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2011年10月に作成された投稿

2011/10/21

映画「ツレがうつになりまして。」

Photo_2世の中には、なかなか理解できないことがあって、心の境界問題はとくに見えないのだ。けれども、ほんとうのところ、よくわからないことがあっても、本人には失礼だが、そこが不思議なことに面白くもある。映画「ツレがうつになりまして。」を観る。漫画家であるハルが、主人公である。そのツレがウツ病になって、会社を辞めることになる。色々な事件が起こるが、それらを乗り越え、社会復帰する様子を描いている。

複雑な病気であるウツなのであるが、目に見えないところを、いかに見えるようにするのかというところが、この映画の腕の見せ所だと思われる。さて、ウツになったということを、どのように映画として見せるのだろうか。

Photoちょっと変な言い方かもしれないが、「エッジを切る」という表現はどうだろうか。説明は必要かもしれないが、直感的な理解ができるかもしれない。写真を撮っていて、木樹と空の境目がくっきりとわかる時がある。これは、境が明瞭である、という証拠だ。それに対して、写真を見ていても、境目がはっきりしない場合がある。

それは、レンズが曇っていたり、ピンボケだったりするのではなく、明らかに映るものが不自然に飛び出ていたり、形がおかしかったりして、通常とは異なる映像が映る場合があるのだ。ここで掲載している風景の写真のように、シャープに形が見えていれば、問題はない。けれども、この境界が曖昧になりだすとふつうではないことが起こっているということだ。

この映画で、「エッジを切る」ことがうまくいかないところがあり、どのような場面でそうなのかと言われても、なかなかわからないかもしれないが、監督がとくにこだわったと思われるシーンで、繰り返されているところがあって、成る程と感心したのだ。

それは、髪の毛に寝ぐせがついていて、立ってしまっている、という単純な映像だ。何だそんなことか、という向きもあるかもしれないが、これは中々な表現だとわたしは思う。ウツがひどくなって、会社に出たくなくなるときには、必ず髪の毛が立っている。そこから、髪の毛が立っていると、具合が悪いということを象徴しているのだな、と映画の聴衆に訴えかけることができることになる。

Photo_3じつは今日歩いていて気がついたのだが、わたしも今日は髪の毛が立っていて、自分では気がつかない状態だったのだ。ところが、朝日を浴びて、歩いていると、自分の影法師が現れて、アタマの部分から、髪の毛が立っているのがわかった。

髪の毛は、自分のものであるにもかかわらず、自分ではわからないのだ。エッジを切ることができるならば、何も問題がない、ところが、自分では分からない内に、突出してしまう部分を作ってしまっていて、他人にはそれが見えてしまうのだが、自分ではずっとそれがわからないのだ、ということが起こってしまうのだ。

Photo_5境界問題の生じているところでは、ある部分は奇妙に几帳面に見えるのだが、それ以外の部分のところでは、他者に対して無頓着に現れてしまうところがあるのだ。このような不明瞭な部分が現れたら、ウツということかもしれない、と直感的な理解をしたのだ。

 

2011/10/16

青リンゴと夕陽と富士山と

Photo_7午前中の仕事がうまく行ったので、葉山へ行くことにする。妻が数日前から、天気が良かったら海を見に行こうと誘っていた。

昨日は強風が吹き、雨が夜中まで降っていた。それで、天気が心配だったのだが、昼になる頃には、気温が27度まで上がって、天気は回復した。Photo_8すこし夏に逆戻りした感じだ。日差しが強いので、腕の隠れる服装をした。

けれど、風はさらっと肌を撫でていくことから、秋の風であるとわかる。つまりは、あつくもなく、寒くもなく、良い季節だ、ということである。

Photo_9いつものように、家を出て、30分くらいで、逗子へ着く。話しながら、バス停へ向かうが、惰性で歩いていたので、通り過ぎてしまったらしい。振り返ると、海岸まわりのバスが出発したところだった。

