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2011年12月に作成された投稿

2011/12/31

健康診断の結果が、大晦日の食事を支配した

Photo先日おこなった健康診断の結果が出てきた。一年の総決算としては、きわめて妥当な話題ではないだろうか。赤血球が少ないそうだ。足りないとどうなるのか、ということはまだ調べてないが、少なくてもそれは血液の中心となるもの、つまり身体の熱源であることはわかる。最近どうも意気が上がらないという、生理的な理由がわかった気がした。簡単にいえば、生物学的に、元気がないということだ。一時的に、食事が草食になっているのだと思われる。

じつは、毎年恒例となっている、大晦日の仕事が今年も行わなければならなくなって、幕張の研究室へ出る。いつも不思議に思うのだが、大晦日にもかかわらず、かならず誰か先生がいらっしゃっていて、ざわざわと話し声が通り過ぎていく。いったい誰が仕事しているのだろうか。午前からはじめて、午後になって、ようやく仕事を納めて、1月4日締め切りで送らなければならない仕事を箱に閉じ込め、封をした。完了だ。

Photo_2締め切りに間に合ったことを喜び、それに大晦日だからというので、祝杯だといきたいところだが、赤血球のことが頭を過ぎり、これを増やすべく、そして元気をつけるために、ひとまず昼ごはんに繰り出す。ところが、大晦日である。いつも行くH中華料理店がお休みだった。そこで、並びにあるステーキK屋さんへ入る。血も滴るようなパウンド肉に食らいつきたかったのだが、ところがやはり、近年の調子を反映して、食欲のほうは150グラムを頼むのがやっとであった。

この店はいつも人気がある。ふつうは、近くのサラリーマンが店を占めているのだが、今日は家族連れが多い。放送大学の先生方や職員の方々にも、若い世代を中心に支持されている。なぜサラリーマンばかりか、家族連れにも、あまねく人気があるのかといえば、それは常々思っていたのだが、今日改めて観察してみると、やはりバラエティに富んでいるからではないかと思う。

Photo_4ランチの基本メニューは、スープとサラダ、メインがステーキ肉で、デザートに果物やヨーグルト、さらに飲み物が付く。これだけならば、ふつうのランチの店と同じだが、それぞれ付加的なものが付いている。おまけ付きということに弱いのは、若さの象徴かもしれないし、人間の弱みなのだと言ってもいいかもしれない。たとえば、スープにはステーキ屋さんだけあって、肉の塊がたっぷりだし、サラダは食べ放題でごはんもほぼ食べ放題だ。

そして、何よりもこの齢になって、肉の多さにもめげず、この多様性にあこがれているのは、もちろん半分は疑いつつも、ちょっと慎み深くいうならば、わたし自身が精神的に若いのではないかとも思う。多様性を象徴していると思われるものに、ここのおまけの中に、みんなのお目当てのものがあるのだ。それは、このダイエットの時代に、それに大幅に反している食べ物であって、おそらく女性たちが、そしてこのわたしがこの店に来る理由の多くを占めているものがあるのだ。

Photo_3大袈裟な言い方になってしまったが、この写真の生クリームのワッフルを見ていただければわかると思う。じつはこの写真のワッフルは、二台あるワッフル焼き器のもう一台を使っていた高校生のものだ。見栄えが良いのでお借りした。すこし恥ずかしい言い方になってしまったが、美味しいもちもちワッフルを焼いていると、みんながワッフル好きに見えてきてしまうのだ。

さて、ステーキ摂取までは、赤血球を増やしたことは間違いないが、どうもこのワッフルで相殺されたのではないだろうかとも思うが、いまさら手遅れだ。世の中は、良いこともあれば悪いこともあるということで、今年も暮れていったのだ。

2011/12/28

城や庭園の造りに、人間関係の複雑さを観た。

Photo_8   「花の生涯」がNHKの大河ドラマとして放送されていたのが、1963年だった。東京オリンピックの前年で、わたしは練馬区の大泉にあった中学校へ通っていた。だから、到底、テレビドラマなどは見ている暇はなく、遊びに一生懸命であったから、いくら視聴率が良かったとしても、ほとんど記憶に止めているはずがないと思っていた。けれども、実はところどころではあるが、これが覚えているのである。

後のちの再々放送でも見ていると思われるので、それが残っているのかもしれないが、特に「桜田門の変」での雪の降っている場面は、印象深い。当時は幕末期の思想変化についての知識に疎くて、なぜ尊皇攘夷が幕府側を襲うのか、わからないというお粗末な歴史認識だったから、名場面だったと思っても、それはドラマとして見ていたのだと思われる。と前振りをしたのは、じつは今日は彦根に来て居て、「花の生涯」の碑の前に立ったのだ。そして、なんと、昨日からの雪が80センチも積もっている。

Photo_12 この雪の中を歩いていて、堀の向こうに、井伊直弼が青春時代を過ごした「埋れ木舎」を臨みながら、馬屋の構えを見て、さらに細い坂を登って行くのだが、天守閣は下からは望めず、なかなか複雑な造りを見せていて、さらに実践的な構えがあり、このような建物のもとで暮らしたら、やはり建物を行き来する人間関係の複雑さを理解せざるを得ない状況に陥るだろうな、と思った。

Photo_11 この彦根的な複雑さの真骨頂は、彦根城の庭園である。二つあって、じつは工事中のほうに、特徴が現れているのではないかと思っているのだが、「玄宮園」ともうひとつが、「楽々園」ということで、その後者は「智者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ」《論語》から取られており、智者が水の流れる如くに、物事を円滑に処理するようすと、仁者が、不動の山にたとえて、欲に動かされずに天命に安んずるようすを言っているとのことだ。

このような教訓の染み込んだ建物や庭園を持っているというのは、この地域特有の伝統であると思われる。「楽々」ということが、このようなエリートの教訓であるような井伊家というのは、厳しいなと思う。幕末の大老井伊直弼が傍系でありながら、選ばれて出てきた理由がわかった気がする。天才は何事もらくらくと、こなさなければならないのだ。楽の意味もたいへんという意味に転換するということだ。仕事は楽しくなければならない、という思想の一つの系譜の通っているのを観た。

Photo_13 この複雑さが視覚的にわかるのが、前者の「玄宮園」だと思われる。近づくと見えなくなり、遠のくと見えてくることという複雑性の考え方があるが、それがこの庭園の造りの真髄となっている。天守閣は、石垣に守られていて、近づくと姿を消すが、遠のくと、背景に見えてくる。天守閣と石垣を借景として、手前に中国の玄宗皇帝に習った庭を配している。壮大な眺めを収めた大きな庭だ。

ちょうど雪が降って、白の連続で背景をつなげていたので、さらに全体の世界を大きく見せている。ピラミッド的なパノラマを効果的に表している。この庭は、八景で構成されていて、世界の複雑さを凝縮させている。一瞬、全世界を鳥瞰したかのような錯覚に陥るが、それはすぐに打ち消され、池たる水と、城たる山と、そして今日は、真っ白な雪があって、きわめてシンプルな世界がそこに現れたのだった。

ここでその壮大さに十分驚いてしまい、また急に足も痛くなってきたので、本山である天守閣はパスしてしまった。これまでも、人生で何回もこのようなパスを繰り返してきたような気がするが、ようやくパスを気にしなくても良い年齢に差し掛かった。最後に、このような時にはせめて、すべての行程を全うしたかったのだが、遠くにあって想像することができるようになったのが、年を取るということである、と思い切りが良くなったこともあって、彦根城の見学は終了とした。

Photo_14 城の入り口付近に、Mという喫茶店があって、中に入ると、真ん中に薪ストーブがあって、暖かさそのものという空間があった。薪を集めるのはたいへんじゃないですか、と尋ねると、神社が回りにあって、何かと廃材が出るのだそうだ。印象に残ったのは、はじめテーブルに向かって腰掛けていた客たちが、少しずつ薪ストーブのほうへ向きを変え、さらに組んだ足を差し出し始めたことであった。

Photo_15 暖かさとは、ひとつには、燃えているものがあること。ふたつには、建物の周りが寒く冷たいこと。みっつには、ふわっと違う次元を広く包み込んでいることである。余裕ある建物に、ほかの何者かを同時存在させていて、たとえば、ここの半分は託児所的な空間になっていて、けれども長居できそうな空間を保っている。雪の中で、ゆったりした空間をらくらくと楽しんだ。

