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2012/05/24

「オレンジと太陽」と心の中の怪物

523将来の自分がどのようになっているのか、ということを推測するうえで、最初の段階で、最も参考になるのは、親を見るか、あるいは親からもたらされる情報を見るかということになるだろう。そして、年を取るに従って、独立して自前の情報を駆使して、学校の友人や先生たちとの交流が、その人の情報となって行く。わたしたちに「シティズンシップ」というものがあるとすれば、人との関係でそれが形成されてくると言えるのではないか。さて、問題は、これらがなんらかの理由で壊されてしまったとしたら、どうなるだろうかということであり、今日の浮かんで来た課題でもあった。

524ちょっと脱線するが、自分が将来の自分を想定し、もっと年をとって、どのような街を彷徨しているのだろうかを考えると、一つには、本があった方が良いだろう、と思う。二つには、喫茶店があった方が良いだろう、と思う。三つには、本について言い合ったり、コーヒーを飲んだりする人びとがいた方が良いだろうと思う。もちろん、言葉を交わす必要はあるかもしれないが、年を取れば、もうそれほどしゃべりたくなくなっているから、挨拶程度のことが交わされれば良いと思う。それに、映画館があれば、言うことがないだろう。

Photo_14神保町がもう少し家に近かったら、そしてもっと小規模であれば、通うところだが、といつも思っている。神保町に通った思いでは、小学校から中学校にかけて少し(当時はまだ、都電が走っていて、池袋から護国寺経由して、神保町へ通った)、高校生と予備校生の時に少し(御茶ノ水から下って来て、大学紛争の催涙弾が飛び交う中だった)、そして大学院生の時に少し(シャンソンのレコード屋があったので)、と切れ切れながら、まとまって出没していた思いがある。その中で、5本の指に入るような、映画やレコードと巡り合ったのも、この街であった。

Photo_15そこでこの街で休憩をしようと思えば、他の街よりも容易に店が見つかる。きょうも早くから街についてしまったので、数時間をつぶさなければならなかった。このような時は、読書OKの店というところにはいることにしている。

Photo_16富山房という新書版で良い本を出版している本屋のビルの地下に、Fという喫茶店があって、今日はここにはいる。編集者たちが好みそうな雰囲気だ。無線LANも使い放題で、申し分ない。特に、タンザニアのわたしの好きな豆が特集されていたので、すぐ注文する。

Photo_17いくら神保町とはいえ、このような喫茶店が栄えるためには、周りとの競争にかたねばならないのは辛いところだ。すでにチェーンのコーヒー店が新築されて、近くに進出していた。これで、この界隈の喫茶店地図が、塗り変わってしまうだろう。ビジネス客は、どうしても易きに流れるのではないだろうか。

Photo_18今、岩波ホールでは、ケン・ローチ監督の息子のジム・ローチ監督の映画「オレンジと太陽」がかかっている。映画が始まって、なぜこれほど最初の段階で、主人公を詳細に描かなければならないのか、ということが分からなかった。なぜだろうか。それは、追い追いわかってくるのだ。

Photo_19この映画の看板には、かつて英国と豪州とに間には、「児童移民」という事件、つまり児童だけで、親の同意を得ていない移民が存在した歴史があるとされている。そして、豪州に渡ってからの児童虐待の原因をつくったということを伝えている。このような問題を扱うのだから、この映画も親のケン・ローチ監督と同じように、社会問題をリアルに描いた映画だと思い込んでいた。前半は、少なくともこのような趣があったと思う。

ところが、途中から、転回が仕組まれているのだ。転回というからには、通常は急激な変化が生ずるように聞こえてしまうかもしれないのだが、じつはそうではない。この仕組みは、ジワジワとくるタイプのものであり、あそこでアーだったな、ここではコーだったな、と思い出され、話が次第に浸透して行く種類の転回であるのだった。

このようなジワジワ的な浸透には、恐ろしいところがあるのだ。気のつかないうちに、自分のなかに巣食ってしまうような種類の怖さだ。これが本当なのか、と分かる頃には、自分の身体に変調を来たすことになっている。もしそれが病気というものとして現れるのであれば、医者のケアで充当できるから、わかりやすい。

けれども、実際には、そのような変調は、見えないところで大きく育ってしまっていて、傍目からはなかなか分からないものなのだ。ここに来て、ようやくにして、この映画の成立する根拠が明らかにされてくるのだ。

映画の中では、「心の中の怪物」と呼ばれていた。これは、いったい何なのだろうか。直接的には、映像にはならない。それにもかかわらず、何らかの形で映像として残すには、どのようにしたら良いのかが問われることになる。

他者が負っているモンスターならば、傍目からはわかるかもしれないのだが、自分の中のモンスターはどのようにして理解したら良いだろうか。また、どのようにして、映像に定着できるだろうかが問われることになる。表に現れないものは、映像としても表さない、という抑制の効いたところを狙ったものが、成功しているのだろうと思われる。

女優エミリー・ワトソンが主人公を演じていて、このジワジワ感をうまく演技していたと思う。どうやら、この問題は、「児童移民」という特別な事件特有の問題ではなく、わたし自身のごく身近な問題ではないか、と気がつくのは、かなり後の方になってからである。余計なお世話かもしれないが、さてあなたは日常、この問題に気づいているだろうか。

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  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。