« 黄薔薇 | トップページ | 最後まであきらめず »

2011/07/12

ネットワークの美

映画「Biutiful」を観る。映画のローマ字表記がそのまま映画の題名になっているのは、綴りを間違えているからであり、それが映画全体を表しているからである。家族という美しいモノを夢見た「娘」の描いたとおりには行かず、表記を間違えたように、現実も名称とずれて進んでしまうのだ。

主演の父親役バルディムは、このような現実と夢の境目を演じさせたら、右に出る者がいない役者だ。これまでも印象に残る演技をたびたび見せている。映画の中では、死んだ人の霊と交換できるという能力を持っている。天井に死者が浮かび上がり、夜になると黒い蛾となって、現れる。

彼は、そこで死んだ人、あるいは死を迎えるであろう人とのネットワーク作りに秀でている。けれども、彼が媒介することで重要なことが明らかになってくる。あくまでネットワーク作りであるのだが、ほんとうのところは、逆にネットワーク崩壊の物語であるのだ。近代という物語が組織形成の物語であったのだが、それは同時に家族崩壊物語であることは多くの論者たちが言っていることだが、さらにネットワーク崩壊の物語が語られるのが、ポスト近代という物語だ。

主人公が取り持つ、アフリカ系不法移民のネットワークは路上販売のやり過ぎで、崩壊して行く。それを支えていた警察ネットワークも脆かった。さらに、最も主人公が思い入れをしていた、中国人ネットワークは最悪の結末を迎える。それらに隠に陽に、媒介者として、主人公は関わって行くことになる。けれども、最も重要なネットワークは、本人が当事者である、彼の家族ネットワークであり、子供二人と妻との関係には涙が出てきてしまうほどの関係を示すことになる。

出だしと最後の同じシーンが効果的であったかどうかは分からない。すでに霊媒者としての能力を超えた領域に入った時には、主人公の霊媒能力も限界に達するものという解釈だろうか。ネットワーク破壊者であっても、極限の古典的ネットワークである家族ネットワークは破壊できないという隠喩なのだろうか。ネットワークというものの利点は、集団効果にあるが、同時にネットワークの欠点も集団効果にあるのだ。個人を飲み込む存在であることは確かだ。

« 黄薔薇 | トップページ | 最後まであきらめず »

家族関係」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/173786/52212043

この記事へのトラックバック一覧です: ネットワークの美:

« 黄薔薇 | トップページ | 最後まであきらめず »

社会経営研究配布中

  • 2015study

社会経営ジャーナル配布中

  • 2015journal

開いている講義    「社会的協力論」

  • cooperation

「音を追究する」第13回・第14回

  • art

「多様なキャリアを考える」第2回・第3回・第4回

  • cooperation

「グローバル化と私たちの社会」第11回

  • cooperation
2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            
無料ブログはココログ

Recommend

プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。