2011/12/27

金ピカ文化のシンプルさを観て、なぜ金閣寺が成り立ったのかを想ってきた。

Photo 「金ピカ」ということについては、きわめて質素な家庭にわたしが育ったために、どちらかといえば、否定的な文化として忌避すべきものだ、と認識してきた。それは、金とはいえ、主として「貨幣」、あるいは「儲け」というものに対する、抑制された感情、あるいはむしろ反作用であったのかもしれない。ところが、一方でご先祖様の商家の伝統もわたしの家には存在していて、お正月には「繰り回しよく、かきとる」と言いつつ、甘栗と干し柿を食べる習慣があったりする。

それが、経済学を学ぶようになってくると、貨幣的なものや、金的なものについても理解せざるを得なくなり、かえって、不幸な身の上話を聞いてやるような、愛おしい感情が芽生えてきている。だから、「金ピカ」についても、大人になってからは、見直す機会が増えている。

Photo_2 今回、何十年か振りに、金閣寺(鹿苑寺)を拝観した。門をくぐって、目の前の池に映る金閣寺は、以前であれば、その煌びやかさは、権力者の見せびらかしで、黄金の持つハロー効果を最大限利用したものだろう、と思ってしまったところだろう。しかし、よくみると、金閣寺は色の使い方がシンプルで、一階部分は、むしろ枯れた雰囲気を持っている。

義満の時代にどうであったのかわからないところはあるが、江戸期の後水尾天皇ころに、京都で一つの動きがあり、このシンプルさが文化の基底に据えられた時代があった。この影響は驚くべきで、京都のあらゆるところに見られるようになったのではないか、と想像できる。

Photo_3 なぜ金閣寺が江戸のシンプル文化の一つなのか、ということについては、あまり確証はなかったのだが、じつは今回のテーマである「金ピカ」に引きつけていえば、金閣寺の金ピカは単色で、極めてシンプル文化の要素を濃厚に受けていていると思われるところがあるのだ。この金ピカに緑や赤が入ってきたのであれば、それは、別の宮廷文化の系統になってしまうのであるが。たとえば、隋や唐の文化の影響のある平安期までの宮廷文化であれば、赤や黄色や緑の真の意味の金ぴか文化であった。

ところが、禅宗や茶の湯が日本に伝わり、さらに江戸期の民衆文化が宮廷文化へ影響を及ぼすようになると、時代全体が変化するような動きが現れたらしい。そしてそこで、鹿苑寺などにサロンが設けられるようになったということを知って、なるほどを思ったしだいである。このことは、寛永文化論の熊倉功夫氏の幾多の書物に詳しい。

そこで、何が言いたいのかといえば、たとえ「金ピカ」であろうとも、二重三重の複雑な表現があって、「金ピカ」とみれば、画一的な黄金神話で物事を解釈することは、誤ってしまう場合があるのではないかということである。はじめは、黄金神話で作られたものであっても、時代が変わり、人が変わりすることで、金ピカ文化もいわば地味な文化として立ち現れることがあるのだ。江戸時代の寛永文化には、このような変化が濃厚に表れてきたということだと思われる。

さて、そのように解釈し直したとしても、それじゃ黄金の輝きにこのように人びとが惹きつけられるのはなぜか、を説明していることにはならないと、反論されそうである。つまり、黄金神話は神話を崩しながら、何度も黄金神話を作り変えてきた、ということではないか。その時に、揺り戻されるモデルとして、金閣寺モデルは特別な位置を占めていると思われる。「金ピカ」の中のシンプルさなのか、それとも、シンプル文化の中の「金ピカ」なのか、その表象として、今日は金閣寺をじっくりと観てきた。

雪が降ってきて、合間には陽が射してきた。その変化の中で、金の輝きは、陽の光で変幻自在に変わるのだ。光が当らないところは真っ黒だし、光がまともに当れば、真っ白なのだ。このコントラストの違いに気づけば、金一色だけで、無限のグラレーションを実現できることを知った。

残念ながら、大書院や方丈などは、今回公開されていなかったが、あの後の時代の若冲作品や、当時の後水尾天皇の足跡が、この鹿苑寺に記録されているところを鑑賞することはできなかったのだが、サロンの中で彼らの間に、どのような会話がなされていたのか、さらに後の時代にその伝統がいかに影響を与えて、若冲がここに絵を残すことになったのかをちょっと想像したくなってしまったのだ。来年早々に、同志社大学でゼミナールを開くことになっている。隣の相国寺に、じつはこれらの作品があるらしい。それに当然、修学院離宮や桂離宮との関係は興味深いところだ。

Photo_4 京都の観光客も年末になって、家に戻ったのではないかと思われた。それで、四条河原町あたりの喫茶店ですこし休もうと思って出たのだが、なんとお休みだった。さらに、もう一軒へ行くと、今度は地元の仕事納めを終えた旦那さんや和服のカップルたちで満員であり、よそ者の入る余地はなかった。そこで初めていく店で、Tという老舗の喫茶店の二階に陣取ることにした。ここもかなり古い調度品で飾られており、タバコを気にしなければ、申し分ない場所だった。Photo_5 観光で訪れた喫茶店マニア(わたしもそのひとりということになるが)たちが、ほぼ全員が写真を撮っていったのはさすがだなと思った。最初の部屋にわたしは陣取っていたので、津々浦々から集まって来たカメラに、わたしの姿も何枚となく収まったのである。宮廷文化から抜け出てきたとたんに、世の中、民衆文化だらけの年末模様となった。

2011/12/26

家族崩壊と、「習慣の転換」との関係はあるか

9fccbf834036d651b38edb5699398fda1昨日、宿で映画監督の森田芳光氏が亡くなったのを知った。同世代だったので、多くの作品を観ている。最近の小雪主演の映画「わたし出すわ」なども楽しく観た。「A列車で行こう」も期待していた。

けれども、みんなの一致するところ、代表作は「家族ゲーム」であるということになるらしい。1980年代という時代を映している。「家族崩壊」神話という物語の方法があって、社会科学では、都市化や、工業化などがその典型な説明要因となる。それに対して、家族内部の要因として、家族崩壊を語るようになってきたという系譜が存在すると思われる。

習慣の変化ということも社会的変化としていうのではなく、個人間の意識の問題として語られるようになったのだと思っている。このなかで、家族とは、「習慣だ」、という映画「家族ゲーム」の考え方は、時代に対する強いメッセージだったと思う。

今は亡き伊丹十三の夫婦家族に、これも今は亡き松田優作の他者が入り込んでくることで、家族の変調が明らかになってくるのだ。映画のなかで、このようなシーンがあった。伊丹十三演じる夫には、目玉焼きを毎日食べる習慣があった。その食べ方は、黄身をジュっと吸うように食べるのだが、ある日ジュっと吸っても、黄身が出てこない。堅焼きで目玉焼きが出されたのだ。妻が言うには、ずっと堅焼きだったでしょっという場面は、とりわけ印象的であった。20年近く前に観たので、記憶が間違っているかもしれないが、大筋はそのとおりだったと思われる。

二人関係において、双方で趣味をすべて把握することは難しいとしても、大雑把にだいたいどのようなものかがわかっているのが、二人関係の親密さ加減でその習慣がわかるのだと思われる。もしここの部分が何らかの原因で失われると、失語症のように、相互コミュニケーションが失われることになるだろう。このところをうまく描いた映画だったと思う。

2011/12/25

年末になって、眩暈のするバス・ドライブを楽しんだ

Photo車の運転を行わないということは、通常は快適であって、申し分ないのだが、余暇の過ごし方の一種に、眩暈という遊びの要素があって、ときどきこの要素をどのように摂取し昇華させるべきかと悩むことがある。だいたい、このような趣味は、幼児期に脱するのかもしれないが、長引くと、大人になっても時として呼び起こしてしまうものなのだ。

眩暈の代表格としての「大人のおもちゃ」が、車だと思っている。幼児期の思い出としては、鮮烈なものがある。田舎のうちに、ジープが来た時に、家にいたコーちゃんという兄さんに乗せてもらって、オープンカーの幌がヒュウヒュウなって、直に風を受ける醍醐味をはじめて知った。信州の松本から塩尻への一直線だった道を駆け抜け、ブドウ園へ行った。この眩暈の快楽は、今考えても比類のないものであった。

