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2012/09/11

マウリッツハイス美術館展で、鑑賞者の狂気というか熱狂というのかに出会う

0914自分のことを棚に上げての話だが、ついこの間まで、「不況だ」「格差だ」「貧困だ」と言っていて、いまでも好転したわけではないのだが、この行列はどのような事態だと言いたい。この忙しく、経済的にも政治的にも、危機が迫っているのに、この余裕はどうしたことか。けっして批難しているわけではなく、危機が煽られる一方で、こんなに並んで入ることに情熱を傾けている余裕について、むしろ好ましいとさえ思っている。

0914_2妻が美術館への入場券を早い段階で取ってくれていて、インターネットの恩恵がこれほど出た機会も珍しい。朝の9時前には、すでに都美術館のなかに入っていた。0914_3上野駅に着いた頃から、ちょっと嫌な予感があった。すでにこの時間にして、文化会館前には人があふれていたし、前回来たときにはなかった珈琲チェーンのSの前にも、行列が出来ていた。さらに、向かいの喫茶コーナーにも人垣があった。国立博物館前は、広く見通しが効く公園だという印象で会ったのが、急に人であふれかえる公園に変身していたのだ。

0914_5それで、都美術館に着く頃には、前にも人があふれていて、すでに入場制限が始まろうとしていたのだ。9時ですよ。ちょっとちょっと、という感じだった。あわてて、うしろを振り返ると、前にいる人びとよりも、すでに後ろに付いた人びとの方が多くなっていた。みんな前へ前へつんのめるようにして、会場へ入っていく。人のことは言えないが、何を観たくてこんなに並ぶのだろうか。0914_6人が並ぶから並ぶのだ、という集団心理を信じたくなる。このマウリッツハイス美術館には、17世紀オランダとフランドルの絵画で有名なところが集まったのだ。ちょうどこの美術館が改修工事に入っており、それを利用して、大挙して押し寄せた。

0914_7これまでの宣伝が効いて、フェルメール、レンブラント、ルーベンスなどを観ようと押し寄せたのだった。とくに、フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」が来ていて、フェルメールはテレビや展覧会で、日本人の間に広まっていて、それがこの行列騒ぎに結びついたのだった。その絵の前は、ただ通りすぎるだけでも、30分行列を作らなければならないことになっていた。並ぶのは嫌だったので、通り過ぎずにじっくりと見る場所へすぐ行って、なぜかそちらは並ばずに良くて、しかも空いているのだが、そこで時間をかけて観たのだった。0914_8そういえばさらに、展覧会の最後とのところに、この「真珠の耳飾りの少女」の模写が置いてあって、自由に背景として写真を撮ってよいというサービスが設けられていた。当然、行列をなしていて、その模様を取らせていただいたのだ。こう観ると、やはり並んでいるから並びたいという集団心理の存在は、さらに信憑性を増してくる。

もし今日の一枚ということであれば、レンブラントを挙げたい。この時代に絵画の描法が一大転機を迎えたことを示す、それほどの自画像と肖像画だったと思う。これは観ておかなければならないと思わせるものがあった。この17世紀オランダで何が起こったのだろうか。レンブラントの革新性について、素人のわたしが言えることは少ない。もちろん、このところ映画も来ていたし、前評判が良かったということもあるが、実物の凄さは言葉を失う。1630年頃の「笑う男」、晩年の1667年の「老人の肖像」、1669年の「自画像」は、かならず実物を見たい。

果たして、一枚の絵画なのであるが、見え方が違うのだ。遠くから観ると、写真を見るかように、見事な描写になっていることがわかる。それは、弟子達の模写が来ていたので、そのまま描けば、その模写と同じだっただろうな、と思う。けれども、一歩その絵の近く圏内に入っていくと、その顔はぼろぼろの絵の具の端切れが並んで置かれているに過ぎないのだ。つまり、一枚の同じ絵でありながら、画家の描く顔を見る「目」と、遠目から観る鑑賞者の「目」とは異なるものを観ているのだ。これが写真ならば、遠くから観る写真と、近くから観る写真とは、同じものとして均質な画像を送ってくるに違いない。ところが、レンブラントの絵は、近くにいる人と、遠くにいる人とに、違う画像を送りつけるのだ。しかしながら、どちらも一枚の絵画であることは間違いない。

何を言いたいのかといえば、よく言われているように、この時代にあって、はじめて鑑賞者の目というものを意識せざるを得なくなったという状況があった、ということだ。いわば、スポンサーが付いて、絵画マーケットというものが、オランダの商業的繁栄と共に、確立したのだ。宗教画を描く、中世の絵画から脱して、世俗画を描く画家達が誕生してきた、という事情が働いている。

0914_9なぜレンブラントが、これほどに「光と影」のコントラストを強調したのかが、よくわかる。絵画「メシオンの賛歌」で、もちろんイエスに光が当てられているのだが、神の世界や宗教の世界よりも、もっと庶民に近いところに、強烈な光を当てていて、この異常なライトアップで、鑑賞者の求めに応じているのだと言えるのではないだろうか。レンブラントの画家としての位置づけがよくわかる一枚である。

0914_10それは現代においても、効果が絶大である。わたしたちがなぜこれほどにフェルメールやレンブラントに魅せられるのかは明らかである。オランダを飛び越えて、日本の庶民にも時代を超えて、描法の革新を見せつけ、これほどまでに行列をしてまで、観させるほどの不思議な魅力を振りまいているからである。17世紀の鑑賞者に対して、新しい描き方を行ったばかりか、わたしたちの求めにもすでに400年前に応じていたと言えるのだ。

0914_11行列の長さはいや増すばかりで、帰りにはついに建物に入りきらず、さらに敷地内にも並ぶことができず、ずっと先の上野動物園を回る方にまで続き、2時間以上待っても会場に入れないほどの行列に達していた。帰り道、途中途中の前売り所では、そこでも行列がたっていた。止まることをしらない、人の列であった。0914_12すでに、見終わったから、余裕をもって眺めていられるが、平日の午前中にきて、まさかこんな行列が出来ているとは、誰も思わないだろうな。こんなに暑い気候の中で、ここまで来てしまうと、集団の狂気に近いものを感ずるのだった。

0914_13じつは行列はまだまだ続くのだ。つぎは食欲の行列だ。昔の上野駅構内には、駅長の貴賓室があったということだ。そこが改装されて、昔の様子をステンドグラスなどにすこし残した料理店となっている。0914_14銀座の「L」が入っている。ディナーになってしまうとわたしたちには高額になってしまうが、昼ならば、それほど高いランチではない。ということで、昼前に着く。ところが入ってみると、すでにボックスがふたつ空いているだけで、奥の貴賓室は満杯であった。

0914_15味を抑えたスープと鴨料理を食べて、デザートが付いて満足だった。0914_16午後からの仕事に十分な栄養であった。と、それで外に出ると、すでに数十人の行列が出来ていたのだった。行列に始まり、行列で終わった、上野の散歩であった。

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プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。