Photo_11仕方なく、さらに、十分待つ。京急の新逗子駅はいかにもリゾートだ、というような駅舎構えで、三浦半島の観光地図も近くに掲げられていた。妻は時間があれば久里浜のコスモスも見たいなどと、相変わらず距離感のない空間的欲望を、ずっと午前中から言っていたのだが、この地図を見て、ちょっとは思い直してくれただろうか。

Photo_12先日きた時に、山口蓬春記念館の年間会員になっていた。今日は、今回の企画展「北海道と蓬春」の最終日だったのだ。前回もそうだったが、ここの企画では下絵の展示が、本物と一緒にあるのが特徴だ。そこで、いつも思うのだが、画家の下絵というのは、感情がこもっていて、むしろ本物を超えていることがあるように思う。

Photo_14今日の一枚というならば、リンゴの絵だ。毎年、様々なところから、りんごが送られてきたそうだ。秋田の青りんごを描いた絵は、同系色の調和を狙ったもので、グリーンの配置が素晴らしかった。評論家の言葉が添えられていた。山口蓬春には乱れがない、と。これは、わかりやすい言い方だとおもわれる。表面的には、乱れはないように見える。安定した仕事をたくさん残したと思う。もちろん、内面は見ることができないという前提のもとであるが。

Photo_18奥の部屋に飾られた、やはりもう一つの、青りんごの図も良かった。こちらは鉛筆画に、淡い水彩が乗せられただけの未完成の魅力を見せるものだった。

北海道というテーマでは、アイヌの模様が模写されていた。一見、単純な左右対称の唐草的顔模様なのだが、細い線で加えられた重層的な非対称線が描きこまれていて、複雑をいかにシンプルに見せるのか、という練習を行なったかのような一枚だ。Photo_19玄関を出て、裏山に通ずる林を振り返ると、鳶が山腹に沿って、弧を描いて、吹き上げてくる風を楽しんでいた。

Photo_21いつもの県立美術館脇の小径を抜けて、海に出る。この気温のせいだろうか。サーファーたちが極めて多く、一色海岸全体に展開していた。波は荒く、天気は良く、風は少々強い。日本の海岸特有の小波を捉えて、数十メートルほどのサーフィンを、あたかも無窮動のように、サーファーたちは楽しんでいた。

妻は、相変わらず海を見ていると、びくとも動かない。Photo_22海岸に座り込んで、時間のない世界に入っていた。


Photo_24仕方ないので、海岸へ降りる階段に陣取って、カメラを繰っていたのだが、それも飽きてしまって、散歩者の人びとを見ていた。

Photo_48海と風と、そして心地良さとが、すっと流されて、ちょっと先を漂っている感じだ。Photo_50

荷物の中にいれてきたコーヒーを急に思い出し、一服ついた。

座り込んだ時には、まだまだ太陽は空の上の方にとどまっていたのだが、目を瞑って、顔全体を海の方へ突き出し、想いに耽っていたら、何時の間にか、陽が傾き始めていた。Photo_31
Photo_51その頃までには、何回か、もう少しと言われていて、まだまだ動く気配を見せなかった妻も、ようやく腰をあげた。

Photo_34県立葉山公園に着く頃には、もうすこしだ、ということで、夕陽の沈むのをみようということになり、公園の階段に陣取る。


Photo_36なぜか外国人のバイオリン弾きがいたのだが、彼女が低音の音楽を奏でているうちに、すっかり陽は落ちた。Photo_38


それと共に、それまでは、富士山は霞の彼方にあり、輪郭のはっきりしないものだったのだが、後ろから照らされて、くっきりとした影を浮かび上がらせていた。Photo_40







Photo_45思いも掛けない、夕陽ショーに立ち会い、何時間もの海の眺めと、心地良い強い風と、なにもかも十分に堪能した、今日一日だった。

2011/10/15

収穫の時

Photo_4収穫の時を迎えている。写真に写っているワインも、さることながら、論文も仕上げの季節を迎えている。

今日も、東京文京学習センターで修士の学生たちとゼミナールを開催した。先週は、卒業研究のゼミナールを行なったから、二週連続となる。

この季節のテーマは、「問題提起と結論」を整えることとしている。例年みていると、仕上げにもいくつかのタイプがあって、なかなか一律にはいかない。けれども、一般ルールからすれば、問題提起と結論を定めて、中間の文章を整えていくのが常套手段だと思われる。

