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2012/04/11

「委員会」を抽象画で描いてみたら

Photo_12放送大学本部の桜も満開だ。桜の空は、抜けるように青かった。このような写真を撮ることに、何にも違和感はない。けれども、人間関係を写真に撮ろうとしたら、結構たいへんだ。

人間関係を感性的な音楽や絵画で描いたら、それは具象的という意味ではなく、感性そのものとして描いたら、どのようなものになるだろうか。という試みは何処にでもあるようで、探してみるとそれほど簡単に見つかるわけではない。

Photo_13たとえば、「会議」というものを抽象画として描いたとしよう。ある時刻が来ると、議長が始まりを宣言する。これを抽象化したら、一本の線で描くのか、それとも、滲んだ水溶液で画用紙に落とすのか、とりあえず絵画もスタートする。

最初だから、参加者全員が一つの土俵に上がったという意味で、自己紹介を行うことになる。実際には、ぐるぐると線が回るように、それぞれの中心と周辺が明らかにされ、互いに相互作用を果たして行くことになる。点が滲んで行くのも悪くないだろう。

ここで、議長は会議がマンネリに動くことを警戒して、自分の独自性を強調する。このような目立ちたがりの、わたしのような人もいるだろう。最初のスタートの一本の線に交差する真っ赤な新たな線がスッと引かれることになる。これで、絵画全体の構図と動線の可能性が定まったことになる。中心は、複数描かれることで、オールオーバー的視点が、抽象的な中にも圧点と、薄い点とが描き分けられていくことになる。

会議の進行は、ほぼルーティンワークに徹する方が良いので、線画でもポウリングでも、べた塗りでも、リズムを持って、中心から周辺へ、周辺から中心へと塗り進められていく。ところが、途中で何回か局面が変わる時がある。ひとりの人の発言で、何かが開かれる。それを突破口として、あたかも傷口がジリジリと広がって行くように、ワイワイとザワザワと、右に行ったり左に行ったりするのだ。

これらは必ず発言者と受信者のやり取りという形態を取るので、もしキャンバスに描きこまれるとしたら、ネットワーク状の、あるいはやり取りなので、二重線でポロック状の多層的な線画で、多彩な色使いの描き方が残って行くことだろう。話した本人たちは、その一本一本が何を意味するのかが鮮明にわかるのだが、他者からはその時点ではかなり辿ることができたとしても、もはや描かれたのちには、やり取りがあったことしか記憶にはないだろう。ということは、このような抽象画として描かれることは、かなりの真実を反映していることかもしれない。

時には、議論が土手に乗り上げてしまい、壁にぶつかってしまう。これなどは、絵画表現が得意とするところである。左右で断絶が生じているような、活断層のズレが書き込まれれば、それで事態の描写は、ほぼ完璧である。このときこそ、議長の出番であって、当事者は迂回したり、とんでもない方向へ線が引かれ、先は曖昧な滲んだ面となって消えるたりするような局面がいくつか描かれるだけだ。けれど、上からみれば、一目瞭然でどの方向に活路があるのかはすぐわかり、脇から見ている者の特権的な操作が可能なのだ。これほど、議長からは特別に、議論が見えるとは思わなかった。

この議長という役目を行って見て、一番意外だったのは、顔色を見ることがあるということが生じたことである。つまり、あまりに議論の進む先を、先を、と急ぐあまり、参加者で誰が次に何を言おうとしているのかを瞬時に察してしまい、常に先回りした発言をしてしまうという機会が再三再四起こったことだった。これは、つまり心理学でいうところのプライム効果ということだが、抽象画は常にこの先回りしたプライム効果の連続であるという気がするのだ。周りの雰囲気を先回りして描いているような、将来を見通したような絵画によく行き当たることがある。それは、絵画にぽっかり穴が空くような表現であったり、切り裂かれた画面のようであり、向こう側が見えてしまうような表現であったりする。

結局、会議は二時間半に及んで、わたしは長かったなとは思ったが、議論好きのY先生からは短かったですね、と言われてしまった。これまで、一時間半ずつかかっていた会議を三つ統合したので、総合的には短くなったのでは、とK先生も慰めてくださった。一幅の絵画が、手に乗るような小さな額の中に収まるようなものなのか、それとも、ベネチアの大講堂でみたような、全世界を圧倒するような大きな絵画であるのか。

これで、納まりがつくかつかないかは、終わってみて、描いてみなければわからない。抽象絵画として描かれると、このようなところでも類似点が明らかになるのではないかと思っている。目にとって、よい絵画とは言えないとしても、描いてみなければ何も始まらない。

一枚の絵を描いたような会議を、今日新鮮な気持ちで体験したのだった。今年は特別に一年間だけに限って、教務に関係する委員会の議事を任されることになった。社会科学を勉強するものにとっては、あえて「幸運」と思わなければならないだろう。

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  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。