Photo_2このような素晴らしいと感じる体験がありながら、それなのに家族の誰も運転免許を取らない伝統があり、わたし自身も東京に出てからは、すっかり車とは無縁となってしまった。自分では、都市に住んだことが車に乗らない表の理由と思っているが、ちょっと引いて考えてみると、眩暈系のあそびについては、苦手意識があるのではないかとも思われる。

Photo_3木曽に住んでいた時に、幼稚園のブランコから落ちたという記憶があって、今でもブランコに乗ると、身体の意識がヒュっと縮むことがある。車とブランコが同じだとは、思わないし、ブランコに落ちた人が、すべて自動車の運転をできないとは限らないから、あまり信憑性はないかもしれないが、自分ではこれじゃないかなと思っている。

娘を見ていると、ブランコへの苦手意識はなさそうだし、遊園地へ連れて行っても、ジェットコースターをはじめとして、遠心力を利用した回るブランコも好きなことを見ているから、眩暈意識は遺伝的ではなく、わたしに個人的に起こっていることらしい。

Photo_4じつは、今日久しぶりに「ドライブ」を楽しんだ。妻がバス旅行を見つけてきた。以前は乗り物酔いが激しくて、これまで自動車にはほとんど乗ったことがないのだが、この年齢に達して、体質が変わったのだということだ。それもよほど気に入ったらしく、一番に申し込みを果たし、バスの一番前の席を確保した。パノラマビューとも言うべき動く景色を楽しんだ。

この効用はすごくて、富士山がつねに大画面で臨むことが出来たのだ。眩暈の典型は、フランスの社会学者カイヨワによれば、ブランコやジェットコースターだと言われている。大自然の中をジェットコースターで走り回っているような、感覚になった。現代人であれば、ドライブは習慣的な行動なので、眩暈などとは感じないだろうが、そもそも運転を行わない習慣の身に付いた、わたしにとっては十分な刺激だった。

8時間ほどの長時間のドライブとなった。数少ない経験の記憶によれば、これまでの長距離のドライブでは、講義取材で行った英国では、エディンバラからロンドンまで2日かけて一気にくだった経験があるし、さらに米国を取材して、ニューハンプシャ州の紅葉の中を一日走ったことがあったが、これに継ぐ距離だと思われる。

日本国内では、あまりドライブを楽しんだという思い出はないが、かなり古い記憶では、高校時代に一人の友人MがフェアレディZのオープンカーを買ってもらって、もう一人の友人Kの別荘が伊豆半島の先端にあり、さらにもう一人の友人M宅が西伊豆にあったので、ぐるりと半島を回った思い出が長距離ドライブのほぼ唯一のものだ。思い出しても冷や汗ものだったのは、夜中に半島の尾根から、海岸へ一気に下ったことがあり、この感覚は忘れない。ほんとうに少ない体験しかない。それ以外にはドライブの記憶はないから、わたしは圧倒的に車生活からは遠のいて過ごしてきたことになる。

ドライブの魅力は、眩暈願望にあるのではないか。とくに、下り坂で加速されて行く感覚は、ブランコの後ろから前へせり出して行く感覚に似ていて、わたしだけの特別な感覚かもしれないが、特別な身体感覚を感じるのだ。

Photo_7今日のバス旅行の休憩は、近江八幡のクラブHで取った。クリスマスの日に当たっていたので、ケーキ付きの紅茶で一時間ほどゆったりした。ここから宿までは、ゆっくり一時間ほどで着いた。

眩暈の話はまだ終わらない。夜、食事に出たまではよかったのだが、足元が暗く側溝にはまってしまい、転んでしまった。老人性の転倒である。身体全体が倒れてもどうということはないが、顔を打ち付けてしまった。ワインの瓶が割れなかったので、衝撃はすくなかったことがわかった。

Photo_6眩暈がして、倒れた感覚を想ってみた。痛い記憶はあるが、どのようにして倒れたのかの記憶がなくなる。これが、眩暈の特性であり、良い面でもあり悪い面でもあるのではないか。眩暈を楽しんで、倒れつつあることが記憶に残れば、もっと眩暈を、ということになるかもしれないが、どうもその感覚がすぐ記憶から無くなってしまうのであれば、やはり、眩暈は特別の時だけに取っておきたい体験でしかない。老人となった今は、今日のドライブで堪能したのだから、この次については、すこし先延ばししたい。

2011/12/21

会話をする以上のことを伝えるためには

Photo_35今日は、長崎学習センターで卒業研究の審査と、来年度の卒業研究についての面接を行うことになっている。忙中閑ありで、朝すこし早起きして、昨日の散歩の続きを行うことにする。前回、唐人屋敷のあった館内町を回っていた時に、孫文が長崎をたびたび訪れていて、なぜだろうかと思っていた。ちょうど今回長崎歴史文化博物館で、孫文展が催されていることがわかり、先日映画「辛亥革命」を見ていたこともあって、散歩の終着点は、歴史文化博物館と決めた。

数年来の坂本龍馬ブームのお陰で、街のいたるところに、幕末期の記念碑が立っている。思案橋の宿を出て、カステラで有名な福砂屋の前を左に曲がると、昔の花街である丸山町に出る。今は公園になっているところが、花街の中核だったところで、境界を示す石垣の跡をあちこちで見ることができる。Photo_36昨日の続きである。こちらも1640年代に、散らばっていた花街が、ここに集められたとのことだった。二重門になっていて、江戸の吉原、京都の島原、と並んで、江戸時代の三大花街だったらしい。最盛期には、1400人の遊女が集められていた。

Photo_37いまは、建物として料亭「花月」が残っていて、当時の様子を想像して見ることが出来る。公園には、案内板に当時を描いた浮世絵が張り付いていた。横浜の花街は幕末期には有名であるが、国際色豊かだったと聞く。長崎もまた国際的な交流が盛んであったらしい。Photo_42山を登ったところには、長崎ぶらぶら節の主人公となった「愛八」などのゆかりの茶屋などがあって、人びとの関係が渦巻いた地域であったことを想像させる。

Photo_43さらに、登ったところには、高島砲術を確立した高島秋帆の別邸があって、こちらは原爆で焼けてしまって、住居跡だけが残されている。床の一部だったタイルが土から顔をのぞかせている程度だ。シーボルトの塾が典型だが、当時は日本全国から、新しい知識を求めて人びとが集まってきていたのだ。Photo_45長崎全体が、日本の新しい大学として機能していて、医術、砲術、貿易術をはじめとして、実学と同時に、知識の街が誕生していたといえよう。それにしても、桂小五郎が立ち寄った料亭、小松帯刀が立ち寄った屋敷など、これだけ狭いところにこれだけ多くの人々が集まり、コミュニケーションを交わしていたということには、驚くばかりだ。この街の包容力に感心してしまう。

今回の孫文展の趣旨は、ポスターにあるように、日活映画を創業した梅屋庄吉との長い交流を描いたものだ。会場には、辛亥革命当時、庄吉が撮影隊を繰り出して、中国本土の様子を長期に渡って写した、ドキュメンタリー映画も流されていた。孫文がいかに演説のうまい政治家であり、スポンサーを大事にしたのかを如実に示していた。

もし梅屋庄吉が長崎人の典型であるならば、やはり江戸期から培われた国際的な感覚を身につけていたから、このような活躍を見せ、いたるところで、社交性を発揮することができたのだと思えてきた。

Photo_46公会堂前に出て、老舗のカステラ屋さんで買い物。レジのかたに、近くのランチの店を聞くと、すぐそばにTというランチ専門の喫茶店のあることを教えてくださった。店は昼時に掛かって、すぐに近くで働く人々でいっぱいになった。「来てますよ」とか、「まだ見えてません」という声が飛び交い、常連の多い店であることがわかる。手元が料理から離れないにもかかわらず、ニコっと、客に笑顔を返すところが、働く人には余裕をもたらすのだとわかった。このような地域固有の社交性は、わたしのような外から来たものにとても、親密感を抱かせるもので好ましいと感じた。

市電に乗って、長崎大学につく頃には、街に若い人びとがいっぱいになってきて、大学の近いことを知る。長崎学習センターは、図書館の隣にあって、長崎大学の中核にある。良い環境だと思った。

