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2012/01/03

現代において、多様性の神話はいかに作られるか

Photo_14多様性に対していかに処すかということに、現代というものの行く末がかかっているといっても、ほぼ間違いないだろう。練習問題として、料理はどうだろうか。毎日毎日、お粥暮らしを続けなければならない病院生活が、いずれは訪れることは予想される年齢に到達している。病人が退院後真っ先に行うことは、旨いものに飛びつくことである。

料理には「驚き」が必要だという、強烈な主張をぶつけている映画「エルブリ」が上映されている。エルブリは伝説的な三ツ星レストランで、スペインのバルセロナ近郊にある。一年のうち半年だけしか営業しないにもかかわらず、年間200万件の予約が入るというレストランなのだ。それをスタッフの視点を追うことで描いた、ほぼドキュメンタリー映画として撮った作品である。

完全なドキュメンタリー映画ではないというのは、料理そのものの映画ではなく、あくまでオーナーシェフのフェランを中心とする、スタッフの動きに焦点を絞った点にあるからだ。この人間関係には、幾分料理的な演技の要素が含まれている。この結果、料理創作における人間関係を観るのに最適の映画となっている。たぶん、わたしにとっては、他の人がみるよりも、人間関係のいろいろなことを考えるうえで、たいへん勉強になったと言える。

美味しいか不味いか、ということを考えるならば、ふつうの家庭料理にだって、味覚の「驚き」は必要だ。舌で感じる味に、美味しさという驚きがなければ、料理は成り立たないのだが、その驚きは必ずしも常になくとも良いのだ。それがときどきあれば良いのだ。ふつうは、あまり驚く必要のないのが、家庭料理だ。

ところが、エルブリでは、つねに人を驚かすことを狙っているとフェランはいう。絶えず、多様な工夫を必要としている。多様性を最大限に実現し、かつ、美味しいという必要も求められている。たくさんの種類の美味しいを揃える必要があるのだ。

エルブリはこの点で、料理の「驚き」の要素をすっかり拡大してしまったといえる。美味しいか不味いかという基軸以外にも、熱いか冷たいか、硬いか柔らかいか、などなど、いくらでも評価の基準を広げることは可能なのだ。つまりは、味覚ではなく、食感を考えるのが、料理だ。これは、明らかに料理の概念を多様化してしまっている。

あまり詳しいわけではないが、1970年代のヌーベル・キュイジーヌの実験にちょっと似ていると感じた。当時は、料理人の直感で、新しさを作り出したのだが、エルブリは明らかに組織的に、これを生み出そうとしている。これは想像だが、料理は料理人の主観の強さで維持されてきた伝統があるが、これを超えようとしたのではないだろうか。

つまり、料理は実践知の部類に属するものであって、師から弟子へ身体で伝わっていく性質があると言われてきた。したがって、料理が選ばれて、さらに良いものとしてこれを残すためには、たいへん時間がかかってしまうことになる。ところが、エルブリでは、この過程をわずか半年でやってしまおうということになっている。どのようにして、このような神技的なことが、可能なのだろうか。映画では、この点がうまく描かれている。

多様性を制御するには、ひとたび広げておいて、その後は幾つものフィルタリングをかけることだ。たとえば、エルブリの素材選びは徹底している。バルセロナの生鮮市場で買い求められてきた食材やら、日本から取り寄せられたものやら、あらゆるものが食材として、幅ひろく集められる。そこから、どのような方向性を出してくるのかが、研究所の実験室のような隠れ家的場所で、スタッフによって問われることになる。たとえば、一晩のメニューは35品まで作られ出されるが、その24番に載っている「消えるラビオリ」が最終的なメニューとなるまでには、日本のオブラートまで食材として試されることになるのだ。

ここで想像されるのは、この無数の食材をいかに制御するのかということである。レシピは作られるが、PCへの入力がここでは強制される。また、写真による記録は必須である。つまりは、余りに多くの食材が使われているために、多くの人びとが同じ感覚で制御するためには、それ相当の管理が必要となってくる。台所での創作段階では、包丁を片手に、もう片手にはPCが必需品となっていた。さらに、世界中から集められた料理人たちが、これを半年間かけて、洗練していくのだ。組織論の教科書に載るようなスペクタクルだ。

さて、問題は、これで新しい食感という神話を作ることができたのだろうか、ということである。映画の最後に、35番までのメニューすべてが登場する。たしかに、芸術品として、観るに美しいことは認めるとしても、果たして食べて美味しいのだろうかということである。残念ながら、ここまでだ。あとは映画の限界である。次から次へ新しい料理を作ったことは認めるが、それが定番として残っていくものなのかは、映像だけではわからない。ほんとうに、人類が数千年かかった料理の歴史を、この半年に凝縮できたのだろうか。

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  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。