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2012/03/09

「おとなのけんか」を転回させるのは、何だろうか

Photo映画「おとなのけんか」を観た。どのように「けんか」という感情的なものを、劇に定着できるのか、それを観たいと思った。ところで、「おとなのけんか」と「こどものけんか」と、どこが違うのだろうか、理性的な感情というものがあれば違うのかもしれないが。映画を観ていると、疲れがでる分だけ違うのか、深刻になりすぎるところが違うのか、とも思えてくる。

今日は、妻と葉山の近代美術館へ行くつもりだった。けれども、このところの天候不順は、外へ出る気力を失わせる。ここは晴耕雨読で、仕事を行え、というご託宣だと思われるので、朝から本へ向かう。

昼になって、4月から始める「読書会のような授業」、あるいは「授業のような読書会」の準備のための模擬授業用宣伝ポスターを作ったので、それとテキストを持って、東京文京学習センターを訪れる。わたしたちの「商売」では、宣伝活動ということが苦手であって、授業の「深み」を持たせることは、いくらでもできて、それで難しくなってしまうのであるが、「広がり」を持たせ、易しくすることがどうも上手くいかない。それで、窮地の策として、学生の方々を呼び込んで、コミュニケーションを通じることで、「広がり」を確保しようということになる。

このことがどのような効果を持っているかは、今後の課題だが、たぶん放送大学の学生の方々はたいへん多様なので、議論を戦わせているうちに、それなりの面白さが出てくるのではないかと楽観的に考えている。このような情宣活動は、遠隔教育の大学の最も不得手とするところだが、経験的にいえば、遠隔であっても、直接会って密接なお願いをすることが鉄則である。そして帰りに、有楽町の映画館へ向かう。この映画がかかっているのは、東京ではここだけなのだ。

「おとなのけんか」の原作は日本の演劇でも成功したらしい、と聞いて、へえーと思った。国の違いや文化の違いがあるにしても、そしてかなり特殊な喧嘩を描いている割には、普遍的な視点が随所に散りばめられているからだ。

コメディで最も笑えるのは、出演者全員が真にマジメに演技をする時である、とある映画監督が言っていたことだが、この映画はそのことを最も忠実に描いている。ニューヨークのブルックリン。こども同士がけんかになり、これをめぐってロングストリート夫妻(ペネロペとマイケル)とカウワン夫妻(ナンシーとアラン)のけんかが始まる。後者のこどもが前者のこどもを棒で殴ってしまうという事件が起こり、このけんかを冷静に話し合いで解決しようとロングストリート家に面々が集まる。ところが、主義主張の違いや偏見の存在などがさらけ出されるに従って、夫妻対夫妻の対立に止まらず、男と女、さらには夫婦内部の争いにまで発展していく。ほんとうに興味深いけんか劇である。けんかを避けるために、4人が集まったのであるが、このことを理性的に避けようとしたことが、かえってけんかを拡大してしまう、という人間の非条理がうまく描かれていると思われる。

演技の中心は、ジュディー・フォスター演じるペネロペであることは間違いないが、じつはフォスター自身の実際の性格が、演じているような性格ではないことも現れてきて、人間というのは何とも複雑な生き物だなと再認識させられた。したがって、真によく演じているのは、渋みを出した悪徳弁護士役のアランではないかと思われてくる。

映画を描く時に、何と何が対立するのであるのか、たとえば映画の中で、マイケルがハムスターを捨てることに対して、これに賛成なのか反対なのかが、ひとつの争点として浮かび上がってくるのだが、それを言葉に定着させなければならない。映画のシナリオの段階で、この対立とそれぞれの理由が正当でないと、映画の面白さが出てこない。シナリオライターの腕が問われることになる。

二組の夫婦が二時間に渡って、言葉を激しく交わし合う物語だ。けんかの争点を明らかにして、その争いが面白くなければ映画として成立しない。ということは、人間を類型化する必要が出てくることになる。マイケルとペネロペ、アランとナンシー、この状況が4人であるというところがひとつの見所である。2人でも、3人でも、まずくて、4人であるところから、それぞれの対立と、グループ間の対立とが、際限なく続く仕組みを発達させている。

スタートから面白い。こどものけんかを収めるために、合意文書を書くのだが、危害者の意図性を巡って、弁護士であるマイケルがまず気を咎める。ほんのちょっとのところから、傷口が広がっていくのだ。あらゆるけんかがそうであるように、結果よりも、プロセスに基本的なけんかの種があるのだ。これは、かなり普遍的なことだと思われる。だから、ここで家に帰ってしまえば、そういうことにはならなかったのに、という、帰りがけのシーンがいくつも出てくるのだ。なぜそこで、わざわざ戻ってくるのだ。これでもかこれでもか、と劇は進んで行くのだ。

シナリオライターの意図があるとするならば、それは4人全員が、全く異なる4類型を持っていて、譲れない価値観を持っているという共通点があるというところだ。普通の世界では、これだけ異なる価値観を持っていたら、結婚などするはずがないと思われるのだが、そこが映画であり、劇であるという架空のけんかの面白いところだと思われる。

ペネロペは、アメリカ人特有のひとつの典型で、普遍的な倫理観を持っていて、人道的で人権主義的な思想の持ち主だ。このようなタイプは、アメリカでは、ジェーン・フォンダ的、と呼ばれているらしいが、さもありなんと、この呼び方を理解した。明らかにジュディー・フォスターはジェーン・フォンダ的を演じていて見事なのだが、彼女自身は明らかに、ジェーン・フォンダ的ではないところが、面白いところだと思われる。マイケルは、むしろヘンリーフォンダ的というのだろうか、ジョン・ウェイン的心性と、アイバンフォー的騎士道精神を兼ね備えている。

これに対して、アランは製薬会社の弁護士をしていて、絶えず携帯でしゃべっている。資本主義の信奉者だ。ナンシーは金持ちだが、あまり教養はなく、美人を鼻にかけているようなところがある。結論を言ってしまうならば、ペネロペが普遍的な人道主義を見せて、「社会民主主義」に偏るならば、それ対して、アランの悪徳弁護士が「新自由主義」を見せて対立する。また、潜在的なところでは、マイケルの「保守主義」とナンシーの「共同体主義」が争いを見せるのだ。きれいな類型を描いたことで、けんかがすっきりと整理されることがわかった。でも、なぜ新自由主義と共同体主義とが結婚し、さらに保守主義と社会民主主義とが結婚するのだろうか。この想定のほうが、実際の劇そのものよりも非条理のような気がした。

最も注目したのは、けんかの次元がぐっと転回するシーンである。何回かあるのだが、その中でも特に使えるなと思ったシーンがある。けんかを転回させるのは、理性よりも感性であり、潜在的な動きが圧倒的な力を持つ。保守主義者であれば、いわゆる「卓袱台をひっくり返す」という怒りの手段が常套だ。Photo_2これに対して、この映画の中では、卓袱台をひっくり返す以上のすごい効果を持つ方法のあることを教えている。それは、ナンシーが場面の潜在的な雰囲気を読み取って、どおっと行う、いわば生理的な力だ。これは、有効だった。理性や合理を一気に吹き飛ばしてしまった。映画が終わってから、映画館前の喫茶店で、雨をみつつ「けんか」の余韻を冷やしながら、カフェラテを飲んで帰路に着いた。

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  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。