センターの所長先生や、職員方のサポートもあって、審査も卒研も順調に進んだ。来年度もここから、小さくてもよいので、また一つの知識が生まれ出でることを期待している。実際に会って話す、という極めて基本的なことに違いないのではあるが、そこでは話す以上のことが伝わっているのだ。このことを自覚できるのは、常日頃、テレビやラジオで伝達を行っていて、そのオンとオフとの感覚がわたしたちの間にあるからだと思いたい。

2011/12/20

思案橋辺りで、昔の長崎の街を想像する

Photo_33昨日母を送った後、大学で仕事を片付けていたら、結構遅くなってしまった。エレベーターでM先生とばったり会って、師走における「三段階ギアチェンジ」を行わなければならない、共通の「走り具合」を確かめ合った次第である。例年どおり、もの悲しい暮れになりました、と言い合うだけでも慰められた気分になるものだ。横浜に着いたのは、深夜になっていた。このところ、鉄道事故に遭遇することが多いが、昨日も東京駅で少し足止めをくってしまった。

Photo_9今日になって、朝6時の電車に飛び乗って羽田空港へ、空路長崎へ向かう。旅は順調で、昼には長崎の中心部を歩いていた。左の写真は、街の中心にある眼鏡橋だが、なぜメガネ橋と言うのかわからなかったのだが、このように観てみると、なるほどメガネに見えてくる。

Photo_6ランチは、前回来た時に、美味しかった庶民的な店Yへ入る。今では珍しい下足番が居て、昼間から遊郭に上がるみたいだな。前回は二階のお座敷へ上げてもらったのだが、せっかく一人できた時には、店の様子のよく見える、一階に陣取ることにした。

Photo_8というよりは、最初靴を脱ぐのが面倒だ、と思ったのだが、誰でも歳を取ると同じことを考えるようだ。待たされた割には勘定場に近い、最も忙しないところに通されてしまった。けれども、ものは考えようで、この場所が店の様子を見るのにちょうど良かった。

歳を取ると、みんな二階を避けるらしい。圧倒的に、客の多くがたとえ座敷であっても、一階を選んでいた。多くは、馴染み客らしい。もっと観光客が多いのかと思っていたのだが、そうではなく、地元の人が友人を伴ってくる店という感じでたいへん好ましい雰囲気だ。女性比率の高いのも、地元に支持されていることを物語っている。

玄関を入って、食堂が入り口で仕切られている。この構造が、珍しいわけではない。この中間に勘定場があって、両者を分けている。もうひとつは、食堂と料理場とがついたてで、仕切られていて、男女の仲居さんが媒介していて、ついたての奥は、ここからは伺い知ることはできない。茶碗蒸しの定食がメインということになっていたが、食事屋の基本は多様性であって、どんな好みにでも対応できることが、地元で支持される要件らしい。

Photo_10これだけ異なる料理を、すぐに食卓へ並べるには、相当な組織管理能力が存在しているのではないかと、素人目にもわかる。普通の店よりも手がかかっているのは、下足番とそれぞれの部署を回って歩いている、管理要員だが、これだけの客が入っていれば、十分に補っていると思われる。仲居さんも余裕を持っていて、それぞれの部署に捉われずに、行ったり来たりしている。経営者の後継者が見習いで働いている風でもあり、この余裕がスラックとなって、全体の混雑を和らげている。

Photo_11今日の宿舎に入ってしまえば、明日の準備に取り掛からねばならなくなってしまうので、十分に時間をとって長崎を訪れたのは、これまで行ったことのないところを訪ねてみたかったからだ。前回来た時に、新地中華街の裏に広がる館内町を歩いて回って、江戸期の中国遺跡の多いのにびっくりしたのだ。それで、今回その中でも、二つも国宝に指定されていて、何やら不思議な雰囲気のあるお寺を回ろうと思っていたのだ。それから、もう一つ孫文関連があるのだが、それは明日だ。

Photo_12長崎で最も古い、というものがいくつかあるのだが、この長崎の古さというのはどのようなイメージを与えるのだろうか。わたしのように、横浜に住むものにとっては、幕末時に多くの新しいものが入ってきていて、同じような状況にあって、どのような文脈で古いのかが気になるところだ。けれども、長崎にはいくつかの歴史の波があって、横浜みたいに新しい記憶ばかりでないところが面白い。

Photo_13長崎の現存木造建築で最も古いという「崇福寺」へ行った。写真でわかるように、門などに見られる曲線が唐風である。多くの建物は原爆で焼かれてしまっているので、残されていないが、ここには1646年ごろに建てられた本堂と、門が残存している。黄檗宗の寺で、中国趣味がかなり残されている。福州の豪商が中国で材木を加工して、こちらへ運んで建てたらしい。これには、どうも歴史が関係している。というのも、明から清への転換の時期で、祖国を離れて、異教の地での信仰を継続する必要に迫られていたことが伺い知ることが出来る。

Photo_14福建省の民は海の民であり、媽祖信仰が強い。それは、昨年訪れた館内町に共通するものだ。この神の強さが異郷の地ではどうしても必要だったに違いない。左右にある千里眼像と順風耳を引き連れた強い神様を感じさせる。伝説を覚えていたと思い込んでいた。遭難時に、父か兄か、どちらかを助けなければならないときにどちらを優先するのか、正義論に出てくる伝説があったと勘違いしていたらしい。

Photo_15その後も、何回も、崇福寺は増築されており、さらに幕末にも商人たちに利用されていることからして、長崎の一つの中心をなしていたことは想像できる。面白いものとしては、1680年代の飢饉の炊き出しに使われた大鍋が残されている。Photo_16救貧院としても機能していたことがわかる。この寺に入る時に、あの中国式の三門から入るのだが、できれば左の門から入りたかったのだが、それは飾りで、狛犬に遮られていた。

Photo_18この辺は、古くからの街並みが残っていて、高級料亭のシンプルな門構えや街全体の余裕が歴史に耐えてきたことを教えてくれる。原爆の影響も山のかげになったところは、緩かったらしい。Photo_20鍛治町のゆったりした坂道を下って、繁華街へ向かう途中に、古くからの喫茶店Fがあるので、宿での仕事に備えて、コーヒーを一杯。午後は宿舎で十分仕事をする時間があった。今回も通信問題を持参してきていた。長崎旅行をした答案が届くとは、受け取る方も思ってもみないことだろう。Photo_21でも、それはわからないことだし、答案だけが楽しんだことを知っている。

Photo_22夕飯は近くの思案橋横丁にある、K店にて、汁が濃厚な、「そぼろちゃんぽん」を食べる。そぼろというのは、肉のそぼろではなく、上質なということだそうで、注釈付きの食事となった。横浜の中華街にもありそうな、家族運営の小さな中華料理の店だ。写真のように、具沢山で季節柄、カキも入っていて、そして、それにも負けない汁の味だった。Photo_23家族で守っている味なのだろう。でも、この豚骨風の味は、何処かのラーメン屋の味に近いような気もする。たぶん、想像するに、研究熱心な豚骨ラーメン屋のことだから、この味に当たって、ラーメン屋の方が真似した可能性がある。

Photo_24西浜町に出て、今回も夜はジャズ喫茶Mへ入る。前回は、ほぼ数時間貸切状態であったが、今回は先客があって、気の置けない話をマスターとしていた。母の介護をしているわたしと同年輩くらいの女性で、介護に疲れるとここで話すそうだ。聞くとはなしに聞こえてきたのだが、どうやら聴いてもらいたいという退っ引きならない状況があったらしい。

Photo_26今日の最後は、焼酎尽くしで、この店に飾られた壜の焼酎を、推薦されるままに端から飲んで行った。九州中から、美味しいものを集めて置いているので、それぞれ個性があった。焼酎H、つぎはM、そしてMの麹の異なるもの。Photo_27三杯目になるころには、酔いが回ってきたのだが、相変わらず、世界へ向けて開かれた窓の景色の素晴らしさと、街で購入した書籍二冊が読みごこちの良いものだったので、気持ちよくテーブルを独占し続けたのだった。

Photo_32深夜をすぎた頃、公務員のグループが二次会で流れてきて、静かな空間ではなくなったので、今日はこれでお開きとした。何処かで、酔い覚ましのコーヒーを飲んで帰ることにしよう。

