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2011年6月に作成された投稿

2011/06/27

日常生活の奇跡

最近、意味わからないということをメールで言われたことがあって、その方がコミュニケーション関連の専門家だったので、字義どおりに受け取って、意味について返信したところ、どうも上手くこちらの意図が伝わらなかったことがある。

是枝監督「奇跡」では、この「意味わからない」が多用されている。いろいろな意味に使われていて、かつての使い方からすれば、ほんとうに「意味わからない」のだが、どうやら、「不満である」、「気に入らない」という意味に近いと思われる。

このような意味のズレは、当然折り込み済みなのだが、それでも「意味わからない」という言葉が、意味を問題にしているのではないと知ったことは、現代社会の現状を知る上でたいへん象徴的なことではないかと考えられる。映画の中に記録することに値する現象だと思われた。

映画「奇跡」では、じつはこの言葉に象徴させられているように、個々の意味はそれほど関係ない。むしろ現実が進んで行き、子供達がその現実の中から、自分たちの進むべき道を柔軟に選んでくることが、「奇跡」であり、言い換えれば「希望」であると、言えるのではないかということである。何か企てを行ってはいるが、奇跡的にそれが変わるわけではないことを淡々と描いている。この手法は、彼の過去の作品である「歩いても歩いても」に共通している。

中で使われているインタビュー方式も、それほど新しいわけではないが、子供に対しても、どの程度この手法が使えるのかというところだと思われる。ところで、家族が離れ離れになって行くことをどのように解釈したら良いのか。主人公の子供達がどのへんで現実と折り合いをつけたら良いのかというところが見所だと思われる。

田舎の夫婦だけの家に、偶然子供達が飛び込むと、そこに思いもかけなかった人間関係が成り立ってしまうのだ。このような田舎では日常当たり前のこと自体が、ほんとうのところ「奇跡」なのではないかと思われる。

2011/06/24

鳥と虫、自然との出会い

さて、長谷川潔展の最終日が迫ってきてしまった。大回顧展だというので、どうしても行きたかった。以前、山梨美術館で、水彩画特集を行なっていて、スペインだったと思われるが、素敵な街並みの一枚を見たことがある。版画家のイメージが強いが、今回は幅広い作品が展示されているらしい。水彩画も期待できるかもしれない。

以前、神奈川学習センターに勤めていた時代に、地域発信の面接授業シリーズを企画して、美術館と博物館と、各種の資料館にお願いして放送大学の面接授業として、連続した講義を受け持っていただいたことがある。

当時の執行部とは、逆行した方向性だったので、その後すたれてしまったのはたいへん残念であった。その講師陣の中に、当時横浜美術館に所属していたS先生がいらっしゃって、長谷川潔の研究書を出版なさっていた。講義もお願いすることになっていたことを思い出した。

初期のぼかし絵彫のところで、明らかにそれまでと異なる転機が生じていると思われた。もちろん、絵心というのか、あらゆるものを絵として捉える考え方は、銀行家の裕福な家で育って、小さな頃から身についていたらしい。この時代だけでも、見る価値があるが、やはり詩集や書籍の装丁を受け持ったというイメージの想起には、想像を超えた絵心が発揮されているように、素人目にも感じるものがある。

Photoたとえば、鳥に喰われた虫の図。彼は単純な構図の中に、自然界と人間の想像力の交錯を一瞬のうちに成立させてしまっている。デザイン本能というものがあるとすれば、まさにこれがそのようなものに違いないのではないか。自然との出会いにおけるほとばしりが象徴的に見て取れるのだ。

樹が語りかけてくる「ボンジュール」。という作品なども、精神の自由さを感ずる作品だ。自然界と波長があってしまうという、状況が微笑ましく、想像するだけで、こちらの精神にも影響を及ぼすものだ。自然界のものには、そのような意味で、何か欠けているものがあり、それを満たすことが出来るのが、絵心なのかもしれない。

実際のところ、相手が人間であったとしても、向こうからの働きかけを聴き、適切に受け取り、それに徹するということはかなり難しい。日夏耿之介や堀口大學たちの声はいかばかりであったことか。これまで見えなかったものが、見えてくるというのは、わたしたちが論文を書くときにも感じることであり、論文を書く一つの動機でもあるのだが、それと同じようなことが生ずるらしいことがわかって、面白かった。残念ながら、期待していた水彩画の一枚は展示されていなかったが。

2011/06/23

マンゴープリン

Photo_14W大の講義が終わって教員ロビーへ戻ると、O先生が甘いものがあるというので、研究室へ伺う。日本橋S屋の「マンゴープリン」が用意されていて、先日のクリームソーダのお礼だとおっしゃる。ありがたく頂く。いくら甘党の方でも、いつでも冷蔵庫を開ければ、S屋のスウィーツが出てくるのであれば、さすがW大はいかばかりかというところだが、これは頂き物だそうだ。

それで、この後甘いものを前菜として、この勢いで、食事に行こうということになって、神楽坂方面に戻って、洋食屋のBへ入る。この店は、O先生のブログにはあまり登場しない。来店は二度目とのことだ。入って、すぐにステーキを注文する。それも、後でわかったのだが、一番高いヒレを頼んだらしい。柔らかい肉だが、ボリュームがちょっと心配だ。わたしは慎ましく、ポークソティのトマトチーズ焼きにしたのだが、こちらも食べてしまえば何ということもなかったのだが、それでもかなりのボリュームだった。

