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2012/09/09

インタッチャブルズ(仏)なのか、アンタッチャブルズ(英)なのか

0911夜になった。仕事を店仕舞し、今日も非力を恥じて、星を仰ぎながら、K街へ出て映画を観る。

映画「最強のふたり」を目指すが、なぜこの映画の題名が「最強のふたり」なのか、どうも相当違うのではないかと思う。原題は、「intouchables」ということで、「触れることのできないこと」というたいへん分かりやすい題名だ。首から下が、完全に麻痺している身障者のFと、前科のある黒人ヘルパーのDとのユーモアあふれる関係を描いた映画だ。だから、プライベートなところでは、通常の感覚では、「触れることのできないところ」のあるということが問題となってくるという設定である。「触れることができないところ」を、触れてしまうことによって、個人の枠を超えることの素晴らしさ、楽しさを、そして、恐ろしさと難しさをうまくすくい取っていると思う。

ひとつは、身障者が健常者の機能を失うと、それ以外のところで、健常者を超えるような能力を発揮するという例だ。この映画には、これらの例がたくさん含まれていて、人間というものの可能性へ挑戦していると思う。この意味で「創造的」であると思う。たとえば、普通の性欲は失うが、耳がそれを感じる。というところは、ひとつの例にすぎない。それで、個人の身の回りのことにまで、他者が干渉するときに、どのようなことが起こり、他者との特別の関係を必要とするようになるのかが、見事に(とわたしたちには思えるのだが、当人には当たり前のことかもしれないことが)描かれている。

個人Aさんが身障者で、個人Bさんが介助者である時に、Aさんの人格の内部まで、Bさんは入り込まなければならない。たとえば、私信の手紙まで、読まなければならないのだ。ところが、それにとどまらず、Bさんは自分の人格を変えて、Aさんの内部に入り込まなければならない。身の回りのことならば、福祉や医療で日常的に行われていることである。ところが、高所恐怖症であるにも関わらず、飛行機に乗ったり、ハングライダーに乗ったりしなければならのだ。Bさんにとっては、それまで嫌いであったことも、Aさんの介助を行うときには、曲げて一緒に行わなければならないのだ。

ここの描き方に、アメリカ映画と、フランス映画との決定的な違いがあると思われる。アメリカ映画では、このような個人を超えた能力は、個人の潜在能力の発揮と考える傾向にあるのではないかと思っている。それに対して、この映画もそうなのだが、何か一体となったものがその奥に存在することを示唆する傾向のあるのが、フランス映画だ。この違いはいったい何なのだろうと考えつつ、同時に、実話であるという現実世界の奥深さに感激したのだった。

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  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。