宿へ帰る途中に、島津藩の蔵屋敷跡があった。観光用の立て札に、鎖国で立ち寄ることが禁止されていたポルトガル船が1647年に現れたため、西国各藩から守護の兵を駐留させることになったことで、蔵屋敷が建て始められたことが記されていた。Photo_34オランダ商館長の報告によると、金銀探索隊だったそうだ。マルコ・ポーロのころの伝説が、そのころまでもまだ続いていたことを知った。世界の情勢に右往左往していた状況は、いまでも変わらない。

2011/12/19

病院の退屈さは、普遍的な問題なのか

Photo_3母親の診療の付き添いで、病院に来ている。朝の通勤時間を避け、歩くのも最大限避け、ようやく実現した。ところがじつは、行き帰りはそれほど困難を感じないが、病院のなかでは、どのように時間を使うのか、そのことが本当のところ大問題なのだ。

病院の中では、行動を制限される。これは、病人がいるのだからで仕方ない。写真に写っているのは、呼び出し機器である。PHSで順番が来ると医師が呼び出してくれる。それまでは、病院内にある売店や、喫茶店に居ても良いという、昔なら考えられないほどの自由さが今日の病院にあるのは事実である。

Photo_5けれども、病人は健康人と同じには、扱うことができないだろう。そこで行動に制限を受けたことで、自分で行おうとしたことができないと感じ、二次的な行動を取らなければならないと認識することになる。このために、窮屈な感情を持つことになってしまう。

二次的な行動で我慢することは、古典的には、「退屈」ということになってしまう。社会心理学者のクラップの説によると、近代的な退屈については、二つの考え方があると言われている。

ひとつは、従来からの古典的な考え方で、何もすることがないから、退屈を感ずるというもので、貴族や王様が感じてきたような貴族主義的な「過小負荷」的退屈である。これについては、貴族でなくとも、近代になると大衆層でも感ずるようになる考え方である。例を上げろといえば、数限りない。

じつは、もう一つが問題で、人びとが「過剰負荷」に陥ると、退屈を感ずるという、極めて近代的な悩みである。おそらく、貴族や王様はこのような悩みを持たなかったと思われる。押し付けられたペースで動くベルトコンベアの流れの中に、常にいる人びとはどうだろうか。ある国では、時の総理大臣が仕事を放り出すくらい負荷がかかるらしい。このときの心理状態がどうなのか、下にいるものにとっては、本当のところは想像できないが、強迫観念で義務感を維持できれば、退屈しないのであるが、そうではなく、強迫観念が過剰に働きすぎると、かえって退屈を感じてしまうことになるのだろうと想像される。

病院での退屈は、おそらく病人と、付き添いとでは異なるのではないだろうか。病人ならば、この待たされる時間はかなり辛い時間で、イライラして、相当な過剰負荷がかかってしまうだろう。付き添い人のばあいには、まだ古典的な退屈にとどまることができるのではないかと思われる。同じ時間について、二人の間のイライラ感が何となく異なるのは、このような違いなのではないだろうか。

珍しく、気の長いはずの母が、4時間にも及ぶ待ち時間に怒っていたのは、どうにも説明をつけることは難しいが、あえて言ってみると、このような上記の違いがあるように思われた。

つまり、本当に行いたいと考えていることができない、あるいはわからないときに、二次的な行動を行わなければならず、この二次性に我慢出来ない人は、退屈してしまうのではないか、と考えた次第である。

話はすこし飛ぶが、退屈の万能薬は読書であると、古今東西言われ続けてきている理由が、ここでかなりわかって来るのではないかと、個人的には思っている。というのも、読書は他の意見を受け入れることを第一義とする作業である。つまり、読書は二次性行動の権化のような、いわば時間つぶし行動であり、退屈との親和性はたいへん高いのではないか。そのことが、読書をして、退屈つぶしへと向かわせることになるのだと言えよう。ここから考えるに、退屈の時代にあって、その特効薬は二次的な活動にも満足する精神性を身につけることが必要なのではないだろうか。

自分にとっての一次活動を見つけようとするのか、あるいは、二次活動でも満足できる体質を作ることに精をだすのか、この辺に岐路があるように思える。病院には、ほんとうに読書が進むという現実がある。

2011/12/18

グーグル問題は「紙の書物」を絶滅へ追い込むのだろうか

Photo「グーグル問題」という問題群が存在している。わたしの理解では、簡単にいえば、各国の国会図書館が行っている著作物の「電子的保存維持・二次利用」などを、米国のグーグル社という一営利企業が行ってしまったという現実問題だと考えられている。

このことが、幅広い問題を連鎖的に惹起していて、ついにわたしのところへも影響が出始めた。他の人びとにとっては、たとえば、作家などは「被害」として認識される問題かもしれない。作者の立場からすれば、勝手にコピーされるのと同じだから、単純には許すことはできないだろう。他方で、解釈しだいでは、好ましい傾向も存在する。これまで限定的でありすぎた電子的利用が、情報の公共性の観点からは自由さが認められ、学問の自由にとっては格段の進歩がもたらされると言えるかもしれない。

じつはわたしは数年間に渡って、放送大学補助金をいただいて、放送大学テキストの電子化を行って、検索システムを作ってきている。もちろん、著作者からは許諾を得ている。そこでは、すべての言葉から検索して、その言葉がテキストの何ページに載っているのかわかるという擬似的な全文データベースを作成している。

何のために、こんな面倒なことを行っているのかといえば、一大学で使われている言葉群がどのような言葉の塊であるのか、その特性を知りたいためだ。たとえば、放送大学の授業で頻繁に使われる言葉はどのような言葉なのか、あるいは、あまり使われない言葉はどのような言葉なのだろうか、ということがわかってきているのだ。それは、大学で使われている言葉群の特徴を明らかにするためにも、どうしても必要な作業ではないかと勝手に思っている。たとえば、「教養」という考え方には、どのような言葉で、その時代の知識が伝わるのか、ということも重要な項目として含まれているのだと考えている。

グーグル問題がここで大きな問題を提起している。それは、通常「オプトインーオプトアウト」問題と呼ばれている現実があるからだ。電子化して二次利用する場合に、現行では、許諾が先でそれから利用が可能となるというオプトイン方式をとっている。それをグーグルは、利用してからあとで許諾を取るオプトアウト方式をとってしまったのである。この方式は妥当なのか否かをめぐって、ひとしきり議論が続いた。

考えてみるに、現在の常識からしても、オリジナルそのものは、それを生み出した本人のものだが、それ以降のコピー商品については、たいへん曖昧になりつつあるのが現状だ。書物というものがどこまでがオリジナルで、どこまでがコピーなのかは、たいへん悩ましい。もし電子書籍がもうちょっと出てくれば、現在のように書物の形態がすべてオリジナルであると認識されるとは限らないだろう。

このデータベース作りで、オプトアウト方式が認められれば、たいへん作業がやりやすくなるのだが、じつは作業のやり易さの問題ではない。ちょっと間違えば、エーコたちの書名にあるように「もうすぐ絶滅するという紙の書物について」などということになってしまう。

そこでは、言葉の問題であるという認識が重要だと考えている。ちょっと視点を変えるならば、その言葉をどの程度、固有の文脈から切り離しても良いのかいう問題であるとも言えるかもしれない。言葉が意味を持つのには、文脈が必要であることはよく知られている。オリジナルという考え方は、言葉には固有値が存在するという考え方だとさえいえるだろう。赤という言葉があっても、それだけでは、何の赤なのかがわからない。信号の話をしていて、赤が出てくれば、止まれという意味がわかってくる。

それで、もともと言葉が意味を持ち始めるには、文脈に埋め込まれている必要がある。それをもう一度、その文脈から切り離して、別の使い方をした場合、それは著作権に抵触するか否かということが起こってくるのだ。厳密にいえば、別の使い方をしても、そもそもオリジナルな著作物というものがあって、あるいは、オリジナルな著作物を改変するという考え方があって、それだから、今日的な常識からは、それは、違反だということになってしまうだろう。けれども、検索システムのようなものは、オリジナルに対して、何か被害を与えるものでないし、むしろ、オリジナルを強化するものである。この場合でも、許諾が必要なのか、ということが起こってきてしまうだろう。

複製時代にあって、オリジナルとは、あるいはオリジナルの著作権とは、どこまでのことをいうのだろうか、今後ともに目を話せない問題となっている。わたしの立場からすれば、立場の違いを乗り越える方式を模索することを望みたいのだが・・・。