あと二ヶ月というところでは、書き始めてしまうと、なかなか止まらずに注意を引くことはむずかしいが、この時期であれば、まだパテの時期なので、どうにか形を変えることがまだ可能だ。

そこで初心に、帰って本当のところ、なにを書こうとしていたのか、もう一度考え直してみるのも良いと思われる。毎年みていると、この辺で文章を蓄積していって、後戻りできなくなってしまう人が見られる。

などと、言うのはやさしいが、一筋縄でいかないのが、論文の面白いところだと思われる。ちょっと変えてしまうと、全体に影響を及ぼしてしまう性質を持っている。これまでの調子を持続すれば、かなり良い論文になるな、と皆に思われていた論文でも、どういう訳か内容は良いにもかかわらず、問題提起でその重要な中心点がうまく押し出されていなかったりする場合が現実にあるのだ。

Photo_5なぜ論文において、先人の書いた論文が重要な意味を持つのか、ここで複数の考えが総合されて成立するのが論文の醍醐味 だと思われる。理科系の論文では、よく言われることだが、それは一枚でも立派な論文があり得る、という言い方をしている。これも、一枚に凝縮されていることは認めるにしても、その命題を立てる際に、皆が納得している問題提起が行われているから、一枚でも論文になるのだといえるのではないだろうか。

2011/10/14

映画「アリス・クリードの失踪」

三人しか登場しない映画である。これだけでも、「映画的」映画として、観る価値がある。けれども、役者さんたちをみていると、何となく舞台演劇だったのかな、と思ってしまうところもあるのだが、その辺はあまり気にしないでおこう。

映画「アリス・クリードの失踪」を観る。先月ごろ、千葉劇場にかかっていたのを見逃してしまったのだ。それで、地元の名画座「ジャック&ベティ」でかかっているというので、買い物などを自制して、講義のあと、さっそく駆け付けた次第である。

途中、黄金町駅近くで、学生時代から気になっていた建物があって寄る。ちょうど電車の高架からその仕事場が見えるのだ。窓が異様に広い、というのが気になっていた理由なのだ。いつもその窓が空け放たれていて、中で職人たちが動いているのが分かる。大きなテーブルと衣類の山の間を職人たちが巡っていたのだけれども、何の仕事場なのかは、ずっとわからなかった。

ちょうど映画が始まるまで、時間が空いたので、尋ねて見た。どうやら、現在は持ち主の事業が不振で、この仕事場は使われていないらしい。と隣の宝石屋さんが教えてくださった。衣類の仕上げを行っていた仕事場らしい。大勢の人びとがここに結集され、そして、去って行ったと思うと、何となく愛おしいような気分になってしまうのだった。このような減価償却の終わって、再利用を待っている建物が何となく好きなのだ。この黄金町には、そのような再生プロジェクトが起っているので、この建物もぜひ加えていただきたいと、勝手に思ったところなのだ。

さて、映画のほうだが、三人しか出ないからと言って、話が単純なわけではけっしてない。ヴィックとダニーという二人の男性の誘拐犯が、金持ちの娘で勘当されているアリスを誘拐する。ここから、すべてが始まる。次第に、三人にはそれぞれ関係がある、あるいはできることがわかってくることになる。

最初は、それぞれ別々の人格であり、強いて言えば、犯罪関係で強制的に結ばれた人間関係として、映画は始まる。ところが、次第にそれぞれの人間関係がわかってくる。AとBは愛人関係であり、BとCも「愛人」関係にある。AとCだけが他人関係にあり、開かれた関係にある。さて、Bはどうするのか。

けれども、ここに誘拐という犯罪と、金という利害意識が絡むことで、人間関係、信頼関係が微妙におかしくなっていく。最後は、開かれていたAとCとの関係が閉じられて、めでたく物語は終結するのであるが、その中身はここで言ってしまうと面白くないので、明かすことはしないが、一つだけとりあげるとすれば、やはりこれだろう。

