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2011/05/08

「踏絵」のもうひとつの解釈

Photo連休で家に帰ってきていた娘が、遠藤周作展へ行かないかと誘うので、昨日行こうということになったのだが、あいにく昨日は冷たい雨が降り、風邪なのか鼻がグジュグジュしてきて、最悪の参観日になりそうだったので、取り止めとなっていた。Photo_4それが幸いして、今日は抜けるような青空が眩しい、ほんとうの散歩日和になった。

地下鉄を降りて、地上に上がり、フランス山に登る頃には、汗をかくほどの陽気となっていた。この辺は、幕末期の歴史遺跡に事欠かない。途中、旧フランス公使邸跡が残されており、ここには当時珍しい井戸が掘られ、風車による汲み出しが行われていたそうである。Photo_3港の見える丘公園を横切って、花壇の手入れが良くなされている、大佛次郎館を右手に観ながら、霧笛橋をわたると県立の神奈川文学館である。

Photo_2なぜ遠藤周作が横浜なのかというのは、かなり説明がいることになるだろう。彼は町田に住んでいたから、ほぼ神奈川県に隣接していたということだ。細かいことは言わないことにしておこう。それにしても、県立というところがたいへん微妙な位置だとおもわれる。

横浜の作家ということであれば、まずは霧笛や幻燈などの港横浜を描いた大佛次郎が代表格だろうと思われる。中島敦は伝統的でかつ異色な作家であり、横浜らしい世界に開かれた空間を生み出した。それから、ほんとうに横浜のことを描いたという点では、やはり系列を築いたものではないが山本周五郎をはずす訳にはいかないだろう。「季節のない街」が展示されていた。横浜文学といっても何か確定した系譜はほとんど無いとしても、それでも、手堅く、一匹狼的で、重要な文学者を生み出してきている。

これに対して鎌倉では、漱石の「こころ」の連作から、江藤淳や川端康成、さらに湘南のイメージの三島や石原などに代表されるものとするならば、鎌倉文学はかなり横浜文学とは異なる系列にあると言えるだろう。

遠藤周作の町田という距離感は、神奈川県の中では、特別の 意味を持っていると思われる。それは、町田が横浜の北部、川崎の北部にあり、むしろ横浜というよりは、小田急線を通じて、鎌倉系列に近いところに位置しているからである。

今回の遠藤周作展では、評論家のT氏たちを中心とした、新たな遠藤解釈を前面に出した、積極的で重厚な展覧を展開していた。人間の疑義が一転して、信仰に変わるということができるならば、昔からの人間の大きな悩みの多くが解決されることだろう。「踏絵」ということが、この転換の仕組みをかなえるというのは、ほんとうに逆転の解釈だと思われる。

高校生の時に、「沈黙」が出版され、さらに篠田正浩監督の映画が作られた。このとき、キリスト教の信仰の問題として作品「沈黙」を、わたしは理解していた。それほど今回のような普遍的な問題が隠されているとはほとんど考えてみなかった。せいぜいのところ、テーマとして、「転びバテレン」の転向という問題が存在し、それは信念を貫くことができるか否か、というどちらかと言えば表層にある問題と考えていたのだ。

今回、視点を乗り越えるところが重点的に展示されていて、現代的な観点から見直す必要のあったことが理解できた。どのような点が現代的なのかといえば、二つの視点が重要であるように思える。

ひとつは、踏絵についての通常と異なる解釈を提供している点である。踏絵は、昔も今も、為政者が提供するものであり、監視の道具であった。このような解釈のもとでは、踏むか踏まないかが問題であり、そのことが公式的にはキリスト教者であるか否かを、リトマス試験紙のように判定して仕舞うものとして考えることになる。ところが、遠藤の意図は 別のところにあったという解釈を今回は提供しているというのだ。もちろん、わたしがこれまで気がつかなかったということであるが。つまり、踏絵を踏んだ時点で、神と人間は苦しみを共有することになり、かえって踏絵自体が信仰の明かしになるという解釈が成り立ち、「神は沈黙しない」という意味に転換するのだという視点を提供している。踏絵を踏んだ足は痛い、というフレーズは、それを表現しているのだという。

娘と話していて興味深いことがあった。展示物のなかに、病床にあった遠藤周作のところに、紙でできた「踏絵」が読者から届けられたというエピソードが紹介されていた。これは紙の「踏絵」が偶然に届けられたものなのか、それとも、すでに信仰の対象として使われていたという証拠としてこの紙の「踏絵」が届けられたものなのか、どうもはっきりしない。

もうひとつの重要な視点は、多元主義の観点だ。遠藤周作が学生時代の早くから、西洋の一神教と日本のアニミズムの矛盾に気づき、どのようにこれを解決できるのかをずっと考えていたことを、展示で追っていた。それは「踏絵」のもうひとつの解釈に繋がる視点に関係していたといえるのではないだろうか。

Photo_9いずれにしても、このような逆転の解釈には、当時三島由紀夫などの批判が存在することから観て、わたしが当時読み間違えていたとしても、読み取る力不足であったから不思議はなかったと言える。今回、想像力が至らなかったということがわかって、この展覧会に寄ることができたことを、とてもよかったと思っている。Photo_5連休にもかかわらず、混雑している周りの観光地と異なり、じっくりと生原稿や、新聞記事、さらには私信のかずかずを読むことができたことも良かったと思っている。

Photo_2文学館近辺には、洋館が残されており、散歩の中継、休息地としては最適である。今回は、これらの中でも建築家が住んでいた第111番館に入った。通りから玄関へ導き、ホールから客間、居間、そして、裏庭に当たるところからの港の遠望を鑑賞することが出来た。Photo表からみると二階建てだが、裏からみると三階建てになっている。横浜の坂をうまく利用した重厚な住宅だった。

Photo_3この港を望むテラスが、Rというティーガーデンになっていて、アフタヌーンティーが楽しめる。薔薇が咲き始めると、ローズガーデンを愛でながらお茶を楽しむことが出来る。今日は、トマトカレーのランチを食べた。チキンの味がうまく出ていて、美味しかった。白ワインにぴったりだった。テラスでは、ソフトクリームが売られていたのだが、直射日光が厳しくてすぐに溶けだした。

Photo_4洋館を出て、道なりに散歩を続けると、外国人墓地で呼び声が聞こえる。いつもは非公開の墓地が中まで入れてくれるらしい。Photo_5震災への寄付を募っており、その代わりに、入園させてくれるとのこと。明治期のお雇い外国人たちの個性的な墓石が並んでいる。たとえば、エドモンド・モレルは、桜木町新橋間の鉄道敷設の技師長だったが、完成直前に急逝している。菓子職人として有名なルコントの墓もあった。墓地は日本と外国との交流のもっとも正直な証人だと思われる。

Photo_6元町へ至る坂道を下って、ジェラール瓦工場跡の貯水池あたりにつく頃には、わたしの足がパンパンになってしまった。Photo_7元町の店は久し振りだったのだが、2,3の店をひやかして、その後は仕事を行うために関内の喫茶店に籠った。一緒に行った娘は、散歩途中で、連休直前の仕事で制作した新商品の売れ行きが良いという報告が入って、ご満悦のようだった。Photo_8その足で、ビジネスマンよろしく、休日にもかかわらず会社へ直行した。連休最後の、充実した一日だった。


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  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。