O先生は、セラピー文化に詳しいので、わたしの職業論にかこつけて、セラピストがなぜこんなに増大してきたのか、ということについて、質問と議論をふっかけてみた。O先生は甘党なので、アルコールが入らずとも、すっとこのような雑談に入っていく。わたしは白葡萄酒を少しという状態であったので、ちょっと息抜きはできたが、議論に入るには、ちょっとという状態であったが、お伺いするほうとしては贅沢は言えない。

わたしは、セラピストについて詳しいわけではないので、どういう職業なのかという基礎的なことも含めて、話を聞けたのは良かった。基本的には、セラピストはクライアントの話をありのままに聴くことから始まる。つぎの段階として、次第にクライアントが「語り直し」をはじめるのだそうだ。現実の生活で行き詰まっている人びとが、語り直すことで、生活を複数化出来るのだという。この「語り直し」にセラピストが「承認」を与えることで、これまで行き詰まって自信喪失状態に陥っていた人が、自信を回復することが出来るのだということである。

ここには、素人考えで申し訳ないが、二つの過程が含まれているように思われる。ひとつは、セラピストの消極的な役割である。つまり、ひたすらクライアントの話を聴く過程である。けれども、現代的だなと感じたのは、「語り直し」から、「承認」に至る過程である。これはセラピストが「承認」を通じて、本人に相当な影響力を積極的に行使する過程である。

O先生へ質問をしたのは、この「承認」という過程は、自分でやってはいけないのか。あるいは、最も近しい家族がやってはいけないのか、ということである。自立してできたり、家族との間で、自信回復ができるのであれば、現代ではセラピストが必要ないだろうというつもりだった。ここでは、個人の内面や、家族関係に問題が生じて、ここでの相談を必要としているからこそ、セラピストが増大しているのだということらしい。

近代社会のインフォーマル問題が、このようなセラピストという職業の必要性を生み出しているということだ。職業論的にいえば、このような近代化の生み出した職業は多くの場合未完成で、完結されない過程を多々含むようになっているということだと思われる。

2011/06/22

温泉三昧

Photoこのところ、本を読んでも、展覧会へ行っても、別府の話がどこにでも出てくる。ある年齢に達した人がかならず行く場所として、別府が存在するらしいことがわかってきた。たとえば、妻から借りて読んでいる須賀敦子のエッセイでは、阪神圏の人びとが新婚旅行に選ぶ場所として、かの地があることが知れる。

Photo_2また、駅の北側のゆるやかに続く坂道を登っていくと、いつの間にか邸宅街を歩いていることに気づく。火山から噴き上げられ、坂道を転がり、川に洗われた岩たちが塀として積み上げられ、それ相当の大きな面積を区画していて、Photo_3人生で成功を収めた人たちが、余生を過ごそうと作った別荘や、公共施設、図書館、児童館がどっしりと並んでいるような街が急に目の前に現れるのも、別府の街らしいところである。

Photo_4今日は雨も止んで、朝日を見せ始めている。駅前からバスに乗り込んで、先日見た最多の湯煙の中心、鉄輪温泉へ向かう。直前まで添削に余念がなかったのだが、この通信添削の束も後すこしとなって、どうやら期限に間に合いそうである。日本全国から集まってきた通信問題が、さらに温泉を旅して、学生の方々の元へ帰るのだ、と考えると、温泉の香りを付けたくなるが、やはり答案は神聖かつ冒すべからざるものであり、おいそれと持ち歩いてはならないという不文律があり、金庫にしっかりと保管して出てきた。気分だけでも、仮託することにしよう。

Photo_5鉄輪温泉には、大小さまざまな宿泊所が並んでいて、たとえばバスを降りたところに「いでゆ坂」という名称の石畳の小道があり、その両側には、民宿風の小さな宿舎が並んでいて、長逗留するには、このようなところが良いのだとわかる。骨董屋さんがこのようなところには散らばっていて、観光客の虚栄心をくすぐる。

Photo_6H温泉に入ることにする。砂湯が特徴であるときいていた。風呂番がいて、スコップで砂をかけてくれるものと思っていたが、いまはセルフで行うらしい。砂湯に入る前に、すでに汗をかPhoto_7かせる仕組みになっているのだ。腰から温まっていく。次に、お腹の芯が温かい。腕にきて、足に来て、そのころには、全身からどっと湯水のような汗が出るのだが、砂地がいとも簡単に吸い取っていく。ミイラ状態になるのも、間近になったころ、砂を落として、浴衣と紙の下着を脱ぎ捨てて、露天風呂に入るのだ。

Photo_8この後は好みなのだが、ひようたん湯、檜風呂、岩風呂と続くが、なんといってもお勧めは「打たせ湯」だ。写真で見るように、何の変哲もない上から湯がおちてくるだけではないかというのは簡単だが、ちょうど落下を始めて、肩に届く頃に重力が神の力を加えて、肩に作用を及ぼすのだ。肩こり症のわたしPhoto_9にとって、この打たせ湯が自然法則から精神法則を解放するものとして働く調和の気分を与えてくれるものであった。