愛情という人間の関係性には、一つの愛の中でも、いろいろのバリエーションが可能だということだ。その結果、愛が理由となって、犯罪が起こることもあり、愛が理由となって、犯罪を糾弾することも出来るのだ。したがって、愛の物語であっても、内容はたいへん複雑である。愛の物語の中で、信頼関係の物語が育ち、さらにいつ裏切られるのかわからない、不信の物語が幕を開けることになるのだ。ふつう、物語は外部へ外部へ、夢のまた夢へ展開して、わたしたちの欲望を満足させるのだが、この物語は三人に限ったことで、内部へ内部へ展開していき、内部の世界の奥深さ、空虚な広さをかえって明らかにしていると思われる。

最初に、三人だけの世界を作り出す、映画的手法が面白かった。まず、二人が登場して何を行うのかというと、スーパーへ行って、部屋を外界から遮断する防音材、壁材を買ってくるのだ。これでもか、これでもか、というほど、三人だけの世界を強調してから、物語が始まる所が映画的だな、と感心してしまった。

2011/10/11

映画「エンディングノート」

Photo映画「エンディングノート」を観る。午前中、どうしても書かなければならない、という仕事があったので、それを終わらせてから、電車に飛び乗って、千葉へ向かう。もちろん、書かなければならなかったのは、エンディングノートではないのだけれど。千葉劇場が会場だったので余分に時間がかかると思い、急いだことが幸いして、少し余裕を持って千葉駅に着いた。おかげで、千葉駅近辺で買物をする時間ができた。

この季節で気になるのは、今年の勝沼ワインはどうかな、ということだ。ボジョレーの騒ぎに乗るつもりは無いが、同じ趣向なのかもしれない。昨年は、宅配便で取り寄せたのだが、今年は関東圏での店がいくつかわかってきたので、そこを覗いて、たまたま欲しい銘柄が置いてあるかどうかを楽しみにしている。

今日は、大当たりだった。デパートの地下で、授業番組でも取り上げさせていただいたC醸造のGという、一般向きだが、喉が唸るような美味しいワインを手に入れることができた。棚に置かれた瓶も、すでに前面の何本かがなかったから、この銘柄を目当てにくる客が少なからず存在するものと思われる。

さて、千葉劇場には、固定ファンがついていて、いわゆる名画座の雰囲気を残している。名画座の雰囲気とは、封切りの人気映画だけを見るのではなく、個人的に選択した映画を見ているのだという、ある種の幻想を伴っている雰囲気である。だから、そこには、映画を観るという直接的な効用以外にも、同好の士が集まるという間接的な効用があるのだと感じている。

それで、今日の「エンディングノート」という作品は、たいへん面白い点を想起させる。エンディングノートとは、気楽に書く、非公式の遺言状のことだ。このノートを書くのは、本人なのだが、実際に書かれたことに従って使うのは、残された者たちであるのだ。この意味では、通常の「ノート」という、個人使用のイメージではなく、むしろ周囲の人たちに影響力を及ぼす、「手紙的」なものとしての性質が強いものだといえる。人びとを媒介することを通じて、かなりの影響力を行使する、第三者として現れるかもしれない、という可能性を、エンディングノートは持っているのだと思われる。

もっとも、本当に親しい人であれば、かつては日常のつきあいでわかっていたことを改めて公式的な遺言ということで、残そうというのだから、現代のコミュニケーション不足の時代を反映していると見て良いだろう。また、他方で、完全な公式性は持っていないので、少しばかりの非公式性をも兼ね備えたものとして、エンディングノートは存在していて、その点でもきわめて現代的なモノであり、また現代的なテーマでもあるといえよう。

映画の中で、主人公が仏教徒であるにもかかわらず、カトリック教会で葬式をあげたいということになり、主人公の娘がインタヴューをして、なぜキリスト教で葬式を行うのか、を問うている。三つの理由を答えるのであるが、このやり取りに、公式、非公式の微妙な違いの現れているのを見ることができる。その場面は、観てのお楽しみなのだが、フィルムに載ることと、載らないことがあり、けれども、載せてしまうことは可能である、という映像ならではのやり取りがあって、プライベートと公共の情報のあり方で、興味深いものがあった。

