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2011年4月に作成された投稿

2011/04/28

混沌から抜け出して

Tutuji連休に入ってしまうと、どこへ行っても人混みが絶えないので、それじゃ休みのまえに済ませておこうということで、午前中には申し訳程度に仕事を行って、午後も遅くなってから、妻と出かける。

Sibafuむしろ、暖かい太陽に誘われたと言ったほうが、合っているかもしれない。それほど、天気が良かった。道すがら花々が咲きほこっていて、ずっと部屋に閉じこもっていたことが嘘のようである。すでに盛りを過ぎた桜や、これから咲こうとしているツツジ、満開の藤棚を愛でつつあるく。暖かいのだが、風が強く吹いて、心地よかった。すでに、5月の気候である。

Umi

横須賀美術館は久し振りである。企画展は、「川端実展」で、キュビズムから始まって、機械をモチーフとした抽象画から、グッと個性が立ち上がってきた作家だ。初期の作品で「かごをつくる人」がある。作ることを、抽象的に表現するのはたいへん難しい。かごの編まれることをプロセスとして示している。作るまえの混沌と、編まれていく秩序とが混然として表現されていて、産業経済を勉強するものとして興味深かった。Kawabata

これも初期の作品である「ガラス工場」にも、表現は異なるが、混沌と秩序が表現されていて、最終的には、赤の色調で統一感を与えることになっている。


注目したのは、「近代の不安」と、「近代の秩序」である。たとえば、「B作品」という絵画では、右に混沌とした塊が描かれている。しかし、左に秩序をもたらす文字らしきものが描かれている。これらは、全体として統一されているかといえば必ずしもそうではないが、しかし、秩序というものが、混沌秩序を完全に支配してしまうものではなく、単にリズムを与える程度にすぎないことさえわかれば、このような連作はたいへん意味ある作業ではないかと思われる。


Nyklineさて、常設展へ行くと、水彩画特集を行っていて、「三宅克己」が数枚展示されていた。有名な代表作こそなかったが、特徴ある何枚かがあった。「横浜風景」はおぼろな洋館を背景とした坂道を描いていて、横浜らしさを出している一枚だった。来月末には、徳島へ出張があるのだが、そこの美術館には三宅克己が大量に所蔵されているらしい。寄ろうか寄るまいか、ちょっと迷っているところである。

Lenz屋上に出て、海を行き来する大きな船たちを眺めていると、希少な時間が右から左へ去っていく気分だ。グローバリゼーションの尖兵として、世界を駆け巡る船たちが行く。スローモーションのフィルムが海の中にセットされていて、クロニクルのドキュメンタリーを目の前で観ているようだ。Hasirimizu

バスを逃して仕舞ったので、隣の「走水港」を観に行こうということになって、歩いて行く。その頃には、すっかり陽が落ちてしまい、闇が迫るまえの束の間の風景の美しさを演出している。三浦半島越しに、富士山がこんなに赤くみえるとは思わなかった。Fuji妻が最近読んだ川本三郎の本の中で、沢村貞子がちょうどこのような横須賀からの赤富士を観たという回想を描いていたことを思い出していた。バスを逃した効用を満喫しながら、水道トンネルを抜け、現実世界にようやく舞い戻った。


2011/04/26

「こころを読む」ことの難しさ

人の「こころを読む」ことはたいへん難しいということは、古今東西の真理だとは思われるが、ちょうど身近な仕事場や友人たちとの関係に、この真理が頻繁に現れてきてしまうのを見ると、自分の周りがぐっと灰色に見えて、落ち込んでしまいそうになる。

映画「まほろ駅前多田便利軒」の描く世界は、まさに他者が何を考えているのかわからない世界だ。最初の場面がそれを現わしている。夜中に出会った中学生時代の友人が、バスのベンチに座っていて、寝るところが無いという。それで、主人公の家に泊めてやるということが決まったとたんに、懐から新聞紙に包まれた包丁をベンチに捨てて、車に乗る。何のために包丁を持っていたのか、あとになって、そうなのかとわかるが、それでもしかし、何を考えていたのかはそれでも説明されない。不明で、不条理ということだ。