Photo_12太陽が出てきても、すでに出る汗もないほどに、すっかり毒素を吸い取られて、にわかに昼食を求めるモードへ入りつつあった。

別府の街には、すでに減価償却を終え、十分に元をとって、それでも余裕があって利用されている建物がたくさんある。経済衰退期の有効なモデルである。そのひとつ、喫茶店「アホロートル」へ入る。

Photo_13バッハの無伴奏チェロが聞こえてきた。ここでは野菜カレーを食べた。写真のように、目に鮮やかなカレーだった。もちろん、美味しいのだが、ふつうカレーはご飯用にかかっているのだが、ここのカレーは野菜用にかかっている。別府最後の珈琲もじっくりといただく。

長屋の二階に厨房をはさんで、日本間と洋間の部屋があって、公共空間として申し分ない。切り離されていると同時に、なんとなく聞こえてくる「圏」を構成している。これは街全体がこの雰囲気を保っていて、観光客というよそ者をたくさん受け入れると同時に、町内会の堅固な組織「組」や「班」も維持されているらしい。Photo_10これだけでも稀有な街なのだが、それが衰退しつつある街なのかと言われると、そうではなくなんとなく豊かさも感じる。衰退の歯止めとなるような、幾多のものがまだ相当残されているらしい。

Photo_11さて、なごり惜しいが別府の街ともお別れだ。N事務長は、わたしたちを「別府冷麺」の店に昨日連れて行こうとして、残念ながらその店がお休みだったのだ。冷たいスープに腰のある麺であるという、まぼろしの別府冷麺を楽しみに再来を期待しつつ、街を後にする。

2011/06/21

大学訪問

今日は、朝の9時から一日中、勤勉に働いた。大分学習センターN事務長に連れられて、放送大学本部の連携教育課O氏と一緒に、午前中は別府市のはるか雲の上にある、「天上の城」の雰囲気を持つRA大学を訪れ、午後には放送大学が職員の方々と敷地とをお借りしているB大学、そして国立大学のO大学を回った。Photo_7じつはわたしはなぜか、大学間の単位互換などについて話し合う放送大学の「連携企画委員会」に、当初から所属していて、最右翼(?)を形成していて、機会があると大学訪問することになっていた。

Photo今回のRA大学への訪問は、たいへん期待していた。放送大学が行なっている「単位互換モデル」には、通常2種類ある。相手先の大学が、放送大学の単位を取る場合に、(1)手を掛けて支援体制を強く持つタイプと、(2)学生の選択に任せて自由に単位を取らせるタイプである。RA大学は、後者の典型であり、自由に科目登録させている。単位取得に対してほとんどサポートは行なっていないのだが、なぜか数百人の規模で互換が成立している。どうしてこの大学では、多数学生の単位履修が可能なのか。企業秘密?に属することなので、詳細には言えないが、この大学が多様性を追究しているからだ、といえるのではないか。今回のヒアリングでも、期待通りに、認識を新たにする素晴らしい知識をたくさん仕入れることができた。

Photo_6じつは、単位互換の多様性モデルは、知識社会論を展開する場合にも、有効な考え方であり、知識の多様化現象を研究対象としている、わたしにとっても、たいへん参考になるところである。対応してくださった、F先生と優秀な事務スタッフの方々に感謝したい。

Photo_2写真でわかるように、別府湾がはるか遠くに見える。温泉地帯を縫うようにして、山を自動車で登っていくと、ほぼ頂上地帯にある。山の上を切り開いて作った高原に、校舎のビル群が並んでおり、隣接するところに鉄橋が掛っていて、高層の学生寮が建っている。アメリカ型の郊外型大学と同じで、勉強だけに専念するようなキャンパスになっている。Photo_3


B大学は、山を下りて、市街地の中にある都市型の大学である。上記の(1)のタイプの大学で、専任の先生が係りとなって、放送大学の授業を勧めている。じつはB大学理事長のH氏は、放送大学の大先輩にあたる方である。仕事の話もきっちりさせていただいたが、同時に、昔話にも花が咲いた。20年前の放送大学のことに話が及ぶと、忘れていたような様々なことが思いだされてきた。Photo_5そのなかのひとつは、もう時効が成立しているから明らかにされても許されると思われるが、わたしが知らなかった事件で、口髭切除事件というのがあったそうだ。ある先生が当時口髭を生やしていて、飲み会があった後、酔っ払った勢いで、誰かが切り落としてしまったとのことだ。さて、誰のことだったでしょうか。当人と思われる人物に、酒の席で一緒になったら、詳しく聞いてみたいものである。このことを含めて、他の様々なことについて、H氏の記憶力の良さに驚かされた次第である。放送大学も、そろそろ30年史編纂を考える年代に入ってきている。記念会には、ぜひいらっしゃっていただきたいと思う。