2011/12/17

赤い風船の行方に期待したい―発表会の提案

昨日から寒さが続いていて、外が寒いのかと思っていたら、そうではなく内側が寒いことがわかってきた。もちろん、念のために言っておけば、精神的に寒いのはいつもの通りなので気にすることはないのだが、風邪をひいて、身体が冷えているのだとようやくわかってきた。

今回の風邪の特徴は、頭痛が激しくて、つぎにお腹が痛くなるという、ウィルス系の典型的な風邪だ。今年は予感があったので、初めて大学でのインフルエンザ予防接種を受けていたのだが、普通の風邪に襲撃されるとは計算外だった。

東京文京学習センターへ向かうが、途中の東京駅で電車は事故で遅れるし、体調は悪いしと不幸が重なり、最悪の身体条件のもとでゼミは始まった。M2のUさんが特別参加していて、修士論文を提出した後なのですっきりした顔して、ゼミを盛り立ててくださったこともあって、どうにか電車が回復したように、こちらの体調もゼミナールが進むにつれて、次第に回復へ向かったのは、たいへん有難かった。

いつも身体の脆弱なところを自分自身で嘆いていたのだが、職業的義務感がこれほど自分の中に存在して、物的な身体を律することができるとは、今日のところは不可解ではあるが、自分の肉体であるとはいえ褒めてやりたい気分だ。

今年度のM1の方々は、よく言えば、などと言うと失礼かもしれないが、荒削りでかなり不確実な研究論題に意欲的かつ果敢に挑んでいると思われる。新自由主義から共同体主義まで、幅が広いし、存在論から言語分析まで奥も深い。そのためか、内容もいつになく、多岐に渡っていて、議論を行うにも気が許せない。

風船の糸をつかんでいるのがやっとで、昨日のような強い風が吹いたなら、それに乗って、あっと言う間に何処かへ飛んで行ってしまうような勢いである。修士論文を完成させるまでに、あとちょうど一年間になってきて、心配するどころか、未だ未だ発展を目指している。赤い風船の行方に注目したい。

Photo_9どうやら、演習室3というのが、定着してきている。学習センターの方でも同じゼミ室を割り当ててくれているらしい。場所は重要だと思われるので、配慮に感謝したい。今日は、栃木学習センターから、web会議でYさんが参加してきた。このシステムの成否は、音声にかかっているといって良いと思われるが、最初なかなか通じなくて困ってしまった。このストレスがなければ、web会議も良いのだが。救われたのは、Yさんの声が大きかったことだ。聞こえない時に、聞こえないと言ってもらえるとじつはほっとするのだ。絶えず通信を確認するのが、コミュニケーションにとっては重要なことを思い知った次第である。

昼食には、校門の前に昨日開店したという、軽食を出す喫茶店を試してみる。パン屋さんを兼ねており、値段も安いので、きっと商売繁盛することだろう。わたしたちにとっては、空いていることが第一条件である。ゼミナールが終了してからも再び訪れ、コーヒーを飲んでしまった。今日のように、数人がすぐに席を取れるところが、駅前にはないのが茗荷谷の悩みだったが、これで解消した。

ゼミナールは無事終わった。人数がすくないからすぐに終わるかな、と考えていたのだが、結局は十分な時間がかかってしまった。初期段階でアイディアを出し合うゼミナールは、荒っぽいが、野性的な魅力もあるのだ。

さて、ゼミナールを預かる身として、ちょっと反省していることがある。昨年は、OBの誘いがあったために、M2の方々の送り出しは行わなかった。それで、昨年のM1の方々には、中途半端な感じがあったらしい。今日ゼミに参加してきたUさんから、今年度はゼミ発表会を行うのはどうか、という提案があったので、2月にはぜひ懇親会も含めて開催したいと、考えた次第である。M2の方々、いかがでしょうか。

2011/12/16

枯葉の現実と、アニメの虚構

Photo強い風が吹いている。これで、今年のすべての枯葉は落ちてしまうことだろう。いつもより遅く、黄色に染まった銀杏の葉の落下も加速するだろう。

Photo_2今日は、K大の今年最後の講義である。それで、いろいろと片付けなければならないことがあったのだ。来週が祝日なので、例年より早く年末の休みに入った。学生も年末は忙しいらしく、いつもより出席率が悪かった。けれども、今日出席している学生は、むしろ熱心な学生が多いはずなので、ちょっと趣向を変えて、特別のメニューをこなしてきた。

また、今年度は講義のレジュメを比較的たくさん作ったのだが、残りをすべて持って行って、在庫一掃を行った次第である。それでも、学生からのレポートや欠席届などがロッカーに溜まってしまっていた。それらを整理していたら、いつものとおり図書館へ行くつもりだったのだが、すっかり時間がなくなってしまった。

駅に出る住宅街の外れに、昨年まで魚屋さんがあって、歳をとった人びとの多い街なので繁盛していた。ところが、さらにそのことをご本人たちがビジネスチャンスだと感じていたらしく、この魚屋さんが何時の間にか料理屋として店を出してしまった。この地域は商店も高齢化して、閉じる店が相次いでいた。住宅街であるから、このような料理屋さんが続くわけがないと思われていた。

ところが、いつ見ても客はそれほど入っているわけではないが、店は活気に満ちていて、失礼ながら今なお持続している。不思議だな、動物的カンという言葉はあるが、魚的カンという現実も、高齢社会では有りうるのかなと思った。メニューも美味しそうな魚、うなぎ中心の献立が並んでいる。ここを通るのが、2時から4時であるために、ランチにも、夕飯にも中途半端な時間なのだ。まだ店に入ったことはないが、冬のうなぎを一度いただきたいと考えている。

Photo_4電車で、川崎のチネチッタへ出る。クリスマスの飾りがきれいで、ここへ来ると、いかにも遊びにきた、という雰囲気の世界になってくるから感心する。一直線に映画だけを観て、すぐ帰るという人もいないだろうから、このようなちょっとした雰囲気がやはり重要なのだ。

今日は、外国のアニメ映画に挑戦した。これまで、アニメ映画は、全般的に敬遠してきた。それは、いわば写像の問題だと、自分では思っていた。実物と映画とは、ほとんどがフィクションなのだから、写像関係にある。実と虚の対比が映画を成立させている。現実の社会があるから、描かれる虚構の世界が意味を持つのだ。

Photo_6アニメも同様だ、と言ってしまうこともできる。それでも良いのだが、やはりアニメは最初からアニメ独自の世界を形成していて、手を挙げる仕草を描いたとしても、それはすべて頭の中で計算されて描かれているのだ。けれども、実写映画の場合には、同じく手を挙げるにしても、役者それぞれの演技によって異なり、その自然の元に、演技が構成されることになるのだ。これは、かなり違う世界なのだと思われる。

Photo_8つまり、虚構の構造そのものについて、異なる点が多いと言えるのではないだろうか。今回の映画のテーマだと思われるが、アニメが実写と同じリアリティを出そうと思ったら、すごく大変だな、ということである。アニメはアニメであることで、リアリティが出るのであって、実写と同じリアリティを出そうとした途端に、なぜアニメにしたのかがわからなくなってしまうだろう。今回観た映画は、この辺をまったく取り違えてしまっているのではないかと思われた。

虚構の世界の奥深さは、現実を写しとるだけでは満足せず、現実に近づけることでも、なおさら満足せず、現実を超えたときにようやく満足するというところにあるのではないだろうか。

2011/12/12

二人関係の難しさ―ボーヴォワールの場合

Photo映画「サルトルとボーヴォワール」を観るために、渋谷のユーロスペースへ出る。25年ほど前、まだ駅の近くにこの施設があったころ、映画「アンナ・マクダレーナ・バッハ」を、妊娠していた妻と観に来て、不覚にも二人とも眠ってしまった記憶がある。

ところで、先週から今週にかけては、修士論文の締め切りが迫っていて、連日連夜メールの嵐が吹き荒れていた。卒業論文の波が第一波とすると、修士論文の波は、第二波で、さらに、通信添削の波が第三波ということになる。今の期間、カバンの中には、常に学生からの通信問題が入っていて、いつでもどこでも、添削の出来る体制にある。

この波をくぐり抜けながら、自分の仕事も当然ながら行わなければならない。昨日、例年より早目に、修士論文の終結宣言をゼミテンの方がたに送って、後は自分の責任で提出するようにとの、メールを送った。今年は、自分の仕事が谷間にあって、多少余裕があるので、ほぼ全員の方々とのおおよその作業を終わらせることができたのは、わたしにとって仕合せであり、またそれは学生の方々の精進の賜物だったと思われる。