この映画は、砂田監督が主人公の次女として、プライベートに撮り続けてきたフィルムが元になっているのだが、このような映画と成るについては、是枝監督のプロデューサーとしての手腕が効いているのではないかと想像できる。彼の作品のなかで、ドキュメンタリー志向の部分をこれまでも何回も試してきていて、現実と映画の垣根を超える、というか、リアリティのある映像空間のあり方のひとつの提案があるのでは、と思われる。Photo_2それは、この映画のナレーション担当を砂田監督自身に行わせているところに現れている。主観をちょっとズラせるのだが、あまりズラせないところに、現実が存在する、とでも言うようなリアリティだ。

最後の場面で、主人公が亡くなって、周辺を漂っているかのような、映像があり、もうまもなく自分にもこのような風景が訪れるのかと思うと、妙に納得する映画となった。

Photo_3帰り道、いつもの焙煎屋によって、珍しいエルサルバトルの豆と、セールのブラジルを購入する。ブラジルは浅煎りにしたせいか、アメリカンとして飲むと、少し草の香りのする、特徴ある味を出していて、昔よく飲んだ味が再現され懐かしい感じだった。

2011/10/01

文京での研究会

10半年振りの「比較地域研究センター」の研究会である。第三回になるが、幹事の方々も忙しい中、連絡を取り合って準備に余念がなかった。

地下鉄の中で、F氏とあって話していたら、文京での会合は初めてだということで、このゼミナールの思い出を考え直してみると、近年になってようやく東京を本拠とする様になったのであって、それまでは神奈川を中心としていたことに思い至った。

今回文京での学習センターが新築となって、ゼミをここでまた開くことができるのは、ゼミが定着する意味でも、たいへん良いことだと思われる。社会人の方々が集まるには、やはり地理的な条件は重要だと思われる。

Photo_16第10講義室は、前回の大学院ゼミナールでも使ったので、二度目だ。廊下との境の壁も、ガラス戸なので外を歩く人たちが見えてしまう。今日は、筑波大学の学生たちが多かったので、顔見知りは居なかったが、これが時間が経ってきて、顔を知った人々が、授業中に外をどんどん歩いているようになったら、どういうことになるのだろうか。それも、気にしないほど、講義に集中しなさいという、環境設計であると解釈しておこう。

さて、研究会発表のほうは、刺激的な論題が並んでいたので、活発な質問が飛んだ。今はまだ、発表会だけだが、そのうち議論が発展するような形式も試すことができるかもしれない。などという、期待を持ちながら、聴いていた。

Photo_17K氏は、SNSの最近動向を報告してくださった。Kさんは、ワーキングプア問題を、さらに、Y氏はシェアカルテルの問題を発表した。それぞれの異なる分野の問題であるが、それをすべて引き受けてしまうのが、放送大学学生の包摂力のあるところだと思われる。

終了後は、地下鉄の駅の下にある居酒屋で、意見交換会。ちょうど前の席に座ったNさんとKさんは、キリスト教に詳しいので、先日のピエタ問題についていろいろと教えてもらった。ひとつわかったことは、マリアの位置づけである。旧教では、マリア信仰がたいへん強いとのことで、その意味でも先日のような家族関係的なピエタ解釈は、意味のあることらしいとわかった。

この席で、読書会を企画していることを話し、どのような傾向の本をみんなが求めるのだろうと興味があったので、リストを示して、投票をしてもらった。純粋な経済学の本も少なからず人気があったが、今日的な高齢化や、支援学のような分野の本にも票が集まったのは、やはりご時世と言えよう。

来年の早い時期の開催を目指して、すこし調査をして、企画を練り上げることにしたい。手伝っても良いと思われる方がいらっしゃったら、加わっていただきたいと思っている。この企画も、一応、今日の比較地域研究センター内の動きだという、了承は今日受けたところだ。

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プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。