という具合に、エピソードが進んでいくのだが、なぜ主人公が駅前で、さびれた便利屋を開いているのかについても、これも説明されない。こころの傷を持っているらしいことはわかる。「生きていれば、そのうち人びとの役にたつような、何かを与えることができるかもしれない」と悪の道に踏み入れそうになった小学生を諭す。しかし、それは、自分では実践できない。自分の中の他者に語りかけているセリフとして活きているが、自分のこころも読めない状況にあるのが、現代なのだということを示している。

また、主人公の相棒が、不義理を働くストーカーの男を挑発し続けて、ひたひたと走る。最後は結局、包丁で刺されてしまうのだが、それでも親不孝者であるこのストーカーに対して、何かを与えることができたといえるかもしれないという結末が用意されている。けれども、そのことは一切説明されないし、事の成り行きとして生じているという映画の構成となっていて、「こころが読めない」状況は続いている。

最後に、主人公と相棒は、お互い「こころは読めない」状況のなかでも、なんとか一緒に暮らそうという方向へ踏み出そうとする。ここに、作者はギリギリの救いを提供している。

2011/04/25

生活のバランス感覚

今年度の春期は、W大で「現代人と職業」について講義することになっている。それで、今日はその学科に当たるところから、講師の懇親会に呼ばれた。W大の学生であれば、誰でも知っているTという西洋料理屋を貸しきって開かれた。わたしのように、いわゆる「除籍学生」だった者でもW大の街の風景のひとつとして、記憶されているところである。

懇親会では、若手の先生方とも話ができた。社会福祉系の先生方がたまたま近くには多くいらっしゃって、現場と理論のギャップの話が面白かった。

放送大学でかつて同僚だったO先生が呼んでくださったのだが、彼はわたしのブログの師匠であることは以前にも書いたことがある。それで、一日として欠かさずにブログを更新なさっているので、「崩れませんね」というと、「三角形のバランスを保つようにしているのです」とおっしゃる。仕事と家族と個人の時間バランスだということらしい。わたしの場合には、仕事に比重があって、三角形はもちろんあるのは意識しているのでときどき戻るのだが、通常はバランスを失している。ところで、どの程度まで、バランスを崩しても大丈夫なのだろうか。

話はすこし飛ぶが、「現代」的女優と呼ばれている吉高由里子主演の映画「婚前特急」では、この生活バランスの問題に挑戦していて、興味深い。今日的な問題では、長時間労働などを取りあげるところなのだが、この映画では「多役割」というところに切り込んでいる。どのくらい多くの人と恋愛の役割を共有できるかという問題である。

チエは「人生は限られているから、時間を有効に使わなきゃ」という近代的な思考をもった娘だ。いろんな男と付き合い人生を満喫したいという自分勝手で「嫌な」娘だ。5人の交際相手を友人の勧めで、「査定」するところからドラマが始まる。題名が出るまでの、テンポの良い5人の男紹介が前半を締めている。

映画の出だしも良い。ホームに若い男女二人が微妙な距離を保って立っている。お姉さん気分で付き合いたいというかわいい年下の男とのキスシーンが次に来る。この微妙な距離感と親密感との交差が全編にちりばめられている。愚痴を言いたい時は何でも聞いてくれる子持でバツイチの男、スペイン旅行に連れて行ってくれるという美容室オーナー、バイクに乗ってスカッとしたいときにはノーテンキなボンボン、風采は上がらないが気楽に付き合える工員の男。

この「多役割」性というテーマは、恋愛に限らなければ、現代人にとってかなり切実な問題となってきている。仕事であれば、5つくらいの役割を引き受けることがある。大学の先生も授業を9つくらいは当たり前で、行政的な委員会は表にあらわれないような小さな作業グループを含めれば、授業と同じ程度抱えていて、自分がどのような役割を担っているのか、わからなくなることがしばしばだ。

