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2011年5月に作成された投稿

2011/05/30

藍はなぜ阿波の国なのか

9朝になって、雨は止んだのだが、風が残っており、樹々がしなるほどの強さだ。徳島市を出て、昔は県の大動脈であったことを想像させる吉野川を遡る。途中、バスは鉄橋を渡る。先日の北上川も広い川幅を持っていたが、吉野川も台風2号の後だけあって、水量が多い。

10川をすこし遡ったところに藍住町がある。近世の阿波地方を日本の藍中心地にまで発展させた阿波藍の産地である。平安時代以来、天然藍が染物の雄であった。日本人の記憶の中に、青色の系譜が脈々と流れているのを見るにつけ、藍染の重要な位置がわかる。東北地方が明るいオレンジの「紅花」を求めたのと同様にして、インディゴ・ブルーの変幻自在な藍色が関西から、中部そして関東にも広がった。現代でも、ジーンズをはじめとして、紺色を楽しむ文化があるように、昔の人びともこの色を楽しんだにちがいないのだ。

14藍住町には「藍の館」という施設があるというので、今日はこれに集中することにした。行ってみると、期待以上の収穫があった。藍染のほとんどすべてがわかるように展示されているのはもちろんであるが、そもそもは奥村家という近世から明治期に繁栄した家(1808年建造)を保存してあって、近世商家を知る上でもたいへん興味深かった。

12大きな門と母屋と作業小屋(寝床と呼ぶらしい)が残っていて、白い漆喰と茶色の木造がきれいだ。さらに、ここに藍色が加わると、シンプルなのだが、とても素敵だ。母屋を入ると、右が生活の場として厨房や女中部屋が配置され、左が手代、番頭、支配人が配置された営業の場となっている。すべての部屋が一覧望できる構造になっている。支配人が座る2畳ほどの部屋が司令塔となっていて、母屋の中央を占めている。あとは、遠くから来る買付け客を泊める2階の客間が3室もある。収容人数はかなりの人数に上る。さらに、宴会場にもなる離れの間があるのだ。商家として、機能的で支配的な構造になっている。

11今日の展示物の中で、一つだけ上げるならば、着物の数々や、工芸品に反映された藍もさることながら、写真にとって来た「十徳」は素晴らしいものだった。使い込まれた布や、機動的なデザインが藍色に相応しいものだった。藍染というものが、単に技術や生産として素晴らしいばかりで無く、使われてそして文化として染み込んで来たものであることをしめしている。

13藍が緑の植物からうまれ、最後はインディゴブルーの文化に昇華していく。この過程は、発酵という過程を含んでいるだけに、通常の技術に、意識以上の何ものかが、乗り移ったかの様なものの存在を想像させる。藍の栽培から、蒅(すくも)の加工まで10ヶ月ほどかけて藍玉が作成され、俵に詰めて出荷される。この途中の独特の臭いがあり、これも現場ならではの迫力だ。とくに、寝床での過程は、究極的には待つ以外にはないのだ。奥村家の家訓が「常静」ということだそうだが、この意味を実現している。

15ちょうど観光客が藍染めの体験を行っていたので、横で見学させてもらった。上手に仕上がると、写真のような上品なハンカチが出来上がる。白い壁に、藍が似合う。

152職人によって培われて来た産業ではあるが、他の職人産業と同様に、天からの恵みに多くを依存する社会意識の存在を感じた次第である。それにつけても、藍染がある特定の土地を必要としていたわけであるが、それは数百年保持されたとはいえ、現代にあっては、化学薬品でこれらの色が簡単に可能になってしまう、という現実は、過酷だと思う。植物から作品に至る、藍の寝床での、あの発酵作業の労働は、どうなってしまったのだと、思う。衰退期の産業というものに共通の、あっさりとした悲哀というものに、想いを馳せた次第である。