修士論文の制作者たちの、今年度の意気込みはとりわけ凄かった。9月から草稿の検討が始まって、ほぼ3ヶ月間に渡って、お互いにかなりの分量のある論文のやり取りを通じて、通常のコミュニケーションとは明らかに異なる交流を行うことができた。毎年数名ずつはこのような状態になるとしても、これだけ多くの方々との間で、新しい知識を生み出した、という経験は、これまでもまたこれからも、わたしの老いていく体力と能力を考えると、そう滅多には起こらないことであることは間違いない。

Photo_3さて、このような集団関係ならまだ付き合いやすい。それが親密な二人関係に入ると、途端に難しい関係になってくるのだ。映画「サルトルとボーヴォワール(原題は、フロールの恋人)」の監督の弁によれば、「複雑で気難しい人びと」を描いたということらしい。二人関係とは、どのような関係か、というのが、この映画の主題である。二人関係の伝統型を解体した途端に、n個の二人関係モデルが成立し、それらは無限地獄に陥ることになる。家庭ではなく、むしろ喫茶店フロールを中心にして、自由恋愛を展開させた二人関係にはどのような意味があったのだろうか。

それは比較すべくもなく、まったくのところ、当事者にしか理解出来ないことではあるが、最もオープンにした二人関係というものが存在しうるのだろうかということだと思われる。サルトルとボーヴォワールとの関係は、日常的な自由恋愛と、気難しい哲学、という二つのコミュニケーションチャンネルの両方において、関係を持続させることが、いかに難しいことなのかを描いている。哲学者の結婚だからではなく、自由だからであり、それはこの映画を通じて伝わってくる重要なポイントとなっている。「時代に挑むようなカップル像」という言葉では到底表現されないものがある。実験的であったとは言え、いかに難しい社会関係であったのか、ということがわかる映画だった。

本当のところ、観念の動きを映画に定着させようとすると、かなりの困難さがある。けれども、映画は日常を描くことには、秀でていて、書物よりも複雑な動きを表現できるのが映画の取り柄だと思う。この点では、この映画が哲学関係の方はとりあえず諦めたことが、成功に導いた要因であると言えるかもしれない。これは皮肉ではなく、映画の真実なのだ。哲学映画と言うよりは、二人関係に焦点を絞ったことで成功した映画であると思われる。

自由恋愛を成功させるには、家族という枠組みを破らねばならないが、それでも二人関係を持続させるには、かなりの知性と理性の力が必要になる。実存主義という考え方にそれだけの力があったのか、今とあってはかなり疑問だ。これについては「必然的な愛」という表現を使っていたが、二人が理念的にかなり似ていて、倫理的に自由意志をもっていて、個人から直ちに、社会参加出来るような自立した精神があったから、この関係が続いたのだと考えられる。個人的な意志の、強度の「費用負担」に耐えられる丈夫な「理性」を持っていたといえよう。けれども、普通の人ならば、たとえばわたしなどはすぐに降参してしまうだろう。何に降参するのかは、あえて伏せておきたいが。映画の中で、当時、批判の対象となった「小市民」という、懐かしい言葉も登場させていて、ボーヴォワールの親子関係が描かれていた。「いかめしさを伴った美しさ」というボーヴォワールの特徴をよく掴んでいた。

ここまで観てくると、やはり、サルトルとボーヴォワールの例はかなり特殊であって、すべての人にとっての普遍的なモデルとしては適当できないように思われる。n個の家族関係の最左翼に分類されることは、間違いないとしても、それ以上の位置づけを得ることは、難しいだろう。各国の成績優秀者の一、二位をすべて結婚させたとしても、人類全体の歴史の中では、ようやく数例が存在するくらいしか成功しないだろう。

サルトルとボーヴォワールの示す二人関係の難しさは、普通の人が無意識に済ますところを意識的に行おうとしたところであり、習慣的に行おうとしたとしたことを、理性的に行おうとしたところにある。それは「参加」という意味の半分でしかないことを明らかにしてしまったのだ。

Photo_4これは、極めてレアな二人関係ではないかと思われる。普通の人には、家族とはいかないまでも、擬似家族的な共同体は少なくとも必要になるのではないか。それは映画の中でも成立していたとおりだ。個人が社会との関係をどのように結んで行くのか、その時に何を媒介とする必要があるのかなどを、実験的に試した例として、この二人の関係は、人類学上の重要なコレクションとして欠かすことができない例を形成したといえよう。

Photo_5ちょうど映画を見終わったのが、ランチ時に当たっていたので、東急百貨店を迂回して、程ないところにある喫茶店「M」で、大豆豆がいっぱい入ったカレーを食べる。浅煎りコーヒーもたっぷりとしていて、落ち着いた。来年からは、ほぼ週一回は渋谷に出る仕事ができたので、休憩に使える場所を確保する必要がある。Photo_6ここは第一候補である。真ん中の大テーブルでどっかと構えて、二時間ほど、サルトルとボーヴォワールの関係と比べて、自分にとっての二人関係はどうだったのか、想いに耽った次第である。Yさん、どのような関係だったのでしょうね。

Photo_8渋谷から東横線、みなとみらい線へ出て、馬車道を歩いた。夕暮れ時のランプは年の瀬の間近なことを告げていた。悲しいことに、馬車道にあったゆったりした席のある喫茶店は、閉店していて、ビルも壊されていた。また、居場所がひとつ無くなってしまった。

2011/12/09

なぜ柳宗悦は方向転換を行ったのか

Photo先日、横浜に来ていた「柳宗悦」展へ行ってきた。大学院生時代に、図書室にただ居れば良いという、書生風のアルバイトを駒場でやっていて、裏門から出てすぐに日本民芸館と柳の自宅があり、二度ほど訪れたことがあった。今から思えば、もっと観て探っておくべきだったと、ちょっと今になって後悔している。

今回の展覧会で注目したのは、なぜ新進気鋭の西洋美術評論家だった柳宗悦が、当時としては、異端であった「民芸」という方向を取らねばならなかったのか、という点である。芸術というものが、つねに存続の「危機」意識を持って展開されて来ていることは、いつの時代にも通じていて、それほど不思議ではないが、芸術の持つ「卓越性」の根本に民衆の在り方を盛り込むということはかなりの大冒険であり、矛盾を抱えることになることは明らかだった。

けれども、時代の方向としては、間違っていなかったと思われる。芸術の価値が、その後西洋ではPOPの方向に向かい、「無価値と無意味」を好んで芸術の内容にする方向に向かっていったことを考えれば(ボードリアールの受け売りだが)、方向は同じであっても、内容の違いを打ち出すことができたことにおいて、民芸運動は現代の一つの方向を示すことができたと言えるだろう。

展覧会の中の展示物には、数多くのみるべきものがあったが、中でも注目したのは、「京都の朝市」という生原稿であった。自分で版木を持っていて、原稿用紙を木版で作ってしまうという、柳の趣味は素敵だが、さらにデザインはもっと素敵なのだったのだが、ここでそのことを言いたいのではない。

このエッセイの冒頭で、京都に住んだ若い時代に、その「周辺」をもっと知っておくべきだったと述べている。なぜ京都で工芸が発達したのかといえば、もちろん伝統の継承が行われたことが大きいが、それ以上に、周辺との関係を維持できたことは、もっと大きかったという意味であろう。生原稿は最初の1ページしか見ることができなかったので、そのあとは全集を探して、読んでみたい。

展示会の部屋に入って、最初に目に飛び込んでくるのが、朝鮮の壺である。先日この欄でも紹介した浅川伯教・巧兄弟のうちの伯教が、ロダンを観せてもらったお礼に、柳に贈ったものと書かれていた。

薄ねずみ色のまだら模様に変色した白磁の肌に、うす水色で草花がふたつ前後に描かれている。控えめな色調であるにもかかわらず、こちらに伝わってくるものは物凄く強い。柳が朝鮮の焼き物に関わっていく端緒となった壺であるとされる。

芸術とは技術(アート)だ、という強い芸術家側の主張もあるが、見る側からすれば、観方によって変わるでしょう、ということになるだろう。名もない陶工の造ったものに、感動するということがあり得るのだ。エーコとカリエールの対談集『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』では、読書はフィルタリングだ、と言っているが、芸術にもそのような性質があるのだ。