2O大学へは、大分市に戻っての訪問となった。副学長のO氏、理事のI氏など、はじめは挨拶だけということだったが、つい質問することが多くなってしまった。ここでも人間関係の不思議さを再認識することになった。放送大学の前理事長が非常勤の理事になっているのは、不思議ではないが、歴代の訪問者の方々が植樹を行なう習慣があるらしく、梅の木がたくさん植わっていた。また、O氏の知り合いが放送大学にいらっしゃることも知らされて、大分コネクション恐るべし、との感想を抱いて失礼した次第である。

Photo_4さらには、N事務長の奥さんにも、車の世話をしていただいた。大分・別府地域にどっぷりと浸かった、濃厚な一日となった。O大学のことを、「ぶんだい」と呼ぶことは初めて知った。奥さんをはじめとする、分大コネクションにも、ほんとうにお世話になりました。

2011/06/20

別府の街歩き

Photo_10別府の町歩きに、ようやく陽が頂上を極めるころ出発した。温泉に入りたいのはもちろんではあるが、雨が降り続いていたり、午前中に通信問題の添削を行なったりして、機会を逃してしまった。けれども、別府の街そのものに関心があった。とりあえず仕事を閉じて歩き始めたのだ。

Photo_14普通、温泉地へ行くと、その中心は源泉のあるところとなる。ところが、別府は湧出量が世界最大級であり、多発的な源泉で有名なところである。普通の温泉地と圧倒的に違う点は、中心地が複数あることだ。別府八湯という言い方は、もちろん数えれば、鉄輪温泉や観梅寺温泉、明礬温泉などの八つの主たる源泉があるのだが、ヤマタノオロチがそうであったように、多様な混沌がここには含まれており、多様だからこそ、そこの特有の固有性の存在することも示していることだろう。Photo_29山側に5つ、海側に3つということになっているが、そのなかにも他の地方であれば、当然中心地を占めるくらいの立派な温泉が無数に存在する。無料や100円という入浴料の温泉が至る所に用意されている。

宿舎を出ると、別府の繁華街である北浜なのだが、そこにヨットハーバーと公園があり、かつてフランス大使だったP.クローデルが2度ほど訪れたという石碑が立っていて、詩が掲げられていた。

Photo_11神は細部に宿るという、ひとつひとつの街の中心を観ていくことにする。つまりは、近くの温泉から攻めるのが鉄則である。ホテル近くに、竹瓦温泉という、かなり古い建物が残っており、ここから始めることにした。ところが、隣接した地域が、朝から風俗の店であり、客引きがたくさんいて、白昼堂々次から次へ声が飛んでくる。ちょっと通りを通り過ぎるだけで、5,6人から声を掛けられるのには参った。温泉には朝風呂という伝統があることは承知しているが、ここまで拡大されていると、不景気のせいなのか、それとも、伝統の為せるわざなのか、疑ってしまうところである。いずれにしても、需要がなければ、こんなに手の掛かる競争は行わないだろうから、そこそこの客がいるものと推測できる。

Photo_12竹瓦温泉の看板である「砂湯」に触手を伸ばしたが、まだ歩き始めたばかりだったので、遠慮して、温泉地の横丁歩きに精を出すことにする。多くはシャッター街を構成しているが、それでも大工が入って、再生を模索している部分もあり、この入り組んだ有機的構成を維持しているところは、まだ活力を失っていない、というより、むしろ衰退と再生に慣れているという印象だ。

Photo_16横丁歩きのジグザグで、途中市民浴場も見ながら、やはり温泉に入らねば、と念じつつ、横目で見ながら別府へ来た甲斐がないなとおもいつつ、駅を越えて、北側へ出る。山に向かって急な坂道がずっと続く。噴火山のマグマが扇状地を形成したとのことだ。万遍なく同じ傾斜の坂道が続く。そこを格子戸状の道路が行き交う。

Photo_15目的地は、レンガ建ての素敵な建物。これは京都大学の「地球地熱研究施設」である。歴史ある施設らしい。塔が顔のように見え、手を延ばしているように、建物が広がっている。一応、パノプティコン作りになっているが、見た目の感じは、童話から抜け出して来たおもちゃの建物のように見える。3宮沢賢治の童話で、みんなのために犠牲となる「グスコーブドリ」の務めていた火山局は、こんなに立派ではなかったかもしれないが、最初に見た時にこれではないかと感じてしまった。おそらく、火山局と同様にして、この研究施設の施設や思想は、この建物と地下を通じて世界とつながっているのではないだろうか。Photo_20これを少し小さくしたら、映画「グスコーブドリの伝説」のセットに十分使えるものになるのではないかと想像逞しくしてしまった。地域の小さな研究施設が、じつは大きな世界と繋がっているという想定は、小説的な在り方だが、ここでは現実的な気がする。

街歩きも今日の最北端まで来てしまったので、あとは転げるように惰性でどこへでもいってみようという気分になった。ひとつの目的さえ達してしまえば、あとは余裕である。

Photo_17目の前に大きなタワーが見える。ガラス張りのビルへ入ると、上まで登ることができるとのことである。高所恐怖症なので、ちょっと躊躇したが、エレベーターの速度はわたしの判断を上回っていた。このタワー側面は、地球全体の表面の一部を象徴的に表しているらしい。

Photo_19地元の人はこのような別府がどのような形態をしているのかは興味がないことはよくわかる。けれども、観光客にもまったく宣伝していないのは勿体無いと思う。地元の人びと以上に、観光客には受け入れられるのではないかとおもわれる。