20午前中にゆったりとした見学が済んでしまったので、強風のなかバスを待つ。吉野川べりで吹き飛ばれそうになる。生物的な身体というものがいかに軽いのかということを十二分に感じた。風が雲のなかに円を描いて吸い込まれるかのような錯覚に陥る。バス停の標識が地獄への道しるべのように、不気味に見えるのも致し方なかった。

17これが夕暮れならば、十分に気分は急降下するのだが、まだまだこれから午後が始まるというときなので、江戸時代の商人たちが、川を辿り、この地に降り立ち、台風を物ともせずにあの奥村家の来客部屋に止めてもらい、地元へ戻るという、野心的な気分を思い返した。わたしも常静の気分で舟を待っているかの様な想定で、土手にかろうじて立っていた。バスが吉野川の数キロ先の土手に姿をあらわしたのは、定刻から数十分経ったのちであった。

21徳島市でのランチは、昨日事情通の学生から教えていただいた、街の洒落たフレンチ・レストラン「ジョワ」でとった。白身魚とムースのミルフィーユという写真のような肉厚の魚料理で、美味しかった。

隣に座っていたサラリーマン風の若い人は常連らしかったが、仕事が辛いのか恋に破れたのか、携帯で激しくしゃべった後、しばし目をつぶっていた。それは最終的には、どんな逆境にあってもこのようなとびっきりのランチをいつでも食べることができるという仕合わせの表現であったと解釈しておこう。22中心街を数分歩けば、評判のランチが数軒存在するという地理的な条件はたいへん好ましい。近くのTという鮨屋さんも紹介されたが、今日はしまっていた。鮨屋さんはいくつか紹介されたが、今回はタイミングが合わなかったのは残念だった。

23空港へのバスに乗るために、ふれあい橋を渡っていると遠目に、舟が見えた。32昨日、N先生との雑談で、徳島の中心部は城を中心としたひょうたん型の中洲になっていて、その周りを遊覧船が通っていると聞いていた。ちょうど出発の時刻に遭遇したらしい。運転手の方と、二人だけの遊覧であった。

25徳島市には、吉野川などの支流が300以上も流れ込んでいて、それが徳島城の自然の掘割を形勢しているとのことだ。川の分岐は複雑で、陸地から眺めるのと、川の中から眺めるのとでは、違って見えてくる。先ほど通過したバスから見た川が、こんなに広く深く街を刻んでいるのだと思う。

30結局、わたしの泊まった宿舎の辺りがメインであって、ヨットや小型船が繋留されているのは、上から見ても壮観だったが、したから見ても、別世界のように見える。31宿舎では、外国人たちも写真にこの風景を収めていたから、たぶん相当に西洋的で典型的な風景なのだと思われる。これを利用した東京の屋形船のようなものが存在しないのが不思議なくらいだ。

そのあと、喫茶店巡りをして見た。TやIを回って見たが、かつては盛っていたかもしれないが、チェーン店が進出して来てからそれを上回る力をまだ発揮出来ていないらしい。駅前はほぼチェーン店に支配されていた。周辺部もちょっとあぶないと思われる。少し酸味の利いた珈琲を最後に1杯飲んで、台風一過の、まだまだ風の強い徳島空港を後にした。

2011/05/28

徳島にて

Photo四国は雨が多いところだと聞いていたが、それは山奥の瑞々しい樹々の世界に似つかわしいからだと思っていた。だからまさか、自分がその猛雨に祟られるとはまったく考えていなかった。一年分の貯水槽をひっくり返すような、ジャーという感じの雨だ。

3_2それが徳島の特色ある雨なのかはわからない。けれども、徳島の空港についたときから、ずっと続いた雨だった。せっかくの滞りない、気持ちよい雨なので、ほんとうのところは台風二号のせいにしたくないほどだ。

今回の徳島学習センターでの講義では、4月から放送も始まっていた「格差社会と新自由主義」を取り上げた。また、新しい試みとしての「ワークノート」というものも作って、前もって配ってもらっていたので、準備しすぎるくらい準備されていた。こちらも張り切って徳島入りしていた。あとは、いつものように、学生の方々との相互反応をみて、そのクラスに合った形で、始めることにしていた。実際に、スタートもすごくよいものだった。

