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2011/04/26

「こころを読む」ことの難しさ

人の「こころを読む」ことはたいへん難しいということは、古今東西の真理だとは思われるが、ちょうど身近な仕事場や友人たちとの関係に、この真理が頻繁に現れてきてしまうのを見ると、自分の周りがぐっと灰色に見えて、落ち込んでしまいそうになる。

映画「まほろ駅前多田便利軒」の描く世界は、まさに他者が何を考えているのかわからない世界だ。最初の場面がそれを現わしている。夜中に出会った中学生時代の友人が、バスのベンチに座っていて、寝るところが無いという。それで、主人公の家に泊めてやるということが決まったとたんに、懐から新聞紙に包まれた包丁をベンチに捨てて、車に乗る。何のために包丁を持っていたのか、あとになって、そうなのかとわかるが、それでもしかし、何を考えていたのかはそれでも説明されない。不明で、不条理ということだ。

という具合に、エピソードが進んでいくのだが、なぜ主人公が駅前で、さびれた便利屋を開いているのかについても、これも説明されない。こころの傷を持っているらしいことはわかる。「生きていれば、そのうち人びとの役にたつような、何かを与えることができるかもしれない」と悪の道に踏み入れそうになった小学生を諭す。しかし、それは、自分では実践できない。自分の中の他者に語りかけているセリフとして活きているが、自分のこころも読めない状況にあるのが、現代なのだということを示している。

また、主人公の相棒が、不義理を働くストーカーの男を挑発し続けて、ひたひたと走る。最後は結局、包丁で刺されてしまうのだが、それでも親不孝者であるこのストーカーに対して、何かを与えることができたといえるかもしれないという結末が用意されている。けれども、そのことは一切説明されないし、事の成り行きとして生じているという映画の構成となっていて、「こころが読めない」状況は続いている。

最後に、主人公と相棒は、お互い「こころは読めない」状況のなかでも、なんとか一緒に暮らそうという方向へ踏み出そうとする。ここに、作者はギリギリの救いを提供している。

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