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2012/03/16

「村山知義」展覧会を観ながら、如何に多様な世界にわたしたちは住んでいるのかを理解した

Photo_18妻と一緒に、葉山の神奈川県立近代美術館へ久しぶりに行く。その前に腹ごしらえをというので、逗子の街にある「V」というイタリア料理の店で、ピッツァのマルガリータを食べる。石室焼きでこんがり焦げていて美味しかった。大きなガラスで囲まれた食事室で、美味なるものをゆっくり食べるということの大切さがわかった。ときどきは行いたいものだ。一人で来て、本を読みながら食べている人もいたが、ここは意味はなくとも、しゃべりながらの食事が似合っている。

Photo_19このへんは、昔からの街並みが続く、小さな商店街だ。表通りにはかつての賑わいはない。人は多いように思えるが、需要に繋がっていないのだろう。けれども、ちょっと横丁に入ると、洒落た店が並んでいる。向かいの蕎麦屋さんには、遠くから食べにきたような人びと、とくに年配の人びとが、次から次へと入って行くのが見えた。

Photo_20駅前からバスに乗って、海岸通を南に下る。いつも変わらぬ、見慣れた街が続く。冬の期間は、サーファーたちも寄り付かないので、街が引き締まって見える。日常生活が正常に営まれている。車も住人たちだけならば、渋滞することはない。Photo_21釣竿を一本持って、歩いていても、誰からも注目されることがないのが、この葉山の良いところだ。都会で資産をなして、引退後暮らしている人たちの多い、余裕の街だ。

「村山知義」という名前を聞いて、そのすべての作品を同一化することのできる人は少ない。つまり、彼の長生きした人生のなかで、「転向」とまでは言わないとしても、度々の路線変更を行ってきた人だ。

Photo_22カンディンスキーをはじめとするバウハウスの紹介者で芸術誌「マヴォ」の編集者という初期の、戦前の「村山知義」と、現代の週刊誌に長期に連載されていて映画化がされた『忍びの者』を書いた「村山知義」が同一人だったのは、言われるまでは意識したことがなかった。別人として、認識していた。それに、「マヴォ」誌での活躍や、演劇人の顔も、別だと見ていた。時代も違えば、作風もジャンルも違う。どうしてこんな多様な人格が存在することができたのか、不思議だ。

展覧会の題名が、それを表している。「すべての僕が沸騰する」と名付けられていて、時代その時代に「沸騰」すべき感情を育ててきた人なのだ。何人かの肖像画にそれが現れていて、細密画の如くに詳細な細部が具象的に描かれている。演劇にも見られたように、感性を具象化する手法に秀でていた人なのだ、と思った。なぜ早くに抽象画から離れてしまったのかがわかる。

また、そうみると、なぜ「忍びの者」に惹かれたのか、も理解できた。つまり、「忍びの者」は時代の中で、潜在的に存在する人びとである。彼らを描くことで、これまで言葉にできなかった真実が具象化されて表に現れることになるのだ。市川雷蔵が山から谷へ忍びの小走りする姿が、一瞬目の前を過って行った。

彼の初期の頃の絵を探っていたら、何とわたしとの間に不思議な縁のあることがわかってきた。わたしの曾おじいさんは、日本で電気製鋼を始めた人なのだが、その妹の配偶者の方がHさんという美学者であった。吉祥寺に住んでいたらしい。この方は、ロールスロイスなどのクラシックカーを戦前から集めていることでも有名であった。わたしの名前にある「素」という字は、デザイナーであったHさんの息子の方から、一字いただいたと聞いている。

じつは、Hさんは若いときにバウハウスへ美学研究に行っていて、たぶん村山知義とそこで知り合ったのではないかと思われるのだが、何枚か彼の絵画を持っていたらしい。後に、それらが近代美術館へ寄贈されている。

Photo_23いつもの小道がわたしたちを海に誘っている。冬の海岸は、人がいないことで、かえって存在感を新たにしている。自分さえ、この世にいなくなっているかのようだ。ぐるっと、海から太陽へ、太陽から岬へ、岬から灯台へ、灯台から海岸へ、海岸から丘へ、丘からまた岬へ、そして、海へ太陽へ。Photo_24誰もいないのだ。遠くに漂う舟が見えなかったならば、このまま自分も消えて行ってしまいそうだ。

Photo_25美術館の向かいにある山口蓬春記念館で、春の気分を予習する。遅咲きの梅の花が迎えてくれて、なだらかな丘の麓にある建物をぼんやりと背景としている姿を見せてくれた。玄関には、梅の木が枝垂れていて、たくさんの梅の花をつけていた。

Photo_26吉本隆明が亡くなったというニュースが流れた。高校生の頃から、周りにたくさんの読者がいた。そのような世代に属している。高校の友人から知らされて、初期詩集を読んだのがはじめだ。このように、みんながそれぞれの吉本像を持っていた。

大学生時代には、大学紛争の名残があった大学の連続講演会に、吉本が来て、学生との激しいやり取りを行ったことは、いまでも覚えている。それから、やはり印象深いのは、家族という問題に取り掛かるキッカケをつかんだのが、彼の初期の著作「マチウ書試論」だったということがある。

当時通っていた大学には、同じ講義を一度も行ったことがないと豪語していたN教授がいて、いつもダンディな洋服を着ていた。夜は、銀座に通っているという噂だった。ちょうどユダヤ文化論を取り上げて、家族や国家などの社会論を講義していた。そこで、レポートが宿題となっていた。参考文献が必須だったので、わたしはこの「マチウ書試論」を取り上げたのだった。レポートの内容は忘れてしまったけれども、有名な「絶対の関係性」という言葉が出て来て、これだと思ったことを覚えている。

Photo_27たまたま、妻が図書館から、生前最後の出版になるかもしれない著書「老いの幸福論」を借りてきていて、数日前に読んだところだった。この中で、物事を長続きさせるためには、危機に際して、時には短く考えたほうが良い、というような直観的だが、相変わらず鋭いことを言っていた。

数年前に、吉本が鎌倉の海で溺れて、一命が助かるという事件が起こった。それで、その時にこの世で観念を作り出す場所の一つがここにある、という思いを認識し、もしこの場所がなくなったら、世界が変わってしまうかもしれない、という思いがした。もちろん、このような場所は、吉本に限らないのだけれども、そのような場所を作っていくということが重要なのだと自覚した。それぞれの吉本が存在する、ということは、このようなことなのかもしれないと思った。

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  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。