レポートも何回かとって進めるうちに、放送大学らしい多様性を保持したクラスであることがわかって来た。一人の学生への学生たちの同調反応は、かなり抑制されて出てくるが、しかし学生たちからは言うべきことがきちんと出てくる。とりわけ、興味深かったのは、経営や職業上の関係で発言する方が目立ち、議論がかなり成立しそうになっていたことである。通常、二日くらいのクラスでは、このような議論の場を作ることはたいへん難しいのだが、もう一歩というところまできていた。

それから、一日目が終わって、センター所長のN先生とじっくり話す機会を持つことが出来たのは、たいへん光栄だった。徳島という場所は、今まで想像したこともない土地であった。残念ながら、わたしの日本史や日本地理の知識ではあまり引っかかるところがなかったところだ。阿波おどりと、鳴門海峡、そして、小さなときに唯一興味をもったのは、藍染というものが、盛んだということぐらいだ。

7まったく人間的な接触がなかったかと言えば、必ずしもそういうわけではないことも思い出されるのだが。じつは、高校生時代に徳島出身の有名な政治家の次男が、同期生でいて、サッカーの試合などを一緒に行なった覚えがあるが、そのときに徳島のことが雑談に出てきたかはまったく覚えていない程度なのだ。

徳島は、良い意味で文化的にも生活としても完結している地域らしい。経済的にいえば、阪神文化圏に属すると思われるが、食べ物もその他の生活物資も独立して調達が可能で、他から得なくてもそれほど困らないらしい。つまり、豊かなのである。わたしの生まれた山国と比べると、いっそうそう思われる。海が近くにあるということは、大きい。海産物がすぐ手に入り、新鮮であることはそれだけで、豊かなのだ。また、宿泊先の近くの川には、ヨットが繋留されていて、時間に関して、途方もない余裕のあることを示しているのだ。

講義がすべて終了した後、N先生が「人形浄瑠璃」の保存会が実演している会館に連れて行ってくださった。それぞれ小さなコミュニティごとに芸能を自前で発達させているなどという地域社会は、日本でもそう多くはないだろう。30以上の人形師(子供を含む)の自然組織である「座」が、復興されて存在しているというのは、尋常なことではない。自前の共同体が健在であるということだと思う。

地域とは何かという点では、「その場に止まること」つまり、固有性が地域で完結することが重要なのだが、それを見事に実現している。N先生が何を見せたいと思っているのか、わたしなりになんとなくわかってきたような気がした。

6二日目は、朝の7時に台風二号についての判断を行わなければならなかった。天気予報は、この段階では注意報だったので、なんとか午前中の講義を終えることはできた。けれども、途中で警報が二つ重なってしまった。学生の方々も、車でいらっしゃったかたが多く、帰りの心配が増してきた。それで、ほんとに残念ではあったが、午後の講義は中止して、レポートで代替することになった。学生の方々には安全なうちにお帰りいただく事になった。

これまでの放送大学の授業体験で、わたしにとっては、はじめての事件だった。二日目の午後は、最後の結論部分に当たるため、講師としてはなんとなく締めが物足りないという感触が残った。学生の方々も同様であったと思われるが、そこは想像力豊かな放送大学生のことだから、自分で補ってくれることを期待している。


2011/05/26

おばはん、あるいは社交

2W大での講義は、いつものとは異なるものの、ようやく講義の形態が定まってきた。O先生も休憩時間にきて、気の置けない話をして、授業へ向かわれる。きょうは、地方から出てきた卒業生と会うために新宿に行くことになっていて、それまで時間つぶしにカフェ・Gをお付き合いします、とのこと。さっそく、ブルーベリーやその他の果実が複雑に焼き込んであるケーキを頼んだ。