Photo_18南に向かって別府湾が水平に開け、なだらかな坂道で市内全体が、展望できる。さらに、北には山が連なり、その谷群それ毎に、白い煙が上がっている。Photo_21この煙の数が半端ではない。景色の中に動くものが存在し、それらが地域の中心を表していることを示しており、壮観な眺めである。これらの湯けむりの最大規模のものが、鉄輪温泉であるとわかったので、いずれ訪れたい。

Photo_22戦後進駐軍が駐留していて、現在は綺麗で広大な公園になっている「別府公園」を越えて、隣接する喫茶店「グリーンスポット」を訪れる。雨は相変わらずポツポツと止まない。苦味系を得意とする、御三家タイプの美味しさを追求している焙煎屋さんである。店内にはダッチコーヒーの立派な装置が置いてあった。地元の客が仕事の合間にちょっと息抜きするということで、来店するらしい。こんなにわかりにくいところにもかかわらず、美味しさだけで客が来るというのは喫茶店冥利につきる。

28夕食は、地元の人びとが通う「N」へ入る。Photo_23入口が二つあるような、かつての造りが二重になってしまったような、わけのわからない構造の玄関から入ると、Photo_24ドンドン太鼓が鎮座している。昔は、客がはいるたびに鳴らしたとのことだ。テレビを見ながら、客同士おしゃべりしながら、カウンターで食べる。今日一日、別府の街を振り返りながら、焼酎のお湯割りを注文する。Photo_25きょうの料理はとり天、刺身、砂肝、そして野菜少々とだんご汁。Photo_26昼間めぐった小道を縫うように、アーケードを歩いて帰る。出口にあるジェラートの店「G」でアールグレイのアイスクリームを食べていると、北浜の魔法使いが、箒にのってやってきた。

Photo_28別府の街は、温泉を豊かさの根源として、温泉中心に自然に発達しているところに強みがある。だから、繁栄しすぎたところが、たとえ衰退期を迎え、シャッター街が多少目立つようになったとしても、まだ十分長く耐え得ることができる構造を持っている。Photo_27しぶとさとユーモアの余裕が感じられる街だった。

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2011/06/19

大分での雨と、面接授業

また雨である。熊本在住のH先生からの便りが届いた。九州では、週末の天気は最悪のようである。わかっているのだが、今回もこれほど降るとは思わなかった。

朝、バス停へ行くと、宮崎県からこの授業に参加しているKさんと会う。7時の段階で、九州新幹線が止まっていたが、それは熊本と鹿児島に影響が出るだけで、大分には影響が及ばないことがわかった。それで、二ヶ月続いての面接授業中止を免れて、ほっとしたところだった。

今回は、他に長崎から参加して来ているTさんがいるが、親戚の車で学習センターへ行くそうだ。それ以外はほぼ地元の人なので、何らかの形でバスに依存しないで車の調達がうまく行くらしい。

Kさんとバス停で降りて、学習センターへ向かって歩いていると、すっと車が止まって、こんどは他の学生の方が送ってくれた。車の有効な利用を心得ていらっしゃる方が多い。つまり、大分ではほぼ車で行くことが当たり前で、学生も職員も車は手足同然なのだ。大分は完全なる「車社会」である。残念ながら、わたしのように車をもっていないし、免許も持たない人間はお客さんとして扱うより他ないだろう。と考えたら、気が楽になった。

講義は順調で、ほぼ予定通り。結論に辿り着いた。新自由主義の30年間を説明する授業だったので、最後に学生たちがどの考え方にシンパシーを感じているのかを集計してみた。あらかじめ、新自由主義と比較した、社会民主主義、共同体主義、保守主義について、内容を理解してもらった上で、投票を行なった。

前回、新潟での集計では、新自由主義派が多かった。さて、今回はというと。社会民主主義派がほぼ半数を占め、次に共同体主義派が4分の1を数え、保守主義派、新自由主義派と続いた。学習センター所長のI先生から、大分では伝統的に、政治的には革新派が強いことを教えていただいていたが、今回についてはこのような結果が出て、たいへん興味深かった。最後まで講義に参加した学生たちはいつものように、最後は拍手で締めくくってくれた。職員Tさんをはじめ、職員の方がたにも、会場が変更したこともあって、すっかりお世話になってしまった。

Photo学習センターからの帰りは、N事務長に近くの「賀来駅」まで送っていただいた。電車が来るまで、時間が出来たので、近くにあるカフェ・レストラン「G」へ入って、雨宿り。講義が終わった後の、さあっと頭の中の記憶が消去され、Photo_2ストレスが昇華されていく仕合せな瞬間を過ごした。この瞬間には、やはりコーヒーとスウィーツがあっていると思う。窓の外は、大雨が続いているが、雨の音と、記憶の消去の音とがオーバーラップする。

Photo_3夜は、学習センターのN事務長に教えていただいた居酒屋「こつこつ庵」で食事をする。昭和レトロ調の建物が流行っていると聞いていたが、これほど見事に定着しているのは珍しい。よほど経営者が好きでなければ、こうはならない。

