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2011/12/25

年末になって、眩暈のするバス・ドライブを楽しんだ

Photo車の運転を行わないということは、通常は快適であって、申し分ないのだが、余暇の過ごし方の一種に、眩暈という遊びの要素があって、ときどきこの要素をどのように摂取し昇華させるべきかと悩むことがある。だいたい、このような趣味は、幼児期に脱するのかもしれないが、長引くと、大人になっても時として呼び起こしてしまうものなのだ。

眩暈の代表格としての「大人のおもちゃ」が、車だと思っている。幼児期の思い出としては、鮮烈なものがある。田舎のうちに、ジープが来た時に、家にいたコーちゃんという兄さんに乗せてもらって、オープンカーの幌がヒュウヒュウなって、直に風を受ける醍醐味をはじめて知った。信州の松本から塩尻への一直線だった道を駆け抜け、ブドウ園へ行った。この眩暈の快楽は、今考えても比類のないものであった。

Photo_2このような素晴らしいと感じる体験がありながら、それなのに家族の誰も運転免許を取らない伝統があり、わたし自身も東京に出てからは、すっかり車とは無縁となってしまった。自分では、都市に住んだことが車に乗らない表の理由と思っているが、ちょっと引いて考えてみると、眩暈系のあそびについては、苦手意識があるのではないかとも思われる。

Photo_3木曽に住んでいた時に、幼稚園のブランコから落ちたという記憶があって、今でもブランコに乗ると、身体の意識がヒュっと縮むことがある。車とブランコが同じだとは、思わないし、ブランコに落ちた人が、すべて自動車の運転をできないとは限らないから、あまり信憑性はないかもしれないが、自分ではこれじゃないかなと思っている。

娘を見ていると、ブランコへの苦手意識はなさそうだし、遊園地へ連れて行っても、ジェットコースターをはじめとして、遠心力を利用した回るブランコも好きなことを見ているから、眩暈意識は遺伝的ではなく、わたしに個人的に起こっていることらしい。

Photo_4じつは、今日久しぶりに「ドライブ」を楽しんだ。妻がバス旅行を見つけてきた。以前は乗り物酔いが激しくて、これまで自動車にはほとんど乗ったことがないのだが、この年齢に達して、体質が変わったのだということだ。それもよほど気に入ったらしく、一番に申し込みを果たし、バスの一番前の席を確保した。パノラマビューとも言うべき動く景色を楽しんだ。

この効用はすごくて、富士山がつねに大画面で臨むことが出来たのだ。眩暈の典型は、フランスの社会学者カイヨワによれば、ブランコやジェットコースターだと言われている。大自然の中をジェットコースターで走り回っているような、感覚になった。現代人であれば、ドライブは習慣的な行動なので、眩暈などとは感じないだろうが、そもそも運転を行わない習慣の身に付いた、わたしにとっては十分な刺激だった。

8時間ほどの長時間のドライブとなった。数少ない経験の記憶によれば、これまでの長距離のドライブでは、講義取材で行った英国では、エディンバラからロンドンまで2日かけて一気にくだった経験があるし、さらに米国を取材して、ニューハンプシャ州の紅葉の中を一日走ったことがあったが、これに継ぐ距離だと思われる。

日本国内では、あまりドライブを楽しんだという思い出はないが、かなり古い記憶では、高校時代に一人の友人MがフェアレディZのオープンカーを買ってもらって、もう一人の友人Kの別荘が伊豆半島の先端にあり、さらにもう一人の友人M宅が西伊豆にあったので、ぐるりと半島を回った思い出が長距離ドライブのほぼ唯一のものだ。思い出しても冷や汗ものだったのは、夜中に半島の尾根から、海岸へ一気に下ったことがあり、この感覚は忘れない。ほんとうに少ない体験しかない。それ以外にはドライブの記憶はないから、わたしは圧倒的に車生活からは遠のいて過ごしてきたことになる。

ドライブの魅力は、眩暈願望にあるのではないか。とくに、下り坂で加速されて行く感覚は、ブランコの後ろから前へせり出して行く感覚に似ていて、わたしだけの特別な感覚かもしれないが、特別な身体感覚を感じるのだ。

Photo_7今日のバス旅行の休憩は、近江八幡のクラブHで取った。クリスマスの日に当たっていたので、ケーキ付きの紅茶で一時間ほどゆったりした。ここから宿までは、ゆっくり一時間ほどで着いた。

眩暈の話はまだ終わらない。夜、食事に出たまではよかったのだが、足元が暗く側溝にはまってしまい、転んでしまった。老人性の転倒である。身体全体が倒れてもどうということはないが、顔を打ち付けてしまった。ワインの瓶が割れなかったので、衝撃はすくなかったことがわかった。

Photo_6眩暈がして、倒れた感覚を想ってみた。痛い記憶はあるが、どのようにして倒れたのかの記憶がなくなる。これが、眩暈の特性であり、良い面でもあり悪い面でもあるのではないか。眩暈を楽しんで、倒れつつあることが記憶に残れば、もっと眩暈を、ということになるかもしれないが、どうもその感覚がすぐ記憶から無くなってしまうのであれば、やはり、眩暈は特別の時だけに取っておきたい体験でしかない。老人となった今は、今日のドライブで堪能したのだから、この次については、すこし先延ばししたい。

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  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。