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2011/12/12

二人関係の難しさ―ボーヴォワールの場合

Photo映画「サルトルとボーヴォワール」を観るために、渋谷のユーロスペースへ出る。25年ほど前、まだ駅の近くにこの施設があったころ、映画「アンナ・マクダレーナ・バッハ」を、妊娠していた妻と観に来て、不覚にも二人とも眠ってしまった記憶がある。

ところで、先週から今週にかけては、修士論文の締め切りが迫っていて、連日連夜メールの嵐が吹き荒れていた。卒業論文の波が第一波とすると、修士論文の波は、第二波で、さらに、通信添削の波が第三波ということになる。今の期間、カバンの中には、常に学生からの通信問題が入っていて、いつでもどこでも、添削の出来る体制にある。

この波をくぐり抜けながら、自分の仕事も当然ながら行わなければならない。昨日、例年より早目に、修士論文の終結宣言をゼミテンの方がたに送って、後は自分の責任で提出するようにとの、メールを送った。今年は、自分の仕事が谷間にあって、多少余裕があるので、ほぼ全員の方々とのおおよその作業を終わらせることができたのは、わたしにとって仕合せであり、またそれは学生の方々の精進の賜物だったと思われる。

修士論文の制作者たちの、今年度の意気込みはとりわけ凄かった。9月から草稿の検討が始まって、ほぼ3ヶ月間に渡って、お互いにかなりの分量のある論文のやり取りを通じて、通常のコミュニケーションとは明らかに異なる交流を行うことができた。毎年数名ずつはこのような状態になるとしても、これだけ多くの方々との間で、新しい知識を生み出した、という経験は、これまでもまたこれからも、わたしの老いていく体力と能力を考えると、そう滅多には起こらないことであることは間違いない。

Photo_3さて、このような集団関係ならまだ付き合いやすい。それが親密な二人関係に入ると、途端に難しい関係になってくるのだ。映画「サルトルとボーヴォワール(原題は、フロールの恋人)」の監督の弁によれば、「複雑で気難しい人びと」を描いたということらしい。二人関係とは、どのような関係か、というのが、この映画の主題である。二人関係の伝統型を解体した途端に、n個の二人関係モデルが成立し、それらは無限地獄に陥ることになる。家庭ではなく、むしろ喫茶店フロールを中心にして、自由恋愛を展開させた二人関係にはどのような意味があったのだろうか。

それは比較すべくもなく、まったくのところ、当事者にしか理解出来ないことではあるが、最もオープンにした二人関係というものが存在しうるのだろうかということだと思われる。サルトルとボーヴォワールとの関係は、日常的な自由恋愛と、気難しい哲学、という二つのコミュニケーションチャンネルの両方において、関係を持続させることが、いかに難しいことなのかを描いている。哲学者の結婚だからではなく、自由だからであり、それはこの映画を通じて伝わってくる重要なポイントとなっている。「時代に挑むようなカップル像」という言葉では到底表現されないものがある。実験的であったとは言え、いかに難しい社会関係であったのか、ということがわかる映画だった。

本当のところ、観念の動きを映画に定着させようとすると、かなりの困難さがある。けれども、映画は日常を描くことには、秀でていて、書物よりも複雑な動きを表現できるのが映画の取り柄だと思う。この点では、この映画が哲学関係の方はとりあえず諦めたことが、成功に導いた要因であると言えるかもしれない。これは皮肉ではなく、映画の真実なのだ。哲学映画と言うよりは、二人関係に焦点を絞ったことで成功した映画であると思われる。

自由恋愛を成功させるには、家族という枠組みを破らねばならないが、それでも二人関係を持続させるには、かなりの知性と理性の力が必要になる。実存主義という考え方にそれだけの力があったのか、今とあってはかなり疑問だ。これについては「必然的な愛」という表現を使っていたが、二人が理念的にかなり似ていて、倫理的に自由意志をもっていて、個人から直ちに、社会参加出来るような自立した精神があったから、この関係が続いたのだと考えられる。個人的な意志の、強度の「費用負担」に耐えられる丈夫な「理性」を持っていたといえよう。けれども、普通の人ならば、たとえばわたしなどはすぐに降参してしまうだろう。何に降参するのかは、あえて伏せておきたいが。映画の中で、当時、批判の対象となった「小市民」という、懐かしい言葉も登場させていて、ボーヴォワールの親子関係が描かれていた。「いかめしさを伴った美しさ」というボーヴォワールの特徴をよく掴んでいた。

ここまで観てくると、やはり、サルトルとボーヴォワールの例はかなり特殊であって、すべての人にとっての普遍的なモデルとしては適当できないように思われる。n個の家族関係の最左翼に分類されることは、間違いないとしても、それ以上の位置づけを得ることは、難しいだろう。各国の成績優秀者の一、二位をすべて結婚させたとしても、人類全体の歴史の中では、ようやく数例が存在するくらいしか成功しないだろう。

サルトルとボーヴォワールの示す二人関係の難しさは、普通の人が無意識に済ますところを意識的に行おうとしたところであり、習慣的に行おうとしたとしたことを、理性的に行おうとしたところにある。それは「参加」という意味の半分でしかないことを明らかにしてしまったのだ。

Photo_4これは、極めてレアな二人関係ではないかと思われる。普通の人には、家族とはいかないまでも、擬似家族的な共同体は少なくとも必要になるのではないか。それは映画の中でも成立していたとおりだ。個人が社会との関係をどのように結んで行くのか、その時に何を媒介とする必要があるのかなどを、実験的に試した例として、この二人の関係は、人類学上の重要なコレクションとして欠かすことができない例を形成したといえよう。

Photo_5ちょうど映画を見終わったのが、ランチ時に当たっていたので、東急百貨店を迂回して、程ないところにある喫茶店「M」で、大豆豆がいっぱい入ったカレーを食べる。浅煎りコーヒーもたっぷりとしていて、落ち着いた。来年からは、ほぼ週一回は渋谷に出る仕事ができたので、休憩に使える場所を確保する必要がある。Photo_6ここは第一候補である。真ん中の大テーブルでどっかと構えて、二時間ほど、サルトルとボーヴォワールの関係と比べて、自分にとっての二人関係はどうだったのか、想いに耽った次第である。Yさん、どのような関係だったのでしょうね。

Photo_8渋谷から東横線、みなとみらい線へ出て、馬車道を歩いた。夕暮れ時のランプは年の瀬の間近なことを告げていた。悲しいことに、馬車道にあったゆったりした席のある喫茶店は、閉店していて、ビルも壊されていた。また、居場所がひとつ無くなってしまった。

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  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。