもたいへん興味深い。マスターとマスターの妻との関係だ。この妻の大写しの顔のシーンが、映画が終わってからも、脳裏から離れない。この映画でたびたび出てくる顔の大写しは、意図されたもので、たいへん効果的だ。映画それ自体が夢に出てきそうなのだが、実際にわたしの夢に出てきた顔は、もちろん現実の妻の顔であったのだった。これはどういう意味があるのだろうか。

この映画のどこが素晴らしいのかといえば、映像への集中度だと思われる。大写しの顔の写し方もそのひとつだが、それ以外にもたとえば、マスターが弁舌に失敗するという、ひとつの事件が起こって、帰りに皆でエレベーターに乗り込むシーンがある。この危機感をどのように映像に定着できるのか。人びとの配置は重要だ。けれども、「沈黙の演技」というものがこの絵のなかに全員のものとして入っていることが必要なのだ。ほんの数秒の演技ではあるが、演技者の魂のこもったシーンだと思う。

フレディの目的意識の無さを、映像でどのように表現できるのか、これも見所だった。オートバイに乗って、目標として定めた岩へ行って帰ってくるという、砂漠での心理訓練プログラムをマスターが組む。案の定、フレディは帰ってこないのだ。大掛かりなロケで、これほどまでにして、映像を造っていく必要があるのだ。

それにしても、この脇役を努めるシーモア・ホフマンという役者には、しゃべり方の演技に独特なところがある。そのためか、しきりになぜか、政治家チャーチルを演じさせてみたい気がして仕方がなかった。

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プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。