Photo_4たとえば、内部なので写真には撮れなかったが、昔の看板で「電線話機」と記したものがあり、電話機の語源はこれかもしれないと思った。当初の電話機を逓信博物館で見たことがあるが、一戸一戸がそれぞれ電線で繋がれていて、この言葉にぴったりのイメージであるからだ。今度、また語源を調べて見たい。

Photo_5注文したのは、大分の典型的な料理である関あじ、だんご汁などで焼酎を2杯飲む頃にはすっかり気分が良くなってしまった。この辺りには名画座があったり、他にも洒落た店が並んでいたりして、もし大分に住んでいたら、たびたび訪れることになりそうな地域だった。Photo_6アーケード街に戻ると、最後のコーヒーを飲みたくなって、ホテル近くの自家Photo_7焙煎の店へ行ったのだがすでに閉じていた。そこで、江戸時代の舟のモニュメント近くのオープンカフェに入って、しばし休憩。

Photo_8一日中立って、講義を行うために、面接授業では足がパンパンになり、これを沈静化しなければならないのだ。街を行く人びとを見ていると、関東の大都市には決して見ることがないおおらかさというのか、鷹揚さとでもいうのか、そのような余裕が街全体に漂っていて、Photo_9カップルたちもせせこましくなくオープンだし、夜が更けても、街のリズムが変わらない確かがあるように、思える。

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2011/06/13

映画を観る必要性

「社会の中の芸術」という授業科目を制作したことで、映画を観ることの教育研究上の必要性が格段に高まったといえる。経済学という立場で、絵画を見たり、音楽を聞いたりすることも、確かに研究の一部だと言えないこともないが、やはり、もし研究取材の理由として、コンサートへ行くなどということは、それがコジツケであっても、ちょっとした理由付けが必要になってくるかもしれない。

けれども、「社会の中の芸術」を制作していて、不断の研究の必要性があるから、といえば、この必要性はかなりの現実性を帯びて認められることになる、と自己正当化ができるのではないか。

今回は、ヘレナ・ノーバーグ=ホッジ監督の映画「幸せの経済学」を見ることが必要になった・・・。今日、新自由主義と共同体主義との文明論争が世界のあらゆるところで勃発している。この映画は、共同体主義の立場を鮮明にした点で、典型的な作りになっている映画だ。これほど典型的に、共同体主義を前面に出しているイデオロギッシュな映画は珍しい。

ヒマラヤの辺境の地「ラダック」に近代化の波が押し寄せる。彼らの楽園生活が一変し、消費文化は、自然との関わりを分断し、人びとの関係を断絶させる。彼らのローカルな地域生活や伝統文化の誇りもなくなった。そこで、ヘレナ・ノーバーグ=ホッジは、グローバリゼーションの対極にあるローカリゼーションを提案する。地域の力を取り戻す絆を強めていくとする。

グローバリゼーションの欠点を批判して、ローカリゼーションを称揚するという手法が貫かれている。今日、共同体主義を称揚する場合の見処はどこにあるかといえば、中世以来の強い倫理で貫かれたローカリゼーションから、どの程度逃れることが出来、洗練された抵抗を繰り広げることができるか、という点にある。ローカリゼーションの欠陥を批判して、グローバリゼーションが出てきたわけだから、単にグローバリゼーションを批判して、ローカリゼーションを称揚するだけならば、どうだろうか。単なるこの繰り返しならば、昔の共同体主義に戻りなさいということになる。

もちろん、これはこれで立派な議論なのだが、もし近代的なローカリゼーションを主張するのであれば、現代版のローカリゼーションが出てくるということが必要となる。それで問題の現代版ローカリゼーションが成立する条件は、提示されているのだろうか。

強い倫理を持つということが、この映画の回答だと思われる。とすれば、中世世界の村落共同体的な、顔の見える強い絆によって、五人組的な管理システムを持つこととそれほど変わりないと思われる。

そこで今後の共同体主義がどのように変化して行くのかを考えてみた。共同体内部で完結できないのであれば、やはりなんらかの方法で、外にでていく必要性に迫られる可能性が高くなるだろう。その場合には、強い倫理は維持できなくなって、弱い倫理を採用する必要が出てきてしまうことになるのではないだろうか。

Photoこの映画は、30人ほどしか入らない「A」という映画館で上映されたのだが、近くには、例の喫茶店「マメヒコ」があって、時間を調整するのにちょうどよい。注文の多い喫茶店であるが、共同体主義に付き合うには、郷に入っては郷に従え、ということだろう。

2011/06/12

効率的な私生活

またまた親密圏の話である。両方ともに、公的生活に対して、私的生活がどのように絡んでくるのかという関係性を明らかにしている。

ひとつは、私的生活が公的生活に影響を及ぼす関係である。映画「マーラー」は、妻のアルマを通じて、はじめは双方にとって芸術生活のインスピレーションを得るものとなってプラスに働いていたが、途中からそれはアルマの芸術生活を抑制するものとなっていく。

芸術生活では、しばしば家庭生活は、プラスとマイナスの間を振れることになる。マーラーにとって、アルマはどのような存在だったのか。この映画では、フロイトを登場させることで型どおりの解釈を提供している。

