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2012/12/27

シャルダン展を観て、年の瀬の心の中を落ち着かせた

1227On Airのインタヴューを受けた。どのような原稿になるのか、本人自身が一番楽しみにしている。ということからわかるように、気のおけないことを、勝手にしゃべらせていただいた。企画を立ててくださったA先生と、後ろから、支援してくださったT先生に感謝したい。もちろん、広報のRさん、Tさん、そして、方向の定まらない原稿をまとめることになった、Yさんにも早めの謝意を表しておきたい。

1227_2このような気分の良い時には、映画に行くことになっているのだが、しゃべりすぎたこともあって、時間が合わない。そこで、妻が推奨する「シャルダン」展を観ることにきめ、東京駅に隣接する三菱一号館美術館へ回ることにする。夜、遅くまで美術館が開いていて、放送大学の夜間講座にも、これくらいの人数が押し寄せるようになったら、夜間大学もほんものになるのだが、と考えること頻りであった。仕事帰りの東京駅近辺のサラリーマン、サラリーウーマンがこれほど押し寄せているとは思わなかった。

1227_3シャルダンについては、大学時代にみすず書房が配ったカレンダーを持っていて、そこでとりあげられていたことがあり、洒落た絵だなと思っていた印象がある。いつももっとたくさん観たいと思っていて、その後パリに行った時にも、わざわざシャルダンを見るために、ルーブルへ行ったし、ワシントンを訪れた時にも、わざわざこれを見るために、ナショナルギャラリーを訪れたのだった。けれども、どこの美術館にもせいぜい2,3枚が所蔵されているだけだった。今回のリストをみると、やはりルーブルを除くと、あとの絵はほとんど世界中の美術館、個人蔵から、1枚ずつそれぞれ集められたものであった。入場料金が高いのも、これならば納得できる。

1227_4つまり、今回のようにこれだけシャルダンをまとめて観られる機会は、今後ほとんど無いといって良いだろう。一箇所でこんなに見られるということは、金輪際起きないことなのだ、と昔の人ならば言う事だろう。外国人も多く来ていて、わざわざこの展覧会のために来日している方も、きっといることだろう。

1227_5なぜシャルダンを観たかったのか、ということは、はっきりしていて、美的関心もさることながら、時代背景、つまりは18世紀に入ってきて、フランスの「サロン」に属する職業絵描きが現れ、しかも日常を描いても「カネ」になる時代を迎えていたという事情を感じたかったからだ。この最も中心的な画家がシャルダンだったと思われる。近代へはいるについて、職業としての画家が成立することはたいへんなことなのだ。絵を売って生活が成り立つ、ということは、通常あり得ないのだが、それが可能になった時代である。ちょうど近代社会に「紙幣」という仕組みが導入された時代である。

職業画家として、外してはならないことがあったと想像される。それは、俗っぽい言い方で顰蹙を買うかもしれないが、絵が売れなければならないという点である。それで、題材は庶民的な、風俗画や静物画であっても、それらがスポンサーに受け入れられる絵画である必要があった。

彼が意識したことは、周辺を描く画家としてはちょっと矛盾しているが、「中心性」ということではなかったか、と思われる。とくに、絵画を描く時におけるシャルダンの中心性への執着は、異常なものがある。絵画のテーマが、その絵の中で、真ん中を占めていないと、彼は納得しないのだ。このような彼の絵の特徴は、目を見張るばかりだ。どんなものを描いても、それが中心を占めているように描かれているのだ。真ん中にあるものを思えば、だいたいの彼の絵を理解できるのだ。こんなにわかりやすい画家はいないだろう。中心性を考えたのはなぜだろうか。それは、おそらく何らかのパターン化を描法において行なった可能性があると、わたしは推測するのだが、果たして専門家はどう見ているのだろうか。お聞きしたいところだ。

たとえば、若い時に描かれた「昼食のしたく(銀のゴブレット)」(http://livedoor.blogimg.jp/wassho/imgs/0/3/031c04b3-s.jpg)が、最初から典型を示していて、この形式を逸脱した作品が一つもないのだ。こんなに形式が保守的な画家は世界中さがしてもいないだろう。ゴブレットを絵の真ん中に持ってくるために、棚を使っていて、手が混んでいるのは、この棚にわざわざ繋ぎのために、パン屑さえも配置しているくらいなのだ。棚を書き込むパターンはかなり共通している。

同じような趣向は、すべての静物画に見られて、すべての静物は嵩上げするための段や、棚や高さのあるものに乗せられて描かれているのだ。わたしたちの目線を意識して描かれている、という表現を使っても良いかもしれない。目線を中心というものに集中させるための工夫が、必ず施されているのだ。ときには、棚だけでは単調になるので、「木いちごの籠」(http://www.ikkojin.net/upload/Image/news/yamauchi/chardan/chardan001.jpeg)で見られるように、棚から中心へつなぐために、白い花と茎を配して、目線をやはり、中心へ誘う工夫を行っているが、それでもやはり、中心を外していないことは間違いないだろう。静物画の場合には、物が中心に来る。それで中心がわかりやすく描かれているのだ。

それじゃ、人物を描いた場合、とくに複数の人物を描いた場合には、「中心性」をどのように描いているのだろうか。まさか、人物まで棚に乗せて、目線に合わせるわけにはいかないだろう。解答は直ちに得られるのだ。職業画家であれば、実際に棚で嵩上げしなくても、それ以外のものを描くことで十分に、中心へ鑑賞者の目を誘うことは可能である。

この点で典型的なのは、今回の展覧会の最高傑作だと思われるが、「食前の祈り(祝福)」(http://www.ikkojin.net/upload/Image/news/yamauchi/chardan/chardan003.jpeg)である。この絵には母親と二人の子供という場面が描かれていて、確かに棚は存在しない。

1227_6

床が連続して、テーブルに向かい、テーブルを挟んで、親子が目線を交差させているのだ。この目線の交差が中心にあることは、すぐにわかるのだが、これらを中心に持って行くための周辺の仕組みが存在することも、すぐにわかる。この絵の場合には、棚の代わりに床が使われ、これでは物足りないので、床に炭置きをおいている。そして、他のバージョンでは、鍋をおいて中心への繋ぎとしているのだ。

このように静物画であれ、人物画であれ、すべての絵画を中心性の絵画として成り立たせていて、この執拗さは尋常ではないな、と思わせた。対の絵画に仕立てたというエピソードもやはり、一枚の絵画では、必ず中心性を狙ったということの傍証でしかないだろう。

1227_7この中心性への執拗さが、サロンで庶民的な絵画を描いていても、正統を維持でき、後の啓蒙主義にも受け入れられた理由ではあるまいか。誤解を恐れずに、挑戦的に言うならばある意味でシャルダンは、この変容の「時代」にぴったりの作品を描いていたと言えるのではないかと思うのだ。

1227_8帰りに、国際フォーラムの喫茶店で、展覧会の余韻を楽しんだ。これだけ確実性のある、展覧会は久し振りだった。ガラス張りの壁を透かして、人並みが見える。遠くに女性達が一列に並んで、何かを待っている。この寒空に耐えて待つだけの価値のあるものは何なのだろう。ここにも、時代にぴったりの何かが存在するのだろうか。

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プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。