雑談のなかで、神楽坂へ最近行った話をしたら、O先生は、縄張りの中のことは何でも聞いてください、という顔をなさって、「おばはん」がたくさんいたでしょうとおっしゃる。わたしは中年の女性と言うが、内容は同じことかもしれないが、敬意を払っている点ではO先生のほうに分があるかもしれない。

たしかに、思い返すと、わたしたちが食べようとしていた和風ランチの店の前にもいらっしゃって、メニューを眺めていたし、坂の途中にある中華料理屋の肉まんじゅうの前にも、行列していた。つまり、美味しいと「おばはん」は相性がとてもよいらしい。美味しいところには、「おばはん」があらわれるということである。これは、これまでこのブログでも実証してきた。

問題は、なぜ「おばはん」が現れるのか、という点である。「おばはん」的なことの本質はなにか、ということである。O先生の答えは、明快であった。「社交」ですね。家で十分、自分たちで作る腕を持っていながら、パーティを自宅で開くのではなく、外へ出るような傾向は、社交的である、ということかもしれない。最近の「女子会」の盛んなのも、すべて「おばはん」のなせる技だ。時間の余裕に圧倒的な優位を持っているところが取り柄だった。最近になってすこし雲行きが怪しくなっているのはたしかだが、もうすこしは時代の贅沢として残されるであろう。

そしてじつは最も気になっていたことは、わたしたち二人のところへ、戻ってくる問でもあるということであった。なぜ喫茶店でおしゃべりをするのか。それは、わたしたち二人とも自分の内部から、「おばはん」的な暮らし方をしていると自覚しているからだ、ということになった。姿かたちは、残念ながら、性別を異にしているのだが、どうも二人とも、心性はかなりの程度「おばはん」なのだ、ということに落ち着いた。でも、ちょっとだけ付け加えると、「社交」と言い換えるところだけ、なんとなく職業臭があり、そうなりたいという願望の要素が強いことも、じつはかなり自覚しているといってよい。

2011/05/23

海抜1メートル

42今日のなかで最も印象として焼きついたのは、被災した小学校の壁に残された「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉だ。逆説とでも言えるような、言葉だけが残されていたところだ。

41小学校という制度が、津波という災害・事件によって、単なるコンクリートの塊に化してしまった。この現場では、ほんとうに言葉を失くす思いだ。この事態をどのように受け止めたらよいのか、ほんとうに戸惑ってしまった。海抜1メートルで、急斜面の裏山を負った地形であるという地理的な条件、津波の方向などの力学的な条件などから推測できることはかなりあるにもかかわらず、現場ではもっと圧倒的な何かが足らないという空気が流れていた。

20裏山の削られた急斜面に、津波の到達上限を示す立て札が立っていた。それは身長の3倍を超えるようなところだった。近くのフェンスは押し倒されていた。ガラス類は小学校ホールのステンドグラスをはじめとして、すべて跡かたもなかった。校歌を載せた瀬戸物の文字板は、ところどころの文字を残して、流された。柱を削り、鉄筋がむき出しになり、倒れかかったコンクリートの橋が力学的な限界を示していた。まわりの住宅地は根こそぎ土台から無くなっていた。

25_246瓦礫は取り除けば無くなるが、そもそも生徒と教師、学校と住民など人間関係が、どうだったのか。それを示すものはすべて流されてしまってわからない。推測や、憶測が飛び交う中で、現場だけが残された。

37あっという間に、夕暮れになってしまった。次々に、住民の方々が仕事帰りに訪れ、慰霊の祈りを捧げていた。言葉にはできないものの支配する時があるのだ。線香の煙だけが揺らいでいた。

17今朝5時に横浜の家を出て、宮城へ向かった。同僚のN先生がTK大学のK先生と始められたプロジェクトに参加するためである。すこし背伸びして、飛び乗った次第である。午前から午後にかけて、W町のイチゴ農家でお話を聞いた。