潜在意識の抑圧というフロイト的図式は、たいへん便利だが、果たして今回は当てはまるのだろうか。近代的図式では、男は公式的な支配を行い、女の才能を欲圧したとされる。

ほんとうのところは、どうだろうか。近代以前の問題に帰ってしまえば、芸術家特有の問題として、家族形成に失敗した物語はいっぱいある。それは、主として個人の自由の問題として描かれてきた。家族をはじめとして、企業組織であっても、個人の自由に対しては、抑圧的な関係にあるとされる。この結果、精神の自由を求める「芸術家」は創作意欲を無くしてしまうとされる。もっとも、この関係は単純ではない。

もうひとつも、親密圏と公共圏の問題である。親密圏では家族以外の人との出会いが重要だか、これほどの偶然性のある出会いも珍しいし、けれども確定してみるとこれほど当たり前の出会いもないのではないか。

つまり、合理的に考えれば、デザイナーのイヴ・サンローランのような例は、ヨーロッパでは普通にあり得る形態である。ほぼ完全に経済圏と公共圏と親密圏が重なってしまう。あるいは、合理的に重ね合わせてしまうことが可能であったとしたらどうなるのであろうか。

ほぼドキュメンタリータッチで描かれる映画「イヴ・サンローラン」は、この歴史的実験に挑んだ記録映画となっている。ヴェルジュはイヴのビジネスパートナーであり、アナウンサーであり、かつ生活のパートナーでもある。ほぼ50年間に渡って、イヴを支え続けてきた。そして、最後にイヴが亡くなって、遺品を最終処分することで、彼らの関係を清算しようというのが、この映画の趣旨である。

ランボウの言葉である「火を起こすもの」が、何回も繰り返されていて、イヴ自身が芸術性に飢えていて、たえず活火山として、人並み以上の熱を発散し続けた。けれども、これには限界があり、私生活の中に「火を起こすもの」を持ちこんだ途端に、他の生活に影響を及ぼし、最後はイヴの精神まで危機に陥らせてしまう。

ワーク&ライフ・バランスなどと部分的なことを言わずに、完全なバランスを取ろうと考えるならば、どのような方法があり得るだろうか。ひとつは経済圏と親密圏の「完全な分離」であり、わたしたちが近代化の中でこの方向へ歩んできた。もうひとつは「完全な融合」だと思う。そんなことができるのか、というように思えるし、実際にはかなり厳しい現実が存在し、このような特殊な状況であるということで可能になったという性質があるのだ。

そして、ここに壮大な実験が成立することになる。映画「イヴ・サンローラン」は、後者の場合を描いている。逆説的な意味で、きわめて超近代的だと思う。すべての家族的なものを、ビジネスへ融合してしまうのは、普通の人は躊躇する。けれども、あえてこのふたりはこれに挑んだ。

挑戦というのは、聞こえはいいが、結果からみると、これしか道がなかったのかもしれないし、失敗の原因も当初から内包されていたともいえるかもしれない。いまだかつて、この二つの役割を前近代的な方法ではなく、超近代的に融合させたこれほどの例は存在しないからである。どうだと言われたとしても、少なくとも、わたしはごめんだ。

2011/06/09

男泣きあるいはMy Back Pages

「その頃はずいぶん年取っていて、今はその頃よりずっと若い」と言える時代に、果たしてわたしたちは入ってきたのだろうか。それでもやはり、今の方がずっと年取ってしまったと感じている若い人もいるのだろうか。自分のことを考えるにつけ、わたしたちは過去を振り返って見ることがいかに苦手としているのかということだと思われる。

午前中、幕張での仕事を終え、追ってくるものは夜にまわして、東京駅近くの丸善で早矢仕ランチを食べる。じっくりと読書をして長居のできるとこなのだが、今日は図書館で探し物があるので、1時間くらいで退散する。W大のT図書館は社会科学関係の洋書所蔵に秀でていて、他の図書館ではない本が分類鮮やかに存在する。多様性、インフォーマル、制度などというキイワードで出てくる書棚をずっと見て行く。本来の ブラウジングを行なった。最近はコンピュータでかなりのことができてしまうが、やはり本の中身を見ながら進めたほうが良いことに間違いない。しかも、ここには研究者専用のかなり広い閲覧室が用意されていて心地よい。

目的の本が数冊手に入ったので、となりの博物館でたまたま催されていた富本憲吉展を見る余裕が出来た。斜線模様を描いても、撫で肩の壷を作っても、藍色の版画を描いても、すでにこの時代にして、後々民芸運動によって追求された上品な民芸調というものを確立している。この後に世に出た人たちはとても楽であったと同時に、これを乗り越える時には苦労したのではないかと想像させられる作品群である。とくに緑と茶色の鮮やかな模様は独特の世界だ。

Photo講義を終えて、ロビーで休んでいると、O先生が現れて、雑談する。しばらくして、冷たいもので喉を癒しましょうかということになって、キャンパス近くのF喫茶店へ連れて行ってもらう。写真は、甘党のO先生がクリームソーダで、わたしがコーヒーフロートを飲んでいるところである。O先生のブログでも、同じ写真を反対側から見ることが出来る。

