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2012/07/16

今日一日を振り返ることは、日本の数百年を振り返ることになるかもしれない

16今日一日を振り返ることは、日本全体の歴史の中でも、数百年の典型例を振り返ることになるかもしれない。これまで、産業としての鉄を様々なところで見てきた。いつの時代でも、鉄は人びとを大規模に繋ぐ産業であるという、特別の産業だと思ってきた。近代ということを考えるときには、この傾向がこの産業の特徴と一緒に必ず現れる。

16_2それで、島根にきたならば、日本近世の「たたら製鉄」を見ないわけにはいかないとかねてから思っていた。ゼミの方々も誘って、バス研修という形態を取ってやってきた。せっかく、こんなに遠くまできたからには、大学へ閉じこもってのゼミだけでは、詰まらないのではないかと考え、企画した次第である。

16_3都合の良いことに、今回の合宿で、会場の手配などたいへんお世話になった島根大学のI先生は、森林という観点から、つまり近世の製鉄では映画「もののけ姫」に出てきたように、木炭を使うのだが、製鉄環境に付いてお話をしてくださった。また、それぞれの施設毎に、研究員や説明員の方々の話を聞くことができて、たいへん詳細な情報を得ることができた。

16_4詳しくは他の場所に譲りたいが、最も印象に残ったのは、雲南市の吉田村に今も残る江戸時代からの鉄師田部家の「菅谷たたら山内」であった。江戸期から玉鋼やズクを作り続けてきた「たたら製鉄」の現場が重要文化財として残っているのだ。16_23この大きな施設で、製鉄が行われたのだ。じつは、今月が公開の最後であって、来月からはこの現建物の解体修理が始まるとのことだ。現物そのままが見られるのは、今月が最後であった。この時期に見ることができたことは、たいへん幸運であった。壁が幾重にも塗り分けられていて、苦難のあったことを表している。製鉄は火を扱うので、何回かはこの火をくぐったことを、如実に語っている。

16_5この建物全体が残っていてたいへん良かったと思われるのは、地下構造も含め、さらには、村下から番子に至るまで、それぞれの職種が座る場所と、建物内での役割が完全に見て取れることであった。16_6「村下(むらげ)」というたたらの四日間を取り仕切る職長のような人がいて、それが表と裏と二人いて、この二人を中心として、それぞれにチームが編成され、さらには、この建物の外に、鉄穴流しの要員や、出来た鉄を割る職人や運搬などの周辺の職人や人足たちが連なって行く。もちろん、鍛治場などを入れると、さらに複雑な組織になり、村下よりも、鍛治の方が報酬が良かったらしいなどという興味深いことも、指摘されていた。

16_7うすると、全体で、最盛期には、2800名ほどの働く作業場が、現出していたのだと教えられた。さらに、家族を含めれば、この地域に3万人ほどの、企業城下町が成立していたことになる。これほどの規模の産業が、江戸時代に存在したということ自体、驚きだ。江戸時代というもののイメージが一変したと表現した学生の方もいらっしゃった。これだけの産業が江戸時代に、こんな山奥に(失礼!)存在し得たということだ。かつて、釜石の橋野高炉跡へ行った時にも、その規模の大きさに驚いたのだが、それに匹敵する驚きだ。

16_8このような頂点に立つ、産業が存在し、その周辺にそれを数倍上回る人々を惹きつける有機的な産業群が存在する、という構造が成り立つのは、近代になってからと思っていたのだが、これで見るように、かなり普遍的な産業のあり方がであることがわかり、今回のバス研修は収穫大であった。16_11吉田村の土蔵群や、歴史館、未来館など、魅力的なところはかずかずあったが、想像力を掻き立てられたのは、やはりこの菅谷たたら山内とそれをめぐる、番小屋や、水車などの有機的な配置であった。

16_10のあと、同じく鉄師であった絲原家も訪れる。こちらの構えも立派で、往年の隆盛を思い浮かべることができる。鉄には関係ないかもしれないが、庭園も立派であった。この中にあった、藁葺きの小さな小屋がシンプルで、気に入ってしまった。もっとも、ここでの博物館の解説は、微に入り細に入り、質問にもたっぷり答えていただき、十分な滞在となった。残念なのは、こちらのたたら場はすでに壊されていて、写真と跡地があるだけだったことだ。

さて、最後に頭の中を去来したことは、わたしの祖先のことであった。ちょうど、近世のたたら製鉄から、電気製鋼の時代まで、信州にあって、製鉄業を営んでいた。だから、時代からすれば、ある程度は重なる。途中、資金的にうまくいかなくなって、近世のたたらからも撤退し、近代の製鉄業からも撤退した。

16_12この島根県の鉄師たちと何処が異なっていたのかといえば、一言でいえば、残るためには製鉄業だけではなく、多角化が必要であったということだ。島根には、山林が残され、製鉄業で近代製鉄、つまり八幡製鉄所に抜かれたあとは、炭を作ることで生きながらえたということだ。それについては、山林という蓄積された資産がモノを言った。ここの違いは、大きかったと言えよう。

16_13それから、それを上回っていたのは、かなり完成された「たたら製鉄」のシステムを持っていたことである。これは、社会変化でよく見られることだが、あまりに完成されてしまうと、その後発展を止めてしまうことがよくある。

16_14なぜ近世「たたら」は、規模拡大ができず、近代製鉄のような大規模化へ向かうことができなかったのだろうか。菅谷高殿と、絲原家とで質問して見た。数百年に渡って、炉近くの改善や、鉄穴流しの改良や、さらに水車という動力の導入がありながら、この箱型約3メートルの規模はそれほど変わりなく、近代になって、コークスを使うようになるまでは、大規模化が行われなかった。なぜであろうか。

16_16砂鉄と木炭の限界、村下4日間の体力限界、人的組織の限界などが、供給側の答えらしかった。また、おそらく、玉鋼への需要も、刀剣に限られ、銑鉄への需要も農機具に限られていたということもあるだろう。けれども、ここにきて見て総合してみるに、やはりたたら製法は、ほぼ完成されていて、この何処を変えても、全体を変えるには至らない、状況にあったと言えるであろう。逆に考えれば、この規模が「たたら」という方法の限界であったということになるだろう。

16_18バスは、質問をたっぷりとって、時間がオーバー気味だったが、最後は空港にもピッタリだったし、JR駅にも予定通りについて、大成功だった。16_19また、複製画だったけれども、英国取材の時に産業博物館でお目にかかった有名なコールブルックデールの絵にも再会することができた。

16_20帰り道、海鮮料理の店があったので、刺身と焼き魚を食べる。アジの塩焼きも美味しかった。16_22通り道だったので、昨日の喫茶店で、チーズケーキのセットを取る。メールで追ってきた仕事をいくつかこなして、宿へ帰る。


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プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。