それにしても、柳は身の周りに良いものを集めていたのだ。青磁の水差しもさることながら、黒田辰秋の制作した大作りの木製ペーパーナイフは、この時代にしか作られなかったであろうと、おそらく将来には言われることになるかもしれない。けれども、今でも毎日多くの郵便を受け取っている我が身にすれば、現代でも、このペーパーナイフは本当に欲しいと思わせる1品だった。

2011/12/04

卒業研究発表会での社交と食欲

1昨夜の荒れた空が、今日起きてみると、真っ青な快晴に変わっていた。桜の木などの広葉樹がすべて彩りを変え、すでに晩秋から初冬への色模様を見せている。秋の青空は、底抜けに透明で、紅葉した葉っぱとの対比で、その青が余計に際立ってくる。

Photo清々しいというよりは、少し寒いという気候だ。こちらも、コートを着込んで、風を防ぐが、首の周りからはいる通気が、早足で急ぐ汗を抑えてくれるくらいの陽気である。

さて、今日は、わたしの所属する放送大学「社会と産業」コースにとっては、特別な日である。卒業研究審査発表会と、学生との懇親会、続いて先生方のコース忘年会があるのだ。もっとも、特別な日というのは、むしろわたしにとってである。今年は当番でコース主任を仰せつかっていて、今日が一番の働きどころなのだ。

朝のイトーヨーカ堂への買い出しに始まって、スピーカーやマイクの設置、さらにはAVホールと大会議室の発表機器配置など、肉体労働の目白押しだ。カンファレンス室のAさんがつねに行っていることを、支援するだけだと言ってしまえばその通りだが、慣れない仕事なので、ホールのスタジオ施設を見たり、大会議室の隠し部屋の中に入ったりして、脱線しつつ楽しみながら何とかこなすことができた。

12時には、発表の学生がどっと押し寄せて、13時ぴったりに、分刻みの発表が行われた。何時もながら感じるのは、放送大学生の多様性である。年齢の多様性はもちろんであるが、考え方の多様性は、一般社会の多様性をはるかに超えているようにも見える。それは、社会での紋切り型の考えを越えようとするところに、理由があるように思える。

Photo_2時間が少ないのが、何時もながら不満に思う点であるが、それは毎月のゼミナールで済ませているので、違う形で満足するようなシステムが必要なのではないかと思っている。昨年は、卒業生で論文集を作ったが、これなどは意欲的な試みではないかと思われる。

15_2発表会の方は予定通り、目出度く終了した。「新しい公共」論の事例研究を行ったKさん、理容美容産業と社会意識の変化を関係付け展開したT氏、防衛費の費用便益分析をリアルオプション手法で論じたH氏、社会保障費と人口減少を報告したM氏、そして、壮大な価値論を試行したK氏が今年度のわたしのゼミ生であった。発表には、いつもより熱が入っていて、たいへんよかったと思う。

Photo_6その後開かれた懇親会で、今日の参加者については、かなり良い成果であったことを伝えた。合格内定を聞いて、参加者からは安堵の声が聞こえてきた。懇親会の楽しみは、ひとり一人の苦労話だ。悲喜こもごもが聞こえてきた。社会人らしい発言としては、仕事が忙しく、ここに到達するには、数年間を費やした人。子供が大学生だったので、自分も論文を書いてみたいと思った人。この大学ならではの動機だと思う。

Photo_8さらには、OBの先生であるK先生、Y先生も参加くださった。ゴルフに年間62回通ったという元気な話も聞くことができたが、論文を書いていて、60歳代の勉強が大事だ、というお話もさらにあって、70歳過ぎての生活に想いを致した次第であった。

Photo_9このように良く働き、よく勉強し、さらによくおしゃべりした後は、よく食べなければならないだろう。懇親会後、場所を幕張の海岸側にあるC店に替えて、コースの忘年会へと雪崩れ込んだ。Photo_10K先生の行きつけの店が、日曜日でお休みにもかかわらず、開いてくださって、特別料理と、さらには日頃手に入れることができないという、「幻の酒」を用意してくださった。写真にあるように、刺身、牛肉、ハタハタなどが次から次へとできてきた。

Photo_12途中、相当酔ったらしく、酒瓶の写真でピントが合っていないのも、「幻」さ加減をいや増していると言えるのではないだろうか。先生方の評判は、一家言の持ち主ばかりなので千々に乱れたが、大方は、Photo_14岩国の酒でHという銘柄に人気が集まった。さて、帰りは、A先生と、千鳥足を楽しみながら、京葉線に乗ったのであった。横浜まで、いつもは長いと感ずる通勤距離も、かなり短く感じた次第である。毎年のことながら、卒業研究を終えた方々には、ほんとうにおめでとうと言いたい。また、職員のFさんとカンファレンス室のAさんにも、たいへんお世話になった。感謝申し上げる次第である。

2011/12/01

「三銃士」はなぜ4人なのか

なぜ三銃士は4人なのか、子供のときに、みんなが疑問にもつことである。ここで、3ないし4ということが、重要な意味を持っているのだけれども、それじゃなぜ2じゃなくて、3ないし4なのだろうか。

神奈川学習センターに所属していたころに、学生研修旅行という企画があって、学生たちを「地域通貨」の街へ連れて行ったことがある。そこで、各街には、それぞれが弁士だという人たちがいて、説明してくださった。

その中で繰り返された質問の一つは、人間の社会というものは、人が何人で成り立つものなのだろうか、というものがあった。社会だから、集団ということになるが、それじゃその集団というのは、何人からなのだろうか。

映画「三銃士」を観る。テーマは上記で言ったように、なぜ三銃士は3なのか、さらには、3と言いつつ4なのかという点である。近衛隊である銃士は、数多くいるはずである。それにもかかわらず、3になぜこだわるのだろうか。

物語は17世紀フランス、ルイ13世の時代、歴史上名宰相と言われたリシュリューが暗躍する策略に対して、ダルタニャンと三銃士が王妃側に回って、苦難を乗り越えるものだ。

この映画は、何故か、かのヴェネツィアから始まる。物語はフランスと英国との間で、生ずるのだから、なぜヴェネツィアから始まるのだろうか、という疑問は当然である。実際の原作に忠実に作るならば、映画のタイトルのあとのように、ダルタニャンの故郷、ガスコーニュ地方から始まるべきである。

有名な標語である「one for all」のこのoneであるダルタニャンの物語として展開されるべきである。これが現代というものの恐ろしさで、現代ではallの方が重要で、まずなぜ3なのか、ということから始めるために、ヴェネツィアが選ばれている。

三銃士であるアトス、ポルトス、アラミスに役割分業が設定されている。原作とは少し違っていて、それぞれの性格付けがはっきりしている。アトスは、水を支配し、愛に敏感でウェットな性格である。ポルトスは、火を支配し、腕力があることになっている。そして、映画ではあまり見せ場のなかったアラミスは、風を支配し、金に強いというぐあいだ。もちろん、三人とも銃士であるから、剣は共通に強いことは言うまでもない。

つまり、仕事の分業として、水と火と風を繰ることを役割分担にしていて、それぞれの取り柄を協力することで活かしている。社会にあっては、金と権力と愛も必須だ。この三つが組み合わされていることで、三銃士の力は、通常のものの数倍の力を発揮することになっている。この組み合わせからすれば、2ではなく、やはり3なのである。この3を見せるために、ヴェネツィアのシーンがまず作られた。

ところがである、3でもダメだったのである、というところが、この物語が普遍性を持ち、今日の世の中でも通用する物語になっている所以である。ダルタニャンは、なぜ必要か、と改めて問うている。仲間の力、チームのパッションを象徴しているのが、ダルタニャンであり、物語の最初に、パリへ出るに当たって、「勇気」が与えられている。三銃士は、チームとしては完璧だが、パッションはその外側から入れ込まれ、その心臓部として、ダルタニャンが登場する。このことが真の意味で、「all for one」という標語の後半を表しているのだ。

ということで、映画「三銃士」は、社会的支援論の最も典型例であるといえる。そして、支援ということが、欧米のように、近代モデルである「二人モデル」から出発すべきではなく、「三人モデル、あるいは四人モデル」を出発点すべきことを如実に教えている。近代に入る前には、このような思想もあったのである。

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  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。