教員ロビーで見掛けたセクハラのビラに話が及んで、最近は先生が学生の相談に乗る時に、研究室のドアを開けておく人が多いんですよ、とおっしゃる。放送大学は、社会人の大学なので、あまりそれは意識したことがないが、一般の大学だったら、今や常識になっているじゃないですか、というと、じつは最近女学生に良く泣かれるんですという。ほう、と身を乗り出すと、イヤ就活ですよとのこと。この時期になってくると、進退極まってきてしまう学生がいて、しかし、泣いてしまうと生理的に落ち着いてスッキリしてかえっていくのだそうだ。

そうなのか、生理的な泣きということは、良いかもしれない。もちろん、女性にとっては、単なる生理ではなく、精神的には感情的な泣きでもあるのだと思われる。これをドアを開けたままでやったら、やはりまずいだろうな。ドアは必要である。さて、女性はこれで済むとして、それにしても男性は泣きませんね。ぐっと顔を上に上げて深呼吸をしてしまえば、なんとかなってしまう。どうも詰まんないですね、という話の向きになった。

映画「マイ・バック・ページ」は、男泣きの映画だという触れこみだったので、厚いハンケチを持って臨んだ。でも、残念ながらそういう泣き方ではなかった。もちろん、感情的になって泣くこともないことはないが、どうも厄介なのは、なぜ泣いたのかを知りたいと思ってしまう点だ。無条件で涙が流れてくるということはないらしい。ほんとうに厄介な物をもっているのが、男性なのだ。

この映画「マイ・バック・ページ」では、途中男がなぜ泣くのかという話が、数回出てくるが、それは最後への伏線に過ぎない。これを読んでも、おそらく解釈はすべての人によって違うから、ネタバレにはならないと思われるが、一応警告だけは出しておこうと思う。

重要な点は、男泣きというのは感情として生ずるのではない、ということだ。それではなぜ男が泣くのかといえば、悔しいということだ、というのがこの映画の解釈だと思われる。悔しさや後ろめたさというのは、立派な感情だと言えなくもないが、反省という要素が入っている分だけ、理性的な感情だと思われる。

さて、最後にどんでん返しの落ちが待っていたのだった。驚かされたのは、O先生の特性である。映画館で私は良く泣きますが、じつは右眼からしか涙が出ないのですという。あまりみっともないので、暗い映画館から出る時に、人に見られたくないのだとのこと。凄い。左は男性で、右が女性なのだ。両性具有でなければ、この社会では生きられなくなっていることは理解していたが、その実例がこんな近くにいたとは。


2011/06/07

座談会にて

放送大学には、ON AIRという8万部を発行する広報誌があり、学生の方々へ配られている。ここで先生方の座談会がときどき取り上げられる。今回は、わたしたちのコースにお鉢が回ってきて、T先生が司会をして、エネルギー革命と社会変化を巡って議論を行なった。エネルギー変化によって、どのような変化が現れたのか。その功罪は何か、などがテーマとなった。

討論者たちは、それぞれの専門分野から発言するので、多面的な見方を提供する座談会になったと思っている。ぜひ紙面で見かけたらお読みいただきたいと思う。わたし個人としては、放送大学の取材で、かつて巡ったところが思い出されて仕方なかったというのが、感想だ。

思い返してみれば、近代化とエネルギー転換は、ベルなどの文明批評家によってかなり取り上げられてきているので、すでに記憶の片隅に追いやられていた。けれども、今回思い返してみると、これらの事象はずっと考えてきたことだった事を思い出した。

木炭から石炭へというエネルギー転換については、英国のシュロップシャー州のアイアンブリッジに取材に行ったことがある。印象に残っているのは、コークスを使うようになった高炉がそこにあって、最初の段階からかなり大きいな、という感じをもったことだ。大きさからすれば、150年後の八幡製鉄所に出来た近代の高炉に引けを取らないものであった。つまり、大規模化という事の象徴として、製鉄業の高炉は存在しており、生産性向上の最先端を当時からいっていたのだ。

規模の経済性を絵に描いたようなものだった。尤もその後、この大規模性ということがじつはかなりの問題を起こす事になるのだが。

日本におけるコークス使用の高炉は、幕末期に出来た。釜石市からタクシーに乗って、45分も掛かって行った事も、鮮明な記憶として残っている。いつも、ロケハンと収録の二度は足を運ぶために、印象もより深いものとして残されているのだ。

それから、エネルギー革命という点では、石油産業の発祥の地である米国のペンシルベニア州のタイタスビルへいった事も印象深く、今回も思い出された。原油を井戸として掘り出すという発想がなぜ出て来たのかがよくわかる場所であった。

そしてさらに、極めつけはスタンダードオイルの本拠地を訪れたことだった。産業中心主義から、サービス業・金融業中心主義へ転換していく、近代社会の転換がエネルギー産業を中心として、ここでなぜ生じたのだろうか、ということを、ニューヨークのマンハッタン島にある本社前で取材しながら考えたことも思い出した。

現代に起こったエネルギー総合商社たるエンロンが、なぜ失敗し倒産したのかということも、遠因はエネルギー産業が持っている不確実性を金融的に処理しなければならないということにあることも、じつは見えてくるということも、今回は確かめることができた。

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プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。