36津波の被害は甚大で塩害などが追い打ちをかけて、見通しが立たない中で、いくつかの方向性を探っている最中とのことだった。この辺には、イチゴ農家が固まって栽培していたのだが、多くの方が離農を考えていて、続けるためには、相当の努力が必要であることが理解できた。近くのハウス栽培の畑には、壊れて流されたパイプが積み重ねられていた。波をかぶった竹林が茶色く枯れているのが目立った。

7お話の中に、なぜイチゴ栽培を続けるのか、ということが再三出てきて、そうなのか、と気持ちを新たにした。協力できることは限られてはいるが、共感できるものがあった。昨年のイチゴで作ったジャムをいただき、途中親戚のイチゴ農家のものが使われているというイチゴ羊羹を購入した。再び、この味のイチゴを食べる価値があると思った。

2011/05/19

くび長の黄色いたんぽぽ

Photo朝から気温が20度を超えた。通勤で30分くらい、公園を歩くところがあるのだが、この程度の歩きでも汗が噴き出てくる。この公園では、たんぽぽが乱れ咲いていた。首を長くして、この太陽を待っていたらしい。写真のように、異常なほど、くび長のタンポポで、黄色い花をつけて、いっせいに風で揺れていた。ひとつひとつの黄色い花が、それぞれ個性を主張して、草の中から抜け出してきた、という雰囲気だった。

Photo_2放送大学は発足当時から、学際領域を発達させることを大学の理念に掲げていて、カリキュラムのなかでも、「基礎科目」や「総合科目」は学際的・超学的な工夫を行なった授業科目が集中しているところだ。これらの学際的な科目は、さきほどの黄色い、くび長のたんぽぽのイメージなのだ。

今日は、どのような構成にするのかを話し合う委員会に出た。この委員会にはずっとかかわってきている。こんなに続くと、そろそろ任期も最後のころに近付いているのではないかと思われる。学際とは何か、基礎とは何か、総合とは何か、これらはどういうことを言うのか、ということを何年にもわたって、議論してきたような気がする。

Photo_3お昼まで、この委員会に出て、さらに職員の方と懸案を議論し、早々に切り上げ、W大へ向かった。今年はじめてW大で講義を受け持つのであるが、東日本大震災の影響で、5月始まりとなっていたのだ。今日はしたがって、新年度になって、ようやく2回目である。

「現代人と職業」というたいへん魅力的なテーマだったので、お引き受けしたのだ。このテーマではかならず避けて通ることができないOという社会学者がいる。じつは大学院生時代に駒場で図書室のアルバイトを行なっていて、夕方から夜にかけて、一人で一室の管理を任されていた。そこにO文庫があって、生前収集された書物がぎっしりと積み上げられていた。ちょっとページを開くと特徴ある書き込みがいたるところに行なわれていて、書き込みだけを読んでいった記憶がある。

前回は「職業とはなにか」を話した。職業と、労働や仕事との異同などが中心的なテーマだ。講義の最後に今回のための資料として、職業としての「石工」へのインタビューを配っておいた。

なぜ「石工」なのかというのは、学生からも問われたが、正当な質問だと思われる。英語で石工は、masonと書かれるが、これは「作る」makeを語源とする。制作にかかわる最も原型の職業として、石工を取り上げたのだ。それに、このインタビューの内容は、有名なH・アレントの「労働と仕事」の区別を、それこそ絵に描いたようにわかりやすく奔放にしゃべってくれているのだ。

W大の学生たちについては、現在までのところを見た感じでは、多様な個性が集まっている、という印象だ。生意気だとか、派手だとか、という意味ではけっしてない。程よく抑制が効いた個性であるところが、たいへんこころ憎い。これはかなり褒めているのである。

Photo_4たとえば、「石工」についての職業上の特徴を追究してもらうために、グループ学習を行なってみると、それがあらわれる。通常のグループ学習は意見を発表し合って終わりにしてしまうのだが、今回はそれを2,3回練り上げる工程を設けてみた。他の大学で試してみると、練り上げる工程で、意見が次第に集約されてきて、クラスの共通点が如実に出てくる場合が多い。ところが、今回のクラスでは、共通点は見事に出てきたのであるが、その表出が多様な表現を保持してけっして集約されないのだ。この演習授業では、学生が多くの職業を見て、多様性を受けとめてもらいたいと考えているので、このような個性的な多様性は好しとしたい。じつはここでも、今朝のたんぽぽを思いだしてしまったのだ。