けれども、ことは恋愛である。このような恋愛でも「多役割」性は可能だろうか。人間関係でも、果たして「査定」は可能だろうか。映画の結末は、恋愛映画の王道を行っていて、「嫌味な」女がしだいに好ましい女に思えてくるし、理想的な男たちが魅力を失い、かえって一番魅力のなかった男が本命に育ってくるのだ。そして、ハッピーエンドが待っている。なんど繰り返されても普遍的な意味を持っていると思われる。

映画のメーキングインタビューをみていると、監督がいかに主演女優を「いらいら」させて、「多役割」性の本質を取りだそうとしていたかがわかる。この映画は、ドタバタ喜劇風を装っているが、じつは根の深い現代社会問題を盛り込んでいる。多役割性が、「いつも怒っていて、世界が自分の周りを動いていると錯覚し、上から物事を見ようとする」生活を生みだしてしまうというところをうまく描いていると思う。やはり、生活バランスは大切なのだ。

2011/04/19

「わたしを離さないで」

この映画を見始めたとき、何かわからないことが進行している、という印象を受けた。それは、断片的に、けれども次第に、何となく認識されてくるのだ。主人公の少女二人と少年一人が登場する。閉鎖的な施設に入っていたり、「オリジナル」というものを求め続けたり、教師からあらかじめ定められた運命を負っていることを知らされたりということが起こってくることで、その状況がわかってくる。それから逃れることは、しだいに不可能に思えてくる。

もっとも、このような不可能であるような状況は、どこにでもあって、この映画の状況だけがその不可能な状況を負っているわけではないとも思われる。だから、このような状況を描いていて、それを突き抜けて、ほんとうのところ「普通の人間」のことを描いているように思えてきたら、この映画は成功だといえる。じつは、この点は、この映画の原作者であるカズオ・イシグロを取材したNHKのドキュメンタリーで、本人が述べていて、なるほどと思った。

クローン人間にも、人間が普遍的に持っている「固有性」ということがあり得るのだろうか。「固有性」があるからこそ、個人間の葛藤が存在し、普遍的な人間のあり方が存在しうるのだと思われる。これが映画「わたしを離さないで(Never Let Me Go)」のテーマだと思う。現代はポスト新自由主義の時代に入ってきていると思われる。そこで、普遍的な自由から、固有の価値への模索が始まっているのだ。

最初に見始めたとき、英国の「オリバー・ツイスト」が入っていた救貧院を思いだした。そこでオリジナルな欲求を叫ぶと、すぐに罰が加えられて、矯正されてしまうのだ。そして、偽りの欲求が表面を覆うことになる。だが制度がクローン人間を製造してしまうと考えれば、クローン人間は生物学的な現実ではなく、ずっと人間の本質的な問題にすり替わるという展開が読めてくることになる。すくなくとも、クローン人間には暴力的なところはないが、むしろ暴力が目に見えないだけに、その運命に逆らうことができないことが真に迫ってきてしまう。

それでクローン人間ではないことを証明しようとすることになるのだが、芸術性あるいは恋愛、これらはオリジナルの象徴なのだ。けれども、クローン人間自体がクローンであるから、そもそもクローンの生みだすものも、所詮クローンに相違ないということになってしまう。

映画のなかでは、二つの恋愛が描かれる。虚構上、片方の恋愛が「真実の愛」で、片方が「クローン的愛」という設定になっている。真実の愛があって、そこからクローン的愛が生まれ、さらにそれらが破綻することで、真実の愛が復活する、と映画は描いている。

クローン人間にも、真実の愛を選択できる、と要約してしまうとちょっと複雑な文脈を楽しむことを放棄してしまっているように思えてしまうが、骨格を取り出すとするとそういうことになるだろう。人間にとって何が大事なことなのか、ということは、人間として何か失われているもののほうが、より理解できるということではないか。結局のところ、クローン人間的状況は、鏡の像であり、映し出された人間の方がそのような厳しい現実にあることを思い知らされてしまうのだ。

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プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。