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2012/01/20

ひっくり返された世界は、いずれは元に戻さなければならないが、戻し方が問題だ

Photo世の中で何が怖いのかというと、いつか誰かがトンデモナイような考えを行なってしまうことがあることだ。なぜそう考えなければならないのかわからない。とりわけ、比較などという方法があって、ヤメテクレと言いたくなる比較があるのだ。なぜ比較しなければならないのか、わからない。雨の中の白鳥と、晴天下のなめくじを比較するような。

そのような比較をここで行なってみたい。俎上に登らせてしまったのは、映画「ヒミズ」と映画「パーフェクト・センス」である。日本映画と英国映画、若々しい映画と落ち着いた映画、小さな地域の映画と世界中に広がるという映画、などなど、これらの映画には、似ていないところのほうが多いといえる。だから、そんな比較は行うこと自体おかしい、ということはまさに明らかである。どちらがそうだとは言わないが、野蛮と洗練というほどの違いの目立つ、両方の映画である。

ところが、冷静に観ていくと、1つだけ共通点があって、それがほんとうにグッと来るのだ。とわたしは思う。映画的という規準に合ってくる。これを問題にしないで、何が問題になるのか、というほどの問題なのだ。「ひっくり返し」という映画描法について、観ておきたい。

両方の映画で、見事なひっくり返しが行われている。「ヒミズ」では、親子が親子の感情を持たないというひっくり返しである。もしこの映画で、主人公と父親、母親との関係が通常の人間関係として描かれていたとしても、何の違和感もないものとして、鑑賞したことだろう。それにもかかわらず、ここで「親子の関係」が赤の他人よりも「悪い」関係として描かれている。それは、映画なのだから、ひっくり返してもひっくり返さなくても同値として描くことができるのだ。しかも、それによって、かえって親子とは何かを考えさせる「強調」が行われていることにもなると思う。逆を描けば、その逆も真なり、という論法は、かなり古典的表現方法だが、今回もかなり有効に働いている。

Photo_2「パーフェクト・センス」でも、ひっくり返しが問題となっている。こちらは、いわば生物学的なひっくり返しであって、人間の五感が人類全体で失われるとしたら、どうなるのか、という近未来的設定である。五感の中で、「臭覚」がまず最初に失われる。つぎに、味覚が失われる。この程度であれば、他の感覚が発達して、トカゲの尻尾を切っても、また別の感覚が現れてくるのだ。そのへんまでは、想像が付いていくし、ドラマの素材として申し分ない。現場がレストランであり、シェフが準主人公であるから、なおさら設定が生きてきて、「強調」が有効に効く。

ところが、聴覚、視覚と進んでくると、かなり設定が難しくなってきて、想像力の限界が見えてきてしまって、映画として、「映画的だ」、を通り越してしまって、映画的な映画的になってしまって、リアリティが欠けてきてしまうのは、仕方ないことだろう。

さて、ここで問題にしたいのはひっくり返しを行ったあと、いかに元の現実に戻すことができるのか、それも、人為的であるものをいかに自然に見せかけつつできるか、ということになってくるのだろう。われわれ鑑賞者を感動に導くには、外連味たっぷりのひっくり返しを見せたからには、その落とし前をきっちりと行わなければ、ひっくり返しの倫理性、正統性を疑われることになりかねないだろう。ひっくり返しは荒唐無稽であっても、映画的であるためには、現実へうまく引き戻さなければ、リアリティが欠けてしまう。

さて、ひっくり返しの「元戻し」に関しては、「ヒミズ」のほうに軍配を上げたい。(これ以降、ネタバレになってしまうので、まだご覧になっていない方は、読まないほうがよいと思う。)主人公が自殺をする場面が何回か出てくるが、最後のもうダメかもしれない、という時に、準主人公が元に戻してしまうのだ。それは、それまで蓄積されてきた恨みを小石に込めて、何回か主人公の理不尽に寛容を発揮するのだが、最後の最後にそれを解放し、池に投げ込むことによって、ひっくり返った世界が元に戻るのだ。この小石というレトリックは、うまく働いていて、きわめて映画的であるな、と感心した。

これに対して、「パーフェクト・センス」のほうは、英国式理性主義に支配されていて、それが最後にストーリーとして破綻してしまうのだ。いくつかの場面でそれが出てしまうのだが、1つだけ例を示せば、最後に主人公と準主人公が再会する場面がある。両者とも、聴覚が失われていて、音が聞こえない状態なので、呼び止めることができないのだ。遠くにいる者が、相手を認知するには、どのような方法があるだろうか。

まだ、視覚が残っているのだから、相手の持ち物がそこに認められれば、そこに居ることが確認できる。たとえば、自転車に乗って、主人公がビルに到着する。準主人公はこの時点ではいないが、主人公がビルに入っている間に、乗用車で到着する。このとき、自転車が残されていれば、彼がそこに居ることがわかるのだ。ところが、どういうわけか、主人公はすでに自転車を持って、ビルの中へ消えて行くのだ。なぜ自転車を持って、ビルの中へ行くのか、たいへん不自然な動きがここで目立ってしまうのだ。シナリオがそうなっていて、一時的に双方が会うことができないことをわざと演出するために、自転車が邪魔だったのだ。けれども、それはないな、と思う。

というわけで、わたしの今回の判定は、理性主義をとるか、感性主義をとるか、ということだったが、はからずも感性主義に軍配を挙げることになった。もちろん、趣味を聞かれれば、グラスゴーのあの暗い雨模様の「パーフェクト・センス」に憧れる。映像に圧倒的に惹きつけられ、こちらが好きなのだが、けれども構成から見れば、圧倒的に「ヒミズ」に票を入れてしまうという矛盾したことになった。これが、今回の比較であった。ちょっとコジツケだったでしょう。コジツケついでに、もう一本逆転して見せる映画を観た。「ロボジー」だ。ふつう、人間を助けるためにロボットを作るという、世界がある。ところが、この映画では、ロボットを助けるために人間が代替するのだ。これも、ひっくり返しの変わった世界を描いて面白い。

414さて、K大の試験を今日行なって、今学期も閉じようとしている。一年間世話になった414号室に感謝を込めて。

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  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。