Photo_5気温が高いせいか、汗となって出て行ってしまったせいなのか、理由はともあれカフェ・Gで濃厚なコーヒーと洋梨のタルトを注文する。カウンターに座っていると、店全体から湧き出した会話が風に乗ってやってきた。これにもまた、黄色い、くび長たんぽぽのイメージが重なる。今朝の公園にいる気分をしばし思いだし、楽しませてもらった。

2011/05/08

「踏絵」のもうひとつの解釈

Photo連休で家に帰ってきていた娘が、遠藤周作展へ行かないかと誘うので、昨日行こうということになったのだが、あいにく昨日は冷たい雨が降り、風邪なのか鼻がグジュグジュしてきて、最悪の参観日になりそうだったので、取り止めとなっていた。Photo_4それが幸いして、今日は抜けるような青空が眩しい、ほんとうの散歩日和になった。

地下鉄を降りて、地上に上がり、フランス山に登る頃には、汗をかくほどの陽気となっていた。この辺は、幕末期の歴史遺跡に事欠かない。途中、旧フランス公使邸跡が残されており、ここには当時珍しい井戸が掘られ、風車による汲み出しが行われていたそうである。Photo_3港の見える丘公園を横切って、花壇の手入れが良くなされている、大佛次郎館を右手に観ながら、霧笛橋をわたると県立の神奈川文学館である。

Photo_2なぜ遠藤周作が横浜なのかというのは、かなり説明がいることになるだろう。彼は町田に住んでいたから、ほぼ神奈川県に隣接していたということだ。細かいことは言わないことにしておこう。それにしても、県立というところがたいへん微妙な位置だとおもわれる。

横浜の作家ということであれば、まずは霧笛や幻燈などの港横浜を描いた大佛次郎が代表格だろうと思われる。中島敦は伝統的でかつ異色な作家であり、横浜らしい世界に開かれた空間を生み出した。それから、ほんとうに横浜のことを描いたという点では、やはり系列を築いたものではないが山本周五郎をはずす訳にはいかないだろう。「季節のない街」が展示されていた。横浜文学といっても何か確定した系譜はほとんど無いとしても、それでも、手堅く、一匹狼的で、重要な文学者を生み出してきている。

これに対して鎌倉では、漱石の「こころ」の連作から、江藤淳や川端康成、さらに湘南のイメージの三島や石原などに代表されるものとするならば、鎌倉文学はかなり横浜文学とは異なる系列にあると言えるだろう。

遠藤周作の町田という距離感は、神奈川県の中では、特別の 意味を持っていると思われる。それは、町田が横浜の北部、川崎の北部にあり、むしろ横浜というよりは、小田急線を通じて、鎌倉系列に近いところに位置しているからである。

今回の遠藤周作展では、評論家のT氏たちを中心とした、新たな遠藤解釈を前面に出した、積極的で重厚な展覧を展開していた。人間の疑義が一転して、信仰に変わるということができるならば、昔からの人間の大きな悩みの多くが解決されることだろう。「踏絵」ということが、この転換の仕組みをかなえるというのは、ほんとうに逆転の解釈だと思われる。

高校生の時に、「沈黙」が出版され、さらに篠田正浩監督の映画が作られた。このとき、キリスト教の信仰の問題として作品「沈黙」を、わたしは理解していた。それほど今回のような普遍的な問題が隠されているとはほとんど考えてみなかった。せいぜいのところ、テーマとして、「転びバテレン」の転向という問題が存在し、それは信念を貫くことができるか否か、というどちらかと言えば表層にある問題と考えていたのだ。

今回、視点を乗り越えるところが重点的に展示されていて、現代的な観点から見直す必要のあったことが理解できた。どのような点が現代的なのかといえば、二つの視点が重要であるように思える。

