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2011/11/18

映画「マネーボール」

映画「マネーボール」は、野球の映画かと思って見るならば、そうだとも言えるし、どうも違うのではないか、という風にも思える。それじゃ、何の映画かと言えば、最高度の資本主義を描いた映画だと、思う。それも、アメリカ的、新自由主義的映画の典型ではないかと思う。良い意味でも、悪い意味でも。

現在のところ、資本主義市場では、すでに金融中心主義的な段階を迎えている。この前提をもし受け入れるならば、かつてのように、生活必需品をより安く造るとする産業資本主義段階をすでに超越して、芸術やスポーツを売り物にする、資本主義段階に入ってきているのではないかというところまでは、みんなが感じているのだが、その先にどのような世界がありうるのだろうか、と疑問に思っているところだ。それで、このような「マネーボール」的な世界が存在するということは、ちょっと想像逞しくする部分が見えて面白い。現実のシステムを超えようとするところがある。

どの部分かといえば、スポーツを売り物にするのは、通常その選手たちが提供するサービスについてなのであるが、この映画では、選手そのものが売買の対象となる市場を描いている点である。たとえば、ジェネラルマネジャー(GM)である主人公が、ダンカン選手を他球団からトレードで獲得したいというと、オーナーが難色を示す。すると、GMが個人資金を出して、来年度ダンカンの価値が上がったところで、差額を得たい、と申し出るシーンがある。

アメリカの特殊事情であると、現在時点では、片付けてもよいが、資本主義が進み、市場化が進めば、芸術、スポーツ文化は、人、モノ、サービスを含めて、すべて売買の対象になるのだと言える。そこには、この映画で描かれたようなドラマが存在するようになるかもしれないが、それは「金銭文化」の極致という、認識が正しくて、映画の面白さと、金銭文化の浸透とは、軌を一にしていると、わたしは考えておきたい。

今回の読売巨人の、GMとオーナーの対立は、極めてウェットな感じだ。これに対して、マネーボールでは、このような交渉がドライに進められている。権力の問題と考えるのか、それとも金の問題と考えるのか、という違いだ。監督が自分の意見に反対ならば、自分の権限のなかで、自分の意見を通すことに、誰も不合理だとかんがえない。けれども、GMはこの決定を、人を変えることで覆すことは合理的である、とアメリカでは考えていることがわかる。一昔前は、日本人こそエコノミックアニマルだと叫ばれていたが、実はそうではなく、アメリカ人こそ極めて、経済合理的に動く人種であり、この感覚が正常であると思い込んでいる人びとなのだ、とこの映画は描いている。この文化の違いは意外に大きいのかもしれない。

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  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。