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2011/04/19

「わたしを離さないで」

この映画を見始めたとき、何かわからないことが進行している、という印象を受けた。それは、断片的に、けれども次第に、何となく認識されてくるのだ。主人公の少女二人と少年一人が登場する。閉鎖的な施設に入っていたり、「オリジナル」というものを求め続けたり、教師からあらかじめ定められた運命を負っていることを知らされたりということが起こってくることで、その状況がわかってくる。それから逃れることは、しだいに不可能に思えてくる。

もっとも、このような不可能であるような状況は、どこにでもあって、この映画の状況だけがその不可能な状況を負っているわけではないとも思われる。だから、このような状況を描いていて、それを突き抜けて、ほんとうのところ「普通の人間」のことを描いているように思えてきたら、この映画は成功だといえる。じつは、この点は、この映画の原作者であるカズオ・イシグロを取材したNHKのドキュメンタリーで、本人が述べていて、なるほどと思った。

クローン人間にも、人間が普遍的に持っている「固有性」ということがあり得るのだろうか。「固有性」があるからこそ、個人間の葛藤が存在し、普遍的な人間のあり方が存在しうるのだと思われる。これが映画「わたしを離さないで(Never Let Me Go)」のテーマだと思う。現代はポスト新自由主義の時代に入ってきていると思われる。そこで、普遍的な自由から、固有の価値への模索が始まっているのだ。

最初に見始めたとき、英国の「オリバー・ツイスト」が入っていた救貧院を思いだした。そこでオリジナルな欲求を叫ぶと、すぐに罰が加えられて、矯正されてしまうのだ。そして、偽りの欲求が表面を覆うことになる。だが制度がクローン人間を製造してしまうと考えれば、クローン人間は生物学的な現実ではなく、ずっと人間の本質的な問題にすり替わるという展開が読めてくることになる。すくなくとも、クローン人間には暴力的なところはないが、むしろ暴力が目に見えないだけに、その運命に逆らうことができないことが真に迫ってきてしまう。

それでクローン人間ではないことを証明しようとすることになるのだが、芸術性あるいは恋愛、これらはオリジナルの象徴なのだ。けれども、クローン人間自体がクローンであるから、そもそもクローンの生みだすものも、所詮クローンに相違ないということになってしまう。

映画のなかでは、二つの恋愛が描かれる。虚構上、片方の恋愛が「真実の愛」で、片方が「クローン的愛」という設定になっている。真実の愛があって、そこからクローン的愛が生まれ、さらにそれらが破綻することで、真実の愛が復活する、と映画は描いている。

クローン人間にも、真実の愛を選択できる、と要約してしまうとちょっと複雑な文脈を楽しむことを放棄してしまっているように思えてしまうが、骨格を取り出すとするとそういうことになるだろう。人間にとって何が大事なことなのか、ということは、人間として何か失われているもののほうが、より理解できるということではないか。結局のところ、クローン人間的状況は、鏡の像であり、映し出された人間の方がそのような厳しい現実にあることを思い知らされてしまうのだ。

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