ひとつは、踏絵についての通常と異なる解釈を提供している点である。踏絵は、昔も今も、為政者が提供するものであり、監視の道具であった。このような解釈のもとでは、踏むか踏まないかが問題であり、そのことが公式的にはキリスト教者であるか否かを、リトマス試験紙のように判定して仕舞うものとして考えることになる。ところが、遠藤の意図は 別のところにあったという解釈を今回は提供しているというのだ。もちろん、わたしがこれまで気がつかなかったということであるが。つまり、踏絵を踏んだ時点で、神と人間は苦しみを共有することになり、かえって踏絵自体が信仰の明かしになるという解釈が成り立ち、「神は沈黙しない」という意味に転換するのだという視点を提供している。踏絵を踏んだ足は痛い、というフレーズは、それを表現しているのだという。

娘と話していて興味深いことがあった。展示物のなかに、病床にあった遠藤周作のところに、紙でできた「踏絵」が読者から届けられたというエピソードが紹介されていた。これは紙の「踏絵」が偶然に届けられたものなのか、それとも、すでに信仰の対象として使われていたという証拠としてこの紙の「踏絵」が届けられたものなのか、どうもはっきりしない。

もうひとつの重要な視点は、多元主義の観点だ。遠藤周作が学生時代の早くから、西洋の一神教と日本のアニミズムの矛盾に気づき、どのようにこれを解決できるのかをずっと考えていたことを、展示で追っていた。それは「踏絵」のもうひとつの解釈に繋がる視点に関係していたといえるのではないだろうか。

Photo_9いずれにしても、このような逆転の解釈には、当時三島由紀夫などの批判が存在することから観て、わたしが当時読み間違えていたとしても、読み取る力不足であったから不思議はなかったと言える。今回、想像力が至らなかったということがわかって、この展覧会に寄ることができたことを、とてもよかったと思っている。Photo_5連休にもかかわらず、混雑している周りの観光地と異なり、じっくりと生原稿や、新聞記事、さらには私信のかずかずを読むことができたことも良かったと思っている。

Photo_2文学館近辺には、洋館が残されており、散歩の中継、休息地としては最適である。今回は、これらの中でも建築家が住んでいた第111番館に入った。通りから玄関へ導き、ホールから客間、居間、そして、裏庭に当たるところからの港の遠望を鑑賞することが出来た。Photo表からみると二階建てだが、裏からみると三階建てになっている。横浜の坂をうまく利用した重厚な住宅だった。

Photo_3この港を望むテラスが、Rというティーガーデンになっていて、アフタヌーンティーが楽しめる。薔薇が咲き始めると、ローズガーデンを愛でながらお茶を楽しむことが出来る。今日は、トマトカレーのランチを食べた。チキンの味がうまく出ていて、美味しかった。白ワインにぴったりだった。テラスでは、ソフトクリームが売られていたのだが、直射日光が厳しくてすぐに溶けだした。

Photo_4洋館を出て、道なりに散歩を続けると、外国人墓地で呼び声が聞こえる。いつもは非公開の墓地が中まで入れてくれるらしい。Photo_5震災への寄付を募っており、その代わりに、入園させてくれるとのこと。明治期のお雇い外国人たちの個性的な墓石が並んでいる。たとえば、エドモンド・モレルは、桜木町新橋間の鉄道敷設の技師長だったが、完成直前に急逝している。菓子職人として有名なルコントの墓もあった。墓地は日本と外国との交流のもっとも正直な証人だと思われる。

Photo_6元町へ至る坂道を下って、ジェラール瓦工場跡の貯水池あたりにつく頃には、わたしの足がパンパンになってしまった。Photo_7元町の店は久し振りだったのだが、2,3の店をひやかして、その後は仕事を行うために関内の喫茶店に籠った。一緒に行った娘は、散歩途中で、連休直前の仕事で制作した新商品の売れ行きが良いという報告が入って、ご満悦のようだった。Photo_8その足で、ビジネスマンよろしく、休日にもかかわらず会社へ直行した。連休最後の、充実した一日だった。


2011/05/02

親密圏の問題

ストレスの溜まった一日をふり切るには、良い映画を見るのが、いまのところ一番の方法だ。映画「八日目の蝉」を観る。Photo_2家族あるいはその周りを含んだ、いわゆる「親密圏」を問題にしている映画だ。

家族とは何だろうと考える。たとえば、生後すぐから、4歳までの間に起こった家族間の出来事が、すっぽりと記憶から脱落したとしたら、どうなるのだろうか。映画の効用はいろいろある中で、自分に帰ってくる問題があると、その映画が二重の役割をもって、こちらに迫ってくる。

もしわたしの娘と息子との間で、それぞれのあの4年間が無かったとしたら、家族と呼べる関係を築くことができたであろうか。夜泣きが激しくて、小学校の夜の校庭を散歩して、きれいなひまわりをみせて歩いたこと。突発性の熱で医者に駆け込んだこと。絵本をいっしょに読んで寝かせたこと。ピクニックで寝転びながらお弁当を食べたこと。コーヒー屋へ連れて行って、アイスクリームをひっくり返したこと。幼稚園へ送る自転車でわーとスピードを上げたこと。手で空気をつつんで、子どもに渡し、これは大切なものなんだよと遊んだことなど。映画に触発されて、過去の情景が蘇ってくる。

これらの記憶が無くても、友人関係と同じで、会っているときが良ければ、家族関係が存在するようにも思えるときもある。養子関係という関係もあり得るし、実際にも成立しているのだから、それ相当の覚悟があれば、家族関係を築くことは不可能ではない。それは確かだ。さてそれで、本当のところ、血縁の家族ではない関係でも、養子関係以外に家族関係を結ぶことは可能だろうか。その場合に何が不可欠になってくるのだろうか。

映画では、いくつかの疑似家族について描いてくれる。あるときは異常な状態で、あるときは実験的に、あるときには宗教的に、あるときには宿命的に。

この映画が良いと言えるのは、きわめて映画的な部分だ。なにが映画的なのかは、ひとによって解釈は異なるとは思われるが、わたしの場合は映像が活きている場合である。ドキュメンタリーのように新鮮な映像というのではなく、むしろ映像独自の描法が活かされているという意味だ。

この映画のいくつかのシーンで、それが見られた。そのひとつは、記憶装置として、この映画が採用した「場末の写真館」だ。ここでは地元の人たちが、人生の節目節目に家族写真をとる習慣があるらしい。不思議な雰囲気を保っている写真屋さんだ。21年前に撮った写真が保存されていて、ということは、島の家族たちの数世代に渡る写真が保持されているということでもあるが、この写真屋さんは21年後の顔を観ただけで、この21年前の写真を記憶のデータベースから蘇らせてしまうのだ。暗室に連れられて、白い印画紙にふわっと21年前が映し出される瞬間がある。こんな写真屋さんが近所にいたら、「親密圏」の有力な装置となる。

現実の日本をみると、こんな素晴らしい写真屋さんが20年後も同じ所で同じ商売を続けていられるような、産業事情にはないことは明らかだ。けれども、映画として描いてしまうと、昔のわが街の写真館があり得るように思えてくるから不思議だ。あるいは、家族の心の中に、このような写真館を持ちなさいという、この映画のメッセージなのかもしれないのだが。このような可能性をきちんと描くことが映画では重要なのだ。それからさらに、小豆島のお祭りを映画の重要な要素として取り込んでいる手法も、きわめて映画的だと思われる。

それにしても、蝉が鳴いている(と思われる)場面には参った。歳のせいで、耳が聞こえなくなってきており、とりわけ虫の音に弱い。これが聞こえないということはかなり致命傷的ではないのだろうか。そろそろ耳鼻咽喉科を探さねばならない時期を迎えているのかもしれない。


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プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。